ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

本山博

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

暗示で潜在能力を引き出す

旧ソ連では、超能力研究に多額の予算をかけ、実用目的を念頭に研究が行われていたという話を書籍などで見たことがある。
その中で、こんな話を印象深く憶えている。
おそらく、ソ連の国家研究機関で行われたことだと思う。
1人の平凡な、絵心など全くないと思われる労働者に催眠術をかけて催眠状態(変性意識状態、あるいは、トランス状態)にし、「おまえは偉大な画家だ」という暗示を与えた。
すると、その後、この労働者は猛然と絵を描き始めたが、最初は、彼が描いたのは子供が描くような絵だった。
しかし、みるみる上達し、作品は高く評価され、クレムリン宮殿に展示されるほどだったという。
多数の事例があれば良いのだが、私が知っているのはこの1例だけである。
しかし、どんな人間にだって無限の能力が秘められており、これも、特に驚くような話とは思わない。

では、次の話はどうだろう。
これは、著名な発明家で超能力研究家であった橋本健氏(工学博士)と、やはり著名なヨガ研究家であった本山博氏(文学博士)の共著である『超能力入門』(1983)にある話である。
ポーランドの芸人ボルト・メッシングは、舞台で超能力パフォーマンスを披露していたが、1939年のナチスのポーランド侵攻時にソ連に逃亡した。
経緯は省くが、メッシングは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンの別荘に単独侵入することになった。
当然、スターリンの別荘は大勢の兵士により厳重に警備されていたが、そこに、通行許可証も持たずに一般人であるメッシングが入って行き、スターリンに会おうというのである。
どう考えても不可能なことであるが、メッシングは楽々とやり遂げた。
どうやったのかというと、メッシングは「私はベリヤだ」と強く念じたのだ。ベリヤとは、誰でも顔を知っている秘密警察長官で、彼であれば、通行証も誰の許可もなくてもスターリンの別荘に入っていけた。
私は、催眠術的パフォーマンスで、これと似たことをやるのを、実際に見たことが何度かある。
1つは、ある気功師が講演の際、講演会場にいた受講者に気をかけ、受講者に、この気功師を自分の父親だと信じさせた。
これは、気の力とは言っても、催眠術の一種のように思えたが、メッシングの場合は、催眠術による集団催眠を使ったのではなく、何らかの超能力で、兵士達の意識に影響を与えたと思われる。
この本では、念じることで、自分のなりたいものになる方法も書かれていたが、それは、そもそもは、「私は〇〇だ」と自己暗示をかけることだろう。
フランスの著名な心理学者エミール・クーエは、他者暗示も本質的に自己暗示であると述べており、暗示は自分で出来るはずである。
そして、暗示が効果を発揮するポイントは、「トランス状態で暗示が与えられる」、あるいは、「反復して暗示が与えられる」ことである。
ならば、誰でも出来ることとして、「私は〇〇である」と、繰り返し唱えれば良い。
ただし、感情的に唱えると心が反発する危険があるので、「静かに、ゆっくり、丁寧に」唱えれば良いと思う。
次に、トランス状態で自己暗示を行う場合を述べる。
自分1人でトランスになるには、呼吸を調整すれば良いが、禅の修行法である「数息観(すうそくかん)」が簡単で薦められる。
これは、ただ、自分の呼吸を数えるのだが、次のようにやるのがやり易いと思う。
息をやや深く吸った後、心で「ひとつ」と言いながら、細く長く息を吐く。
これを「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」と数を数えながら行い、「とお(十)」まできたら、次は「ひとつ」に戻る。
十まで数えることを数回繰り返せば、ある程度のトランス状態になっているはずである。
ただし、十まで数えるつもりが、気がついたら「じゅうういち」「じゅうに」とどこまでも数えてしまうことが多いものである。
それは雑念のためであり、それではトランスが浅いだろう。
この数息観をちゃんと出来るようになれば、かなりの精神統一が出来ていて(トランス状態になっていて)、自己暗示が潜在意識の中に入り込み、「私は〇〇だ」という状態になっていくだろう。
2つの方法を合わせて行うと、非常に効果的と思うが、まずは、自分に合った方法はどちらかを考え、そのやり方で行えば十分と思う。








剣の魔法

剣の魔法をご紹介しておく。
日本でも、インドでも、あるいは、ユダヤ地方でも、儀式や呪術において、人差し指と中指を立てたものを剣とする。
発祥はエジプトで、そこから、エルサレム、ギリシャに伝わったと思われる。
一説では、そこから、インド、さらには、日本に伝わったという話もある。

この剣で、悪運や邪気を払う(祓う)のである。
神道で「九次を切る」というものがあるが、そこでも、やはり、人差し指と中指を立てたものを剣としている。
だが、九字は極めて複雑だ。
魔法の剣では、ただ、人差し指と中指を立てたものを剣として切るだけである。
方向に決まりがある訳ではなく、縦、横、斜め、どんな方向でも、自分が気持ちよくやれる切り方で良い。
指で作った剣には特殊なバイブレーション(波動)による超次元的な威力があるので、物質的な剣のように、腕前が必要な訳ではない。

お遊戯のような空想的な魔法と思われるかもしれないが、そのようなものですら、相当な力がある。
それが、人間の精神の力である。
ましてや、剣の魔法は、人間のエネルギーフィールドを最適化出来る形であり、そこに人間の想像力が加われば、力がない方がおかしい。
気合いを入れて1回払っても良いし、軽く数度、払っても良い。
神道の九字では、事前に手を様々な形に組むのであるが、これは、霊的エネルギーを通り易くするためと思われる。
実は、偉大なヨガの導師で世界的な超心理学者であった本山博氏(文学博士)の古い著書には(最近の著書は確認していないが)、首や肩や手首を回す一般的な運動でも、霊的エネルギーの流れが良くなることが書かれているが、おそらく、単なる運動だけではなく、首、肩、手首に意識を持っていくということだと思う。
そこで、普段から、首や肩、あるいは、手首をよく回しておくと良く、そうすることで、この剣の魔法の威力も高まると思う。

人間相手の攻撃魔法ではないのだから、嫌いな人をやっつけようといった目的でやってはならない。
ただ、相手の悪意を払うという意味でなら構わない。悪意は邪気であり、この剣で払える。
悪運の切り方であるが、実のところ、悪運そのものを切ると言うより、自分の悪い気分を切るのである。
心が後ろ向き、消極的、悲観的になったり、恨みや後悔といったものを感じ、悪い気分になっていることに気付いたら、この剣でさっと切るのである。
これには驚くほどの威力がある。
いつも言うが、この宇宙は「良い気分でいれば良いことが、悪い気分でいれば悪いことが起こる」仕組みになっている。
だから、悪い気分に気付くと、それをいち早く解消する必要があるが、そのために、この剣の魔法が大いに役に立つだろう。








苦しみに黙って耐えてこそ、強く賢くなれる

『わたしのいもうと』という、小学4年生の妹がいじめに遭って不登校になり、家でずっと折り紙で鶴を折ることしかできなくなり、やがて生きる気力が無くなったのか、死んでしまったという、実話を元にして書かれたという絵本がある。
確かに辛い運命であるが、なんとかならなかったのだろうか?
ことによったら、それで鍛えられて強くなり、他の人に真似の出来ない貴い人生になったかもしれないと思うのだ。

誰しも辛いことはあるが、そうでなかったら鍛えられない。
鍛えられなければ、心が強くならないし、知恵もつかなければ、思いやりのある人間にもなれない。
20世紀最大の詩人と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、孤独が最も人間を鍛えると言っていたと思う。
それなら、周りとちゃらちゃらうまくやることなど考えず、辛い孤独を味わって、賢く強くなるべきだろう。

あらゆる苦しみや痛みが我々を強くしてくれる。
本山博さんという宗教家、哲学者、超心理学者は、子供の時、身体が弱かったが、家庭に恵まれず、早朝から深夜まで重労働をしなければならなかった。さらに、重い病気になり、麻酔もなしで、耳の骨を、ノミのようなもので金槌で叩いて削られるような手術を受け、その傷もふさがらないうちに、戦時中のことだから、学校で猛烈にしごかれ、荒っぽい運動をしている時に縫った傷が開いて血が噴出したという。
もう滅茶苦茶な話だが、本人はそれで鍛えられたと著書に書かれていた。
それほどではないが、私は幼い頃から、アトピーだか乾癬だかよく分からないが、ひどい皮膚病で、耐えられないほど痒いのだが、搔くと痛みと気味の悪い不快さに襲われ、夜は眠れず、本当に辛いのだが、今でも、時には良い状態になるが、特に春先はひどくなる。
このような皮膚病で、辛くて自殺する者だっているというが、私もその気持ちは分かるのである。
しかし、やはりそれで私は鍛えられたし、鍛えられているのだと思う。

いかに辛くても、耐えられないような試練は与えられないものらしい。
あまりに辛くて、そんなことは信じられないと思う人もいると思うが、どんな苦しみも過ぎてしまえば、あるいは、死ぬ時には思い出だ。
私は、いかに苦しかろうが、神仏が鍛えてくれているのだと思っている。
その苦しさは、前世の悪行の報いと考える人もいるだろうが、それならそれで、この程度で済むのであれば有り難く、黙って耐えようと思う。
苦しみに黙って耐えることほど気高いことはないし、それを続けていれば、初めて、他人の苦しみを感じることができるようになるだろう。
傷を舐め合わなくても、黙って耐える者同士は共鳴し、黙ったまま励まし合うのだ。
鍛えられてこそ、神仏に近付くのだし、念仏の価値も分かるようになる。
いかに苦しくても、痩せ我慢をして1秒だけ笑って耐え、それを2秒、3秒と伸ばせば、やがて、どんな苦しみにも耐えられるようになるだろう。
また、念仏を称えれば、慈悲深い仏様が支えてくれるし、菩薩様は寄り添ってくれるだろう。
だから、どんなに苦しくても、生きていて欲しいと思う。









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絶食、皮膚病でも、平和そのものだよ

今月に入ってから、あまり・・・というより、ほとんど食べていない。
私はごく平凡な人間であり、ちゃんと空腹を感じるのである。5日ほどは意外なほど平気だったが、昨日あたりから少ししんどいと思うようになった。
明々後日の11日が、東日本大震災から2年になるが、あの年の夏の終り、私は乾癬という皮膚病になった。症状はひどく、自然治癒はありえないと言われるが、数ヶ月でぴたりと治った。しかし、今、なぜかまた、その病気になってしまった。耐えられずに自殺した人も言われるこの苦しさは、かからなければ分からない。
だが、不意に食を絶ったのと同じく、神様が私を鍛えてくれようとしているのだろう。
幸い、私が乾癬であることは誰にも分からない。症状は全身に及ぶが、顔や手など、外に出さねばならない部分だけは何ともない。臭いもない。また、乾癬(かんせん)という名から勘違いする人もいるらしいが、感染は一切しない。

本山博さんという、科学者で宗教家で教育者である人は、戦争中の若い頃、全身麻酔もない中で、耳の周りの骨をノミと金槌で削るような手術を何度も受け、その間も、朝の3時から夜中まで木こりの重労働をし、学校では連続4時間の授業を受け、健常者でも気絶する者が出る激しい訓練で、手術の傷口がぱっと開いたそうだ。それでも、本山さんは、根性を鍛えるいいチャンスだと思ったのだそうだ。
また、当時、本山さんは家庭的にも厳しい状況であったようだ。
それに比べれば、私の状況など、「平和そのものだよ」と言うしかない。

私の精神があまりにへなちょこなので、神様がほんの少し鍛えてくれているのだろう。
本山さんのような器量は無いので、相当に手加減してくれているのである。この程度を黙って耐えられないようであってはどうにもならない。
背筋をびしっと伸ばしていないと、容赦なく痒みが襲い掛かってくるので、いつも姿勢を良くしていられる。
余計な考え事をしても駄目だ。雑念が浮かぶと、般若心経の呪文を唱えている。
ただ、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』で、初音ミクの天使の歌声を聴くことは許されているらしい。
また、毎朝、30分は、読書しながら、冨田勲さんのシンセサイザー音楽『月の光』を聴いている。
朝晩の、スクワットや腕立て伏せも欠かしていない。
良い修行をさせもらい、ありがたいことである。









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病気でもいいやと思う

私は、幼い頃からアトピー性皮膚炎で随分苦しんだが、食の慎みと腕振り運動で治してしまった。
ところが、一昨年の夏、夏中自宅では冷房を使わず、ひどい汗疹になったのが原因だったかもしれないが、乾癬病になってしまい、まさに、書籍で見る、この病気の写真そのままの状態になり、服を脱ぐと、大袈裟でも何でもなく、剥がれた肌で床が白くなった。
それも数ヶ月で奇跡的に治ったが、最近、これは何なのかもう分からないが、また皮膚病みたいなものになった。
どうも、肌に関わるカルマでもあるのもしれないと思う。
実際、苦しくはあるが、まあ良いと思っている。
最近、常に言っている、黙って耐える良い機会と訓練になるからだ。
形は違うが、『銀河鉄道の夜』のジョバンニの辛い気持ちが分かるような気がして少し楽しいし、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の第5幕『銀河鉄道の夜』の初音ミクの天使の歌声が、いっそう心に響くようにもなったのである。
それに、実際のところ、皮膚病以外においては、完全に健康で強健なのである。

本山博さんという、科学者で宗教家のとても偉い人が、戦時中だった若い頃、重病にかかり、ろくに麻酔も無い中で、耳の周りの骨をノミのようなもので叩いて削るという手術を何度も繰り返し、あまりの苦しさに死にたくなったという。
さらに、手術直後、頭を包帯で巻いて、まだ血も膿も出て酷い臭いもしている中で過酷な訓練をやらされたという。
本山さんは、これを、根性を付ける良い訓練と思ったというが、この経験は、本山さんの偉大な人間性を造る大きな要因になったことは間違いないと思う。
即ち、それは、完全な自己否定であったと思うのだ。
現代は、権利の主張の時代である。個人の利益を守り、さらに、大きな得を限りなく追求する権利が認められるべきだと誰もが思っている。
しかし、ジョバンニには、そんなものはどこにも全くなかった。
ジョバンニの年は明かされていなかったが、多分、小学5年生くらいだろうか?
母親は病気で、父親は行方不明。働き尽くめで、学校でも元気が出ず、タチの悪いクラスメイトにずっと嫌な目に遭わされ、親友のカムパネルラとも仲良くできない。
ジョバンニは不平は言わないが、食事はトマトでちょっと作った程度のものだった。それを作ってくれた姉も、働いているのだろう。
ジョバンニは、黙って耐えていた。

そして、黙って耐えることが、心の奥深くにある良心に目覚める方法なのだと分かるのだ。
14歳の時に聖母マリアに逢ったフランスのベルナデッタ・スビルーは、念願の修道女になったが、病に冒され、立てないこともよくあった。しかし、そんな中でも、彼女は懸命に務めを果たそうとした。ところが、先輩の修道女の中には、ベルナデッタを嫌い、いじめる者もあったようだ。
神はベルナデッタに、「この世で幸せにしてあげることはできないが、あの世で幸せにしてあげます」と言ったという。
ベルナデッタは黙って耐え、ますます、良心を掘り起こしていったのだと思う。
ジョバンニは、人の幸いのためなら、あのサソリのように(ある寓話のお話)、この身を百回焼いても構わないと言い、カムパネルラもそれに同意した。
イエスは、苦しむ者は幸い、貧しい者は幸い、病める者は幸いと言ったが、本当にそうだ。
そして、ジョバンニがそうであったように、私も爽やかな気持ちなのである。
私は、初音ミクの「ケンタウルスよ、露を降らせ」という歌声(『イーハトーヴ交響曲』第5幕『銀河鉄道の夜』)を想うだけで、どんなことも黙って耐えていけると思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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