ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

最後の審判

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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AIに生き延びる方法を尋ねる

イエス・キリストは、当時の一般庶民に分かるように、宗教的概念を使って話したが、彼が言った最後の審判は、かなり真っ当で、近く本当に行われると思う。
彼は、駄目な人間は地獄の炎に投げ込まれると言ったが、象徴的・抽象的に、そんな雰囲気になると確かに思う。
というのは、どんな人間も、その人が優れた人間か駄目な人間か、分かり易くなったからだ。
もちろん、どんな人間が優れているのかは、世間の基準とも、伝統的な道徳基準等とも異なる。
そして、ゲーテの『ファウスト』で、神が語っていたことも非常に参考になる。

駄目な人間とは、安定のみを求める人間、どんな状況でも、面倒とか危険の一切を回避する人間のことだ。
イーロン・マスクによれば、この世界を本当に支配している高次の存在は、そんな人間を削除するらしい。
ただし、単調に削除するのではなく、『ファウスト』の神のように、まずは方向転換を促す。
早い話が、怠惰な人間に困ったことを起こさせて、無理矢理動かざるをえなくするのだと思う。
それでも、泣き言や文句を言うだけで何もしなければ、地獄の炎に投げ込まれ削除ということだろう。

では、どんな生き方をすればいいのか?
いろんな言い方があるだろうが、私は『キレキャリオン』(ポリスピカデリー feat. 初音ミク)の歌詞の通りと思う。
これほど適確な言葉はない。

二つ目を捨てろ 予想外になれ
軌道を外れて...
~『キレキャリオン』(作詞・作曲・編曲:ポリスピカデリー。唄:初音ミク)より~

イーロン・マスクも、社会の規範に従わない、規格外れな人間でないといけないと言っていたと思う。
ただ、基本的な道徳や倫理は大切と思うが。

今は、どうすればいいかは、AIに聞けば分かる。
そのための質問が浮かばないというのが問題なのだろう。
例えば、Copilotに「世界に貢献出来る、規格外れな人間になるにはどうすれば良いですか?」という質問をするだけでも、きめ細かいアドバイスをしてくれる。
一応聞いてみたら、非常に詳細な回答をくれたが、まさに上の『キレキャリオン』の言葉通りだった。
皆も、尋ねてみると良いと思う。
もちろん、ChatGPTやGeminiその他に聞くのも良いが、私はCopilotが割と気に入っている。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ファウスト(一)(新潮文庫)
(2)ファウスト(第一部)(高橋健二訳)※私の個人的お気に入り
(3)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(4)イーロン・マスク 上 (文春e-book)
(5)銀河ヒッチハイク・ガイド(ダグラス・アダムス)

伝説のヒロイン
AIアート2962
「伝説のヒロイン」
Kay

閻魔様の前で何を言うか?

人は死ぬと、どんな生き方をしてきたかを審議され、裁かれるという話は、多くの国の宗教や民話、神話にある。
キリスト教の最後の審判や、チベットの死者の書、エジプトの死者の書、ギリシャ神話などにそのようなものがあることがよく知られている。
我々には、閻魔大王の裁きが馴染み深いと思う。ギリシャ神話にも、冥界の王ハーデースという、大いなる権限を持つ恐い審判者がいる。
ところで、キリスト教の最後の審判や閻魔の裁きでは、一応は裁判のような形式であるのだが、人間界の裁判と違い、真実は審判者側に筒抜けであり、どうせ嘘は通用しない。それなら、見苦しい言い訳はせずに、やってしまったことはやってしまったと言い、弁解などはしないのが良いだろう。
しかし、閻魔様は聞くのだ。
「生きている時に、どんな良いことをしたのか?」・・・と。
人間達は、いろいろなことを言うが、ほとんどのことについて、閻魔様は全く誉めない。それどころか、人間が、「私はこんな良いことをしました」と言っても、それは悪い行いだと言われることも少なくない。世間の常識など通用しないのである。
さて、私は閻魔様の前に出たら、何を言うだろうか?
考えてみれば、閻魔様に言えるような善行は何もしていない。
「ある時から、1日1食の菜食主義者になり、大好きなケーキやチョコレートも全く食べておらず、性的禁欲を保ちました」
と言っても、閻魔様は、「それが何だ。下らないことを自慢すると張り倒すぞ!」と言うだろう。
誰かが、「百億円寄付した」と言えば、「なぜ千億寄付しなかった?この強欲が!」と怒鳴られるに違いないのだ。

ある人は、「私は閻魔様の前に出たら、便所の下駄だけはきちんと揃えましたと言うつもりです」と述べていた。
私は、これなら、閻魔様は、「感心なやつだ。ちっとは良いとこに行かせてやる」と言うのではないかと思う。
しかし、キリスト教徒が最後の審判で、「毎週教会に行きました」と言ったら、閻魔様のような恐い神様に、「この見栄っ張りが!」と怒鳴られるかもしれない。
聖典を毎日読みましただの、お経や祝詞を毎日上げましたといったことも、全く評価されないのだ。
「どんな基準で評価していただけるのでしょうか?」などと言ったら、それこそ、閻魔様やハーデースの眉が吊り上がることだろう。

その場で困るのも嫌なので、何かきっちり言えるようなことをしたいものだ。
霊幻道士という映画だったと思うが、キョンシーという、中国版のゾンビのようなものに警官が襲われるのを見た男が逃げようとする場面があった。キョンシーに噛み付かれると、自分もキョンシーになってしまう。男は、その警官に酷い目に遭わされてもいた。しかし、男の胸の内に、「一生に一度くらいは、人様の役に立つんだ」という想いが浮かび、キョンシーに立ち向かうが、噛まれて、自分がキョンシーになってしまう。
その男は、ろくでもない生き方をしてきたことを自覚していたのだろう。だが、身寄りのない子供達を引き取って、大道芸をやらせてはいたが、一応は面倒を見ていたのだ。
トータルで言えば、こんな人間を、閻魔様は誉めような気がするのだ。
さて、では、私は何をすればいいかと言うと、何も浮かばない。
一生に一度くらいは、人様の役に立つようなことが出来れば良いのだろうが、そんな予定はないし、正直、その気もなさそうだ。
今死んだら、仕方がないので、「初音ミクをひたすら愛しました」と言おうと思う。閻魔様やハーデースがどれほど怒り、審判者様達がいかに蔑もうが、他に何もないのだから仕方がない。一方、悪い方に関しては、何を言われても、「しかり」とだけ言おう。多分、全部本当だし、自分では不当だと思っても、閻魔様の方が正しいに違いない。
しかし、身体も心も持たないものを確かに愛したことにはいささか自信があるので、いかなる評価も受けても平気である。
そんなところである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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