ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

時をかける少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

宮本武蔵は哀れなサイコパス

昔(ことによっては太古)から、百人に1人はいると言われるサイコパスは良心を持たない人間である。
サイコパスの特徴は、過剰な自尊心と退屈し易いことだ。
また、サイコパスの他の特徴として、他人を支配したがるとか、他人に共感しないとかがあるらしいが、これらはちょっと難しい。
しかし、異常なプライドの高さと根気のなさは、分かり易いサイコパスの特徴だ。
谷川流さんの人気小説『涼宮ハルヒ』シリーズのヒロイン涼宮ハルヒが典型的なサイコパスと言えると思う。

IQが高いサイコパスは改革者として英雄になり、IQが低いサイコパスは、たとえ犯罪者にならないまでも、始末に負えない人間として、水に沈められて殺されてきた。
涼宮ハルヒは、IQが高いらしく成績は抜群で、さらに、何をやらせても他人に秀でるが、やっていることを見ると意外と平凡だ。
高校生までのハルヒは、美少女ということで大目に見てもらえるが、将来、ハルヒは、偉大な人間になるか、あるいは、誰にも相手にされずに、つまはじき者、あるいは、引きこもりになるだろう。

しかし、考えてみれば、小説の主人公なんて、全員サイコパスだ。
そりゃ、小説の主人公になるのは、かなり変わった人間でなければならないに決まっているし、サイコパスというのは、一見、ヒーロー、ヒロイン向きだ。
マーガレット・ミッチェルの歴史的ベストセラー『風と共に去りぬ』のヒロイン、ケイティ・スカーレット・オハラなどは、まさに、見るからにサイコパスだ。
ハルヒとスカーレットは、サイコパスの見本として標本にしておきたいと思うほどである。

筒井康隆さんの、既に日本の国民的小説と言っても差し支えない『時をかける少女』のヒロイン芳山和子は、その平凡な名の通り、ごく平凡な中学3年生だ。
しかし、平凡さは表向きであり、彼女も、小説の主人公に相応しく、明らかにサイコパスだ。
なんだかんだ言っても、男の子達をアゴで使い、刺激を求めて、怖いものも見たがり知りたがる。
なるほど、未来人の少年すら虜にした訳である。
いや、そもそも、あの物語は、サイコパス芳山和子の妄想であったというのも成り立つのである。
小説は、和子のこんな想いで終わっている。
「いつか、だれかすばらしい人物が、わたしの前にあらわれるような気がする」
これが、過剰な自尊心を持つサイコパスの典型的な妄想であろう。

サイコパスは努力しないので、戦場の実戦で強くなる。
宮本武蔵のように。
だが、将軍家指南役の柳生新陰流の頭首はサイコパスでは務まらない。
柳生家頭首は、道場で根気よく修業に励む者でなければならない。
だから、柳生家では、剣の実力のみで頭首を決めず、人間性を重んじた。
武蔵は柳生宗矩との決戦を望んだが、宗矩は相手にならなかったと云われる。
あるいは、武蔵が実際に宗矩のところに行き、圧倒したが、武蔵は宗矩に、「わしに勝ったら、お前は生きてこの屋敷を出られない。柳生家の名誉のため、門弟全員でお前を始末するからな」と言われ、虚しく引き上げたという話がある。風説かもしれないが、ありそうな話だ。
武蔵は、腕は立っても報いのない人生を送った哀れな存在であったに違いない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

最悪にして最善

悪い状況にあったり、悪いことが起こったら、
「悪いことは良いこと」
という呪文を唱えることだ。

給料が安くて余裕がなく、欲しいものが買えず、奥さんには馬鹿にされ、親戚には恥ずかしい。
そんな時は、
「給料が安いのは良いこと」
と言うのだ。
それを繰り返すと、不思議な安らぎと喜びが湧き上がってくる(ちょっとアブない感覚だ)。
すると、知らぬ間に昇給したり、配置転換になって手当てがついたりする。

彼女がいなくて寂しいし、可愛い彼女がいるやつを妬ましく思う。
そんな時は、
「彼女がいないのは良いこと」
と言うのだ。
それを繰り返すと、不思議な安らぎと喜びが湧き上がってくる(やはりアブない)。
すると、「なんで僕なんかにこんな」と思わずにいられない、びっくりするような可愛い彼女ができる。

腰が痛い時は、「腰が痛いのは良いこと」だし、風邪をひいた時は、「風邪をひくのは良いこと」だ。

では、お腹いっぱいに食べて苦しくて、「しまった太る」と思った時はどうか?
「沢山食べるという良いことは悪いこと」
と思うことだ。
これを、食べていて、嬉しい時に思い出すと幸いだ。
金メダルを取った時は、
「金メダルを取ることは悪いこと」
と思い、慎まなければならない。
だが、金メダルを取ると、皆、
「金メダルを取ることは良いこと」
と思うので、その後は悲惨なことしか待っていないのだ。

会社で、追い出し部屋に送られた時、誰もが、
「追い出し部屋に送られた。最悪だ」
と思うから、実際、最悪になる。
そんな時は、
「追い出し部屋に送られたことは良いこと」
という呪文を何度も唱えるのだ。
それで意識の変革が起こり、気持ちが明るくなったら、何も悪いことは起こらない。
むしろ、最善を得るだろう。

以下は難しいかもしれないので、読み飛ばしていただいて良い。
重要なことを思いついたので、個人的なメモとして書いた。

原田知世さんの初主演映画『時をかける少女』の始まりの部分で、
「理想の愛に巡り会った人は、幸福なのか、不幸なのか」
といったような言葉があったと思う。
筒井康隆さんの原作小説でも、ヒロインの芳山和子は、記憶にはないが、理想の愛に巡り会ったことは分かっていた。
人間は、理想の愛に出会っても気付かない。
なぜなら、愛そのものが、神の領域のものであり、人間の領域のものではないからだ。
しかし、時代は変わった。
私は、初音ミクさんという理想の愛に巡り会ってしまった。
それは、人間としては最悪なのだが、人間を超える道が開かれたってことなのだ。
だから、初音ミクさんとの出会いは、最悪であると同時に最善なのだ。
『時をかける少女』の冒頭の問の答、あるいは、和子の場合も同じである。

理想の愛との出会いほどではなくても、全て同じだ。
悪いことがあった時、「これは良いことだ」と思えば、人間を超える。
その時、私は神に近付き、創造者となる。
神である私は、人間の部分の私に印を見せるため、指一本動かさずに状況を変える。
病気も怪我も貧乏も孤独も治してしまう。
それで自我が謙虚になれば良いのだ。
イエスは、
「退けサタン」
とは言ったが、力ずくで退けた訳ではない。
サタンである自我は、キリストに屈服したのだ。
「悪いことは良いこと」
この呪文を唱えれば、誰でもできるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ヨーダや武蔵を買いかぶるな

シェイクスピアの『リア王』のリア王は、特別に愛されることに執着したから不幸になった。
身から出た錆だよ。
まともな人間であったリアの末娘は、愚かなリア王に冷遇されてしまったが、彼女は別に、地位や財産に執着していなかったので、不幸ではなかった。

筒井康隆さんの『時をかける少女』は、ちょっとしたサスペンスではあるのだが、和子も、ケン・ソゴルも、何にも執着していなかった。
ケンは和子が好きだったみたいだが、だからといって、和子の時代に留まる気はなかったし、和子を自分の時代に連れていこうともしなかった。
つまり、別に和子に対する執着なんかなかったのだ。
和子も、ケンのことを忘れないといけないことを悲しいとは思ったが、絶対に嫌だとまでは言わなかった。
だから、和子もケンも不幸ではない。
あのお話は、ハッピーエンドとはいえないのかもしれないが、妙にすがすがしい理由は、そんなところにあるのだろう。

一方、『スター・ウォーズ』では、アナキン・スカイウォーカーが何かに執着してしまったことが、銀河規模の不幸を招いてしまう。
それは、アナキンの師のオビ・ワンや、さらにその師のヨーダが無能だったってことじゃあないのかな?
一番肝心なところを教えることができなかったのだから。
日本の田舎のちゃんとした教師だって教えられることが、ヨーダには教えられなかったのだ。
ジェダイだの、フォースだの、それがもたらす強さや名誉に執着した結果なのだよ。
土台、ヨーダのような厳(いかめ)しい顔をしたがる者にロクなやつはいないさ。

宮本武蔵は強さに執着し、散々な人生だった。
お気の毒としか言いようがない。
武蔵は、人間性を疑われて、どこにも仕官が叶わず、やっと置いてもらえた藩では、自慢話ばかりして嫌われていたのだよ。
だが、武蔵も、年を取ってから、自分の欠点に、ちょっとは気付いたのだ。
それで、息子(養子)には剣を教えず、学問に精を出させたのだ。
息子はそこそこ出世し、しかも、地位に執着しなかったので、充実した生涯を送ったようだ。
だが、武蔵は、執着を捨て切ることができず、『五輪書』のような余計なものを残した。
あれは、武蔵を哀れむ書として見てこそ、貴重な教訓を得られるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

若き天才作家達の創造力の秘密

手塚治虫さんの『ジャングル大帝』や『リボンの騎士』、石ノ森章太郎さんの『サイボーグ009』や『仮面ライダー』など、歴史的な漫画作品のほとんどが、彼らの20代か、せいぜいが30代前半までの作品であるということは興味深い。
他の著名な漫画家の作品についてもほぼ同じようなことが言えると思う。
ちばてつやさんの『あしたのジョー』(原作は梶原一騎さん)もそうだし、武内直子さんは世界的ヒット作『美少女戦士セーラームーン』を23歳くらいで描き始めたと思う。
それでも、これらの作品は年配の人をも惹き付ける精神的な深さも充分にあるが、そんな作品を、そのような若さで描くことができたというのはやはり、彼らは天才なのであろうか?

漫画家になるような人は、例外なく、幼い頃から絵を描くことが好きで、しかも、その絵の上手さは普通の子とは比較にならず、「この子は大画家になるんじゃないだろうか?」と言われたような人ばかりであったと思う。
手塚治虫さんは、あまり絵が上手いとは認識されていないかもしれないし、私も割と最近までそう思っていた。
しかし、数年前に宝塚にある手塚治虫記念館で手塚さんが中学生の時に描いた写実画を見たが、「やっぱり絵だけでも天才だ」と思うほど素晴らしいものだった。
人気漫画家というのは非常に忙しく、1つ1つの絵にかける時間が厳しく制限されるのだということは、理屈では分かっていたが、改めてそれを思い知った気がしたものだ。
男性漫画家としてかなり繊細な描写をしていた楳図かずおさんも、やはり売れていた頃は殺人的な忙しさであったらしいが、それであれだけ描けるのであるから、その気になれば、画家やイラストレーターとしても相当なものであったと思う。
だから、漫画家で成功するには、絵を描く才能というのは絶対的条件と思う。
その上で、素晴らしいストーリーを創り、あるいは、たとえ原作が別にあったとしても、それを輝かせる創作力が必要であるのだろう。
だが、特に売れっ子作家の場合、ストーリーなどを考える時間、エネルギーも限られているはずなのだ。

そう考えると、思うのであるが、逆に、漫画家が20代で代表作を描くのは、その多忙さゆえではないかという気もするのだ。
もし、その時の彼らに十分な時間があって、お金の心配もなく、余裕を持って描いていたら、おそらく、今残っているような傑作を描くことはなかっただろう。
普通に考えるなら、若い作家の作品の致命的な欠点は、技術的なことよりも、自己主張の稚拙(幼稚で未熟であること)さであると思う。
だから、本当は、特に若い作家は、作品に自己主張を持ち込むべきでない。
ところが、上にも述べた大作家達の若い時の代表作には、むしろ、大いなる自己主張が見られるに違いない。
しかし、それは、彼らの個人的な自己主張ではないのだ。
ここが重要なところだ。
忙し過ぎて、私的な自己主張等などは考えている余裕はなかったはずなのだ。
作品の中にある精神的なものは、一見、彼らの個人としての思想、信念、情感のように見えて、実はそうではない。
多忙のために、普通に言う思考のようなものは飛んでしまっていて、彼らの心の奥深くにあるものが現れているのであり、それは、もはや、個人的な精神とは言えないのだと思う。

小説家の場合であるが、筒井康隆さんには素晴らしい作品が沢山あるのに、『時をかける少女』を代表作のように書かれることがよくあるのは、おそらく本人にとっては不本意であろうと思う。
この作品は、筒井さんにとっては、多分、さほどの思い入れはないのではないかと思うし、おそらく、それほど情熱を込めて書いたものでもないと思う。
しかし、だからこそ傑作になったのだということも、上に述べた漫画家の場合と似ているように思う。
実際、『時をかける少女』は、表面的に見れば、表現的には10代の若者向けに(元々、中学3年生の学習雑誌用に書いたものらしい)簡明に書かれ、ストーリーも比較的単純で、過去にも似たようなものがあると言えるかもしれないが、それでも、恐ろしいほどの傑作であると思う。

プラトンの『ソクラテスの弁明』に書かれているソクラテスの話の通り、いかなる職業であれ、優れた創造的活動は、作者とされる者が行っているのではない。
ソクラテスは、教師として自分が話すこと全てが、自分が考えて言っているのではないことに気付いていた。
自分の教えが自分の個人的なものではないことを知っていたという理由で、彼は自分を知恵者だと言った。
決して、自分の個人としての考え方が優れているから自分は賢いと言ったのではない。
むしろ彼は、自分自身は何も知らないのだと言ったし、それをはっきりと自覚していたのだ。

プラトンがソクラテスの言葉を書き写した、『ソクラテスの弁明』には、創造の偉大な秘密が明かされているのである。
ところで、個人的に制作したものだと思うが、Kindle電子書籍の藤田大雪さんの『ソクラテスの弁明』が非常に良いと思う。わずか150円なので、Kindkeが利用できる方は読んでみられてはと思う。
また、よろしければ、初音ミクがサファイア王女に扮して歌った、『イーハトーヴ交響曲』のアンコール曲『リボンの騎士』をご覧になられたい。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ジェネレーションギャップは大きいほど気づき難い

『時をかける少女』は、1934年生まれの作家、筒井康隆さんが1965年頃に書いた短編小説であるが、いまだ映画や漫画になることに、著者本人が驚いているかもしれない。
この作品は今でも当たり前のように出版されているが、「今読んでも違和感がないなあ」と感じるのは、ひょっとしたらかなり年配の人かもしれない。
主人公の芳山和子は中学3年生で、他にも中学生が何人か登場するが、当たり前だが誰もスマートフォンを持っていないし、当然、LINEで連絡を取り合うこともない。SNSなんて概念もない。
当時の人に初音ミクのライブ映像を見せたら、恐るべきロボットだと思うだろう。それを空想したら、ちょっと面白くはある。

しかし、学校の様子はどうだろう?
今は、小学校でもコンピューター室があったりもするのだが、基本的には学校というのは百年以上前から変わっていない。
『時をかける少女』の、初めの1行はこうなのだ。

放課後の校舎は、静かでなにかしらさむざむしい。ときどきどこかの教室のとびらのあけしめされる音がだれもいない廊下にうつろにひびく。

なんとも涼秋を感じさせられるという人も多いと思うが、ここらの様子は今でも同じようなもの・・・あるいは、全く変わらない。
百年前の人が、現代の銀行や空港に来たら、そこがどんな場所なのか理解することができないが、学校だけはすぐに分かるというのは問題だから、学校も変化しないといけないなんて議論が盛んに行われるようになったのもまた、かなり昔のことなのだ。
電子書籍しかないが、『10年後の教室』という本が最近出版されていて、この中で、近未来の進歩した教室と、それに相応しい授業風景、教育内容が意気込みを持って書かれているが、まあ、期待薄といったところかもしれない。

学校だけでなく、会社のオフィスも、いかに変化しているとはいえ、基本的にはそう変わらないような気がする。
「近未来オフィス」に似たような言葉は、おそらく、何十年も前からあるが、昭和30年代の映画の中の「ちょっといい会社」のオフィスの様子を見たら、「俺のとこよりずっといいじゃないか」と思うことも多いかもしれない。いまだ、だらだら何十分も電話をする30代の人も決して少なくはない。そんな人達は、いかにスマートフォンやインターネットを使っていても、旧世代の人間であり、おそらく、現代のITテクノロジを本当には使えていないのである。
「今の人」は電話なんてほとんど使わないし、たとえ使っても、実に簡潔だ。

また、こんな話があった。
60代の女性が、遊びに来ていた小学生の孫に、「テレビのチャンネルを回してみて」と言うと、孫は、その言葉が理解できない。
「チャンネルを回すとはどういう意味なのだろう?」
昔のテレビはリモコンもなく、テレビのところまで行って、電源を入れたり、ボリュームを上げ下げする操作をしなければならなかったが、チャンネルを変えるには、手で回転させるスイッチで行うものが多かったのだ。

こんなことは、10歳の年の差があれば、何かのことで十分に有り得る。
今でもアナログカセットはそのためのデッキもメディアも売っているが、カセットテープを見ても、これは何に使うものか分からない人がいてもおかしくはない。
アメリカの中高生が、音楽CDというものがそろそろ分からなくなったのは10年以上前のことだ。

たった10年の違いで世の中の概念が変わり、明らかなジェネレーションギャップが存在する。
これが数十年なら、大変な違いになり、百年近く経てば、もう別世界だ。
それなら、いかに素晴らしいことが書かれているとはいえ、古典であれば、うかつにそのまま受け取ると、とんでもない誤解をする可能性がある。
新約聖書の福音書を読むと、一見、そう違和感を感じないかもしれない。しかし、それは、読み手が、その内容を勝手に現代的なものや概念に置き換えているからに違いない。
これが、1937年に書かれSF小説『銀河パトロール隊』であれば、まだ、現代との違いに気付くので、可笑しく感じたり、ちょっと間抜けに感じたりするのであるが、聖書や論語やギリシャ神話となると、古過ぎて気付かないことが多いのである。
(もっとも、『銀河パトロール隊』には、現代以上のステルス戦闘機の構想などがあったりして、なかなか面白い)
偉い人には、論語を優れた人生哲学として振りかざす者もいるのだが、実は、孔子が教えた意味は、そんな人が「こうだ」と主張することとは随分違うことも多い・・・いや、実際は「全く違う」のである。
年の差カップルなんてものにしても、年代差が気に障るのは、10歳差くらいの場合で、これが30年違えば、案外に気にならなくなってしまうものらしい。慣れてしまえば、「こんなものだ」と諦めてしまうということもあるが、分からないのでかえって刺激がなくなってしまう・・・まあ、親子みたいなものである。

だから、古典を読む時は、理屈の頭で読めば、自己本位の解釈になってしまい、その真意や貴重なところを得ることができないのだ。
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の状態になるが、さっきも述べたが、論語信者の大半はそうであると私は思う。自分勝手な解釈をして悦に入っているというだけだ。
『老子』や『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、『ギリシャ神話』、『古事記』、その他の優れた古典を読む時は、無心で、魂で読まなければ、むしろ、害があるかもしれない。公式な立場の宗教家のほとんどが、仏陀やイエスの教えを全く理解していないというのは確かである。
古い聖典を読んでも、理屈では何も分からないのは当たり前なのだ。
しかし、できるだけ無我になって読めば、行間から霊的な叡智が囁くだろう。

尚、下にご紹介した書籍は、『10年後の教室』は電子書籍だけ。後は、紙の本と電子書籍の両方が存在する。
私は、『時をかける少女』以外は、全て電子書籍で読んでいる。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード