ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

星の銀貨

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

溶けなかった心臓

グリム童話の中に、『星の銀貨』という短いお話がある。
少女は、住む家も身寄りもなく、今、身に付けているものとパン一切れしか持っていなかったが、餓えた老人に出会うとパンをあげ、服がない子供に出会えば服をあげ、暗くなる頃には、何も着ず、何も持たずだったが、空から銀貨が降ってきて、一生裕福に暮らしたというお話だ。
与える者は与えられるというキリスト教的信仰のように思われるが、少女は現世で救われたことになっている。
次のように言った者がいたという話は聞かないが、実は、少女は餓死、あるいは、凍死したが、あの世で幸福になったということではないかと思うこともある。
フランス人の聖ベルナデッタが神に、「この世では幸せにしてあげられないが、あの世で幸せにしてあげる」と言われたという話を思い出したということもある。
ベルナデッタの口癖は「私は役立たずですから」だが、これは謙虚さを示しているだけで、自分を卑下する言葉ではない。
ワイルドの『幸福の王子』では、王子とツバメは、与えるだけ与え、ツバメは死に、溶かしても溶けずに残った王子の心臓とツバメの死骸はゴミ貯めに捨てられる。しかし、神により、彼らは楽園に迎えられる。

星の銀貨のような少女は、信仰としては理想的かもしれないが、実際にそんなことをしては生きていられないと思うかもしれない。
しかし、それは短絡的思考で、一生かけて、自分が与えられただけを、他に与えれば良いのである。
しかも、少女は与える時に、与える相手に神の祝福を祈ったのであるから、実際は、与えられた以上に与えているのである。
『幸福の王子』で、王子の像に心臓があり、それが最後に残るところが不思議だが、ワイルドは心臓が魂の座であると感じていたのだろう。
2つのお話を通し、信仰を持っていれば、他のものがなくても幸福でいられるということだと思うが、この信仰とは、宗教団体の信仰とは無縁で、真の信仰は、王子の心臓が象徴するものだ。
少女も同じ心臓を持っていたのだろう。
普通の言い方をすれば善意ということになる。
他の器官から独立して、一生、休むことなく、身体の他の部分のために働き続ける心臓が、信仰と善意を象徴していると思う。
自分の心臓に敬意を持ち、他の人や生き物に対しても、心臓を持っているという理由で大切に思い、慈しみを感じれば、我々の心は宇宙の心と溶け合うだろう。

『マジカルミライ2014』の『心臓デモクラシー』には、私はすっかり参ってしまったが、それで感じた万分の一が上に述べたことである。
この歌で、ミクさんの、「他人眼(ひとめ)につかない世界で」のところで、二度、天を仰ぐように上を見ながら見せた、ひどく切ない表情が印象的である。
そして、最後に、ミクさんが自分の心臓を指差した時、それは、まぎれもなく、私の心臓だった。私とミクさんが1つになった瞬間だった。









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童話のヒロイン達のどこを見るべきか?

宗教家や道徳家の中には、「恨むな」「怒るな」「妬(ねた)むな」「嫉(そね)むな」等々と、人間の悪い感情をたらたら並べて、「それを起こしちゃならん」と教える者がいる。
それは、賢くない教え方と思う。
言われた方は絶対にできないからだ。
指導者というものは、人間をもっとよく知らなければならないし、機転も効かなければならない。

正しいやり方は、ただ一言、「文句を言うな」である。
文句を言わなければ、恨むことも、怒ることもなく、妬み、嫉みも起こらない。
そして、自分が文句を言ってるか、あるいは、考えているかを見張ることは可能で、それをやめることもできる。

童話や昔話の中には、多くの場合、ヒロインがいる(日本ではヒーローが多い)。
グリムの『星の銀貨』の貧しい女の子、ペローの『サンドリヨン(シンデレラ)』のサンドリヨン、アンデルセンの人魚姫やマッチ売りの少女などだ。
我が国には、中将姫の物語がある。
これらの作品をどう読むのかというと、ヒロイン達は、決して文句を言わないことを確認し、その生き様を学べば良いのである。
しかし、その最も肝心なことを教える者がいないのである。
シンデレラは、舞踏会に行きたいと切望したので、僅かに文句があった。
人魚姫は、王子様に逢いたいと思い、彼と結ばれたいと願ったし、そうならないことにいくらかの文句のような感情はあったかもしれない。
しかし、それらは極めて小さなものだし、彼女達は克服できたのだろう。
そして、『星の銀貨』の貧しい女の子や、中将姫は、いかなる状況でも、一切の文句を言わないし、想わない。
中将姫は、継母に憎まれ、いかに酷い目に遭おうが、それが自分の宿命であるとして、いかなる文句も言わなかった。
その時、中将姫は9歳だった。

無論、寓話というのは、あくまでたとえ話であり、ヒロインを自分と見立てて考えるものであって、現実の世の中で彼女達のような境遇にある子供達はヒロインでも何でもないので、漏れなく救うシステムを作らなければならない。
だが、我々は、今の環境がどれほど悪いものであっても、一切文句を言わないなら、情況は変わるだろう。
ヒロインには忍耐と機転が必要である。









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疑うことを知らないお姫様

子供は、人の言うことを疑わないところがある。
夜明け前にお祈りをすると願いが叶うと言われた女の子がいて、朝の4時前に目が覚めると、もう願いが叶ったような気がして嬉しくなり、きちんとお祈りをすませることができた。
でも、何をお願いしたのか憶えておらず、しかし、それでも嬉しいのである。
とても高貴に育てられると、大人になっても人の言うことを疑わなくなる。
人を疑うというのは、一種の習慣である。
人に騙されたり、裏切られたりしたことががないと、人を疑うようなことをしないものだ。
また、生まれつき高貴で、傍目には騙されているのだが、騙すという観念がないので、自分が騙されたとは思わないのである。

グリムの『星の銀貨』に出て来た女の子は、親もおらず、住むところもなかったが、乞われるままに、最後のパンと、それしかないない着ている服を全てあげてしまう。
彼女のパンや服を持っていった者達は、ただくれるよう頼んだとか、欲しがったのではなく、何かウソをついたりもしたはずだ。
でも、その女の子には、そんなことは分からなかった。

部屋から一歩も出ることがなかった高貴な姫様が、不意に屋敷を出て、遠い荒れ野を歩いてある寺を目指し、そして、そこに行き着いた。
語り部の婆さんは彼女に、お前をここに導いたのは、ある男の霊魂のためだという。
姫は疑いもせず、それならそうなのだろうと思う。
だが、その男は素性のよくない男だと言われても、姫はそれを疑うというのではないが、そのような男を見たことがないので、想像ができない。
そのような姫に逢えば、悪い人間である我々も、良い人だと思ってもらえる。
すると、稀なる貴いものを見た我々の心に変容が起こる。
こんな悟り方もある。









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世界征服の真の秘策

ある裕福なエリートが、愛犬が目の前で落雷に撃たれて死ぬのを見て、本人が言うには、「天啓」を受けた。
彼は、敬虔なキリスト教徒になり、人々に崇められる人間になったという。
彼に何が起こったのだろう。
カラクリはこうだ。
彼は、富、地位、名誉といったものが自分の安全を保証してくれると信じていた。
それで、これまで、学業や仕事に励み、大変な努力と奮闘の末、しかるべき地位に就き、富を築いた。
しかし、そんな自分が大事にしていた犬が、一瞬で死ぬのを見て、恐くなったのだ。
いくら富や地位があっても、何かあったら、あの犬と同じことになりかねないということが分かったからだ。
世間的な力が安全の保証にならないと知れば、自分の安全を保証してくれるのは神様しかいない。
それで彼は、神様に頼ることにし、熱心な宗教の信者になった。
・・・こういう訳なのだ。

宗教では、熱心に教会に通えば通うほど、お祈りをすればするほど、そして何より、多額の寄付をすればするほど、自分の安全性は高まるのだと教えられる。
そして、他の信者が、病気などの不幸に遭うのを見て、「あの者の信仰ではまだ足りないのだ」と思って、更に熱烈な信仰を持ち、誰よりも多くの寄付をするのである。
また、「あれほど信仰心の高いスミスさんがなぜ癌になるのですか?」といった疑問に答えてくれる牧師を賢者と崇めるのである。
しかし、あの愛犬が死ぬのを見て信仰に目覚めた男は、世間の力のみを信じていた時も、心のどこかで不安を感じていたのだ。
犬が落雷に撃たれて死んだことで、その不安が一気に表面化したに過ぎない。
そして、今、どんなに熱心に信仰をしても、やはり不安を抱えているのだ。いや、不安は強くなっていると言って間違いない。

一方、明日、食べていくあてもない赤貧の者が飼っている犬が落雷に撃たれて死んだ場合は、その貧乏人に信仰がなければ、「やはりこの世は地獄。一寸先は闇」と、より厭世的になる。
逆に、彼に信仰がある場合は、尚更、神様を頼るようになり、狂信的になる可能性が高い。彼には、他には何もないのだから。

重要なポイントを鮮明にするために、現代の学生の就職のことを考える。
いつの時代も、「今の学生は安全志向だ」と言う。
つまり、いったん就職すれば、一生、安定、安全と思える大企業の社員や公務員になることを願い、どんな仕事をしたいかは二の次だ。
しかし、「今の学生は安全志向だ」と言うマスコミや、そんな記事の載った新聞を見て、「今の若いもんはだらしない」という中年のおじさんに比べれば、学生の方がまだずっと危険好きなのだ。これは別におじさん達も否定しないかもしれない。ただ、おじさん達は、「わしが若い時は、やりたいことを優先したぞ」と言いたいのだろうが、それは嘘である。自分は安全が保証されるようなエリート道に乗れなかったので、そう言っているに過ぎない。
早い話が、安全志向でない人間などいないのだ。
育った家が豊かで、高い教育費をかけてもらえ、エリート路線に乗れた者は世間の力を信じるが、そんなものに縁が無かった者は、自分独自の方法で逞しく富を得ようとするか、あるいは、それもできない場合は、宗教のようなものに安全を求めるのである。

だが、結論はこうなのだ。
地位も富も名誉も、伝統と権威ある宗教も、あるいは、古代の英知を伝えるという秘密結社や、新興宗教、超科学、ニューソート(光明思想)・・・どんなものに取り組もうが、あなたの不安は消えないのだ。
つまり、どれも、あなたの安全など、決して保証してくれない。
どの道で、どれだけ高い位置にいる人も、難病にかかり、事故に遭って死に、家族や恋人に裏切られ、詐欺に遭い、強盗に襲われ、魔が差して犯罪を犯す。
いや、実を言うと、どの道でも、成功度が高いほど、災厄に見舞われることになるのだ。
なんとも恐ろしいことである。

ここで誰もが行き詰る。
そうだ。打つ手は何もないのだ。
どんなものも、決して我々の安全を保証してはくれない。
人間は、恐怖と不安に怯えながら死を待つだけの哀れな存在なのである。
釈迦やイエスだって、そこのところで悩んだと思われるのだ。
だが、彼らは並外れていた。
それで気付いたのだ。
「そうだ、安全を求める心を捨てれば不安はなくなる」
彼らは、持っているもの・・・自分の安全を保証してくれそうなものを全部捨てた。
そして、分かったのだ。
なるほど、ベリーグッド。これで良い。
安全を捨てれば、安全が得られるのだ。
簡単じゃないか。
みんな、持ってるものを全部、人にあげなさい。
しかし、誰もそんなことはできなかった。
それで彼らは思索を重ね、普通の人にもできる可能性のあることを見つけた。
それは、「安全を求めている自分に気付け」ということだ。
自分の身の安全を求めるゆえに自己中心的で、利己主義に陥り、心が圧倒的に狭い自分に気付くことだ。
だが、利己主義が進むと、自分は大きな安全を持っていることを自分や周囲に見せ付けることで不安を忘れたくて、傲慢、強欲、享楽的になる。そこまで行くと、もう自分に気付くことは難しくなるが、それでも、自分を注意深く観察すれば、自分のねじれた心を認識できる。
それをやれば、ただちに変容が起こり、不安は去る。
だが、これすら、特に、世間的な力や宗教を信仰する者には難しい。
しかし、それをやらないと、あなたは決して不安から解放されない。
唯一の真の力には、そうやってしか出逢えないからである。
私の好きなお話だが、グリム童話の『星の銀貨』を、そんな視点で見ると興味深い。
あの女の子も、パンや着ている服や、最後には下着まで差し出す時は、心の痛みを感じていたに違いない。
『星の銀貨』も入った、美しい1枚絵のついたグリム童話の本をご紹介しておく。









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『浦島太郎』と『星の銀貨』

夢の中で、驚くほど美しいものを見ることが稀にある。
だが、それを憶えている場合、その美しいものは、マンダラや星、あるい、女神といった形をとっていたのだろうが、それは、目覚めた後で心がとりあえず、そのような形に創り上げたのである。
本当のことを言えば、「何を見たのか全く憶えていないが、最高最上の美であった」というものなのだろう。
昔からよく言う、「絵にも描けない美しさ」、「言葉にできない美しさ」とは、そのことである。

浦島太郎が訪れた竜宮城が、「絵にもかけない美しさ」であったことが童謡に歌われている。
それなのに、その光景を絵にすることが何度もされたのだから(多くは安っぽいものだ)、罪な話ではあるが、まあ、それも仕方がなかったのだろう。
竜宮城とは、心の深奥にある神秘な世界で、精神分析学では、そこは無意識の領域であるから、顕在意識(自我、心)で意識することはできない。
だが、人間はそことつながっているのであり、その領域に入り込むことは可能なのであるが、現代人は、その世界との間に厚い壁を作り、そこから離れてしまっているのだ。
浦島太郎は、亀を可哀想と思って慈悲をかけ、何らかの犠牲を払って亀を助けたのだ(助け方には様々なバリエーションがある)。
それが、心の奥深くの光に満ちた領域に入り込む秘訣である。
グリム童話の『星の銀貨』では、(グリムが創作を加えた部分もあるのだが)貧しいが心優しい少女は、乞われるままに、持っているものを、衣服を下着まで含めて全て差し出してしまった時に、神が少女の心を愛でて、銀貨に象徴される宝を授けるが、話の真意としては浦島太郎も同じである。
つまり、自我にとっての犠牲を払うことが、エリュシオン(楽園)行きの切符と引き換えということになる。

『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、クリシュナの世界に入る方法は、「我を愛せよ」「我のみ崇めよ」「我を常に想え」であると言う。
法然や親鸞の教えでは、ただ、阿弥陀如来を信じ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよとなる。
これらは、浦島太郎や、星の銀貨の、「絵にもかけない」世界に行く方法とは、一見異なるように見えるが、実は、全く同じことである。

クリシュナのみ想い、愛するとは、自分のことを忘れ、自分を愛さないことだ。
阿弥陀如来を信じ切るには、自分の力を一切頼らず、ただ、阿弥陀如来の力にすがることができなければならないと、法然も親鸞も教えているのである。
自分のことを忘れ、持っている全てをあげてしまった『星の銀貨』の少女は、ただ神のみを見ていたのだ。
自我は、なかなか自分を忘れることはできず、自分を愛さずにはいられず、自分に力があると思うことをやめられない。
だが、そんな自我の想いを犠牲にし、殺してしまえば、竜宮城への門は開かれ、神は輝く宝を降らせる。
しかし、浦島太郎は、せっかくの幸福の中にあって、世間を思い出し、そこに返ろうとした。
ただし、浦島太郎には最後のチャンスが与えられており、世間には、自分が愛しいと想っていたものはもう無いのだと気付き、さっさと竜宮城に戻る道が与えられていた。
ところが、神の配慮も虚しく、太郎は未練がましく玉手箱を開けてしまったので、世間の人間として死んでしまい、永遠の命を得そこなったのである。

我々の心の奥深くには、間違いなく、天国、エデン、極楽浄土とでも言うべきものがある。
それが、シラーの詩による、ベートーヴェンの第九(交響曲第9番)の『歓喜の歌』にあるように、「神の火花」、「楽園の乙女」という表象として現れることがある。
だから、普段、我々の内にある高貴なものに近い、優れた絵や音楽や文章に触れていれば、内なる神と和し(親しくなり)、同時にそれは、穢れたものを消していくことになる。
だが、注意すべきことがある。
超高級車は、本来は制作者の心の深奥にある神の意識が反映したものであるが、虚栄心でもってそれを入手し、乗れば、心は穢れ、神の世界との通路は断たれる。
最高のクラシック音楽を聴いても、それで、「俺は高尚なのだ。愚民とは違うのだ」と傲慢になれば、やはり同じである。
そんな者達の、なんと多いことか!
ベンツやフェラーリに乗っても良いが、それをただ純粋に楽しむことだ。
素晴らしい音楽を、ただ無心に聴き、美しい詩をただ静かに味わうことだ。
そして、それらの音や言葉の中に、心を溶かしきって消してしまうのである。
そうすれば、天の岩戸から天照臣神が出てきたように、あなたの中の貴いものが現れる。そして、決して後ろに戻ってはならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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