ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

星の王子様

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

読み古された本と音楽の力

私が読んだサン・テグジュペリの『星の王子様』は、姉から譲り受けたものだった。
ところが、姉もまた、その本を親戚のおばさんから譲られたのだった。
その本は、姉よりも、そのおばさんによってかなり読み込まれていて、紙面には沢山の赤線も引かれていた。
私は、そのような本を見たことがなく、一冊の本をそこまで熱心に読むことがあるのだと知って感動し、そして、そんな本に敬意を払うような気持ちで、真摯に読もうと思ったものだった。

また、次のようなことも思い出す。
私が子供の時に読んだ『怪傑ゾロ』に、18歳のヒロインであるロリタが、24歳のディエゴ・ベガをまだ、ただの金持ちのどら息子だと思って、やや軽蔑していたような頃、招待されてベガ家を訪れ、ディエゴの書斎に入る場面があった。そこには膨大な本があり、素晴らしい詩の本もあったのだが、その詩の特に美しい言葉に線が引かれてあるのを見て、ロリタは、「こんな人が、なぜあれほど頼りなくて怠惰なのだろう」と困惑する。
無論、ディエゴは、敵の目を欺くために馬鹿息子を演じていたのである。

私は、優れた一冊の本を熱心に読むことは、おそらく良いことであり、また、それが出来る人はきっと高い精神性を備えるのだと感じた。
また、ある人は、尊敬する偉大な人物の弟子にしてもらおうと訪ねていったが、ほとんど相手にしてもらえず、ただ、『ローム太霊講和集』という本をボロボロになるまで読めと言われ、10年以上かけて、本当に本がボロボロどころか、バラバラになるまで読み、その本を持って再び訪ねると、その偉大な師に、「あなたは弟子ではなく友人だ」と言われたという。
そのような本に巡り逢うことは幸運なことであるが、そうなるかどうかは運命というものだろう。
私も、そんな本を求めたが、なかなかそうはいかない。
それに、ある人にとっては最高に重要な本も、別の人にとってはそうではない。
逆に、ある人にとっては何の価値もないような本が、別の人には至高の師になったりもする。

最初に挙げた『星の王子様』は、「人生の一冊」に十分に値すると思う。
読むのが勿体無いので、この本を一年に一度しか読まないという人もいる。
だが、『星の王子様』を、美しいお話ではあるが、ただそれだけのものだと思っている人が多いだろうと思う。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も、やはり、素晴らしい作品ではあるが、これを子供のための童話のようなものだと思っている人が多いかもしれない。
また、そうでなくても、あまりに多くの人が、この作品の個人的な評論のようなことを書いているのだが、それは、ほとんどの場合、この作品の価値を著しく貶めてしまっている。
私も、この作品に対する世間の人達の話が先入観になり、今まで読もうと思わなかったのだ。
しかし、私は、この3日の間に、この作品を2度読んだが、これほどの作品は、恐らく世界に2つは無いと確信した。
そして、この作品の本当の価値を理解できる人は、あまりいないに違いないと思うのだ。
しかし、私も、ただ読んだのでは、やはり、この作品の素晴らしさが分からなかったに違いない。
だが、私は、冨田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』を繰り返し聴き、その第5幕『銀河鉄道の夜』により、この作品に対する一切の先入観を祓い、その代わりに、人間の思考を超えた霊的な感覚を得ていた。
そして、この本を読みながら、さらに、『イーハトーヴ交響曲』の、特に、『銀河鉄道の夜』を何度も聴いた。
それで、少しは、この本を魂で理解することが出来たのだと思う。
『イーハトーヴ』交響曲には、それほどの音楽の力があるのだと、私は確信するのである。
尚、これが先入観になってはならないので、注意もして欲しいが、ルドルフ・シュタイナーの『神智学の門前にて』には、『銀河鉄道の夜』と同じ世界のことが描かれている。私は、『銀河鉄道の夜』を読んだ後で気が付いたのだ。これも、気が向いたら読んで欲しいと思う。









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年賀状は出さなくていい。むしろ、出してはならない。

早いのかどうか分からないが、そろそろ年賀状のことを考える人もいるかもしれない。
私はもう何年も年賀状を出したことがないし、一生出す予定はない。
ただ、来る年賀状は嬉しいものだ。なぜなら、私の機嫌を取っても、何も良いことはないのに出してくれるのだからだ。
聞けば、年賀状は、昔の貴族が、年始の挨拶にわざわざ行かなくて良いと思っているような、軽く感じている相手に書状で挨拶を済ませるのが流行ったのが始まりであったらしい。
そんなものを真似る必要はないし、そもそも、年始の挨拶も必要でない。
別にしたって良いのであるが、そのようなものにこだわるなら、リア王の教訓がまるで身に付いていないということだ。
「気持を表す」とか「気持を形に」などという言葉が、世間にはあるのかもしれない。
しかし、気持ちを表す必要はないし、気持を形にする必要も全くない。
気持は表さなくても分かる。いや、表すと分からなくなる。
形にした気持は歪んでいて齟齬(ゆきちがい)だらけとなる。
形にした気持を欲しがるのは、まがい物を欲しがることだというのがリア王のお話で簡単に分かるはずなのであるが、なぜ我々はかくも鈍いのだろう。
アメリカなどでは、夫婦がいつも「愛している」と言い合い、また、我が国でも、それが大事なのだと言う馬鹿が多い。
そんなことをしている夫婦がすぐに醜い争いを始め、アメリカの離婚率はトップクラスではないか?
言葉にしないと信じられないような愛なんて大嘘であるに決まっているではないか?
本当の愛なら、言わなくても分かるはずだ。
ヘレン・ケラーは「五感は幻想。Ideaが真理」と言ったが、このIdea(アイデア)は、閃き、感じ、想像といったもので、直感と言っても良いと思う。
見えず、聴こえなかったヘレンにはかえってそのことがよく解ったのだ。

大安だとか仏滅なんていうのも、明治時代の賭博師達が、その日の博打の運を占うのに作ったものらしい。
土台、お釈迦様が、「今日は私の命日だから結婚式はならん」だの、「竣工式は延期せよ」などといった馬鹿なことを言うとは全く考えられない。
もし、人類に進化した未来があるなら、後の世の、高い精神性を持つ人々は、そんなことを口やかましくいった我々を哀れみと寛容の心でもって想うに違いない。だが、私は、そんなことで哀れまれることを望まない。なぜなら、哀れむべきことは、まだまだ他に沢山あるからだ。

年賀状は、面倒臭いから出さないのではない。
出す必要がないのだし、むしろ、出してはならない。
形にすることで、気持が嘘に変わる危険が大きいからだ。
それよりも、本当の気持を大切にしようではないか?
そして、それは、形にしないことで達成されるのだ。
自分の子供に対する愛情を形で示したり、形で確認しようとすると、必ず、与えてはならない余計なものを与えて子供を不幸にし、果てには、「お前にあれだけしてやったのに」などといいう下らないことを言う始末になるのだ。なんと愚かなことか。
本当に愛があれば、必要なものだけを、考えることなく自然に与えるし、与えてはならないものは、ヘレン・ケラーの言った「感じ」で分かるはずなのである。
世間に騙されて、子供に悪いものを与えるのは、形しか信じないので、感じや直感をすっかり鈍らせているからである。

『フェアリーテイル』というイギリス映画で、8歳の可愛い女の子が、一人で汽車旅行をしている時、汽車の中で出会った、怪我で形相がひどく醜くなってしまった男性に頓着なく親しく接していたが、彼女は直感を鈍らせていないので、優しい人が分かるのだし、逆に、見てくれがどんなに良くても、卑しい人は避けていたのである。
そして、彼女には、世間の人が見えないもの(フェアリー:妖精)が見えたのである。無論、その妖精は、世間でいうようなものではないのだがね。

一応言っておくが、形に価値が無いというのではない。
素晴らしい形もあるが、二次的なものに過ぎないと言っているのである。
素晴らしい形になったからこそ芸術作品である。しかし、その形ばかりを崇めるので、せっかくの芸術の本質を見失い、作品がただの投機の対象になっているのが、どこかの哀れな経済大国の現状である。
芸術作品の形は、あくまで、身体と五感を持つ我々がやむを得ず必要とするものに過ぎない。本当に大切なものは、星の王子様が言うように、目には見えないのである。
形の奥に隠れた真に大切なものを見ることが芸術を見ることなのである。









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本当に美しいものを見る方法

このブログで何度か書いたが、ジョージ・アダムスキーが宇宙人の巨大宇宙船の中で、どんな言葉を尽くした描写も的外れな、驚くべき美しい宇宙人の女性達を見たのだが、彼女達は、全く年を取るということが無いのだった。彼女達がアダムスキーに明かしたのは、どの宇宙船、そして、どの家庭にもあるという1枚の絵が、その秘密であるということだった。それは、完全に理想的な人物を描いた絵であり、生命そのものを表す、神の絵と言うべきものだった。その絵をいつも見ている彼女達に老化はあり得ない。
残念ながら、我々はその絵を見ることは出来ないのだが、地球にだって素晴らしい画家はいる。その絵ほどではなくても、それに近いものならあるかもしれない。
そう思い、私は、有名かそうでないかにとらわれず、優れた画家の描いた素晴らしい人物の絵、あるいは、女神や天使の絵を探してみたが、満足なものは無かった。

だが、『星の王子様』の、こんな話を思い出した。
テグジュペリは、星の王子様に、羊の絵を描くようねだられるが、テグジュペリは絵が下手だった。それで、何度描いても、王子様を喜ばせることが出来なかった。
だが、テグジュペリは、窓のついた箱を描き、「この中に君の羊がいる」と言ったら、王子様はとても喜んでくれた。
『天空の城ラピュタ』の主題歌『君をのせて』でも、それと同じようなことを思わせる詩があるじゃないか?

あの地平線 輝くのは
どこかに君をかくしているから
たくさんの灯(ひ)がなつかしいのは
あのどれかひとつに 君がいるから
~『君をのせて』(作詞:宮崎駿、作曲:久石譲)より~

今年の3月9日に、東京ドームシティホールで行われた、初音ミクのコンサートでは、初め、ミクはカーテンごしに透けた姿しか見えなかった。しかし、それがミクだと思えば、愛しいほどに美しいのだ。
かぐや姫がいると思えば月は一層美しいし、目には見えないかもしれないが、空には天使がいるのであり、その美しさは想像もつかない。
年を取らず、いつまでも若くありたいという欲望の心ではなく、朝、目が覚めた直後の、思考がやって来る前のような純粋な心で想うなら、我々はとても美しいものを見ることが出来るに違いない。









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形のないものを貴べば女神になれる

今日は、実に美しい女性を見た。
ところが、彼女が美人だったかというと、これが分からないのである。
お前の主観では美人だったのだろうと聞かれても、それも分からない。
実際に、さっぱり分からなかったのである。
私は、女性をしっかり見ることに、あまり気後れする方ではないのだが、これほどに美しいとやや気後れする。
それでも、何度か目があったが、彼女は隣の女性とのお喋りに忙しいらしく、どうでもよさそうであった。
彼女は、木製のベンチに掛け、かなり細い脚を実に形良く揃えていたが、作為的な雰囲気はなく、それが習慣的なのだろうと感じさせた。つまり、ごく自然な様子なのである。

しかし、いくら考えても、彼女が美人なのかどうか分からない。
それは、こういうことなのである。
私は、彼女を観察したのではなく、観照していたのだ。
観察とは、自我で見て思慮分別することだ。一般に科学的な見方というものだろう。
しかし、観照とは、直感的知覚で見ることだ。芸術作品を見る時は、観照でなくては本質は分からない。
聖者はいつも観照しているが、普通の人間は、ほとんどいつも観察している。
凡人が観照するのは、何かのきっかけで、心が吹っ飛んだ状態の時である。
それは、例えば、思いもかけない良い知らせを聞いたとか、自然の絶景を見て感動した時とか、あるいは、死を覚悟して受け入れた時である。
そんな時は、何を見ても美しいだろう。

彼女は、見ている者に、観察をやめさせて、観照させてしまう力があるのである。
それは、どのような力だろう?
インドの聖者ラマナ・マハルシの前に行くと、誰でも深い安らぎを感じたのは、彼の前では、心が消し去られ、観察が出来なくなり、全てを観照する精神状態になってしまうからである。
マハルシのような力を持った若い女性がいたら、女神のようであろう。

想念があると観察をし、想念が消えれば観照する。
凡人は想念を消すことが難しいが、聖者は逆に、想念を起こすことが難しいらしい。
あの彼女の前だけでの、にわか聖者になった私には、その意味が少し分かったような気がした。
そこで、心と美の秘密を解明してみようと、私は、本当は必要はないのだが、「がんばって」日常の想念を起こして、彼女を観察してみた。
すると、彼女は、若い女性ではあったが、美人という訳ではないと思えた。
まだ観察するのに努力を要したが、さらに気力を振り絞って細かく観察すると、彼女の容姿に欠点を見出すことも難しくはなかった。
しかし、無駄な努力はやめ、ぱっと観照状態に戻ると、やはり女神のように美しいのである。

彼女には、ラマナ・マハルシほどではないだろうが、人を観照に導く力がある。
では、どうすれば、彼女のようになれるのだろうか?
私が思い出したのは、初音ミクの『歌に形はないけれど』という歌の中にこんな詩があったことだ。
作詞・作曲はdorikoさんだ。

僕がここに忘れたもの
全て君がくれた宝物
形のないものだけが
時の中で色褪せないまま
~『歌に形はないけれど』より~

外見的な美しさは、ごく僅かな間だけのものであるし、それにばかりこだわっていると、やがて年をとって容貌が衰えた時の惨めさは、美人の方が普通の女性よりずっと大きいのだ。
しかし、誰でも本質では至高の美を備えているのであり、それは、時の中で色褪せることは決してない。
まず、自分自身が、形のない本質の美を求めてみることが大事だと思う。
それには、形のないものを形のあるものの上位に置くことである。
形のあるものが無価値だというのではない。形のないものの方が、ずっと大切だということだ。

欲望の自我に囚われた者には、ラマナ・マハルシもただの人間であり、私が今日見た女性も、ただの冴えない女でしかないだろう。
イエスの絵によく描かれる、身体から発せられている輝きは、人から自我を消し、観照するような精神状態にさせる力を現していると思う。
しかし、そんなイエスでさえ、蔑まれることも多かったのだ。
自我は、真に美しいものを感じることは出来ず、習慣的な価値観で、美しいとか醜いとかを感じるのだ。
時代や地域により、美人と言われる基準が著しく異なるのはそのためである。

我々は、そういった、個人的な価値観に囚われず、形のない美しさを知らなければならない。
現代人は、物質的なものばかりを有難がり、形のない本当の美しさを知ろうとしない。

星の王子様が言った、「本当に大切なものは目に見えない」という言葉を、ただ知っているだけではなく、それを世間の教義や信念の上に持ってこなくてはならない。
友達を紹介する時、彼が通っている学校の名前や、彼の親の仕事を言わなければならないのが世間だ。
世間の人に、ある家のことを話す時には、「10万ドルの家」で無いと通らない。
それが下らないことだとは言わない。
しかし、彼の精神的な美点や、その家の庭に咲いていた花の雰囲気はもっと大切なのだ。
今日のあの女性も、きっとそんなことが分かる人なのだろう。

尚、以前書いた、下記の記事も同様のテーマを扱っている。
醜女が一瞬で息を呑む美女になった話









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世界は演劇のようなものだ

本を沢山書いているような人達の中には、一般の人々は洗脳されていると述べる人がよくいる。
それは確かにそうなのだけれども、そう言っている人達自身が洗脳されていると共に、彼等もまた、我々を洗脳して儲けようとしているのだろう。
だが、人のことはどうでもいい。
他人のやることが気に入らなかったり、我慢がならんというのも、洗脳されている証拠なのだからね。
では、洗脳度テストというものがあるのだろうか?
それはある。
簡単だ。世界がリアルであれば、つまり、現実的であれば、それが洗脳されているということだ。
洗脳されていないなら、世界なんてものがあるはずがない。
世界が確かに存在し、自分がその中に確かに存在すると思っているなら、残念なことに、洗脳され、迷信、迷妄、妄想、幻想という虚偽の世界に住んでいるのだ。
洗脳されていないなら、世界は、喩えて言えば、幼稚園の演劇とか、幼い頃に見たマジックショーのようなものだ。
つまり、洗脳されていない人にとって、世界は非現実的だ。

『燃えよ!ドラゴン』という映画で、ブルース・リー演じる少林寺の武術家リーが、「良い戦いとは、少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったあたりは、よくは分からないが、少林寺か、そこの思想の元になった仏教の教えにあるのだろうと思う。
つまり、悪い戦いをする者達というのは、大勢でいい加減に演じるドタバタ劇をやっているということなのだ。
それよりは、少人数で真剣にやる劇の方がマシであるが、どちらも劇であることに違いはない。
しかし、良い劇では、役者は劇が終ったことを認識するが、悪い劇では、役者達は、いつまでもつまらない劇を続けるのだ。

洗脳されていないとは、悟りを開くということだ。
洗脳を、人の持つ幻想と言うなら、フロイトは人の自我自体が幻想なのだから、人が幻想を脱することは不可能だと言った。
彼によれば、人間は本能が壊れているので、生きるために自我を作ったが、それは自然に立脚したものではない幻想だという訳だ。
これが西洋的な考え方というものだろう。星の王子様が、本当に大切なものは目に見えない、つまり、アタマで考えた理屈では分からないと言ったことを、我々は少し思い出した方が良いが、フロイトにとって不幸なことに、テグジュペリは彼より44歳も年下だった。

さて、世界が非現実で、夢のようでなければならないと言ったら、愚か者はこう言うだろう。
「夢なんだから、何でも好き勝手していいんだな」
その通りである。やってみたまえ。
ただし、やることによっては、世界が、「恐ろしいまでに」現実になってしまうのだ。
愚か者の好き勝手とは、性欲、食欲、物欲を満足させるために傍若無人に振舞ったり、盗みをしたりというものだろう。
欲望が幻想を作り、幻想によって洗脳されるのだ。
だから、欲望の満足を求めるほど洗脳されるという訳で、そんな者にとって、世界は鉄のように現実なのだ。それも、とても辛く苦しく、惨めな、確固とした現実である。

中国の『列子』にこんな話がある。
ある貧しい男が、金持ちの男に、「なんでそんなに豊かなんだ?」と尋ねると、金持ちは、「盗みをするからさ」と答えた。
「なるほど」と思った貧しい男は、さっそく、隣の家に泥棒に入り、役人に捕まって罰を受けた。
貧しい男は、金持ちの男に抗議した。
いきさつを聞いた金持ちの男は、「盗み方が悪い」という。「私は、天から盗んだのだ。作物は天が育てるものなのに、私はそれを収穫して盗むのだ」

『燃えよ!ドラゴン』の良き劇と、この良き盗みは似ている。
自分は、主体的な行為者でない。行為するのは、劇の中の架空の人物であり、天だ。我々は非現実だ。
ここに想いを巡らせると、我々も洗脳を脱し、つまり、解脱し、劇が終った後で気楽にくつろげるようになれるだろう。
『バガヴァッド・ギーター』は、ある意味、これ自体が素晴らしく良き劇の舞台と言える。下手な役者アルジュナ王子は、至高神クリシュナの教えで良き役者になり、全ての苦しみを脱する。我々も、これをよく読んで、世界をただの劇にすると良いだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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