ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

星の王子さま

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

どうしてもメソッドが続かない人に

偉大な人物は、引き寄せという言い方はしなくても、何らかの信仰とか因果論みたいなものを必ず持っていると思う。
たとえば、ドナルド・トランプは敬虔なキリスト教信者だし、スティーブ・ジョブズは因果論者(カルマ論者)だった。
つまり、世界は物質の法則だけで成り立っているのではなく、何らかの意味で精神が世界に影響を及ぼしていることを受け入れているのだが、実際は、高度な人物であるほど、精神が世界に影響を与えているどころか、世界は精神であると認識している。

世界が物質である・・・もっと日常の言葉で言えば、世界は物であると思っている人は、悩みの多い苦しい人生を送っていることだろう。
物の背後に精神(スピリッツ)があることを理解するほど幸福になり、全ては精神であると理屈ではなく直接的に理解(直観と言っても良い)すれば至福に至る。

「世界が物である」と思うことを物質主義と言い、それは、目に見えるものが全てだと思うことだ。
だが、そう思っていても、『星の王子さま』を読んで、「本当に大切なものは目に見えない」という言葉に触れたり、見ることも聴くことも出来なかったヘレン・ケラーが「五感は幻想」、つまり、見えるものは実体ではないと言ったのを知った時に理解が始まることがある。
そして、「本当に大切なものは目に見えない」「見えるものは実体ではない」ことを確信するようになる。
だが、なかなかそうなる人は少ないので、スティーブ・ジョブズは言い方を変えたのだ。
「点と点がつながると信じるしかない」
たとえば、今やっていることが未来の何かにつながると信じるしかないのだ。
何につながるか、どうつながるかは人間には分からない。
しかし、つながると信じるしかないし、実際につながる。
『Tell Your World』(kz feat.初音ミク)で、
「たくさんの点は線になって 遠く彼方へと響く」
「いくつもの線は円になって 全て繋げてく どこにだって」
というのを聴くと、精神的なところがある人は、やはり何かを感じると思う。

以前の引き寄せは、「世界のつながりを意図的に変える」といった感じであったが、新しい引き寄せでは「自分が世界のつながりそのものである」というものに近付いてきている。
つまり、「引き寄せを起こす」のではなく「全ては引き寄せでしかない」とでもいうことになると思う。
全てのつながりの根源である者を神であると言うなら、自分こそが神であることになる。
その通りであるが、神ならざるもの・・・すなわち、思考(=自我=心=左脳)が表に出張っているので、神が隠れて見えない。

ニサルガダッタ・マハラジは、神を隠している思考を消すために、「常に、存在の感覚にしがみつけ」と言ったらしいが、これでは普通の人には分からないので「私は存在する(私は在る)」が最高のマントラだと言った。
つまり、「私は存在する(私は在る)」と唱えれば良いだけである。
だが、もっと早く成果を出せるのが、「今この瞬間を感じる」ことだが、これも分からない人が多いので、「今、今、今、・・・」と唱えると良い。
こんな簡単なことも続かないのは、世界は物であると学校やテレビに完全に洗脳されているからである。
テグジュペリの『星の王子さま』や、ヘレン・ケラーの『OPTIMISM』を読むと良いだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)星の王子さま(河野万里子訳)
(2)星の王子さま(内藤濯訳)
(3)Optimism( Helen Keller) ※英語
(4)オプティミスト(ヘレン・ケラー) ※『OPTIMISM』翻訳
(5)楽天主義(ヘレン・ケラー) ※『OPTIMISM』翻訳
(6)ハングリーであれ! 愚かであれ! (スティーブ・ジョブズ講演)

四色の薔薇
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「四色の薔薇」
Kay

子供に劣る大人達

「世界の終わりが近付いてきた」という終末論はいつの時代にもあり、特に、この数十年はよく聞くと思う。
日本に限って言えば、この数年の人口減少・・・というより、死亡者数の増加振りが異常なことは、普通の(厚労省等の)公開データを見ても分かる。
天変地異でもないのに、昨日まで元気だった人が、死んだり無能力化してしまっている。
こんなことは、これからも続き、そして、もっと悪くなる。
いずれにしても、今後は、IQが低い者は救えなくなる。
基本のIQは遺伝で決まっているが、後天的にいくらでも変化させられる。
今の日本では、生まれつきの基本IQよりもIQがどんどん下がっている者が圧倒的だが、稀に、大きく向上させている者もいる。
(一応、IQという言葉を使うが、一般に言われる知能指数プラスの能力と思って欲しい。とはいえ、大方では、普通のIQの概念でそう外れていない)
「私はIQが低いですから」というセリフは禁句になる。低ければ高めなければならない。
一方、IQを自慢するのもタブーとなる。そんな者は本当はIQが高くないからだ。

白い花
AIアート230
「白い花」
Kay


教養といったような常識的なことは別として、IQを高める方法は思考を消すことだけである。
思考を消すとは、これまでよく使われた言葉で言えば「無になる」「無我になる」「無私になる」「無心になる」「忘我になる」「没我になる」といったことや、あるいは、「頭の中のおしゃべりを止める」「頭の中の独り言をやめる」ということである。
これについて説得するのは、もう飽きた・・・というのは冗談だが、学校やテレビで洗脳され過ぎたIQが低い者は救うのが難しい。
そもそも、思考を消すことが重要であることは、子供でも分かるのである。
『星の王子さま』の主人公の飛行機乗りが、子供の時の自分や王子様を称賛する理由は、子供の時の自分や王子様は思考があまりないからだ。
自分が見た印象的な家のことを説明するのに「赤いレンガ造りで庭にゼラニウムの花が咲いている」と言うのに思考は必要ないが、「10万ドルの家」と言わせるのは思考であり、学校やテレビが存在感がある社会では、そのような言い方しか通用しない。
思考が消えている時に勝手に起こる思考は雲のようなものだ。たまに面白い雲を見ても、過ぎてしまえば忘れれば良いのである。

そして、思考を消すには、基本的には、いつも静かに呼吸すれば良いだけである。
思考と呼吸は密接に呼応するからだ。
だが、人々が物質文明により大きく劣化した部分があるので、特別な方法として「私は誰か?」と自分に問うことが提示されたのである。
他にも、呼吸が静まる言葉であれば、何でも唱えるのは良いことである。








『老子』第81章(最終回)「思考を捨ててこそ」

今回は『老子』第81章で、『老子』最終回である。
この章を一言で言えば「思考を捨ててこそ」である。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という有名なことわざがある。
これは、「命を捨てる覚悟があってこそ成功する」という意味で、英語にも「Fortune favours the bold.(幸運の女神は勇者を助ける)」という、似た意味のことわざがある。
この言葉も良いのかもしれないが、老子は全くレベルが違う。
世間のことわざレベルで考えるから、皆、老子を大誤解するのだ。
老子では、捨てるのは「身」ではなく「思考」である。

人間の中には、自殺をする者もいる。これも身を捨てることである。
だが、自我(エゴ)は決して自殺しない。
自我は実際は思考で、思考は記憶と欲望から出来ている。
身を捨てることは容易い・・・と言えば語弊があるかもしれないが、思考(自我)を捨てることは極めて難しい・・・実際は不可能だ。
では、どうすれば良いか?

地上に浮上した秘密施設
AIアート28
「地上に浮上した秘密施設」
Kay


少し方向を変える。
若いうちは皆、自分は天才だと思っている。
しかし、ある程度の歳になれば、そうではないことが分かって来る。
それをいつまでも分からないと、いわゆる「中二病(自分は特別だと妄想すること)」になる。
自分が天才でないと分かれば、「天才であれば、容易く称賛や栄光が得られたものを」と嘆く。
こう言われても、
「そうかもしれないが、私は違う(やはり天才だ)」
と思う期間(中二病である期間)が長いほど悲惨で、下手をすれば狂人にされてしまう。
ところが、称賛や栄光を望む思考(心、自我)が消えてしまえば、本当に天才になる。
というより、元々が、天才すらはるかに超えていたのだ。
天才をはるかに超越した者が、たかが世間の称賛や栄光を望んだりしない。
そして、『星の王子さま』を読めば、子供は皆そうである(天才をはるかに超越している)ことが分かる。
もっとも今は、お受験とかで、幼稚園とか小学校入学時点で「小さな大人」にさせられ、『星の王子さま』で語られるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの子供時代や星の王子さまのように「大人はへんてこりん」とも思わなくなる。

言ってみれば、「思考を捨てればあなたも天才」なのだが、そうはいかない。
さっきも述べた通り、思考(自我)は決して自殺しない。
だから、老子の教えは滅んでいたが、20世紀初頭にラマナ・マハルシが「私は誰か?」と問うことを教え、ようやく、老子の願いが成就した。
「私は誰か?」と自分に問えば、思考の本体である記憶と欲望は溶け去る。
そうすれば、本当の自分が全知全能の無限の魂(=神)であることが分かる。

『老子』全章は、この同じことを繰り返し語っているだけである。
ただ、実際は、誰もこれ(「私は誰か?」と自分に問うこと)をしていない。
敵の思うつぼってやつである。
今はそうである。
だが、何とか敵に嫌がらせをしたいものだ。
ただし陽気に。敵も意外に陽気だ。
敵とは、あえて繰り返さないし、喩え話と思えば良いが、太古の昔に、地球に超高度テクノロジーで作ったマインドコントロール装置を仕掛けた宇宙人である。








『老子』第73章を一言で言えば「考えると分からない」

今回は『老子』第73章である。
この章を一言で言えば「考えると分からない」である。

私は、学者の説を見たわけではないが、この章は、ほとんど改ざんされていると思っている。
何と言っても、老子は2500年も前の人で、この時間は想像以上に大きなものだ。
だから、『老子』がどれほど改ざんされているとしても、驚くこともない。
ただ、『老子』全体を貫くシンプルな理があり、それは極めて貴重である。
どう貴重であるかというと、決して、道徳的な意味とか、処世術、君子の道、引き寄せのやり方といったレベルではない。
そんなものは些細な問題だ(簡単にまとめて得られる)。
『老子』の価値の1つには、超高度なテクノロジーによって作られたマインドコントロール装置によって、非常に愚鈍な、たとえて言えば虫けらのような状態にされてしまっている我々が、本来の自分である全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出す重要なヒントであることだ。
だが、実際に何をすれば良いのかということについては、『老子』では、それほど明確ではなく、取り除かれてしまっているのかもしれないので、私は、20世紀初頭にラマナ・マハルシが提唱した「私は誰か?」と問うことが、実に的確であると分かり、それを採用している。

遠い惑星
AIアート20
「遠い惑星」
Kay


とはいえ、メソッド(手法)として、老子は、自然に従うことを一貫して述べており、これは、列子や荘子にも継承されている(老子と列子の関係は分からないが)。
そして、この章でも、「本当に重要なことは、頭で考えて分かるものではなく、自然に従うことで分かる」という、全ての章で言っているのと同じことを言っている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最も重要な言葉、「本当に大切なものは目に見えない」も、「本当に大切なものは思考で理解出来ない」と言い換えて良いが、では、どうすれば、その本当に重要なことが分かるのかというと、「自然に従うことによって」である。
しかし、それは特に現代では難しくなっている。
だが、ラマナ・マハルシは、いわば神を利用する方法である「私は誰か?」と自分に問うことで、実は利用した神は自分だったと分かるという、何とも壮大な(ある意味「上手い」)方法を示した。
よって、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを知識として押さえた上で、それを納得するのではなく、思い出すために「私は誰か?」と問うのである。








『老子』第41章を一言で言えば「真に偉大なものは理解されない」

今回は『老子』第41章である。
この章を一言で言えば「真に偉大なものは理解されない」である。

「本当に大切なものは目に見えない」という、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の有名な言葉があるが、これは、いつの時代のどこの国でも、真理を知る者の共通の心構えだ。
この言葉を、言葉としては知っている者は多いが、本当にそうだと分かっている者は、そう多くない。まして、物質主義の世の中では、さらに少ないに違いない。
本当に大切なものが目に見えない・・・つまり、頭で納得出来ないなら、本当に大切なものを備えた人間の価値は人々に理解されない。
普通の人間は、浅はかに決まっている人間の頭脳で分かることしか認めない。
だから、『星の王子さま』風に言えば、友達を大人に紹介する時は「初音ミクさんのファンだ」では駄目で「お父さんが医者だ」と言わないと通じない。
ましてや、考えるとかえって分からなくなる真理・・・本当に大切なものなんて普通の人には分からないし、真に偉大な人間は普通の人には称賛されない。称賛される・・・もてはやされるのは、特殊な例外を除けば’(チャーチルなど)いつの時代も偽物だ。

岡本太郎はもっと徹底した言い方をしている。
「認められなくていい。いや、認められてはならない」
彼は、自身の作品についても、
「売れなくていい。いや、売れてたまるか」
と潔い。
これらが、本物を目指す者の心構えだし、自分が本物である自信である。

本物になるにはどうすれば良いかというと、どうもしなくて良い。
自分の中に本物があるのだから、それを思い出すだけで良い。
そのために、岡本太郎のように、原初体験を強烈に探究するのも手だが、「私は誰か?」と自分に問い続ければ、やがて思い出す。
そうして、出来事を起こるがままに任せておけるようになると、全ての出来事は自分の意思で起こっているのだから、やがて、全てが思い通りになる。それは理屈では理解出来ず、人々に馬鹿にされる本物になるしかない。
本物になれば、人々に認められず、馬鹿にされることも容認出来るし、ある意味、楽しくなるだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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