ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

星の王子さま

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第81章(最終回)「思考を捨ててこそ」

今回は『老子』第81章で、『老子』最終回である。
この章を一言で言えば「思考を捨ててこそ」である。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という有名なことわざがある。
これは、「命を捨てる覚悟があってこそ成功する」という意味で、英語にも「Fortune favours the bold.(幸運の女神は勇者を助ける)」という、似た意味のことわざがある。
この言葉も良いのかもしれないが、老子は全くレベルが違う。
世間のことわざレベルで考えるから、皆、老子を大誤解するのだ。
老子では、捨てるのは「身」ではなく「思考」である。

人間の中には、自殺をする者もいる。これも身を捨てることである。
だが、自我(エゴ)は決して自殺しない。
自我は実際は思考で、思考は記憶と欲望から出来ている。
身を捨てることは容易い・・・と言えば語弊があるかもしれないが、思考(自我)を捨てることは極めて難しい・・・実際は不可能だ。
では、どうすれば良いか?

地上に浮上した秘密施設
AIアート28
「地上に浮上した秘密施設」
Kay


少し方向を変える。
若いうちは皆、自分は天才だと思っている。
しかし、ある程度の歳になれば、そうではないことが分かって来る。
それをいつまでも分からないと、いわゆる「中二病(自分は特別だと妄想すること)」になる。
自分が天才でないと分かれば、「天才であれば、容易く称賛や栄光が得られたものを」と嘆く。
こう言われても、
「そうかもしれないが、私は違う(やはり天才だ)」
と思う期間(中二病である期間)が長いほど悲惨で、下手をすれば狂人にされてしまう。
ところが、称賛や栄光を望む思考(心、自我)が消えてしまえば、本当に天才になる。
というより、元々が、天才すらはるかに超えていたのだ。
天才をはるかに超越した者が、たかが世間の称賛や栄光を望んだりしない。
そして、『星の王子さま』を読めば、子供は皆そうである(天才をはるかに超越している)ことが分かる。
もっとも今は、お受験とかで、幼稚園とか小学校入学時点で「小さな大人」にさせられ、『星の王子さま』で語られるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの子供時代や星の王子さまのように「大人はへんてこりん」とも思わなくなる。

言ってみれば、「思考を捨てればあなたも天才」なのだが、そうはいかない。
さっきも述べた通り、思考(自我)は決して自殺しない。
だから、老子の教えは滅んでいたが、20世紀初頭にラマナ・マハルシが「私は誰か?」と問うことを教え、ようやく、老子の願いが成就した。
「私は誰か?」と自分に問えば、思考の本体である記憶と欲望は溶け去る。
そうすれば、本当の自分が全知全能の無限の魂(=神)であることが分かる。

『老子』全章は、この同じことを繰り返し語っているだけである。
ただ、実際は、誰もこれ(「私は誰か?」と自分に問うこと)をしていない。
敵の思うつぼってやつである。
今はそうである。
だが、何とか敵に嫌がらせをしたいものだ。
ただし陽気に。敵も意外に陽気だ。
敵とは、あえて繰り返さないし、喩え話と思えば良いが、太古の昔に、地球に超高度テクノロジーで作ったマインドコントロール装置を仕掛けた宇宙人である。








『老子』第73章を一言で言えば「考えると分からない」

今回は『老子』第73章である。
この章を一言で言えば「考えると分からない」である。

私は、学者の説を見たわけではないが、この章は、ほとんど改ざんされていると思っている。
何と言っても、老子は2500年も前の人で、この時間は想像以上に大きなものだ。
だから、『老子』がどれほど改ざんされているとしても、驚くこともない。
ただ、『老子』全体を貫くシンプルな理があり、それは極めて貴重である。
どう貴重であるかというと、決して、道徳的な意味とか、処世術、君子の道、引き寄せのやり方といったレベルではない。
そんなものは些細な問題だ(簡単にまとめて得られる)。
『老子』の価値の1つには、超高度なテクノロジーによって作られたマインドコントロール装置によって、非常に愚鈍な、たとえて言えば虫けらのような状態にされてしまっている我々が、本来の自分である全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出す重要なヒントであることだ。
だが、実際に何をすれば良いのかということについては、『老子』では、それほど明確ではなく、取り除かれてしまっているのかもしれないので、私は、20世紀初頭にラマナ・マハルシが提唱した「私は誰か?」と問うことが、実に的確であると分かり、それを採用している。

遠い惑星
AIアート20
「遠い惑星」
Kay


とはいえ、メソッド(手法)として、老子は、自然に従うことを一貫して述べており、これは、列子や荘子にも継承されている(老子と列子の関係は分からないが)。
そして、この章でも、「本当に重要なことは、頭で考えて分かるものではなく、自然に従うことで分かる」という、全ての章で言っているのと同じことを言っている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最も重要な言葉、「本当に大切なものは目に見えない」も、「本当に大切なものは思考で理解出来ない」と言い換えて良いが、では、どうすれば、その本当に重要なことが分かるのかというと、「自然に従うことによって」である。
しかし、それは特に現代では難しくなっている。
だが、ラマナ・マハルシは、いわば神を利用する方法である「私は誰か?」と自分に問うことで、実は利用した神は自分だったと分かるという、何とも壮大な(ある意味「上手い」)方法を示した。
よって、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを知識として押さえた上で、それを納得するのではなく、思い出すために「私は誰か?」と問うのである。








『老子』第41章を一言で言えば「真に偉大なものは理解されない」

今回は『老子』第41章である。
この章を一言で言えば「真に偉大なものは理解されない」である。

「本当に大切なものは目に見えない」という、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の有名な言葉があるが、これは、いつの時代のどこの国でも、真理を知る者の共通の心構えだ。
この言葉を、言葉としては知っている者は多いが、本当にそうだと分かっている者は、そう多くない。まして、物質主義の世の中では、さらに少ないに違いない。
本当に大切なものが目に見えない・・・つまり、頭で納得出来ないなら、本当に大切なものを備えた人間の価値は人々に理解されない。
普通の人間は、浅はかに決まっている人間の頭脳で分かることしか認めない。
だから、『星の王子さま』風に言えば、友達を大人に紹介する時は「初音ミクさんのファンだ」では駄目で「お父さんが医者だ」と言わないと通じない。
ましてや、考えるとかえって分からなくなる真理・・・本当に大切なものなんて普通の人には分からないし、真に偉大な人間は普通の人には称賛されない。称賛される・・・もてはやされるのは、特殊な例外を除けば’(チャーチルなど)いつの時代も偽物だ。

岡本太郎はもっと徹底した言い方をしている。
「認められなくていい。いや、認められてはならない」
彼は、自身の作品についても、
「売れなくていい。いや、売れてたまるか」
と潔い。
これらが、本物を目指す者の心構えだし、自分が本物である自信である。

本物になるにはどうすれば良いかというと、どうもしなくて良い。
自分の中に本物があるのだから、それを思い出すだけで良い。
そのために、岡本太郎のように、原初体験を強烈に探究するのも手だが、「私は誰か?」と自分に問い続ければ、やがて思い出す。
そうして、出来事を起こるがままに任せておけるようになると、全ての出来事は自分の意思で起こっているのだから、やがて、全てが思い通りになる。それは理屈では理解出来ず、人々に馬鹿にされる本物になるしかない。
本物になれば、人々に認められず、馬鹿にされることも容認出来るし、ある意味、楽しくなるだろう。








なろうとするな、なっていると知れ。

私が昔読んだ、ディール・カーネギーの『人を動かす』に、人間の最も強い欲求は「自己重要感」だと書かれていたが、カーネギーはこれを読者に納得させるだけのことをうまく示していたと思う。
自己重要感とは、言葉通りの意味で、自分が重要な人間だと思うことだ。
だが、今は、自己重要感を欲することを「自己承認欲求」と呼ぶのが一般的と思う。
これも、言葉通りで、自分の価値を自分で承認することだが、これを心から感じることを、人間は強く求めているということだ。
学校で良い成績を取ろうとする意欲は、ほとんどが、それによって、自分に価値があると感じることが出来る・・・つまり、自己重要感・自己承認欲求が満たされるからである。

人間は誰でも、自己重要感・自己承認欲求を強く求めるが、それは、最も単純には、「自分は偉いと思いたい」「自分は優秀だと思いたい」という欲求に現れ、それは、他人が自分を偉いと認めてくれることで実感する。
つまり、『星の王子さま』に出てきた、変なおじさんのように、ただ皆が自分を「やんや」と持てはやしてくれたら満足するのである。
それで、多くの人が、「私は東大卒です」「私はPh.D(博士号)を持っています」「私はアメリカの大企業に勤めています」「私は内科医です」「私の年収は2000万円です」と、別に言う(書く)必要もないところで言ったり書いたりする。
これも、『星の王子さま』にあったが、子供が大人に、自分の友達がどんな子かを話す時、「明るい色の髪で」とか「クッキーが好きで」とか「サッカーが好き」と言っても通用せず、「お父さんが弁護士だ」と言ったら、すぐ納得してもらえるというのも、大人は前者のような言い方(サッカー好き等)では、その子の価値が分からないが、後者のように言えば(パパが弁護士等)、その子の価値が分かると「思い込んでいる」からである。
また、家を説明するのでも「壁の煉瓦の色が」とか「庭にゼラニュームの鉢が置いてあって」では駄目で「10万ドルの家」と言わないといけない。
そういったことに関し、『星の王子さま』では、「大人ってへんてこりんだ」と、正しく評価し、読者だって、「本当はそうなんだ」と思っているのである。
そして、我々は『星の王子さま』の、その「へんてこりんな大人達」と同じになってしまっているのだろう。

だが、『星の王子さま』の王子さまは、子供っぽい人間の弱さも示している。王子さまには、自立心、自律心ってものが全くない。
せっかく、当たり前の価値観を持っていながら、力がない。
つまり、優しいけど何にも出来ない愚か者だ。
その王子さまの進化形が『かもめのジョナサン』のジョナサンだ。
ジョナサンは、当たり前の価値観と共に、自立精神を持っていた。
面白いことに、『星の王子さま』は、王子さまが死んで物語が終わるが、『かもめのジョナサン』では、ジョナサンが死んでからジョナサンはやっと本物になり、本当に生きる。
我々は、今すぐ、死んで生まれ変わったジョナサンにならないといけない。
ただ、『かもめのジョナサン』の作者のリチャード・バックが、ヒッピー思想に留まってしまっていたのだろう。
いまひとつ、生まれ変わった後のジョナサンにリアリティがない。
つまり、バックは、ジョナサンになりたいと思っていただけで、なれなかったのだ。
これに関しては、私はあまり詳しくないが『マトリックス』で、ネオがモーフィアスに教えられたように、
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
である。
つまり、
「ジョナサンになろうとするな、ジョナサンであると知れ」
である。
日常的なことに言い換えれば、
「金持ちになろうとするな。金持ちであると知れ」
「イケメンになろうとするな。イケメンであると知れ」
「脚を長くしようと思うな。脚が長いと知れ」
「あの子を彼女にしようと思うな。あの子が彼女であると知れ」
である。
とりあえず、そう思い込めば良いのだが、そのためには、いろんな方法があり、人によって、多少、合う合わないがある。
ここで、そのいろんなやり方を書いているので、それぞれで多少の矛盾を感じるかもしれない。
その中で、自分に合ったものを根気強くやれば良いだけだが、実をいうと、向き不向きも、それほどはなく、どれでも良いのである。








選択を間違えない秘密の方法

熟考した末の結論なんて、大抵、ロクでもないものだ。
最近の、KDDIの携帯電話の通信障害に対する補償(全ユーザーに200円)もそうなのだろうが、会議を重ねた結果は常に最低なものになる。
トヨタなんて、難しい問題に対し、瞬時に最良の答を出すことがあるが、それは社長の決断に違いない。
ユダヤでは、大昔から、全員賛成なら即否決で、重要な問題の答を多数決で決めることも、あまりない。
賢い人は、AかBか真剣に考え、「よし、Aだ」と結論が出たらBを取るのだ。

1人の人間でも、散々悩んだ末に出す結論は、あまりに馬鹿げたものであることが圧倒的に多い。
論理的思考の結果、正解になるのは、せいぜいがペーパー試験だ。特に受験のね。あれに上達するのは馬鹿になる訓練と思うことがある。

なぜ、そんなことが言えるのかというと、人間に分かることなんて、ほんのわずかなことだからだ。
可視光線1つとっても、人間が感じる光は、全ての光のほんの一部だ。
また、人類が認識出来るのは、素粒子やそれらから出来たものだが、それは、宇宙全体の4.9%で、後は、実体として認識出来ないダークマター(暗黒物質)やダークエネルギーであるらしい。
しかも、ほとんどの人間にとっては、見えないものの大部分は、もう本当に、全くの謎なのだ。
『星の王子さま』の有名な言葉、「本当に大切なものは目に見えない」というのは、愛だとかの問題もあるが、単なる科学的事実なのだ。

これらから考えると、ギャンブルに勝つ方法も存在することが分かる。
まあ、あらゆるギャンブルについてどうやればいいかなど、私は知らないが、例えば、こんなことがある。
2人の人間が、ギャンブルで勝負をするとする。
どうやれば勝てるだろう?
それはこうだ。
相手に、身の破滅につながるほどの額を賭けさせるのである。
そして、カードにしろ、ルーレットにしろ、相手に選ばせる。
それだけで確実に勝てる。
だって、そんな賭けで、考えずに選べるのは、悟りを開いた聖者くらいのもので、そうでもなければ、誰でも散々考えた末、間違った方を選ぶのだ。
納得いかない?
だが、これは、ある大物ギャンブラーが常に使う手である。もっとも、彼は、滅多にそんな勝負はしないらしいが、とにかく、この勝つ方法を知っているのだ。

あなたの知り合いにもいるのではないだろうか?
いや、知り合いの全員がそうかもしれない。
散々悩んだ末、呆れかえるほど、阿呆な結論を出す人が。
重要な決断は、考えてはいけない。
かといって、好みで決めてもいけない。
巡音ルカさんの有名な曲『Just Be Friends』のように、「最も辛い選択がベスト」という場合もあるが、それが本当にベストなら、考えなくても、それしかないと分かるものだ。

良い決断をするヒントはこうだ。
普段から、「ありがたいなあ」という言葉を口癖のように繰り返していると、選択に迫られた時、ありがたい結果になるような閃きが起こるから、それに従えば良い。
ただ、その閃きは、考えれば考えるほど、損だと思える場合がほとんどであるから、考えたら、もう間違うのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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