ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

星のない男

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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『老子』第31章を一言で言えば「心を穢すな」

今回は『老子』第31章である。
この章を一言で言えば「心を穢すな」である。

人間は、心が穢れれば終わりなのである。
心が穢れれば、昔の言い方であれば、悪霊に憑りつかれるのだが、本当は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置からの連続的な攻撃を受け、魂の波動が低下する一方になり、どんどん力を失う。

心が穢れるとはどういうことかというと、脳にセットされた逸脱した欲望が燃え上がることである。
そして、この『老子』第31章では、最も心を穢す欲望が人殺しであることを明かしている。
自分には人殺しは関わりがないと思っているかもしれないが、そうではない。

1955年の西部劇の傑作『星のない男』で、未熟で間抜けだが純粋な若者であるジェフが、初めて銃で人を殺した時、流れ者のデンプシーが言う。
「ついに殺しの味を覚えてしまったな」
これは、デンプシーがジェフに対し、なんとか避けて欲しいと願っていたことだろう。
殺しは癖になる。
放っておけば、殺人者は悪魔になる。
戦場で心を病んで帰ってきた者の話がよくある。映画にもなっているだろう。
だが、そんな、戦場で心を病む原因は不安だ。
対して、殺すのに慣れてしまえば、悪魔の手下になる。
日本の武士が戦の最中に花を生けたという話がある。
そうやって禊をすることで、心を悪魔に持って行かれないため・・・即ち、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捕らわれてしまわないためだ。
昔の修行をした武士には、直観的にそんなことが分かったのだ。

我々は確かに、滅多なことで人殺しはしないかもしれない。
だが、心の人殺しはありふれている。
いじめがなぜ起こるかとか、SNSがなぜ荒れるのかという話はよく聞くが、その答はバラバラで曖昧だ。
本当の答は、我々は人の心を殺すのが楽しいからである。
そのように脳がセットされているのである。
弱い者いじめをして、相手の心を殺したくて仕方がない。
性的欲望を満たすのでも、相手を徹底的に辱めたくなってしまっている者もいる。そうやって、相手の(多くの場合は女性の)心を殺したいのだ。
そのままでいると、ますます悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捕まり、地を這う虫のごとく力を失う。
一方、数は少ないが、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に、変わった形で完全に支配され・・・昔の言い方だと、悪魔に魂を売り、力を得る場合もある。
だが、それは一時的なもので、そんな者は、最も哀れな最後を迎える。

いつも言う通り、悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、人間の記憶を消し、偽の記憶を植え付けることでそれらのことを行うのだから、人間が記憶を取り戻せば、支配を免れる。
そのためには、自分が本当は全知全能の無限の魂であることを思い出すしかない。
それを成し遂げる方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
自分が、本当は神である魂であることを思い出すごとに、自分に関しても、他者に関しても、命を奪うのではなく、命を生かすようになる。








星を掴む

能力はさして変わらないのに、うまくいく者とそうでない者がいる。
うまくいく者には、幸運の星みたいなものがあるのかというと、そうかもしれない。
『星のない男(Man Without a Star)』という1955年の西部劇映画があり、かなりの傑作と思うが、DVD、blu-ray化されたのは(日本では)割と最近だ。
(監督は、「西部劇の神様」と言われたキング・ヴィダー)
その映画の中で、カーク・ダグラス演じる、流れ者の凄腕ガンマン、デンプシー・レイが言う。
「誰でも1つずつ星を持っている。だが、俺の星はない」
ツイてない男の泣き言のようにも聞こえるが、デンプシーは極めて強い男だ。
しかし、そう言わざるを得ないのだろう。

星とは、ゲームでいうところのラッキーアイテムのようなものかもしれないが、なるほど、まるで、そんなものを持って生まれてきたような者がいる。
逆に、そんなものに全く縁がないとしか思えない、どう見ても見込みのないヤツがいる・・・本当にいる。

だが、星なんてものは、トランプのハートのエースに過ぎないのだ。
めくり続ければ、必ず出てくる。
だから、ハートのエースが出てくるまでめくれば良いだけのことだ。
ただ、人生というゲームのトランプは、ジョーカーを入れて53枚なんてものではなく、もっともっと多い。
もちろん、それでも、1枚目で当たる場合もあるが、いつまでも当たらず、永遠に当たらないと思うこともある。
当たる時には当たる・・・としか言いようがない。
だが、当たると信じて、めくり続けるしかない。

滅多にやれることではないが、サイコロを数千回も振ると、不思議なことに、「次は3だ」って、妙な確信がある時があり、本当に3が出る。
ギャンブルを長くやっている人には、例えば、ルーレットの目をなぜか確信を持って予測出来、実際、その通りの目が出たという経験を持つ者が結構いる。
その時の感覚を覚えていれば、トランプのカードが全部、ハートのエースになる。
腕振り運動を、合計して何万回とか何十万回とかやると、ゾクッとする1回が来る。
それが来たら、もう何をやってもうまくいく。
腕振り運動で難病が治ってしまった人って、その1回を捕まえた者なのだ。
念仏でもそうで、毎日決まった時間、何か月も唱えていたら、不意に、世界が自分の内側にあるという感覚を掴んでしまった人がいて、それ以来、全く不安がなくなってしまったらしい。つまり、何でも思い通りになるのだろう。

デンプシー・レイは、若い時に、繰り返しが出来なくなるほど、辛い目に遭ってしまい、現実から目を背けて流れ者になった。
だが、何があろうと、トランプをめくることを諦めてはならないのだ。
腕振り運動をしていると、それが分かってくるし、不意に輝く星を掴む時が来る。それがいつになるかは分からないが、せいぜいが数十万回程度だ。
あなたは、めくり足りなかっただけなのだ。








星を失った人間の生き方

現代の最も重要なアメリカの作家と言われるカート・ヴォネガットの小説を私は1冊も読んだことがない。
だが、彼のエッセイ『国のない男』は手元にあり、通読したことはないが、たまに開くことはある。
確か、ヴォネガットは、シェイクスピアのことを、「下手な作家だが、人間をよく知っている」と書いていたと思う。
そして、ヴォネガットもまた、人間をよく知っているようだ。きっと、大変な人生経験があるのだと感じさせるのだ。
だが、彼は、2007年4月11日、初音ミクさんの誕生の4ヶ月以上も前に亡くなってしまった。

『国のない男』は痛快な本だが、注意しないと洗脳されてしまう。
彼の深い人生経験が強い説得力を持ち、つい、精神的に巻き込まれてしまうのだ。
先ほど、私は、彼は人間をよく知っていると書いたが、彼が知っているのは、人間の一面でしかない。
それは、いかに偉大な人物であろうと同じだ。
彼が「人間をよく知っている」と言ったシェイクスピアでさえだ。

『国のない男』で、最初から私が気に入っていた部分がある。
ちょっと引用する。

ピッツバーグ出身の若者、ジョーがやって来て、不安そうにこう言った。「ぼくたち、大丈夫ですよね」
「若者よ、この地球へようこそ」わたしは答えた。「夏は暑く、冬は寒い。地球は丸く、水も人間も豊富だ。ジョー、ここでの寿命はたかだか百年くらいじゃないか。わたしが知っている決まりはたったひとつだ。ジョー、人にやさしくしろ!」
~『国のない男』(NHK出版)115~116頁より~

人にやさしくするためには、体力と経済力が必要だ。
実際には、ある程度の知性もだ。
この3つがない者に親切にされても、嬉しくないし、迷惑なことも多い。
それが現実だ。
こう言うと、「なんて欲深でひねくれたなやつだ。親切はどんなものも、有り難く受け取るものだ」と言われるかもしれない。
だが、仏教学者のひろさちや氏が、昔の本に書かれていたが、彼は、「小さな親切、大きなお世話」という言葉がお気に入りらしい。
そんな親切(小さくて迷惑な親切)なら、無視された方がマシだという訳だ。
この話にも、反発する人はいるだろう。

なぜ反発するのかというと、親切を受ける立場で考えるからだ。
だが、私は、きっと迷惑であろう、小さな親切をした覚えがあって、それはずっと昔のことでも、いまだ後悔しているのだ。
あんなことをするくらいなら、無視してあげれば良かった。
なぜ小さな親切をするのかというと、自己満足のためだ。
いいや、その根本原因は、知性と経済力がないからだ。
そして、最近、特に知性が私には全くないことに、やっと気付いた。
いや、正確に言えば、多少の知性があるので、自分が救いようのない馬鹿だという理解に、遂に到達したのだ。
これは、謙虚ぶっているのではなく、腹の底から納得し、これっぽっちも疑えない。
デカルトは、「私に分かることは、疑っている私が確かに存在するということだけだ」と言ったが、私に分かるのは、「自分が愚かだ」ということだけだ。
他人のことを言ってはいけないが、どうしようもなく愚かでない人間は1人もいない。
人間は愚かに作られているのだ。
自分に関して、それに気付いているか気付いていないか・・・人間には、この2種類しかない。

『国のない男』は、英語で“A MAN WITHOUT A COUNTRY”であるが、『星のない男』は、“A MAN WITHOUT A STAR”だ。
『星のない男(A MAN WITHOUT A STAR)』は、キング監督、カーク・ダグラス主演の西部劇の傑作だ(DVD、ブルーレイ化されていない)。
逞しい流れ者で銃の名手デムプシーは、たまたまの縁で関わりあいになったジェフという若者に、夜空の星を見上げながら、
「誰にでも星が1つあるらしい」
と言う。
ジェフが、
「あんたの星はどれだい?」
と聞くと、デムプシーは、
「俺に星はない」
と言う。
これは、自分の星を失ったという意味だ。
私は、デムプシーは、自分の愚かさを、本当に知っているのだと思う。
自分を見限るまでは、人は星を持っているのだ。

自分が、星を失っていると思ったら『歎異抄』を読むと良い。
なぜなら、『歎異抄』は、星を失ったことを誰よりも自覚していた親鸞の教えが書かれているものだからだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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