ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

明晰夢

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

明晰夢で遊ぶ

明晰夢(夢を見ているという自覚がある夢)で、非常に面白い体験をした。
夢の中で私は、「これは夢だ」とはっきり分かり、心の中で何度も「これは夢だ」と言ってみた。
ところで、その夢を見ている自分と、目覚めている時の自分が同じ人物であるかは疑問だった。
夢の中の自分のことを、そこまで憶えていたことは、これまではなかったと思う。
「これは夢の世界なのだ。目覚めている時の世界とは違う世界なのだ」と自分に言い聞かせてもいた。

その夢の中の世界でいた場所は、自宅兼職場だった。そんなことは確認するまでもなかった。夢とはそういうものだ。
ところが、黒い机の左側に白い机が並べて置かれていることに感激した。
目覚めている世界でも、ごく最近、全く同じようにしたからだ。
私は、思わず笑みがこぼれた。
目覚めている時の世界が、夢の世界にここまで反映されることが興味深かった。
しかし、もっと興味深く感じたのは、その夢から目覚めた時だ。目覚めの世界では、そんな机はなかったからだ。
目覚めの世界の記憶を、夢の中で捏造していたのだ。
なるほど、デカルトが言うように、全てを疑うべきで、それは、目覚めている時でもそうしなければならないのだろう。
つまり、目覚めている時の記憶も全部捏造である可能性が高い。
初音ミクの記憶なんて、きっと、今この瞬間作られたのだ(笑)。

さて、そこが夢であると分かれば、目覚めの世界と比べ、どれだけ自由度が高いかに興味が湧いてきた。
目覚めている時、可愛い女の子がいても、いきなり抱きしめないのは、法的に問題があるからではなく、道徳的に駄目だからだ。
そして、それは夢の中でも同じである。私の場合はね。夢の中でも、道徳や倫理といった制約はある。ただ、それは、目覚めている時と全く同じというわけではない。目覚めの世界ではモラルに反することでも、夢の中ではやってしまうこともある。ただ、大抵の場合は、そんなことをする時は、あまり良い気分ではないものだ。

そこで、その夢の中で、空中浮揚が出来るか試してみることにした。
以前の夢の中では、サイコキネシス(念動力)を試してみたことがあった。
空中に浮き上がるよう念じたが、初めはうまくいかなかった。
やっているうちに、見えない腕に抱きかかえられる感覚を感じるようになった。嫌な感じではなかった。
そして、その腕に抱えられて浮くような感じがしたが、まだ浮かなかった。
それでも続けていたら、その腕に抱えられて少し宙に浮いた。
さらに続けると、私を抱きかかえる腕の感覚がなくなり、割と楽に浮かぶことが出来るようになり、やや高い天井にまで到達した。
そうなると、人に見せたくなる。
すると、それまで誰もいなかったのに、誰だか分からないが人が1人現れたので、空中浮揚を披露した。うまくいったのだが、その人は少し喜んでくれたように思うが、それほどの反応はなかった。だが、それはどうでも良かった。
以前、サイコキネシスを試してみた時も、同じような感じで、しばらくやっているうちに、かなりうまく出来るようになった。
目覚めても出来るだろうかと思ったが、目覚めると、それをやることに全く意欲的でなかった。目覚めた世界では面倒なスキルだからだろうか?

夢の世界の良いところは、時間の概念がないことだ。
昨日と今日と明日に区別はないし、昔と今と未来の区別もない。
中学生の時のことを想うと、中学生の時の世界になる。
すると良い気分を感じるが、それは、懐かしいというのではなく、楽しいといった感じだ。
中学生の時は、世界はそれほど楽しくない、むしろ、嫌なことが多いと思っていたが、楽しいことも沢山あったのだと分かる。
『サウンド・オブ・ミュージック』という映画に、『Something Good(何かいいこと)』という歌があり、その中で「惨めだった子供時代や青春時代にも、真実の瞬間があった」と歌うが、それは本当だと思う。

目覚めの世界では、時間の感覚が強い。
バシャールが、「夢の世界の方が目覚めの世界より、むしろリアル」と言い、江戸川乱歩もそう言っていたが、時間というものは実際には存在しないのだから、本当に夢の方が現実なのかもしれない。
岡潔が「時間は情緒です」と、ほぼ断言していたが、まさに、アインシュタインが言っていたように、
「美女といる1時間は短いが、暑いストーブの上に座っている10分は長い」
のである。
ただ、もっとマシな例えが浮かばなかったのかと言いたいが(笑)。

夢の世界も目覚めの世界も、魂が心の内容を投影したものである。
思考を消してしまえば魂しかない。
魂だけの状態が一番良いのだが、魂は何でもすぐに作ることが出来るので、あまり考えないでいると、シンプルに楽しいものが作られる。
長く静かな呼吸をすることで思考を消していると楽しいことになる原理はそんなところである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)バシャール(BASHAR)・ペーパーバック1
(2)江戸川乱歩傑作選(新潮文庫)
(3)投影された宇宙(マイケル・タルボット)
(4)サウンド・オブ・ミュージック <1枚組> [Blu-ray]

エンジェルのプロフィール
AIアート1614
「エンジェルのプロフィール」
Kay

この世は心配しない者勝ち

「明晰夢」という言葉には問題があると思う。
「明晰夢」とは、夢だと自覚しながら見る夢のことであるが、私の場合で言えば、夢であると「明晰(明らかにはっきり)」に分かるほどではなく、「夢かもしれないな」「夢っぽいな」程度の自覚である。
私の最近の明晰夢は、「夢のようだな」という感覚から始まり、ほとんど初めて「これは夢だ」ときっちり判定したが、それでも、明晰と言うほどには絶対的な確信はなかった。
言ってみれば、恋人の愛を9割以上確信しているというのではなく、7割程度は信じているといった、割と不安もあるような感じだ。

さて、その明晰夢(と一応呼ぶ)の中で、私は「入ってはいけない場所」に入っていった。
なぜ「入ってはいけない場所」かというと、別に、誰かに「入るな」と言われたわけでも、「立ち入り禁止」の札があるわけでもなかったが、「なぜか入ってはいけない場所だと分かってしまう」からだった。
それでまあ、多少は緊張していた。
そして、2人の男が近寄って来るのを感じ、「身を隠さねば」と思った。
発見されたら、捕まえられるかもしれないし、捕まえられたらどうなるか分からない。
それで私は、一時的に不安になったが、一気に緊迫感をなくした。
「どうせ夢じゃん」と思ったかどうか憶えていないが、それよりも、映画や劇の役を演じている俳優の気分だったと思う。
どんな展開になるのか分からないし、展開をコントロール出来るかどうかも分からないが、とにかく心配する気にならなかった。
どうせ映画の撮影、あるいは、劇のようなものなのだからだ。

昔、UFOに追われる夢を見た時は、捕まった時のことを考え、恐怖を感じたが、今はそんなことは全くない。
そして、目が覚めていると思っている時こそ、本当の明晰夢なのだと思う。
だから、何が起きても心配してはならない。
そりゃ、論理的に考えれば、心配するという感情があるからこそ、人類は危険に備え、生き延びてきたように思うが、ひょっとしたら、心配しなかった者が生き延びたのではないかと思う。
この現実という明晰夢の中では、心配したことが起こるのだ。
ただし、普通は、心配したことは直ぐには起こらず、起こりそうな雰囲気をどんどん強くしていって不安を増大し、結果、起ころうが起こるまいが、我々は貴重な生命エネルギーを漏洩(漏らすこと)し、老化するのだ。

言い換えれば、この世は「心配しない者勝ち」「心配する者負け」なのである。
もちろん、心配しないためには思考を消せば良い。
その最上の方法は、当然、いつも言う通り、今今メソッドである。
志賀一雅博士の「よかった、ありがとう呼吸」も良いのだが、私は個人的にずっと、「ありがとう」が良くないと感じていた。
志賀博士は、赤ん坊に微笑みかけた時の赤ん坊の反応にたとえ、微笑みかけられた赤ん坊は喜ぶ、つまり、言葉で言えば「よかった」と言えるような状態になり、続いて、赤ん坊も笑うが、志賀博士は、この赤ん坊の喜びの表現が「ありがとう」であると言う。しかし、それはないと思う。
赤ん坊の喜びの表現は、単に、嬉しい、楽しい、愉快ということを示しており、「ありがとう」などではない。
ただし、「よかった」という表現は抜群で、これは、さすが志賀博士と思う。
で、私の場合は、研究の結果、「よかった、いい気分だ」になった。
息を吸いながら「よかった」と思い、吐きながら「いい気分だ」と思うのである。
「いい気分だ」は「安心だ」「穏やかだ」「平安だ」「のどかだ」「優雅だ」「嬉しい」「楽しい」「幸せだ」などでも良く、好きなものを選べば良いが、「想定の法則」を適用するなら、やはり「いい気分だ」が良いと思う。
とはいえ、やはり、自分が良いと思うもので良いし、どんどん変えていっても構わない。私も実はよく変えて行っている。

軽やか
AIアート874
「軽やか」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)
(2)魂の対外旅行(ロバート.A.モンロー)
(3)さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(エックハルト・トール)

明晰夢で知った「パワー」の使い方

眠っている時の夢の中で、「これが夢だ」と気付いている夢を明晰夢と言うのだが、夢に気付いている度合いというのもあるのだと思う。
私は最近、「これは夢である」という完全な自覚があった明晰夢を見た。
私は、「これは興味深い。是非実験をせねば」と思った。
私は、極めて質素な木造りの部屋の中にいて、床も壁も天井も濃い茶色の木材で、それらは艶があり、塗料が塗られているのかなと思った。
窓はガラスではなく、雨戸のような木の板で閉じられていた。
それを開くと何を見ることが出来るのかとワクワクした。
それで、早速、その窓の板をスライドさせて開けたが、それは、簡易的に描かれた油絵のようで、やや濃淡はありながら、ただ水色に塗られた空と、その下に、とても曖昧に描かれた町があった。
だが、見ていると、空は現実的な空の様子に近付き、町も具体的な町になっていく。
私は、「夢の中では左脳は働いていないので、論理的思考は出来ないと思うが、今もそうなのだろうか?」と思った。
しかし、そう考えている時点で、ある程度は論理的に考えているのだと思った。
そうこうしているうちに、空も遠くの風景も完成し、すぐ近くは茶色の地面が広がっていた。
私がそれらの創造主なのかもしれないが、あまりそんな感じはしない。
では、目の前の地面でサイコキネシス(念動力)の実験をしようと思ったが、土ばかりで動かせるものがない。
では土でも動かせば良さそうなものだが、それでは面白くないと言うよりも、やはり絵に描かれたような地面なので、動かせそうな感じがしなかった。
私は、「石ころよあれ」と思ったわけではないが、ちょっと「石があったらいいな」と思ったら、大きさは不明だが、あまり大きくない黒い石がいくつか現れた。
やはり、どうも私は創造者っぽくない。
だが、「あったらいいな」と思ったら現れたのは悪くない。
では、早速、石ころをサイコキネシスで動かそうとしたが、さっぱり動かない(笑)。
Tell Me Why?(なぜなんだー)である。
やはり、全く動きのない絵を動かすのは難しいのだろう。
多少は動きがあった方が良い・・・と思ったのかもしれないが、地面の上で十人ほどの人間(若い男達)が現れ、ホッケーのようなことを始めたが、無秩序な動きで、棒でボールの代わりに石ころを叩いていたが、その石ころがボールに変わった。
私は不意に思いついて、そのボールを指差し、指をいろいろな方向に動かすと、ボールがその方向に動き、ホッケー選手(?)が慌てているようだった。
アニメでも映画でも、超常現象を起こす時は、圧倒的に指差しをする場合が多いが、なるほど、それが人間の本能のようなものなのだろうと思った。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼のヨハネ』の絵だって、ヨハネは天を指差しているし、他にも、突出した人物が指差しをしている名画は沢山ある。
禅語の中にも、倶胝(ぐてい)という僧は、何を聞かれても指を1本立てるだけだというし、彼は往生の際は、「私は師の天竜から教わった一本指の禅を一生で使い切れなかった」と言ったことになっている。
アニメ『灼眼のシャナ』で、「祭礼の蛇」坂井悠二は、異世界ザナドゥとの扉を開ける際、天空を指差した。
やはり、人間は、意識を向ける際、指を差す方がやり易いのだろう。
武道では、人差し指は「師匠預けの指」と言われて、使ってはならないことになっている。
この「師匠」とは、私の解釈では、魂、真の自己、真我だ。
人差し指は、物質世界と高次元世界をつなぐ鍵で、意思を向けるものである。
よって、皆さんも、超能力とか引き寄せの力を使う際、人差し指を伸ばし、それに意思を向ければ思うようになるだろう。

夢の乙女
AIアート817
「夢の乙女」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)現代語訳 無門関 禅問答四十八章 (角川ソフィア文庫)
(2)左脳さん、右脳さん。(ネドじゅん)
(3)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(4)数霊のメッセージ(佐々木将人)
(5)夢 [DVD](黒澤明監督作品)

地獄の時代に必要なスキル

人生が劇だとしても、ほとんどの人がそれに気付かないのは、眠っていて夢を見ている時に、それが夢だと気付かないようなものだ。
確かに、夢の中で、それが夢だと気付いた経験がある人はいるだろう。
だが、なぜ気付いたかというと、別に、現実との矛盾や齟齬(そご。くいちがい)を感じたからではないはずだ。
なぜか知らないが、分かってしまったのだ。
だから、夢の中で、それが夢だと気付く方法はない。
しかし、あると言われ、しかも、私はその方法を夢の中でも憶えていて、本当にやったことがある。
どうやるのかというと、指を引っ張るのだ。
夢の中では、引っ張った指が伸びるというが、本当に伸びてしまい、それが夢だと分かってしまった。
とはいえ、それは、「夢を見ていると気付く方法を試した夢」のようなもので、どうも臨場感がない。
やはり、なぜか分からないが夢と気付く時の方が楽しく、「夢から覚める前にいろいろ無茶をやってみよう」という気にもなる。
とはいえ、では夢だと分かったからといって、高いビルの屋上から飛び降りることが出来るかというと、それは出来ないのだ。

ところで、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジといった聖者が、夢と現実に違いはないと言い、バシャールや江戸川乱歩は、夢の方が現実より価値があると言う。
それはよくは分からないが、夢の方が精神的に高位であることは分かる気がする。これは、一般の理解とは逆だが、言ってみれば、精神的な意味では、夢の価値がゼロなら現実はマイナスなのだ。
そして、現実の価値を上げても、ゼロ以上にならない。つまり、夢以上にはならない。
それが何だと言いたいかもしれないが、それは、現実を夢と見なせば、現実が夢と同じゼロになり、本当に現実が夢になってしまうということだ。
ただ、インドの聖者たちは、どうすれば、現実を夢と見なせるようになれるかは、言ったのかもしれないが、表現が曖昧だったり抽象的だったりで、翻訳が出来なかったのではと思うのだ。
だが、ムンクがそうだったが、芸術家・・・特に、LSDなどのドラッグを使っていた人達は、案外に気付いて、いろんなところで明かしている。
それが薄目をすることで、確かに、薄目で見れば、現実が夢っぽくなるのはすぐ分かると思う。
そして、薄目のまま深呼吸すれば、精神が夢モードになる。
ただ、薄目で深呼吸すると、目を閉じたり、逆に開いたりすることが多いので、そこは気をつけた方が良い。
インドの仏像や菩薩像が皆、半眼なのは、そんなことと関係あり、中国の仙道の導師も、薄目をしているイメージが強い。
薄目をして深呼吸をしていると、願わなくても引き寄せを行ってしまう。
まあ、多少の慣れは必要かもしれないが、どうしてそうなるのかというと、薄目で深呼吸をしていると、それが至高体験に似ているからではないかと思う。
宮本武蔵は、半眼もだが、視野の周辺で見ることも奨めている。
もしかしたら、武蔵は、大勢の敵と戦う時、横から攻撃を喰らわないように注意すべきことを教えるため、そう言ったのかもしれないが、死角からの攻撃というのは、見て判断することは出来ないもので、勘を働かせないといけない。
そして、周辺視野を使うと、なぜか分からないが勘が冴えるのである。
勘が冴えるということは、一種の超能力状態で、それが引き寄せ状態でもある。

跪く少女
AIアート734
「跪く少女」
Kay


人前で、あまり薄目をしていると印象が悪いので、そんな時は周辺視野を使うと良い。
そして、周辺視野を使うことに慣れると、ますます人間離れしてくる。
これからの地獄の時代には必要なスキルである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)【電子限定カラー版】死後を生きる生き方(横尾忠則)
(2)見えるものと観えないもの(横尾忠則)
(3)宮本武蔵「五輪書」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
(4)ムンク大全(エドヴァルド・ムンク)
(5)至高体験(コリン・ウィルソン)
(6)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(7)フランケンシュタインの城(コリン・ウィルソン)

幽体離脱して羅生門に行った

面白い白日夢を見た。
似たようなものを見たことがあったり、よく分る感じがある人は、かなりの霊感力があると思う。

家に居たのだが、眠りに落ちた瞬間、外に飛び出した。
よって、これは、白日夢であると言うより、幽体離脱かもしれない。
家の外の風景は、現実と似ているが、かなり違いがあることも認識出来た。
ということは、やはり、私が作り上げた世界なのだろうか?
とりあえず、西の方に、いつもの道が開いているので、そっちに行ってみることにした。
意図しただけで、身体(幽体?)が高速移動する。
それで、あっという間に遠いところに来てしまったが、そこに、高く広い範囲に渡って建つ、黒っぽい板の壁があった。
トランプ大統領が、メキシコ国境に建設した「メキシコ国境の壁」を思わせたが、広く空いている部分がある。それはまるで羅生門(羅城門)のようだった。
別に、恐ろしい雰囲気はなく、門の外は広いさら地がずっと続いていて、青い空と明るい陽射しの中、とても懐かしい感じがする。
向こうの方(100mほどだろうか)に3人ほど、人影が見える。
私はその人達に親しみを感じ、手を振ろうとしたが、腕が上がらない。これは面白い。何が腕の動きを制約しているのだろう?
ふと、門の近くの壁を見ると、鏡がついている。さっそく自分を見た。
それほど大きな鏡ではなく、胸から上だけ写っていたが、なぜか眼鏡をかけている。仕事中か運転中以外はかけないのだが。
ふむ、相変わらず美しい男だが、どうも気難しい、苦しい表情だ。
この門はきっと、本当の羅生門で、死なない限り、向こうにはいけないし、向こうとの交流も難しいのだろう。それで、向こうに向かって手も振れないのだ。

戻った方が良いような気がして、来た道を戻って行った。
随分、見慣れない、西部開拓時代のアメリカのような風景だ。
人も多い。なるほど、馬も馬車もいる。
私は、その間を走って通り抜けた。今度は、ちゃんと走っているという感覚があったが(さっきは低空を飛んでいるようだった)、やはり、滑るように速く走れる。
そろそろ私の家かと思うと、それらしいものがあったが、なぜかそれではないと思い、走り過ぎた。
すると、また、自分の家らしいものがある。本当の私の家とは似ても似つかないが、なぜか、自分の家のようだと思うのだ。
そんなことを何度か繰り返したが、次に見えた家を、自分の家だと決めた。そうだ、決めれば良かっただけだ。
すると、「なんだ、やっぱり自分の家だ」と思う。
どう見ても、初めて見る家なのにね(笑)。
家の外から、階段で2階に上がれる(本当の私の家は、そんな洒落た家ではない)。
そうだ、私の家はこうなっている・・・初めて見る家なんだろうが、どうやら捏造(作り物の偽物)の記憶があって、ずっとそこに住んでいるように思っているのだ。
そして、2階に私の部屋がある。
いつも、そこで過ごし、いろんなことがあった部屋だ・・・と思い込んでいるが、もちろん、それも偽の記憶だ。
私はドアを開けて中に入った。
その瞬間、目が覚めた。
話は簡単で、あの羅生門が、生と死を分ける門だ。あやうく死にかけたが、生かす方の力が強く働いたようだ。
そして、最後に飛び込んだ部屋が、私の個人的意識だ。
普段の私は、その狭い意識の中に囚われているのだが、もう出方が分かった。
ただ、遠くに行き過ぎると、あの羅生門がある。
それを越えて向こうに行けるのかどうかは分からないが、少なくとも見ることは出来る。

個人的意識から出るには、単に、思考を止めれば良い。
その簡単な方法が今に意識を向けることで、それにはただ、「今、今、今、・・・」と心で唱えるだけで良い。
慣れると、すぐに思考を消せるようになる。
個人的意識から出たら自由自在だ。
このことが、法華経の中にも、よく書かれていることに気付く。つまり、ごく短時間の間に、いろんな仏の世界に行き、仏達に挨拶出来るのだ。
すると、あの羅生門の外にも行けるのだろう。まだ、簡単には出られないようだが、そのうち、何とかなるだろう。
そんなわけで、思考を止めることがいかに大事かが分かる。

ところで・・・
小学校の頃だと思うが、皆さんも、クラスの1人くらいは、人間ではない子がいたはずなのだ。
私にも、そんな子がいた。
最初の子は、小学1年生の時の女の子で、彼女のことは何度か書いたことがある。
次が、5年生の時の、やはり女の子で、大変な美少女だった。1年の時の子も可愛かったと思うが、私はあまり憶えていない。ただ、上級生が彼女のことを大変に可愛いと言っていたので、やはり可愛かったのだろう。
で、5年生の時の方の子には、「君、人間じゃないだろ?」と尋ねてみたが、彼女は黙って横を向いて何も言わなかった。
まあ、「沈黙を持って」である。つまり、その通りだというわけだ。
『Another』に出て来る見崎鳴(中学3年生)にそっくりだった。多分、同一人物だろう(笑).。
憶えがなくても、そんな子がいたと決めつけ、イメージの中で何か尋ねてみると良い。おそらく、良いことを教えてくれるから。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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