身近な人達をよく観察し、よくよく考えると、人の運命はただ、至高者(神)になるために努力をしているかどうかで決まっていることが明らかに思える。
努力家で有能なのだが、時々、足元を崩されかねない問題が起こったり、また、ある意味では極めて優れた人間で、沢山の人達の役に立っているのだが、やはり深刻な問題を抱えてしまう人というのは、肝心な、至高の存在になるための努力をしていない(あるいは少な過ぎる)者であることが分かる。
一方、うだつが上がらず、蔑まれるようなことが多かった者が、ある時から、謙虚に人に学び、常に変わらず誰にでも優しく接し、悪い事があっても前向きな姿勢を崩さなくなったのだが、その人は、基本的には、あらゆることが順調で、本人も幸福なようなのだ。
きっと、その人は、本人の自覚がどのようなものであるのかは分からないが、神のようなものを目指す心構えを持ったのだと思う。
私は、初めて勤めた職場にいた、とても男らしいタイプの先輩が、「人間は放っておいたら楽な方に行きたがる」と言ったのを、非常に印象的に覚えている。
人生の中で、これほど納得のいく言葉を聴いたのは初めてだった。
ゲーテの『ファウスト』の第3章『天上の序曲』の中で、神が言う。
人間の活動はとかくゆるみがちだ。
人間はすぐ絶対的な休息をしたがる。
(高橋健二訳)
そうなると、神はその人のところに悪魔をやって、刺激を与え(不幸を与えるということと思う)、その者を無理矢理励ませるのである。
だが、世間的な努力をしていても、それが、神から離れていくものであれば、それは怠りなのだ。
つまり、泥棒や浮気に懸命の努力をしたって駄目であるのと同様、自己満足、保身、贅沢、名誉のための努力は、過ぎると、悪魔を呼ぶことになるだろう。
もちろん、自分の身や家族を守るためには、ある程度の世間的な努力は必要だが、神を目指して励む者には、必要なものは自然に与えられる。
ただ、宗教的努力が、必ずしも神になる道ではなく、むしろ、その反対である場合も多い。
つまり、一見、熱心に神を信仰しているように見えながら、悪魔のお世話になる人は多いのだ。
私も、非常に敬虔に神社に詣でて、賽銭もしているに関わらず、自身の健康等で災難続きという人を知っている。
そして、その人と話すと、やはり、彼が、自己本位で、自分が正しいと思うことを絶対としたがり、自分と考え方の違う人を見下すような人であることが、よく分かるのである。
世間的努力も悪いものではなく、一見、冷淡にビジネスをやっているように見える人が、実は、正しい道(神への道)を歩んでいることもある。
ある偉大な事業家がそうであったが、ただ、彼には、正しい道を踏み外してしまう何かがあったのだと思う。力のある人には、そんな人がよくいる。
神への道を進むと共に、それと正反対のことをやってしまう・・・やらざるを得ない心の闇があるのだ。
それで、人々の役に立つ偉大なことをすると同時に、悪魔も呼び寄せ、とんでもない不幸に遭い、最悪、身を滅ぼす(たとえば病死する)。
芸術や武術でも、あくまで神を目指すための手段としてやっていれば、たとえ世間的に成功しても幸福なのだが、巨匠とか御大(首領)と言われ、畏怖されるようになると、既に神にでもなったような気になり、神への努力を怠る。それは絶対的な休息と変わりない。
だから、表向きには偉大な人・・・例えば、天上の美を地上に現すような芸術家でありながら、健康を損なったり、家庭や人間関係に深刻なトラブルを抱えてしまうのである。
ウォレス・ワトルズが、「金持ちほど家庭では惨めだ」と書いていたが、大概の金持ちはそうなのであると思う。
しかし、金持ちだから家庭で惨めでなければならないという法がある訳ではないのだ。
ただ、神への努力をしているかどうかだけが大切なのである。
神になることがどういうことかは、望まずとも教えられるし、それぞれの立場に応じて、既に教えられている。
だが、神に向かって真直ぐに進むことはない。
『ファウスト』で神も言っているのだ。
「人間というものは、務めているあいだは迷うものだ」
正しい道に導くためには、悪魔も必要なのである。
だから、『ファウスト』でも、あるいは、旧約聖書の『ヨブ記』でも、神と悪魔は案外に親しいのである。
概ねで言うなら、誰かを憎んだり、嫌悪する間は、どこか間違っており、色々問題を抱えていると思う。
だが、嫌いな人を無理に好きになったり、憎む人をわざとらしく愛するフリをしてはならない。
やれることをすることだ。
引きこもりで、毎日ゲームをしていたって、神になるためにゲームをすることだって出来るかもしれない。
私も、神になるために、初音ミクさんの歌を聴こうと思う。
0と1が交差する地点
間違いだらけの コミュニケーション
アナタの名前は 何ですか?
10文字以内で 答エヨ
~『トリノコシティ』(作詞・作曲・編曲:40mP、歌:初音ミク)より~
その人は彼に言った。
「あなたの名はなんと言いますか」。
彼は答えた、
「ヤコブです」。
その人は言った、
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
ヤコブは尋ねて言った、
「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。
するとその人は、
「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」
と言ったが、その所で彼を祝福した。
~『旧約聖書・創世記』、第32章27-29節~
あるカバリスト(カバラ信仰者)は、「なぜあなたは私の名をきくのですか」が、天使の名であると言った。
天使は名を答えていたのである。
十文字以内なら、「なぜ私の名を訊く?」かな。
このカバリストによれば、この天使は人を惑わす者であるらしい。
もしそうなら、私は名を訊くまい。
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努力家で有能なのだが、時々、足元を崩されかねない問題が起こったり、また、ある意味では極めて優れた人間で、沢山の人達の役に立っているのだが、やはり深刻な問題を抱えてしまう人というのは、肝心な、至高の存在になるための努力をしていない(あるいは少な過ぎる)者であることが分かる。
一方、うだつが上がらず、蔑まれるようなことが多かった者が、ある時から、謙虚に人に学び、常に変わらず誰にでも優しく接し、悪い事があっても前向きな姿勢を崩さなくなったのだが、その人は、基本的には、あらゆることが順調で、本人も幸福なようなのだ。
きっと、その人は、本人の自覚がどのようなものであるのかは分からないが、神のようなものを目指す心構えを持ったのだと思う。
私は、初めて勤めた職場にいた、とても男らしいタイプの先輩が、「人間は放っておいたら楽な方に行きたがる」と言ったのを、非常に印象的に覚えている。
人生の中で、これほど納得のいく言葉を聴いたのは初めてだった。
ゲーテの『ファウスト』の第3章『天上の序曲』の中で、神が言う。
人間の活動はとかくゆるみがちだ。
人間はすぐ絶対的な休息をしたがる。
(高橋健二訳)
そうなると、神はその人のところに悪魔をやって、刺激を与え(不幸を与えるということと思う)、その者を無理矢理励ませるのである。
だが、世間的な努力をしていても、それが、神から離れていくものであれば、それは怠りなのだ。
つまり、泥棒や浮気に懸命の努力をしたって駄目であるのと同様、自己満足、保身、贅沢、名誉のための努力は、過ぎると、悪魔を呼ぶことになるだろう。
もちろん、自分の身や家族を守るためには、ある程度の世間的な努力は必要だが、神を目指して励む者には、必要なものは自然に与えられる。
ただ、宗教的努力が、必ずしも神になる道ではなく、むしろ、その反対である場合も多い。
つまり、一見、熱心に神を信仰しているように見えながら、悪魔のお世話になる人は多いのだ。
私も、非常に敬虔に神社に詣でて、賽銭もしているに関わらず、自身の健康等で災難続きという人を知っている。
そして、その人と話すと、やはり、彼が、自己本位で、自分が正しいと思うことを絶対としたがり、自分と考え方の違う人を見下すような人であることが、よく分かるのである。
世間的努力も悪いものではなく、一見、冷淡にビジネスをやっているように見える人が、実は、正しい道(神への道)を歩んでいることもある。
ある偉大な事業家がそうであったが、ただ、彼には、正しい道を踏み外してしまう何かがあったのだと思う。力のある人には、そんな人がよくいる。
神への道を進むと共に、それと正反対のことをやってしまう・・・やらざるを得ない心の闇があるのだ。
それで、人々の役に立つ偉大なことをすると同時に、悪魔も呼び寄せ、とんでもない不幸に遭い、最悪、身を滅ぼす(たとえば病死する)。
芸術や武術でも、あくまで神を目指すための手段としてやっていれば、たとえ世間的に成功しても幸福なのだが、巨匠とか御大(首領)と言われ、畏怖されるようになると、既に神にでもなったような気になり、神への努力を怠る。それは絶対的な休息と変わりない。
だから、表向きには偉大な人・・・例えば、天上の美を地上に現すような芸術家でありながら、健康を損なったり、家庭や人間関係に深刻なトラブルを抱えてしまうのである。
ウォレス・ワトルズが、「金持ちほど家庭では惨めだ」と書いていたが、大概の金持ちはそうなのであると思う。
しかし、金持ちだから家庭で惨めでなければならないという法がある訳ではないのだ。
ただ、神への努力をしているかどうかだけが大切なのである。
神になることがどういうことかは、望まずとも教えられるし、それぞれの立場に応じて、既に教えられている。
だが、神に向かって真直ぐに進むことはない。
『ファウスト』で神も言っているのだ。
「人間というものは、務めているあいだは迷うものだ」
正しい道に導くためには、悪魔も必要なのである。
だから、『ファウスト』でも、あるいは、旧約聖書の『ヨブ記』でも、神と悪魔は案外に親しいのである。
概ねで言うなら、誰かを憎んだり、嫌悪する間は、どこか間違っており、色々問題を抱えていると思う。
だが、嫌いな人を無理に好きになったり、憎む人をわざとらしく愛するフリをしてはならない。
やれることをすることだ。
引きこもりで、毎日ゲームをしていたって、神になるためにゲームをすることだって出来るかもしれない。
私も、神になるために、初音ミクさんの歌を聴こうと思う。
0と1が交差する地点
間違いだらけの コミュニケーション
アナタの名前は 何ですか?
10文字以内で 答エヨ
~『トリノコシティ』(作詞・作曲・編曲:40mP、歌:初音ミク)より~
その人は彼に言った。
「あなたの名はなんと言いますか」。
彼は答えた、
「ヤコブです」。
その人は言った、
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
ヤコブは尋ねて言った、
「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。
するとその人は、
「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」
と言ったが、その所で彼を祝福した。
~『旧約聖書・創世記』、第32章27-29節~
あるカバリスト(カバラ信仰者)は、「なぜあなたは私の名をきくのですか」が、天使の名であると言った。
天使は名を答えていたのである。
十文字以内なら、「なぜ私の名を訊く?」かな。
このカバリストによれば、この天使は人を惑わす者であるらしい。
もしそうなら、私は名を訊くまい。
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