ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

旧約聖書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

古事記の何が良いのか?(保存版)

世の中で肯定的な評価が高い著名な人物が、「古事記を読め」とか「古事記を基にした国造りが大切だ」と言ったり、哲学者の鎌田東二さんは子供の時、精神的に不安定だったが古事記とギリシャ神話を読んで治ったといったようなことを述べていたが、『古事記』は良いものだろうか?
『古事記』にはいくつかの殺人(殺神)シーンがある。
たとえば、地上に降りた最初の天の神であるイザナギは息子である生まれたばかりの火の神を切り殺しているが、その理由は、妻のイザナミが火の神を産む時に焼け死んだ(あるいは焼かれたことが原因で死んだ)ので怒ったというものだ。
ところが、このイザナギの行為を批判・非難する人を見たことがない。
また、有名なヤマトタケルは、兄を便所で強殺しているが、その理由は、まあ、うっぷん晴らしみたいなものだった。
これもまた、「ヤマトタケルはひどいやつだ」と言う人を見たことがない。
そもそも、イザナギもヤマトタケルも、何の罪にも問われていない。
これって、いいのか?
本当に子供に読ませてもいいのか?
(子供用古事記というものもあり、上皇后の美智子様も子供の時に愛読されたようだ)

まあ、それで言えば、旧約聖書にだって、文字通りに読めば、ちょっと子供に見せられない部分は少なくない。
たとえば、父親が自分の実の娘に子供を産ませたりである。
いやいや、ギリシャ神話となると、神々の王ゼウスの正妻ヘラはゼウスの実の姉で、さらに、ゼウスは別の実の姉であるデメテルとの間にペルセポーネという娘を作っている。そのペルセポーネの夫はゼウスの兄だ・・・ともう無茶苦茶だが、特にギリシャ神話には常軌を逸した話が多い。

神話のこんなデタラメなことを、まるで人類が催眠術にかかってでもいるかのように誰も問題視しない。
いや、実際に人類は催眠術にかかっているのかもしれない。
もちろん、神話というものは、象徴的に書かれているのであり、文字通りに受け取ってはならないのかもしれないが、象徴的と言っても、あまりに曖昧で、どんな意味に取って良いか分からず、また、言葉通りに解釈する人にだって罪はないだろう。

それに、旧約聖書やギリシャ神話のノアの箱舟は実際にあったなんて話が出ることがあり、それでは、聖書を字義通りに解釈したくなるかもしれない。

これらの面倒な問題を解決する方法がある。
それは、神話は全て夢の世界のことと解釈することだ。
しかし、それだけでは片手落ちなのだ。
そこで、我々が現実と思っている世界も実は夢であると解釈しなくてはならない。
なぜか、それで完璧なのである。

たとえば、現実世界で嫌いな相手を夢の中で殺したり、夢の中で自分の妹や娘、あるいは童女に性的行為をしても、誰も咎めないばかりか、そんな夢を見たからといって人間性を否定されることもない。
まさに神話の世界だ。
ところが、有名な聖者達(あるいは科学者の一部)は、我々が現実世界と思っているものと夢の世界に違いはないと言う。
しかし、現実世界で殺人を犯せばただでは済まない。
そうしたら、「いや、現実世界は、殺人を犯したらただでは済まないという夢に過ぎない」と言う者だっているだろう。
そうえいば、どれほど奇想天外に思える夢にだって、それぞれ何らかの規則みたいなものがあると思われる。

夜明け前
AIアート496
「夜明け前」
Kay


さて、結論はこうだ。
どんな世界であれ、意識する世界は全て夢だ。
だが、どの夢にも規則(法則やルールと言っても良い)があり、それに支配されている。
そこで、その規則を暴き、それを利用すれば勝ちだ。
その規則を身に付ける訓練のために、神話を読むのである。
簡単なことを言えば、神話に馴染めば引き寄せは確実にうまくなる。
また、神話でなくても童話でも同じである。
私が高校生くらいの頃、馬鹿馬鹿しいほど引き寄せが上手かったのは、グリムやアンデルセンの童話を愛読していたからだろう。
ちなみに、この世界の規則は、「深呼吸すれば神に近付く」であるが、頭の眩んだ凡人にはそのことがどうしても分からない。
分からなくても、深呼吸することを忘れなければ、そうなるのである。
だが、ほとんど皆、憶えないか忘れるのである。

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(1)現代語訳 古事記 (河出文庫)
(2)古事記物語 (ハルキ文庫)
(3)神統記 (岩波文庫 赤)
(4)四つのギリシャ神話―『ホメーロス讃歌』より (岩波文庫 赤)
(5)完訳 グリム童話集 1 (岩波文庫)
(6)アンデルセン童話集(上)
(7)ペロー童話集

宇宙人に教わって納得した引き寄せ

引き寄せに関し、わざと混乱が起こされ、誰も引き寄せが出来ないようにされている。
それは、主に、祈り言葉についてである。
たとえば、お金持ちになりたい場合、どう祈るだろうか?
こんな論をよく聞く。
「『お金持ちになりたい』と祈れば、お金持ちになりたいと思う状態だけが実現し、お金持ちになることは実現しない」
「『お金持ちになった』『私はお金持ちだ』と過去完了形や現在形で祈らないといけない」
「だが、『私はお金持ちだ』というのは嘘なので潜在意識が反発する。だから『私はお金持ちになりつつある』と祈らないといけない」
いや、そんな姑息な知識で願いが実現するはずがない(笑)。
所詮は、「お金持ちになりたい」という願いの強さの問題だ・・・という方が、まだ正しい。

それで、私は宇宙人に教えてもらったが、例によって、人間が猿に教えるごとく宇宙人から教わったので、かなりいい加減だ。
一応、一時的に、IQ300くらいにしてもらって教わったが、宇宙人にとっては、せいぜいが利口な猿といったところだ。
「お金持ちになる」という強い予感を持つ者がお金持ちになる。
ただし、その予感は、未来にお金持ちになることが確定している者が得る本物の予感だ。
つまり、お金持ちになる運命ならお金持ちになるというだけのことである。
ところが、やっぱりそれだけではない。
出来れば、このことだけは憶えていて欲しいのだが、
「純粋になりたいなあと思ったものにはなる」
「純粋に欲しいなあと思ったものは得る」
である。
これは、本来、旧約聖書の最も基本的なこととして書かれているが、とにかく、旧約聖書が書かれた昔のヘブライ語は難解な上、紛失・改ざんありありである。
旧約聖書最大のクライマックスである、神がモーセの前に現れて、神が自己紹介する場面がある。
一般的には、神は、「アイアム・ザット・アイアム(私は在りて在るものである)」と名乗ったことになっているが、多分嘘だ。
これはヘブライ語で「エヒエー・アシャル・エヒエー」で、「私はなるようになるだろう」という意味だが、これが「私は予感したものになるだろう」という意味であると同時に「私は純粋になりたいなあと思ったものになるだろう」という意味らしい。
だが、そこは神なのだから、「私はとこしえに創造する者である」という意味でもあるのだが、その創造の仕方は、純粋に願うことである。

花の命
AIアート300
「花の命」
Kay


つまり、ギラギラした欲望も、「絶対やってやる」という決意も、「どうしてもやらなくては」という焦りもなく、「マジカルミライ(初音ミクさんのコンサート)に行きたいなあ」とぼんやり思っていれば、そんな未来が形作られ、叶う予感がやって来て、その通りになるのである。








神話の真実は酷いものだった

最近は、このブログでずっと、ローレンス・R・スペンサーの『エイリアンインタビュー』について語っているが、この宇宙人エアルに対するインタビューの内容は、私は事実だと思うが、万一、作り話だとしても、我々が本来持っている力を回復させ、人類の危機的状況を救うために、あまりに「使える」ストーリーを提供してくれている。
これまで疑問に思っていたことへの合理的な解答を得られ、聖典や賢者の教えに統一性をもたらす。

今回は、ちょっと変わった神の話をしようと思う。
神と言えば、キリスト教やイスラム教(いずれも起源は旧約聖書だが)のような、神は1人であるとする一神教と、ヒンズー教、ギリシャ・ローマ神話、北欧神話、神道のように沢山の神々がいるとする多神教がある。
この中で、我々にも比較的馴染みのあるギリシャ神話や神道の神について、疑問を持っている方は多いと思う。
神道の神については、古事記や日本書紀に記述がある。
これらの神々は、良い言い方をすれば「人間味があって親しみ易い」と言えるかもしれないが、神に人間味があってどうなるものでもないし、その人間味の多くは非人格的という意味である。
ギリシャ神話では、神々の王ゼウスが率先して、女神だけでなく、美しい人間の娘を見て欲情しては手を出し子供を作る。
女神の中には、ゼウスの相手になるのが嫌で自分の美しい身体を島に変えて元に戻らなかったり、泣く泣く相手をした女神もいる。
ゼウスの息子のアポローンは、美しい精霊のシュリンクスを無理矢理犯そうとし、シュリンクスは絶対嫌なのだが、アポローンのような偉い神には逆らえない。そこでシュリンクスは父親に願い、葦に姿を変えてしまった。
力のある神々は、人間に対し(下位の神や精霊に対してもだが)、やりたい放題であるが、神のやることに人間が異義を唱えるのは身の程知らずとされるなど、なんともディストピア(暗黒郷)的なお話である。
古事記の神々は、比較的、ギリシャ神話の神々のような奔放さはなく、人間を慈しみ、身を慎む場合が多いが、そうとも言えない神も多い。
『エイリアンインタビュー』によれば、神々は宇宙人である。無論、ギリシャ神話や古事記、あるいは、旧約聖書では、脚色され、物語化されているが、神話と似たことが行われてきた。
地球にやってきた宇宙人の中の良からぬグループは、やはり美しい人間の娘に手を出しまくっていたことは聖書にも書かれている。
聖書では神そのものは1人であるが、神の子とされる特別な人間や権威ある神官なども、そんな宇宙人である。
元々、人間の身体も宇宙人の身体もテクノロジーによって作られた同じ(少なくとも似た)もので、宇宙人が人間に好意を感じても不思議はないし、子供を作ることも出来る(というか出来てしまう)。
尚、『エイリアンインタビュー』の宇宙人エアルは、調査目的に限定して作られたボディー(いわゆるグレイタイプ)を持ち、人間にあまり似ていない。エアルは、いつでも、そのボディーから離れることが出来るが、それは死を意味するわけではない。

厳重に隠蔽されてすら、宗教教団の偉い神職の者達の性的な良からぬ話は昔から少なくないのは、これら宇宙人の行いに倣っているようにも感じるのである。
しかも、連中は滅多なことでは罪に問われなかったし、現在でも正当化される風潮があるだろう。
少なくとも美しい女性は宗教には関わらないことである・・・と私は思う(笑)。
間違えても美少女には、宗教団体の門を絶対にくぐらせてはならない・・・と私は強く思う。

神話のお話は、人間は弱く惨めな存在であり、神のやることに異議を唱えてはならず、いいなりになるべきという根性を叩き込まれたことを意味している。
しかし、本当は、我々は神(のようなもの)である。
宇宙人は、人間にそれを思い出させないよう、テクノロジーを駆使しているので、我々は自分が神であることを自覚することは難しい。
しかし、宇宙人の人間を無力化するテクノロジーを回避し、力を取り戻した人間はいる。
宇宙人の手段は、人間の記憶の消去と偽の記憶の植え込みで、それは、肉体の死と共に行われる。それは、装置によって自動的になされる。
だが、記憶を取り戻した人達がいたし、今もいる。
記憶を取り戻せば力も戻る。
我々の中には、エアルのグループの善い宇宙人の魂を持った者もいる。善い宇宙人にも、悪い宇宙人によって記憶を消され、我々の中で転生を繰り返している魂もいる。
引き寄せの力が強い者、直観や予知能力に優れた者、優れた発明家や芸術家や哲学者は、神の記憶を部分的に取り戻した者であり、それには、地球人やエアルの仲間の宇宙人もいる。

そんなわけで、いつも述べる通り、我々は消された記憶を取り戻し、神の力を回復させなければならない。
しかし、悪い宇宙人はそれを恐れており、妨害があることも考えられ、実際、妨害されているに違いない。
現在の世界情勢も、それを現わしているように思う。








自分に名を付ける秘法

少しは知られていることだが、小説や映画や、あるいは、漫画やアニメで、それがごく娯楽的なものであろうと、その国の神話や伝承に秘められた何かが、意図的、あるいは、偶然に引用されていることがある。
キリスト教圏の作品には、聖書や、旧約聖書の深い解釈であるタルムードの知恵が、さりげなく表されていることがあり、聖書やタルムードを読まなくても・・・いや、むしろそれらを読むより容易に、その英知を得る者もいる。
例えば、イーロン・マスクは、少年時代に『銀河ヒッチハイクガイド』というSF小説を読み、そこから何かを得て人類を救う決意をするが、その小説の中にも、やはりタルムードの英知が込められていたのである。

ジュリアーノ・ジェンマ主演で成功を収めた、1966年のマカロニウエスタン(イタリア西部劇)『南から来た用心棒(原題:Arizona Colt)』は、旧約聖書の創世記32章と共に読むと面白い。
この『南から来た用心棒』の中で、高額な賞金をかけられた悪党ゴルドーが率いる数十名の盗賊集団の前に、恐れもせず颯爽と立った若いガンマンは、ゴルドーに名を問われると、こう答える。
「この銃と、この砂漠の大地が俺の名だ。コルト(コルト社の拳銃)、アリゾナ・コルト!」
つまり、彼は、自分の名は「アリゾナ・コルト」だと言うのだ。
もちろん、親が付けた戸籍上の名であるはずがない。
しかし、彼は、この名で生きていた。

旧約聖書の創世記32章に、こんな話がある。
大勢のしもべを伴って旅をしていたヤコブは、宿営地で1人でいると、何者かが彼に格闘を挑み、彼らは夜明けまで戦った。
この格闘の場面は、レンブラント、ドレ、ドラクロワといった、そうそうたる画家達が名画で現した、聖書の中でも特筆すべきハイライトと言える。
【リンク Wikipedia】天使とヤコブの闘い
人間であるヤコブが強い天使に負けなかった。
天使は、ヤコブに名を問うた。
ヤコブは「ヤコブです」と答えた。
すると天使は、
「あなたの名はもうヤコブではない。イスラエルと名乗りなさい」
と言った。

アリゾナ・コルトの名も、この聖書の話を元にしたものだろう。
名前ほど重要なものはないのに、誰もそのことを顧みない。
顧みないように、知恵を奪われたからだ。
我々は、自分の名前の通りのものになる。
そんな重要な秘法を、一般人は知らないようにさせられた。
自分で自分に、2つ目、3つ目(あるいはもっと多く)の名を付けなさい。
『古事記』には、大国主命は沢山の名を持っていることが記されている。
彼は、それほど多くの力を持つ神なのだ。
金持ちになりたければ「金持ち」「富豪」という名を付けなさい。
美しくなりたければ、「美男」「美女」といった名を付けなさい。
もちろん、それらを意味する、自分好みの名を付ければ良いのである。








鮮やかなまでに巧妙な真言の仕組み

昔から多くの人が知っている伝説には大きな力がある。
それは単に、長く語り伝えられた知恵や教訓であるからだけでなく、多くの人間がそれについて想い、考え、意識することで、人々の集合意識の中に生命力を蓄えてきたからだ。
フロイトは認めなかったが、ユングは、意識には、個人の意識だけでなく、全ての人が共有する集合無意識があり、人間は皆、集合無意識でつながっていると考えていた。
集合無意識の存在を前提にしないと説明出来ない現象は沢山あり、ユングは著書の中で、本当は、フロイトも集合無意識を認めていたはずだという確信を示していた。

長く多くの人が聞き、話し、想った神話やおとぎ話といった伝説は、集合無意識の中で確固とした存在となり、その生命力は強く、人々や、さらには、現象にまで影響を与える。
物質や物質世界は人間の心が作り出す・・・少なくとも影響を与えることは、科学的にも確かである。

ただ、よく知られていることを悪用され、宗教は支配者の洗脳支配のために使わることが多く、集合無為意識の中で負のエネルギーになっている場合がある。
ところが、面白い・・・と言うべきではないかもしれないが、支配者が利用するのは、新しい宗教なのである。
つまり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は皆、共通して、旧約聖書を聖典とするが、支配者が、旧約聖書を民衆の洗脳に使うことは、あまりない。
その理由は簡単で、読めば分かるが、旧約聖書は意味が分かり難く、洗脳支配に利用し難いのだ。
洗脳というものは、誰でも簡単に分かる話を使うしかないのである。
だが、新しい預言者(イエスやモーセなど)によって語られたことが書かれた新約聖書やコーランは、支配者に都合の良い解釈を押し付け易く、洗脳に使われてしまったのである。
そこにいくと、確かに、旧約聖書を探求するユダヤ教信者は、洗脳され難いという特徴がある。
そして・・・むしろ、ユダヤ教徒の中の一部の頭の良い人間達が、世界を洗脳支配したのである。

さて、洗脳論が目的ではないので、よく知られた伝説には力があるという話に戻る。
我々は、支配者によって捻じ曲げられた部分をうまく避けて、伝説の力を利用すれば、大きな利益を得る。
そして、それは難しくない。
ただ、庶民の最後の武器である真言によって、簡単に行えるのである。
よく知られた伝説と言えば、やはり、宗教が関係し、各宗教の信仰者は、キリスト教が33%、イスラム教が20%、ヒンズー教が13%、仏教が5.9%、ユダヤ教が0.2%であるが、信仰者の数が決定的な問題ではない。
例えば、ユダヤ教信仰者が0.2%と言っても、旧約聖書の利用率で言えば、キリスト教やイスラム教の53%が入るのである。
その中の、良い伝承を使えば良いのである。
旧約聖書の格言などには、支配者に利用されなかったものが沢山あるが、例えば、「心を静め、自分が神であると知れ」などは、支配者に利用する方法はなく、力ある言葉であるが、使う者は少ない。
神道となると、信仰者は世界的に見れば極めてわずかで、その典拠となる『古事記』や『日本書紀』となると、世界においては無に等しい。その上、神道は明治政府に悪用された歴史もあるが、実は、神道の根幹は、民衆の集合無意識の中に、深く、ピュア(純粋)な形で息づいているのである。
例えば、『古事記』の神が、支配者に味方した話など全くなく、神は神として、自由に考え、行動しているという伝説は守られているのである。
ここらは、ギリシャ神話も同じだ。
そして、『古事記』も『ギリシャ神話』も、あるいは、『旧約聖書』も。最初から、洗脳支配に利用されないように作られていたフシがあり、これらには、古代の叡智や、ひょっとしたら、宇宙人の善意の協力も感じるのである。
だから、「アマテラスオホミカミ」という神の名を真言として唱えれば、集合無意識に潜むエネルギーが、良い形で味方してくれる。
念仏となると、むしろ、支配者に弾圧されながら、真摯な僧や民衆の中で生き続けたのであり、集合無意識の中でのエネルギーの純粋さ、強さは、もし、視覚化出来るなら、実に巨大で美しく眩いものであり、これを真面目に唱える者に恵を与えないはずがない。
そして、こういったことは、優れた真言全般について言えるが、特に、昔も今も、民衆に人気の高い観世音菩薩の真言、あるいは、観世音菩薩が主役の『般若心経』や『十句観音経』の力は非常に大きいのである。
だから、「南無観世音菩薩」とか「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「観音様」と唱えるだけで、ものごとは良い方向に流れ出し、数多く唱えれば奇跡も起こる。
修験者は、数多く般若心経や般若心経の呪文を唱えることで、神通力を得た者が多いと言われる。
尚、般若心経は、呪文のみを唱えるべきと言う研究者がいるが、私もそれに賛同している。
また、神仏の名、真言、聖典の言葉には、宇宙意識と通じるまでになっている場合が多く、それらを真言として数多く唱えることで、至高の力が味方してくれる可能性がある。
自分が良い印象を感じる真言・・・早い話が、好きな真言を選び、たゆまず唱えれば、それで間違いないのである。












プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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