ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

方法序説

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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頭が良いとは洗脳が少ないこと

頭が良いというのは、洗脳されていないことと思う。
洗脳されている者に現れる明白な症状として、「思い込みが強い」ということがある。
たとえば、スポーツのあるチームの熱狂的ファンというのは、間違いなく洗脳されている。
高校野球とか駅伝とかがテレビ放送されるが、これらへの関心が異様に高い場合も洗脳されている。
また、特定のアニメ、アニメキャラ、アイドルに執着があるというのも、洗脳により起こる症状だ。

「私は東大卒だ」「私ば物理学修士だ」といったものにこだわり、それに強いアイデンティティを持っているのも洗脳されているのであり、そんな人を見ると、頭が悪いことがよく分かるのである。そんな人達が、日常生活で並の人間が出来ることが出来ない時、「君の頭が良過ぎるからだ」とからかい半分に言うと、それを本気にしてしまうくらい馬鹿なのである。
そもそも、当たり前のことが出来ないのは、単なる馬鹿だからである。

私も、ある時期まで、ガチガチに洗脳されていて、ひどく頭が悪かった。
ただ、私の場合、多くの日本国民が持っているような洗脳・・・高校野球好き、オリンピック好き、学歴称賛、資本主義至上主義、等々がないことで相殺され、まあ、全体としては平均・・・というより、中の上程度の知性があったことは客観的に確認出来たと思う。
とはいえ、私は自分で自分の頭が悪いことを、薄々自覚していたのである。
私が初音ミクファンだというのも、洗脳と言えば洗脳で、特に以前、凄い初音ミクオタクだった時はかなり洗脳されていたのだが、今は、割と客観的に見ている。
ただ、初音ミクというのは反体制(反権力)であり、初音ミクという形は人それぞれであることがかなり完全に認められており、こういったことも含め、初音ミクの思想、初音ミクのコアを形成する人達のセンスの良さを称賛しているのである。

洗脳された人達の頭の悪さを示す端的な特徴が、「変な判断を秒速で行う」ことで、これがもう明らかで、私も、ごく若い時から気付いていた。
何せ、洗脳された思い込みという狭い範囲で判断するのだから、そりゃ判断が速いし、しかも、変な判断になるのは当たり前だ。
洗脳された人は、「これは何かしら?」と思うと、洗脳された観念(偏見と同じ)ですぐに「こうじゃないかしら?」と思い、洗脳によって、それが圧倒的に正しいと感じるので「こうにちがいないわ!」とすぐに結論付けるのである。
簡単な例で言えば、子供が宿題を連続してし忘れたのを知った母親が、洗脳された狭い観念で「この子は不良の仲間に入ったんじゃないかしら?」と思い、それが圧倒的に正しいと感じ、「先生、うちの子が不良と仲良くしています」と言うようなものである。
こんな母親を持った子供は不幸で、下手をしたら一生を駄目にしてしまう可能性すらある。

洗脳される危険を徹底的に排除するために書かれたのが、デカルトの『方法序説』という短い本だ。
この中でデカルトは、「単に正しいと思えることは全て間違いと断定する」と、自分の洗脳による(偏見によると言って良い)判断をことどとく退けることを説いている。
つまり、正しいと思えることも、疑おうと思えば、いくらでも疑える。
そしてなんと、正しいと思えることで、本当に正しいことは何1つないことが分かってしまった。
ところが、「これは正しいと思うが、本当は正しくないのでは?」と疑う理性だけは絶対的に正しいと分かり、デカルトは、
「疑っている我は確かに存在している」という思想に到達した。
これがなぜか「我思う、ゆえに我あり」という言葉になったが、どうもこの言葉では真意が全く伝わらず、デカルトが誤解されているようである。

南の島にて
AIアート573
「南の島にて」
Kay


他にも、「私は何も信じない」と言ったジッドゥ・クリシュナムルティも賢者であった。彼はそれを徹底はしてはいなかったが、やはり並外れた賢者であった。
しかし私は、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー紋次郎がよく言う、
「別に疑っちゃいやせんが、信じてもいやせん」
というのが、実に良いと思うのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)方法序説ほか (中公クラシックス)
(2)方法序説 (岩波文庫)
(3)洗脳原論(苫米地英人)
(4)日本人の99%が知らない戦後洗脳史(苫米地英人)
(5)私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集
(6)木枯し紋次郎(一)~赦免花は散った~
(7)初音ミクはなぜ世界を変えたのか?
(8)楽しいAI体験から始める機械学習 ※当ブログオーナーKay著

偉大な国、偉大な人間が持っているもの

アメリカ合衆国は、唯一の超大国として、今日まで生き残っている。
かつての超大国ソビエト連邦は崩壊し、現在のロシア連邦として再構成されたが、ロシアのGDP(国民総生産)は世界11位でカナダ、韓国並。1人当たりGDPでは、日本も悲惨なもの(25位)だが、ロシアは65位で、これは中国やメキシコ並で、途上国と競うレベルだ。
中国は全体としては超大国と言えるかもしれないが、上の1人当たりGDPを見ても分かる通り、貧富の差が激しく、早い話が国民の大半は幸福とは言えない。

なぜ、アメリカがこれほど偉大な国であるのかというと、アメリカ合衆国憲法の力と言えるのだと思う。
アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に作成され、1788年に発効している。
アメリカ建国者達が、将来ずっと、アメリカが発展し、子孫が幸福であることだけを願って、知恵を絞り、最大のエネルギーを費やして作ったのが、このアメリカ合衆国憲法だ。
その前文は感動的であるので、Wikipediaから和訳を引用する。

われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のうえに自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。

スーパーマンは自由と正義のために戦うが、まさにそれが、アメリカ合衆国憲法の精神なのである。
これと共に、アメリカの公式モットー、「IN GOG WE TRUST(我々は神を信じる)」が、アメリカに超自然的な加護をもたらしたように思う。
だが、今や、アメリカの権力者達は、アメリカ合衆国憲法を踏みにじり、神への崇拝を巣て拝金主義に成り下がり、アメリカは危機的状況にある。
トランプ大統領は、「私の最大の責務は合衆国憲法を護ること」と言ったが、他の多くの政治家はそうではないのである。
だが、軍のトップは、誰に従うかと聞かれ、「憲法に従う」と述べたのであり、アメリカ軍はまだ生きている。
アメリカ合衆国憲法が存続出来るか、それとも、捨てられるか、そして、アメリカが神を崇拝する国か、神を捨てた国になるかが、次の6日の上院下院合同会議で決まるかもしれないのである。

ところで、人間が個人で、優れた憲法のような格率(かくりつ。行動規則)を持てば、その者は、他に抜きん出た偉大な人間になれるかもしれない。
フランスの哲学者ルネ・デカルトにとっては、自ら作った『方法序説』がそれ(自己の格率)で、これは6章から構成され、序文のデカルト自身の弁によれば、「12歳の子供でも理解出来る」ものである。
プラトンの『ソクラテスの弁明』を読めば、ソクラテスも、シンプルで特別な格率を持っていたと思われるのである。
空手家の大山倍達氏は、中学生の時に、パスカルの『パンセ』を熟読し、それによって、自分なりの格率を持っていたから、世界的な空手組織を作るまでになれたのだと思う。
偉大な人間は、やはり、何か具体的な格率があると言って間違いない。
その上で、やはり皆、様々な形ではあるが、強い信仰を持っているのである。
格率は、一般的には、「自己の哲学」とも言えるが、自分に合った、そして、現実的には、あまり難しくないものが良いに違いない。
そして、それを持つ者のみが偉大になれるのではないか、あるいは、成功するのではないかと思うのである。








賢い人は疑う

私は中学1年生の時、いろんなところで「探偵は何でも疑う」と聞き、真実を探す者は何でも疑うのだという考え方を覚えた。
その考え方も疑ってはいるが(笑)。
昨日、久々に、その言葉を聞いた。
カリフォルニア州弁護士、ケント・ギルバートさんが、YoiuTubeの中で、
「私は弁護士で、疑うのが商売です」
と言われていたのである。
現在、アメリカ大統領選挙はまだ終わっておらず、一応は、バイデンが次期大統領だという流れになっている。
ギルバートさんは、投票日直後あたりは、「選挙で大きな不正があった」ことを、事実のように話し、非常に憤慨している様子も見せたが、ある時から態度をぱっと変え、「不正の証拠は全くない」「トランプ弁護団の戦況は悪い」と淡々と述べるようになった。
そして、まるで言い訳のように「私は弁護士ですから、弁護士の立場ではこう言うしかない」と言うのだった。
ただ、ギルバートさんは、自分もトランプが好きで、トランプの再選を心から願っているとは言っておられた。
ギルバートさんの急変に対し、あるジャーナリスト(らしい)が、「ケントさんは圧力をかけられている」と言っていた。まあ、それは疑っているが(笑)。

私もトランプ支持で、バイデンが大統領になったら、日本も世界も危ない(本音では「終わり」)と思っているが、それでも、YiuTubeに沢山ある「トランプさんは必ず勝ちます。安心して下さい」と言い、その理由を自信たっぷりに語るのを、実を言うと私は、「疑ってはいないが、信じてもいない」のである。
シドニー・パウエルが、「選挙不正の確固たる証拠が沢山ある」と言うのも、私は今のところ、話半分以下に思っている。
もちろん、新聞やテレビしか見ない人は、1月にバイデンが大統領になると、全く疑うことなく信じているだろうが、私は日本のマスコミは全く信じていないので、そんなこと(バイデンの大統領就任が確定)を信じることも全くない。
しかし、ルドルフ・ジュリアーニ(トランプの個人弁護士)を見る度に、「昔はニューヨークの英雄的な市長だったが、もう老いぼれているのではないか」と感じる。
敵さんのやり口はずさんだが、力技は凄い。
だから、真実は明らかであるが、法的な裁判で勝てるかどうかは全く別問題であり、トランプ陣営の戦況が厳しいことは、法律に強くない私でも解る。

賢い人は疑うものである。
そして、賢い人の真似をして、なるべく疑うようにすれば、馬鹿な失敗を免れることが出来る可能性が高まる。
全く賢くない私は、それで何度も救われた。
プログラマーやシステムエンジニアにだって必須の考え方と思う。
でないと、ロボットは原子炉の壁を破って出てきてしまい、核ミサイルは誤爆し、人工衛星は落ちてしまう。
フランスの哲学者・数学者・物理学者のルネ・デカルトの『方法序説』は大変に素晴らしい知恵の書であるが、この本での疑いっぷりは半端ない。
「疑いようがないほど明白でない限りは、全て虚偽と決めつける」
と言う。
早い話が、これでは全て虚偽になってしまう。
だが、デカルトはやはり天才だった。
何と、「なぜ、何でも疑えるのか?」を疑ったのだ。
そして、それは、自分の中に、疑いようのないもの、絶対的な何かがあるからだとするしかなかった。
それが神である。
これがデカルトの天啓で、これによって、デカルトは、
「疑っている我は、確かに存在する」
と言い、これが、
「我思う、ゆえに我あり」
という有名な命題として知られている。
だから、「我思う」は、本当は、「我疑う」なのだと思う。

デカルトの天啓は、鴨長明の『方丈記』の最後の部分・・・世間を離れ、自然の中で清貧な生活を送り、すっかり聖人にでもなったような気でいたが、ある朝、相変わらず自分は、全くの穢れた凡夫であると思い知って愕然とし、その時、自然に「南無阿弥陀仏」という念仏が出てきた・・・と、非常に似ていると私は思う。
説明は難しいが、念仏はやはり真実なのである。
これは、証明しようがなく、根拠もないので(多少ならなくもないが)、疑おうと思えば疑える。
と言うより、嘘と言えば嘘である。
だが、「嘘を信じている」と楽しそうに言える嘘である。








安定した強い心を得る方法

やることがなくなってしまうことがないだろうか?
仲間外れにされたり、最初から仲間がいない場合は、よくあるものだ。
ニートというのも、結局は、仲間外れからなるのだと思う。
仲間がいるようでも、本当の仲間でなければ、やっぱりやることはなくなる。
つまり、1人で何かをやり続けるのは、難しいということだ。
コンピューターゲームは、疑似的な仲間が出来るので、それなりに熱意が湧く。
コンピューターゲームのオセロのようなものであっても、対戦してくれるアプリが一種の仲間なのだ。
しかし、それはあくまで、バーチャルな仲間で、深みがないので、いずれは熱意を失う。

私がニートだった時は、ゲーム機などは持っていなかった。
それで一人遊びを工夫したのだが、ここで面白いことが起こった。
子供の1人遊びを観察すれば分かるが、自分を分裂させて仲間を作っているのだ。
私も、それと同じようなことをしていたのだと思う。
多重人格の原因は色々あるだろうが、このように、仲間がいない者が、自分を分裂させて想像の仲間を作ることではないかと実感するのだ。
孤独に育った子供というのは、多重人格とは言わないまでも、その傾向があると思う。
私も小さい時から孤独癖があったせいか、多重人格気味である。

多重人格者は、色々な人格を持ち、多面性があって良いようにも思えるが、重大な欠点として、1つ1つの人格が小さくて弱くなってしまうのだ。
実際、多重人格者の人格を1つに統合すると、強く深い人間になる。
とはいえ、多重人格を統合することは難しい。
バンドラーのNLP(神経言語プログラミング)の本だったと思うが、実に単純にそれをやる方法が書かれていたが、あれでは無理だと思う。

自分が多重人格者であることに気付いていない場合が多いと思うが、多くの人格を持っていれば、自我の土台が強固でないので、脆く、不安定だ。
いわゆる「切れやすい」者というのも、多分、多くの人格を持っているのだ。
社交的でない人間は、ほとんどが多重人格気味なのだと思う。
ある時は宗教に興味を持って、そんな本ばかり読んでいたと思うと、別の時には、技術的なことにしか興味がなくなる。
そして、そんなサイクルがくるくる繰り返される。
実によくあることだ。

ところが、作り出した人格が消えることもある。
かつては物凄く夢中だったものに対し、不思議なほど興味がなくなってしまったという場合がそうだ。
女の子が小さかった時に、とても大切にしていた人形に、やがて興味がなくなるというのも、成長したというよりは、人格の1つが消えたのかもしれない。
実際、幼い時に複数の人格を持っていても、大人になるごとに人格が統合されるものだ。

だが、現代のほとんどの人の人格は分裂しており、しかもまずいことに、悪い人格が支配的になっているのだ。
これが、新約聖書で言う、多くの悪魔にとり付かれた状態に近いかもしれない。
そうなることを避けるためには、なるべく暇にならないことだ。
そして、人格を統合するためには、確かな規律を1つ定めることだ。
単純な方法を挙げれば、『バガヴァッド・ギーター』を唯一の規範の書とし、他は見ないという手もある。
『バガヴァッド・ギーター』は優れた聖典であると思うが、そうではなく、たとえ、少々怪しい教えでも、それによって1つに統合された人は案外強いものである。
デカルトの『方法序説』は、デカルトが言うような、理性を導くというよりは、やはり、人格を統合する方法なのだと思う。その意味でも、大いに参考になると思う。









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「当たり前」を知れば、世の中、そんなに難しくはない

よく、「新入社員は素直なことが一番大事だ」といったことが言われる。
素直でないと仕事を覚えられないし、教えてももらえないという訳だ。
しかし、それも限度がある。
素質あるスポーツ選手が、沢山のコーチの言うことを素直に聞くと、もう絶対に駄目になる。
コーチらの言うことは一貫性がなく、結果、一貫性のない訓練をして、自分の中で能力の潰しあいをし、突出したものも持てないからである。
プロ野球で、入団時に注目されながら、ほとんど活躍することもなく、やめていった選手の多くがそうであるのだと思う。
イチローなんかは、コーチの言うことを、聴くべきところは聴いても、従わないところは敢然と拒否したらしい。
そんな心構えは、イチローでなくても、プロスポーツ選手になるほどの人には絶対に必要なことと思う。

私も、プログラマーになるまでには、まず、独学でプログラミングを学び、その後、小さい会社で好きなようにやった(ほとんど仕事になってなかったような気もする)。
それから大手に入ったのだが、大手だけあって、教育や仕事の仕方がしっかり決められていたが、私はそれらが嫌で、全く従わなかったので、早速、仕事を干されたが、それが良かった。
致命的に悪いクセをつけずに済み、しかも、仕事せずに給料をもらっていたのだから、考えてみればラッキーだった。
だが、その後は、自分向きの仕事を、自分のやり方でやるようになり、失敗もあったが、力をつけていった。
「会社の中で、そんな好き勝手が出来るはずがない」と思う人もいる・・・というより、ほとんどの人がそう思うだろうが、私は、引きこもり時代やセールスマン時代に、ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則を熱心に学んでいたのだから、少しも不思議なことではない。
マーフィーの潜在意識の法則は、何もないところから、ぽっとお金が出てくるような妄想に使うのではなく、適切な場面で使えば、すぐにも効果的なのである。

そして、もう1つ良かったことが、デカルトの『方法序説』をよく読んでいたことだった。
私は、セールスマンをやめてサラリーマンになる時、書店に入って、なぜかは知らないが、200円もしない『方法序説』(薄い本である)を買ったのだった。
この『方法序説』は、哲学の本のように言われているし、まあ、その通りなのかもしれないが、これは絶対に実用書である。
それも、最高の実用書だ。
例えば、「沢山の識者が集まって作った膨大な法律より、少々不出来のようでも、一人の人が一貫した思想の基に作った短い法律の方がよく機能する」といった、当たり前のことが書かれているが、こんな当たり前のことが、世間・・・家庭、学校、企業の中では完全に忘れられているのである。
わが国の法律はどうだろう?
いくら読んでも、全く訳が分からず、専門家ですら、全く異なる解釈をすることが珍しくない・・・いや、それが「普通」のクレイジーな法律は、おかしなことに、外国から日本を守っているのである。もし、わざとやったのなら、その賢さは称賛ものであるが、単なる偶然だろう。
しかし、我々は、自分がやることにおいては、一貫していなければならない。
一貫した思想を持っていれば、言うこと、やることは、別に一貫していなくて良いのである。
人間は、進歩も変化もするし、社会も変化する。
その中で、『方法序説』に書かれているような、基本の基本は一貫していても、表立ったところが大きく変わるのは、少しも不思議なことではない。
だが、私が最初に買ったのもそうだったが、『方法序説』は、偉い先生が、「哲学らしく、難解な日本語」で訳しているものも多い。この「難解」とは、「わざと下手な日本語や、日常使わない単語を駆使して書いている」以上の意味はなく、『方法序説』自体はシンプルなものだ。
とりあえず、岩波文庫ので良いと思うが、岩波文庫は文字が小さいなあ・・・出来れば、これのワイド版か電子書籍で読むと良い。
別に老眼でなくても、文字は大きい方が、理解し易いものだと思う。

ジョセフ・マーフィーの成功法則を読んで、まずは自分に自信を持ち(根拠のない妄想の自信で良い)、次に、あるいは、同時に、『方法序説』で、合理性というか、「当たり前」を学ぶ。
それで、世の中、ちょろいと思う。
だがまあ、一番大切なことは「寛容」であり、それを支えるのは、おそらく「愛」というものである。
そこは、私も、初音ミクさんの歌を聴いて、ゆっくり学んでいるところで、一番肝心なことが後になってしまったようだ。
だから、一応優雅だが満たされない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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