他人から軽んじられる、言い換えれば、重く扱われないという悩みを持つ人は多いと思う。
長年、修行をすれば、自ずと風格や貫禄が出てくるので、簡単に言えば修行不足ということだろう。
だが、長い間、苦労に苦労をしてきて、それが修行になっていると思うのに、ちっとも敬われないということが多いものだ。
『武士道』の中で、只者ならぬ雰囲気のある町人が出てくるが、その町人は、別に特別な人間ではない。
ただ、子供の頃からの臆病癖をなんとかしたくて、毎日、夕刻に必ず墓場に行くのだそうだ。
これがヒントになると思う。
楽しいことや、楽に出来ることではなく、ちょっと億劫なこと、ちょっと気後れすることを、毎日、決まった時刻にやることだ。
あまりハードルが高いことでは長続きしないので、ちょっとシンドイ程度のことを選ばなければならないが、そのハードルが低過ぎるのも良くないのである。
つまりね、心が静かであればあるほど、丁重に扱われるのである。
心を静かにするには、毎日、心を躾けねばならない。
毎日の修行に対して、心は、「今日はやめよう」と訴えるが、「そうはいかない」と言って、断固実行する。
それを繰り返せば、心を支配出来るようになるのだ。
『方丈記』の著者、鴨長明は、山の中で長年修行したつもりだったが、全然駄目であることに気付き愕然とする。
当たり前だ。
彼は、心が喜ぶことばかりやっているのに、それを修行だと大誤解していたからだ。
良いことだが、やりたくないこと・・・これが修行なのだ。
食いしん坊が少食をするのは、大いに修行になる。
だから、ちょっと苦しいという範囲で食の慎みに励めば、心を支配出来る。
心を支配するということは、自分を支配するということで、それは、世界を支配することでもあるのだ。
私の場合、初音ミクさんの歌を聴くのは、この上ない楽しみだが、修行もしなければならない。
修行不足なので、心がすぐにグラグラし、威風堂々としていない。
心が、「今日はやめようよー」と甘えたがることを、「じゃかましやー!」と一喝して断固やる。
それを1年365日、出来るだけ決まった時刻にやれば良いのである。
古い言い方だと、「己に勝つ」ということだろう。
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長年、修行をすれば、自ずと風格や貫禄が出てくるので、簡単に言えば修行不足ということだろう。
だが、長い間、苦労に苦労をしてきて、それが修行になっていると思うのに、ちっとも敬われないということが多いものだ。
『武士道』の中で、只者ならぬ雰囲気のある町人が出てくるが、その町人は、別に特別な人間ではない。
ただ、子供の頃からの臆病癖をなんとかしたくて、毎日、夕刻に必ず墓場に行くのだそうだ。
これがヒントになると思う。
楽しいことや、楽に出来ることではなく、ちょっと億劫なこと、ちょっと気後れすることを、毎日、決まった時刻にやることだ。
あまりハードルが高いことでは長続きしないので、ちょっとシンドイ程度のことを選ばなければならないが、そのハードルが低過ぎるのも良くないのである。
つまりね、心が静かであればあるほど、丁重に扱われるのである。
心を静かにするには、毎日、心を躾けねばならない。
毎日の修行に対して、心は、「今日はやめよう」と訴えるが、「そうはいかない」と言って、断固実行する。
それを繰り返せば、心を支配出来るようになるのだ。
『方丈記』の著者、鴨長明は、山の中で長年修行したつもりだったが、全然駄目であることに気付き愕然とする。
当たり前だ。
彼は、心が喜ぶことばかりやっているのに、それを修行だと大誤解していたからだ。
良いことだが、やりたくないこと・・・これが修行なのだ。
食いしん坊が少食をするのは、大いに修行になる。
だから、ちょっと苦しいという範囲で食の慎みに励めば、心を支配出来る。
心を支配するということは、自分を支配するということで、それは、世界を支配することでもあるのだ。
私の場合、初音ミクさんの歌を聴くのは、この上ない楽しみだが、修行もしなければならない。
修行不足なので、心がすぐにグラグラし、威風堂々としていない。
心が、「今日はやめようよー」と甘えたがることを、「じゃかましやー!」と一喝して断固やる。
それを1年365日、出来るだけ決まった時刻にやれば良いのである。
古い言い方だと、「己に勝つ」ということだろう。
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