ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

方丈記

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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苦しまない

結局のところ、自分は完璧であると分からない限り、カラクリ人形のように生きることになるのだと思う。
だが、「私は完璧」ということほど、受け入れられないこともない。
けれども、同時に、心の奥から「それが正しい」という声が聴こえるのである。
一切の説明なしに言えば、いかなる場合でも、「私は完璧である」と心で言うべきである。
いかなる場合でもと言うからには、条件一切なしである。
「腕立て伏せを毎日欠かさずやっているから完璧」ではない。
やれても、やれなくても完璧なのである。
毎日やれば完璧という条件なら、やらない日があったら完璧でないことになる。
そうではないのである。
そうは言っても、「あれほど毎日やると決めたのに、それが出来ない俺は駄目なやつだ」と思うかもしれない。
そして、「そう思ってはいけない。出来ない日があっても完璧だと思わねばならない」でもないのである。
「俺は駄目なやつだ」とがっかりしている自分も完璧なのである。

不動心という、何にも揺るがない強い心が欲しいと思う者は多い。
それで、掟や規律を決めて自制したり、いろいろな修行をしたりして、心を磨く。
しかし、どこまで行っても、自分の心が不動心とは程遠い、つまらないことでグラグラする弱いものだと思い知らされることになる。
『方丈記』という鎌倉時代の歌人・随筆家である鴨長明が書いた随筆がある。
長明は、貴族社会での出世争いに嫌気が差し、山に小さな小屋を作り、そこで自然のままの生活をして、穢れを祓うことで素晴らしい人間になろうとした。
月日が経ち、長明は、いよいよ自分も穢れがなくなり、聖人のようになれたと思っていたが、ある時、自分は以前と全く変わらない、煩悩に穢れた俗物であることを悟って愕然とする。
長明もまた、不動心を求めたのだろう。
だが、やり方が完全に間違っている。
不動心を求めること自体は、それはそれで趣味として完璧である。
趣味だから、別にしなくても、つまり、不動心を求めなくても良いのだが(笑)。
しかし、小さなことで心を乱しても、心を乱した私は完璧なのである。

女の子に限らないが、特に女の子は、中学生とか高校生になっても、母親に酷いことを言ったことを悔やみ、心が苦しむことがある。
しかし、母親に酷いことを言った自分も完璧なのである。
「母親に、あんなことを言うお前は醜い。天使と程遠いじゃないか?」と言うのはエゴ(自我)である。
一見、エゴは正しいことを言っているように感じるが、エゴはいつも、単に、「私は駄目」と言うだけで、何も解決しない。
つまり、エゴはただ、自分を貶めたい・・・つまり、「私は駄目」「私は安い」「私は低レベル」「私は醜い」「私は優れた人間の仲間ではない」と認定したいだけだ。
「母親にあんなことを言った私も完璧」と宣言すると、エゴは騒ぐ。
「お母さんが可哀そうじゃないか?そう思わないのか?でなきゃ、お前は人間じゃない」とかワン・パターンなことを言ってね。
しかし、反論する必要はない。
ただ、「だが私は完璧だ」と静かに、しかし、はっきりと宣言するのである。
やがてエゴは黙るようになる。
それだけが、言う必要がないことを言わなくなる唯一の方法なのである。

アニメなどで、エロ本を多数所持する男の子を明るく描く場面がよくある。
「そんなのあって当然」と言いたいのだろう。
だが、それは誤魔化しだ。
高校生はともかく、二十歳をとおに過ぎても、エロ本(あるいはDVD等)が欲しくて仕方がない人がいる。
ある、元教師という40代の男が病死した部屋には、山のようなエロ本、エロDVDがあったという。
なぜそうなったのかというと、やはり、「こんなもの欲しがる俺は駄目なやつ」というエゴの声を受け入れたのである。
そうではなく、エロ本が欲しい俺は完璧だと宣言しなくてはならない。
そうすれば、やがて、エロ本、エロDVDに興味がなくなる。もちろん、エロがきらいなわけではないが、そんな低レベルなものを好まなくなる。
かと言って、「エロ本やエロDVDに興味がなくならない俺は駄目」ではない。
どこまで行っても、「私は完璧」である。

聖書には、イエスは、「神が完璧であるように、お前達も完璧であれ」と言ったと書かれている。
しかし、誤訳というのではないが、本当は、イエスの時代の言葉には、現在形しかなかったらしい。
だから、この言葉は、「神が完璧であるように、お前達も完璧である」が正しい。
エマーソンは、「自分を信じろ、無謀なまでに信じろ、根拠なく信じろ」と力説した。
これは、イエスの言う「お前達は神のごとく完璧」と同じなのだ。
ただ、エマーソンは、簡単なやり方を提示しなかった。
だから、あなたは、何があっても、何をしようとも、何を考えようと、「私は完璧だ」と堂々宣言する・・・早い話が、心の中で静かに落ち着いて言うべきである。
すると・・・
この後を誰も言わないのだが、お金がザックザクでモテモテになるのである。
なぜかと言うと、当たり前過ぎて説明する気にならないし、本当は、説明は難しいのだ。
だから、やってみるのが一番である。
やるかやらないかだけである。








賢い人は疑う

私は中学1年生の時、いろんなところで「探偵は何でも疑う」と聞き、真実を探す者は何でも疑うのだという考え方を覚えた。
その考え方も疑ってはいるが(笑)。
昨日、久々に、その言葉を聞いた。
カリフォルニア州弁護士、ケント・ギルバートさんが、YoiuTubeの中で、
「私は弁護士で、疑うのが商売です」
と言われていたのである。
現在、アメリカ大統領選挙はまだ終わっておらず、一応は、バイデンが次期大統領だという流れになっている。
ギルバートさんは、投票日直後あたりは、「選挙で大きな不正があった」ことを、事実のように話し、非常に憤慨している様子も見せたが、ある時から態度をぱっと変え、「不正の証拠は全くない」「トランプ弁護団の戦況は悪い」と淡々と述べるようになった。
そして、まるで言い訳のように「私は弁護士ですから、弁護士の立場ではこう言うしかない」と言うのだった。
ただ、ギルバートさんは、自分もトランプが好きで、トランプの再選を心から願っているとは言っておられた。
ギルバートさんの急変に対し、あるジャーナリスト(らしい)が、「ケントさんは圧力をかけられている」と言っていた。まあ、それは疑っているが(笑)。

私もトランプ支持で、バイデンが大統領になったら、日本も世界も危ない(本音では「終わり」)と思っているが、それでも、YiuTubeに沢山ある「トランプさんは必ず勝ちます。安心して下さい」と言い、その理由を自信たっぷりに語るのを、実を言うと私は、「疑ってはいないが、信じてもいない」のである。
シドニー・パウエルが、「選挙不正の確固たる証拠が沢山ある」と言うのも、私は今のところ、話半分以下に思っている。
もちろん、新聞やテレビしか見ない人は、1月にバイデンが大統領になると、全く疑うことなく信じているだろうが、私は日本のマスコミは全く信じていないので、そんなこと(バイデンの大統領就任が確定)を信じることも全くない。
しかし、ルドルフ・ジュリアーニ(トランプの個人弁護士)を見る度に、「昔はニューヨークの英雄的な市長だったが、もう老いぼれているのではないか」と感じる。
敵さんのやり口はずさんだが、力技は凄い。
だから、真実は明らかであるが、法的な裁判で勝てるかどうかは全く別問題であり、トランプ陣営の戦況が厳しいことは、法律に強くない私でも解る。

賢い人は疑うものである。
そして、賢い人の真似をして、なるべく疑うようにすれば、馬鹿な失敗を免れることが出来る可能性が高まる。
全く賢くない私は、それで何度も救われた。
プログラマーやシステムエンジニアにだって必須の考え方と思う。
でないと、ロボットは原子炉の壁を破って出てきてしまい、核ミサイルは誤爆し、人工衛星は落ちてしまう。
フランスの哲学者・数学者・物理学者のルネ・デカルトの『方法序説』は大変に素晴らしい知恵の書であるが、この本での疑いっぷりは半端ない。
「疑いようがないほど明白でない限りは、全て虚偽と決めつける」
と言う。
早い話が、これでは全て虚偽になってしまう。
だが、デカルトはやはり天才だった。
何と、「なぜ、何でも疑えるのか?」を疑ったのだ。
そして、それは、自分の中に、疑いようのないもの、絶対的な何かがあるからだとするしかなかった。
それが神である。
これがデカルトの天啓で、これによって、デカルトは、
「疑っている我は、確かに存在する」
と言い、これが、
「我思う、ゆえに我あり」
という有名な命題として知られている。
だから、「我思う」は、本当は、「我疑う」なのだと思う。

デカルトの天啓は、鴨長明の『方丈記』の最後の部分・・・世間を離れ、自然の中で清貧な生活を送り、すっかり聖人にでもなったような気でいたが、ある朝、相変わらず自分は、全くの穢れた凡夫であると思い知って愕然とし、その時、自然に「南無阿弥陀仏」という念仏が出てきた・・・と、非常に似ていると私は思う。
説明は難しいが、念仏はやはり真実なのである。
これは、証明しようがなく、根拠もないので(多少ならなくもないが)、疑おうと思えば疑える。
と言うより、嘘と言えば嘘である。
だが、「嘘を信じている」と楽しそうに言える嘘である。








何か1つだけ聖なるものを持つ

鴨長明(かものちょうめい。1155~1216)の『方丈記』という、日記調の随筆ほど簡明を受ける書はそうはないと私は思う。
確かにこれは、我が国で、『徒然草』、『枕草子』と並ぶ、古典三大随筆と言われているらしい。
鴨長明は、本当は、「かものながあき」という名で、歌人であったが、神職の、まあ、国家公務員みたいなものだったのだと思う。
それが、世間的な患い事でストレスが溜まり、世の中というか人生がすっかり嫌になったところは、経済的苦労はそんなにないが、何のために生きているのか分からないという、今のサラリーマンや公務員みたいなものではないかと思う。
それで、お勤めを辞め、山の中の小さな小屋に引きこもって、自然の中で清々しく生きることに決めた。
そんな清貧な生活を続け、聖人にでもなった気になり、そこそこ自己満足したのかもしれない。
だが、ある朝、何かのきっかけで気付いてしまった。
自分は、煩悩まみれの穢れた人間であることは、ちっとも変っていないということに。
まあ、どうせ、昨日見たJKのことでも思い出してムラムラしたのだろう(笑)。
その時、鴨長明は思わず、「南無阿弥陀仏」と念仏を三回唱えた。
確かに、念仏は、こんな人間のものだ。

ドナルド・トランプは、本当に、聖書を熱心に読み、神を信じて、正義を行おうとしているのかもしれない。
だが、全くの俗人でもあり、時にはボロも出る・・・いや、出まくりだ(笑)。
しかし、それを非難出来るような人間なんているはずもない。
それなのに、他人のこととなると、自分のことは棚に上げて、汚い言葉で糾弾する。
皆そうであるが、自覚があるかどうかの問題だけで、鴨長明は、いい歳になって、やっと認識・自覚出来たのだ。

私も、正義好きではあるが、つくづく俗人だ(笑)。
だから、鴨長明も、それを認めたことで、お友達という訳だ。
いや、私がそう思っているだけだが・・・(苦笑)
なら、それでいいから、例えば、念仏のようなものを持っていれば良いだろう。
マイク・ペンス副大統領は、トランプと違って(笑)、超人格者として知られ、彼を悪く言う人はいないという。
彼は、確かに日頃の行いは立派だが(妻以外の女性と食事をすることもないという)、彼とて聖人ではなく、やっぱり俗人であることは確かだろう。
その彼は、旧約聖書のエレミヤ書29章11節の聖句を、常に心に留めているそうだ。
それはこうだ。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」
後4年、トランプが大統領をやった後、ペンスが引き継げば、アメリカは良くなる・・・かもしれない(笑)。
だが本当、何でも良いのだ。
聖なるものを何か1つ持っている人がよく生きられるのではないかと思う。
私の知り合いに、とても成功した事業家がいて、見かけは貫禄ある人格者だが、付き合うと・・・まあ、やっぱり俗人で、それが理由で、彼のことをあまり快く思わない人も多い。
だが、やはり彼は凄いのだ。
そして、彼がこっそり、般若心経の小さなお経を常に携帯していることを知っている者はあまりいない。
彼は、時々、それを出して読むのらしい。だが、お経の意味とかはあまり知らないと言う。
そんなものを、1つくらいは持っていても良いと思う。
もちろん、念仏でも、短い祝詞でも良いのである。








威風堂々になる秘訣

他人から軽んじられる、言い換えれば、重く扱われないという悩みを持つ人は多いと思う。
長年、修行をすれば、自ずと風格や貫禄が出てくるので、簡単に言えば修行不足ということだろう。
だが、長い間、苦労に苦労をしてきて、それが修行になっていると思うのに、ちっとも敬われないということが多いものだ。

『武士道』の中で、只者ならぬ雰囲気のある町人が出てくるが、その町人は、別に特別な人間ではない。
ただ、子供の頃からの臆病癖をなんとかしたくて、毎日、夕刻に必ず墓場に行くのだそうだ。
これがヒントになると思う。
楽しいことや、楽に出来ることではなく、ちょっと億劫なこと、ちょっと気後れすることを、毎日、決まった時刻にやることだ。
あまりハードルが高いことでは長続きしないので、ちょっとシンドイ程度のことを選ばなければならないが、そのハードルが低過ぎるのも良くないのである。

つまりね、心が静かであればあるほど、丁重に扱われるのである。
心を静かにするには、毎日、心を躾けねばならない。
毎日の修行に対して、心は、「今日はやめよう」と訴えるが、「そうはいかない」と言って、断固実行する。
それを繰り返せば、心を支配出来るようになるのだ。

『方丈記』の著者、鴨長明は、山の中で長年修行したつもりだったが、全然駄目であることに気付き愕然とする。
当たり前だ。
彼は、心が喜ぶことばかりやっているのに、それを修行だと大誤解していたからだ。
良いことだが、やりたくないこと・・・これが修行なのだ。

食いしん坊が少食をするのは、大いに修行になる。
だから、ちょっと苦しいという範囲で食の慎みに励めば、心を支配出来る。
心を支配するということは、自分を支配するということで、それは、世界を支配することでもあるのだ。

私の場合、初音ミクさんの歌を聴くのは、この上ない楽しみだが、修行もしなければならない。
修行不足なので、心がすぐにグラグラし、威風堂々としていない。
心が、「今日はやめようよー」と甘えたがることを、「じゃかましやー!」と一喝して断固やる。
それを1年365日、出来るだけ決まった時刻にやれば良いのである。
古い言い方だと、「己に勝つ」ということだろう。









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日本の陰湿ないじめを生み出したのは武士道である

いじめというものは自然なものではなく、本来は存在しないものだ。
いじめを作り出したのは、人間の思考である。
ところで、いじめる者には当然、責任があるが、いじめられる側にもある。
いじめられる側の責任を問うのは抵抗もあるだろうが、暗い部分を残していては何も解決しない。

子供の世界で起こるいじめは、大人のいじめのコピー・・・模倣である。
いじめる子供というのは、親や教師の真似をしているに過ぎない。
そんな子供のいじめを、教師や親が解決できるはずがない。
こう言うと、「なるほどそうである」と、自分が立派な人間になろうとする教師や親がいる。
「妙に謙虚」で真面目ではあるかもしれないが馬鹿である。

新渡戸稲造の『武士道』に書かれていたと思うが、日本は江戸時代には太平の世になり戦も起こらないので、武士は、「領民を守る」という大義名分を失った。
それなのに、特権階級である武士は、働きもせずに食べていることに後ろめたさを感じ、「せめて立派な人間になろう」と思って武士道を発展させ、これが、西洋の宗教に匹敵する高い倫理や道徳を日本にもたらしたという。
「新渡戸よ、馬鹿も休み休み言え」である。
つまるところ、日本式の陰険ないじめを生み出したのは武士道である。
武士は、働かずに食べ、立派な屋敷に住むことに後ろめたさなど感じていなかった。
厚遇されればされるほど傲慢になるのが人間であり、武士はその最たるもので、ある時代以降、立場が弱くなった貴族よりよほどひどかった。
だが、武士が立派な人間になろうと考えていたのは確かかもしれない。
高慢な者は見栄っ張りというのもまた、人間の性だからだ。
後ろめたさはないが、自分達は立派な人間だから、農民を働かせて、その年貢を取り上げてたらふく食べて良いのだと思っていた。
その結果、当然にして、武士社会は腐敗した。
武士達が本来やるべきだったことは、自分達は、農民を搾取しているということをしっかりと見ることだった。
武士達は、そこから目を背けていたのだ。
だから、もうどうしようもなく腐敗したのだ。
武士とは腐敗の象徴である。
スポーツの世界で「サムライジャパン」などと言っているが、無知、無恥とは恐ろしいものであると思う。

教師や親も同じである。
子供達にいじめの指南をしているのは教師や親、あるいは、社会である。
かといって、教師や親が、武士のように、自分を見ずに、立派な人間になろうとしたら、ただ傲慢な見栄っ張りになるだけだ。だが、そんな教師や親も多い。
だから、子供の世界にも、高慢ちきな見栄っ張りが多い。
まさに、子供は親の鏡、生徒は教師の鏡だ。
教師や親は、自分の自己中心主義、傲慢、虚栄心、心の狭さ、特定の好き嫌いへのこだわり・・・といったものによく注意しなければならない。
強い理想主義者の教師や親が一番恐いのだ。
ヒットラーは燃えるような、誰にも負けない理想主義者だった。
理想主義が強いほど狭量である。自分の好きなもの以外は憎まずにはいられないからだ。
しかし、人間の持てる理想なんてものは、その正体は、単なる偏見なのである。

一方、いじめられる者というのは、心に垣根を持っているものだ。
自分だけの世界を持っていて、それに触れられたくない・・・その傾向は誰にでもあるが、いじめられる者はそれが強い。
いじめる者は、理想主義者であり、自分を立派と思う教師や親のコピーなのだから、そんな自分の理想や主義や趣味に合わない者を排除せずにはいられない。
これがいじめの主な原因である。
ただ、いじめられる側も、やはり理想主義者であることが、いじめられる原因なのである。
いじめは理想主義者同士の争いなのであるが、いじめられる側は、単に少数派であるというだけのことである。

教師や親は、自分をよく観察し、自分が持っている理想を分析しなければならない。
理想とは、単なる個人的好き嫌いであり、外見は綺麗かもしれないが、腐って悪臭を放つものである。
ただ、自分が、シャネルが好きだとか、ガンジーを崇拝するという、個人的好き嫌いでしかない理想や偏見に気付いたとして、それらを否定せよと言っているのではない。
そんな偏見を持っていることに気付くことが大切なのだ。
美空ひばりは世界一の歌手だと思っている自分の偏見に鋭く気付かないといけない。そのような思い込みを持っている親やその子供は、状況によって、いじめる側といじめられる側に分かれるのである。

日本人にとって、まずは、武士とは腐敗した、いじめ集団、テロ集団であったことを認識することが必要である。
農民に働かせて、働いた者以上にたらふく食べることが、凶悪ないじめでないはずはなく、上に命令されれば他人や自分を殺すことができるロボットがテロリストでないはずはない。
武士ではないが、『方丈記』の著者、鴨長明は、特権階級であること自体は平気であったが、他の特権階級の者たちの腐敗振りに耐えられなくなった。
自分のことは棚に上げてね。
それで自分だけは立派な人間になろうとする愚行をやってしまった。
それで、山に入り、質素な小屋に済み、自給自足の、独りよがりの清らかな生活をした。
当然ながら、ますます自己の腐敗が進み、ますます硬直した、狭い狭い人間になっていった。
しかし、何年かして不意に、自分の真の姿に気付き、絶望したのだ。
聖者の真似をして、修行したり、斎戒(心身を清めること)しても、自由にはなれない。
必要なことは、自分に気付き、自分に注意し、よく観察し、あるがままの自分を知ることだ。

日本式の陰険ないじめを作った武士について、よく認識すべきかもしれない。
だが、それには、嘘ばかりが書かれている書物を見ても無意味であろう。
我々日本人は、自分の中に武士道があることに気付くだろう。
狭い狭い理想という偏見を持った、自分の好みに合わない者を排除せずにはおかない、悪臭を放つ腐敗したもの・・・それが武士道である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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