ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

新約聖書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

あなたが絶対に引き寄せ自在である理由

謙虚なことは良いことだ。
モーツァルトの伝記映画『アマデウス』で、自分に優る音楽家はいないと言うモーツァルトに対し、賢い老人が、「もっと謙虚になれないのかね」と忠告するが、モーツァルトは「僕が最高さ」と、態度を変えなかった。
そして、モーツァルトは若くして悲惨な最後を迎え、その亡骸は麻袋に詰め込まれ、穴の中に乱暴に落とされる。
傲慢が招いた結果であると言えるかもしれない。

ところで、『新約聖書』の『福音書』で、イエスは、偉大な預言者として知られるヨナより自分は優れていると宣言し、賢王ソロモンに対してすら、自分が優ると高らかに言い放った。
しかし、傲慢な感じはなかった。
これはなぜであろうか?

1963年のアニメ『エイトマン』の中で、スーパーロボットのエイトマンは、人類の支配をたくらむ超優秀な巨大AI(人工知能)に対し、こう言う。
「私は、あらゆる点でお前より優れている」
また、1967年のアニメ映画『サイボーグ009』で、9人のサイボーグ戦士達の中で、一番最後に作られたサイボーグである009に対し、サイボーグ達を作ったギルモア博士が、
「お前はこのサイボーグ達のリーダーだ。なぜなら、お前が最も優れたサイボーグだからだ」
と言い、009は「はい」と答える。
しかし、009は、単に一番優秀に作られただけで、別に、009自体が偉いわけではない。
しかし、エイトマンも009も、傲慢ではない。
その理由は、エイトマンは、自分を作った谷博士が最高の科学者であると信じているから、谷博士が作った自分は、そのAIより優れていると言っただけだし、009は、自分は、ギルモア博士の最高傑作だから、自分は優れていると思っただけだからだ。

イエスも同じなのだ。
自分は、父なる神が作ったのだから、間違いなく超優秀だし、自分は神の最高傑作だと信じているから、ヨナやソロモンに優るのである。
あなたも、神(あるいは潜在意識)が作ったのだし、あなたの世界では、あなたは神の最高傑作なのだ。
だから、あなたは自分が最も優れていると思うべきである。
モーツァルトだって、自分が一番優秀だと言ったのは正しいのだが、彼は、自分は偉いと思い、他を見下したから落ちてしまった。
モーツァルトの「私が一番」はエゴが言ったのだが、イエスの「私が一番」は、神、あるいは、潜在意識から出た言葉だ。

『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナ神が言う。
「私は、獣の中ではライオン、海の生物の中ではサメ、夜空の中では月、人間の中では王」
つまり、自分は最も優れた存在であると言い、さらに、神々の中でも自分が一番の神であると言う。
アルジュナ王子はそれを信じた。
すると、クリシュナ神は言う。
「人類で最も優れた男よ。私はお前を愛している」

あなたも、神(あるいは潜在意識)が作った最高傑作であり、あらゆるものに優り、神(あるいは潜在意識)はあなたを愛している。
これは断言出来るし、信じるべきである。
よって、あなたは引き寄せ自在でなくてはおかしいのである。








イエスと釈迦の引き寄せの教えはそっくり(超重要)

人間は、引き寄せの能力を、誰でも標準的に持っている。
標準的なのだから、そのやり方は簡単で、特別な人しか知らなかったり、学問を積まないと分からないようなものではない。
だが、当たり前のこととして学ぶ必要がある。
たとえば、歩くこと、走ること、泳ぐことのようなものだ。
人間は、見て学ばない限り、2足歩行、ランニング、スイミングは出来ない。
狼に育てられた人間の子供には2足歩行が出来ない。
江戸時代までの日本人は、飛脚と忍者以外は走ることが出来なかった。
人間は、泳ぎは、誰かから学ばない限り出来ない。

引き寄せのやり方を、現代のほとんどの人が知らないのは、学校や社会やテレビによって、忘れさせられたからだ。
別に、学校は子供達に、特に引き寄せのやり方を忘れさせるのではないが、子供達の自然な思考能力を奪うのである。
斎藤一人さんがよく、引き寄せのやり方について「俺と他の人との違いは、俺はなぜか知っていたということだ」と言うが、斎藤さんが知ってるなら、誰でも知ってるはずなのだ。
けれども、確かに、斎藤さんだけがよく知っているように見える。
それはなぜか?
簡単なことだ。
斎藤さんは中学校しか出ていない上、元々、学校が嫌いで、小中学校だって、真面目に通わなかったり、先生の言うことなど信じなかったからだ。
だから、斎藤さんは、引き寄せのやり方を忘れなかったのである。

私の場合、変わった覚え方をしていたのだ。
だから、私は、子供の時から、満天の星空の中から、何の手がかりもなく土星を特定したり、以前見たテレビ番組を、好きな時に再放送させたりといった、確かに凄いが、あまり役に立たないことが出来たのだ。
もちろん、私も学校が大嫌いで、大嫌いになる理由があった(その理由は関係ないので言わないが)。

引き寄せのやり方は、イエスと釈迦で特に違いはない。
イエスは、「お前には、神という大金持ちの父親のようなものがいて、お前を超絶愛しているので、頼めば良い」と言う。
釈迦も、「お前には、仏という途方もない金持ちの父親がいる。そして、お前は、仏が超愛している仏の後継者なのだ」と言う。
これらは
◆『新約聖書』の「ルカ福音書」の「放蕩息子の譬」
◆『法華経』第4章「信解品(しんげぼん)」の「長者窮子の喩え」
である。

そして、面白いことに、上記の福音書と法華経の該当部分を読めば分かると思うが、これらの話を端的に統合した訓練が、これまで何度も取り上げた「神実現の呼吸法」である。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。

以下に、私が愛読する聖書と法華経をご紹介する。








2人の超駄目息子のお話

『新約聖書』の『福音書』と『法華経』に、少し似た、大金持ちの駄目息子の話があるが、私は、両方共大好きである。

『福音書』の方は、だいたい、こんな話だ。
途方もない大金持ちである大農園主の父親に2人の息子がいた。
そのうちの1人が、父親に、ここを出ていくと言い、財産分与を求めた。
父親は、求めのままに大金を渡し、その1人の息子は父親のところから去った。
ところが、出て行った息子は、やがて財産を使い潰し、食べることも出来なくなり、豚の餌を食べる有様だった。
そこで息子は、「お父さんの所に帰って、奴隷として雇ってもらおう」と思い、父親の農場に帰った。
すると、父親は大喜びし、その息子に良い服を着せ、大宴会を開いて歓迎した。

『法華経』の方の話はこうである。
途方もない大金持ちの父親に幼い息子がいたが、ある時、この息子が行方不明になり、父親は必死で探すが見つからない。
だが、父親は諦めず、ずっと探し続け、50年が経った時、ついに、父親は息子を見つけた。
しかし、息子は浮浪者で、すっかり貧乏根性が身に付いていて、今、父親が「私が父だ」と言っても、受け入れてくれそうになかった。
そこで、父親は息子を奴隷として雇い、父親も息子と一緒に奴隷として働きながら、息子を少しずつ導いていった。
20年かかったが、ついに息子の心構えが立派になり、自分は寿命が尽きようとしていたので、息子と親類縁者全員を集め、息子に自分が父だと明かすと共に、皆に、この息子が自分の後継者であると言い、膨大な財産を息子に譲って死んだ。

両方のお話共、息子の駄目さ加減が半端ない。
『福音書』の方の放蕩息子は、落ちぶれるにしろ、豚の餌を食べないといけないという生活力のなさには呆れる。妻子を養えないまでも、男が自分1人食べていくくらいのことは、いくら何でも出来そうなものである。
『法華経』の息子も、浮浪者にまでなるとは、飛び切りの駄目息子であり、しかも、大金持ちの父親が、いきなり「私が父だ」などと言ったら、逃げ出すに違いないと思われるほど心が貧しくなっていた。
両方の息子共、働くことすら一切出来ない愚か者で、ひょっとしたら私やあなたより酷いかもしれない(笑)。
しかし、両方の息子共、やるべきことは、父親のところに帰り、父親に甘えることだけだった。
ちなみに、『福音書』と『法華経』の、大富豪の父親とは、神様や仏様であり、無限の富と力を持っている。
そして、両方の駄目息子は、私やあなたなのである。
我々は、これらの息子達に比べれば、少しはマシに見えるかもしれないが、この世で辛い目に遭いながら生きていることは同じだ。
だが、そんなことをしていないで、神様仏様の力を頼れば良いのである。
ドナルド・トランプがこよなく尊敬するノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ロングセラー『積極的考え方の力』の最後を、ピールは、「なぜ神の力を求めないのか」と、結んでいる。
また、求め方も書いているが、読者に伝わっていないかもしれない。
簡単過ぎて伝わらないのだ。
我々は、学校やマスコミから、ひねくれて考えるよう洗脳されているからね(笑)。
学校やマスコミは、我々に奴隷根性を叩き込んでいるのである。
だから、我々は、自分が神様や仏様の息子や娘だという実感を取り戻さないといけない。
そのためには、神様仏様の実体を知る必要がある。
それが出来るよう、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが、懇切に教えていたのだが、彼らの本の難しいこと(笑)。
彼らの言葉を記録したり、翻訳した人が、教えをよく分っていないので、易しい言葉にすることが出来なかったのだと思う。
だが、ネヴィル・ゴダードが、『At Your Commnad(翻訳:新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま)』で、同じことを、少しは分かり易く書いてくれている。








悪魔とどう戦うか

神というと、特に日本人は「宗教」と感じてしまうかもしれない。
だが、ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』だったと思うが、マーフィーは、
「人々の神に対する考え方が変わってきている。昔のような、天の上に住む、気難しい老人ではなく、年長の優れやパートナーと考える人が増えている」
といったことを書いていた。
マーフィーがこれを書いたのは、半世紀以上昔と思うが、その頃のアメリカは民主的で強力だったのだと思う。
今は、アメリカ人でも、そんな考え方を持っているかどうか疑問で、むしろ、神を信じない物質主義者が多くなったかもしれない。

ソクラテスは、「あらゆる優れたことは、人間がやっているのではない。神がやっている。私に何か優れたことがあるとしたら、やはりそうなのだ。私自身は何も出来ない。そのことを知っているという理由だけで、私は人間の中で一番知恵があるのだ」という意味のことを述べている。

人間というのは、霊と肉の融合と言われることがある。
そして、少し言い方が違うだけで、賢人は皆、そう言っている。
プラスの生命体(霊、神)と、マイナスの生命体(自我、肉)といったように。

神でも仏でも良いが、我々は、自分より高い存在があることを知らなければならない。
そして、敵も、肉より高い力を持っているかもしれない。
つまりは、悪魔(サタン)だ。
自分が、肉と自我であると思っていると、容易く悪魔に負けてしまう。

トランプ大統領の弁護団に加わった名弁護士、リン・ウッドは、今日の1つのツイートの最後を、こう締めくくっている。
God wins.(神は勝利する)

ウッド弁護士の主な敵は、見かけ上は、腐敗した政治家(民主党が中心だが、トランプと同じ共和党員にもいる)、そして、主要メディアだ。
この世界を暗闇に閉ざさないためには、負ける訳にはいかないが、敵の正体は、あまりに強大な悪霊である。
ウッド弁護士は、ツイートで、新約聖書の「エペソ(エフェソ)人への手紙、第6章12節」を引用している。

For we wrestle not against flesh and blood, but against principalities, against powers, against the rulers of the darkness of this world, against spiritual wickedness in high places.
私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
※日本語訳は、新共同訳『新約聖書』より。

ウッド弁護士は、この言葉を心に戦っているのだという。
ところで、この言葉より前は、こうなっている。

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
~新共同訳『新約聖書』より~

悪魔は身近におり、油断すれば、容易く配下の奴隷にされてしまう。
これは、象徴的な意味としても良いが、直接的な意味と取った方が良いかもしれない。
そこで、マーフィーが言うように、神を、年長の超優秀な無敵のパートナーと考えないと、我々に勝ち目はない。
我々には、何の力もない。
確かに、自分で出来ることは自分でしないといけないが、肉である我々自身には、何も大したことは出来ないのだ。
トランプ大統領の愛読書、ノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的考え方の力』は、こう締めくくられている。

なぜ神の力を求めないのか!
~『積極的考え方の力』(ダイヤモンド社。相沢勉訳 1964)より~








無限に許すのが断然お得

あまりはっきりとは覚えていないが、新約聖書の福音書で、誰かがイエスに、
「悪いことをしてきた相手を何度許せば良いですか?7度ですか?」
と尋ねると、イエスは、
「その70倍許しなさい」
と答えた。
77回という解釈もあるが、まあ、無制限に許せという意味と思う。
いまどき、そんなことを言うと、
「そんなに許せるか!」
「しかし、あいつだけは許せん」
「一度でも許せない罪がある」
などという声が上がりそうだ。

だが、イエスが言う通りにすることは、別に高潔であるとか、偉いからというのではなく、断然お得なのである。
言い換えれば、人を許さないのは、恐ろしいほど損なのである。

まず、相手が自分に悪いことをしてきたのは、自分が引き寄せた・・・つまり、本当は、自分が相手にやらせたのである。
そうでなければ、そんなことは起こらない(相手が悪いことをしてこない)。
つまり、本当に罪があるのは自分だ・・・などと言ったら、怒られるくらいでは済まないかもしれないが、少なくとも私はそう思っている。
この部分から納得しない人が多いが、敢えて言えば、この通りなのである。
そして、悪いことをされたら、誰でも腹が立つ。つまり、不快な気分になる。
それは、凡人でも、聖者でも同じである。
だが、この宇宙の厳然たる仕組みというのが、
「良い気分でいれば良いことが起こり、悪い気分でいれば悪いことが起こる」
である。
これは、科学的(特に量子物理学的)、心理学的、宗教的、霊的・・・どれで言っても正しいと思う。
だから、本当に賢い人は、悪い気分になっても、すぐに気持ちを切り替えて良い気分になる。
少しくらい悪い気分になっても、すぐに悪いことは起こらないし、良い気分(の作用)の方が悪い気分(の作用)よりずっと大きな力があるので、良い気分になれば、悪い気分の影響を容易く消せる。
とはいえ、悪い気分を放置したり、それどころか、多くの人がそうするのだが、悪い気分にさせた悪いこと(相手がしてきた悪いこともそうだ)について集中して考え、さらに気分が悪くなる。
すると、次の、さらに悪いことが起こり、ますます、気分を悪くすることになってしまう。
この「悪いこと―悪い気分」ループが習慣になってしまっている人が多く、結果、お金はないし、好きな人には相手にしてもらえず、人が去っていくと・・・いうのが、当たり前になってしまっている。

人を許さないと、こんなに損なのである。
別に、悪いことをしてきた相手を好きになれとか、仲良くしろというのではない。
その相手のことや、その相手がした悪いことに意識を向けるのをやめて、楽しいこと、建設的な興味を持っていること、面白いこと、愛すべきことに意識を向ければ良いのである。
それで気分が良くなれば、その者がした悪いことの影響もなくなるし、忘れてしまう。
また、悪い問題に蓋をしろというのではない。
負債があるなら返さないといけない。
しかし、負債に対し、ネガティブな感情を起こすのではなく、楽々と返すことが出来るはずだと考えることだ。
そう考えて気分が良くなれば、実際にそうなるだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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