ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

新約聖書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

速やかに奇跡を起こすには

新約聖書の福音書の中に、イエスが12歳の少女を生き返らせた話がある。
これは、奇跡を起こすポイントをうまく表現している。
それは、イエスが少女を蘇らせた時、その部屋に居たのが、イエスの他には、少女の両親と3人の弟子だったということだ。
イエスは、その他の者達を、全部部屋から追い出した。
少女の父親は、イエスの力を信じていて、少女が死にそうになった時に、イエスを呼びにいった。おそらく、少女の母親もイエスを信じていたと思う。
しかし、その他の者達はイエスを信じておらず、イエスが「少女は眠っているだけだ」と言った時に、イエスを嘲笑う者もいた。
そんな、イエスを信じない者、精神レベルが低い者を、イエスは追い払ったのだ。
そして、受容性のある人達だけになったところで、イエスは、
「タリタ、クム」
と言うと、少女は起き上がった。
この言葉は「少女よ、起きなさい」という意味らしいが、わざわざそこをアラム語で表記しているわけは、臨場感を感じさせるためで、後で述べることに役に立つ。

私は子供の時に、その場面を想像したところ、実に印象的な映像になったことを憶えている。
少女が横たわっている姿と、イエスが「タリタ、クム」と言って、ぱっと目を開いて起き上がった時の様子は自然そのもので、死と生の分断はなく、連続していた。

あなたは何かを願う時、そうなることを信じない人を追い払わないといけない。
そんな者達と遠ざかるという意味であり、そんな者達を意識から追い出すということである。
そして、イエスが「タリタ、クム」と言ったのは、少女が生きていることが前提であり、別に、イエスは少女を生き返らせたわけではない。
イエス自身も「少女は眠っているだけだ」と言っている。
あなたも、願いが叶っていることを前提にしなければならない。
「私はすでに持っている」
「それはすでに起こった」
と何度も唱えると良い。
イエスが「タリタ、クム」と言った時の様子を想像し、同じように唱えるのである。
すると、同じように速やかに叶うだろう。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新共同訳 新約聖書
(2)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(3)マーフィー成功の法則100(渡部昇一)
(4)奇蹟の時は今(ジャック・エンサイン・アディントン)

目覚め
AIアート2089
「目覚め」
Kay

奇跡を起こす練習

アメリカのSFテレビドラマ「X-ファイル(X-Files)」の第2シーズン、エピソード24は『Talitha Cumi』で、日本語では『タリサクミ』となっている。
これは、新約聖書・福音書の中にある、イエスが死んだ12歳の少女に言った言葉で、日本聖書協会の『新約聖書』にはこう書かれている。

そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。

「タリタ、クム」はアラム語で、セム語族が使っていたセム語が起源だというが、私は全く分からない。
「タリタ、クム」の意味は、単に「起きなさい」であるようだ。

イエスが、この少女に「起きなさい」と言った時は、少女は既に蘇っており、この言葉によって生き返ったのではないと思う。
イエスは、奇跡を起こす時、言葉は使わなかった。
水をぶどう酒に変える時、「水よ、ぶどう酒に変われ」とは言わなかったし、パンと魚を増やした時も「パンと魚よ、増えよ」とは言わなかった。
悪霊を人から追い出す時は、イエスは悪霊に対し、「去れ」みたいなことは言ったが、これは、悪霊がイエスを恐れてイエスの言うことを聞いたのである。

私も、小学4年生の時、何の情報もなく、夜空の星から土星を探した時も、「土星が見つかる」とも何とも、口でも心でも言わなかった。
7歳の時、目をつぶって交通量の多い車道に飛び込んだ時も(決して真似しないように)、「車よ来るな」と口や心で言ったわけではなかった。
言葉を使わずに命令を発したのだ。
他にも、このやり方で沢山のことをやったが、どんな馬鹿げたことでも実現出来た。ただし、欲張ったことはやらなかったが。
誰でも出来るが、学校やテレビで変な教育をされたことで、皆、能力が錆びついていると思う。
そこで、こんな練習をすれば良い。
空想の中で、大きな岩を(本当は小さい石ころでも良いのだが)、念力で浮かび上がらせたり、自在に動かす想像をする。
その際、心の中でも、決して言葉を使ってはならない。
実際に岩を動かせるのかというと、自分がやっていることが分かるようなことは自我の性質上、やり難いようだ。
空想の中でも、出来るだけさりげなくやることがポイントだ。
他にも、空想の中で、奇跡的なことを、言葉を使わずに命令して実現する、いろいろな練習をすると良い。
空を飛んだり、服を一瞬で変えたり、食事を出現させたりなどだ。
そうしているうちに、いろいろな奇跡が出来るようになると思う。
多少、参考になる本と言えば、今朝も書いた通り、ネヴィル・ゴダードの『AT YOUR COMMAND(翻訳:世界はどうしたってあなたの意のまま)』だと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(2)波動の法則(足立育朗)
(3)新約聖書(日本聖書協会)
(4)新約聖書 福音書(塚本虎二)

ともしび
AIアート982
「ともしび」
Kay

「行け俺」のノリで「消えろ俺」と言う

キリスト教に興味がなくても、イエス・キリストの荒野の試練の話は何となく知っているのではと思う。
これは簡単な話ではあるが、福音書に載っているままでは、それでも複雑過ぎるから、もっともっと単純に言ってみる。
イエスは、粗末な服と靴だけで・・・小屋のような建物すらなく、食べ物が入ったリュック1つない状態で40日を過ごしていた。
そんな、食べ物だけでなく、物質的なものへの欲求が極大になっているイエスのところに悪魔がやってきて、「俺に従うなら、何でも、世界中の富ですらやる」と言って、自分に服従するよう誘惑する。
福音書では、イエスがそれを断る理由をいちいち書いているので話をややこしくしているが、つまるところ、イエスは、「いらん。サタンよ、お前の負けだ。失せろ」と言ったのだ。
この「失せろ」もまた、福音書では「退けサタン」などと変な書き方をするから誤解を生むのだ。

ところで、このサタンの正体は、自我(エゴ)で、これは心であることは間違いないと思う。
そこまでは指摘している人は多い。
だが問題は、「失せろサタン(福音書的には「退けサタン」)」と言ったのもまた心だということだ。
なぜなら、心ではない本当のイエスであるキリスト(魂。真我。聖霊。内なる神)はそんなこと言わないからだ。
これはちょうど、馬鹿なことをした自分に、自分で「この大馬鹿者」と言うのと同じだ。
「この大馬鹿者」と言っている自分も、言われている自分も同一人物で、つまるところは同じ心だ。

イエスは、自分に対して「失せろ」と言い、自分が本当に失せた・・・つまり消えたのだ。
「行け俺」と言って俺が行くのは分かるが「消えろ俺」と言って俺が消えるのは奇妙に感じるが、同じことだ。
「自分を甘やかす」という言葉があるが、甘やかすのも甘やかされるのも自分・・・同じ心だ。

イエスの「退けサタン」は、「失せろ俺」という意味だが、この俺は心である。
よって、イエスは「失せろ心」と言ったのである。
これなら「退け心」と言っても良い。
だが、「失せろ」「退け」とは言ったが、実は、「消えろ」とまでは言わなかったのだ。
これはちょうど、議論をしていて、明らかに間違った論を主張する者に対し、正しい論を言う者が「失せろ」「退け」と言うのは正しいが「消えろ」と言うのは正しくないのと同じだ。論が間違っていても「居る」権利はあるのだ。
そして、間違った論を主張することをやめ、大人しくしていれば、正しい論による恩恵を間違った論を持つ者にも与えるのである。
これが真の民主主義である。

行け私
AIアート539
「行け私」
Kay


では、間違った論を持つ者をどうすれば大人しくさせることが出来るかご存じだろうか?
仕事を与えることだ。
間違った論を声高に主張するのは暇だからだ。
簡単だが気を抜けない仕事を与えておけば、静かになる。
たとえば掃除とか在庫確認とか。
「いや、掃除や在庫確認は難しいこともある」という空気の読めない、IQが低い主張は、やはり暇な者のやることだ。
そこで、心に、腕振り運動とか、足踏み四股、マントラ、念仏といった単調な作業の監督をさせたり、最高なのは静かで深い呼吸をさせることだ。
これが、キリスト、あるいはブッダ(仏陀。如来)になる原理である。
尚、腕振り運動、足踏み四股、深呼吸は、ダイエットや健康や身体強化といったオマケも沢山付いてくるのだから、やらない理由がない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
□足踏み四股に関して
(4)四股鍛錬で作る達人
(5)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
□呼吸に関して
(6)人生を思うように変える呼吸法
(7)弓と禅 単行本

なかなか思考を消せない人へ

思考を消せば全知全能であるが、それを達成するのは難しいかもしれない。
それが本当に難しいのではなく、我々は思考するよう教育され、思考することが素晴らしいと洗脳されているから難しいのだ。
そこで、イエスはそこ(思考を消してしまうこと)までいかなくても済む方法を教えている。
それは、新約聖書の福音書に書かれていることで、イエスが言ったことから読み取れる。

イエスは「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。
すると、人々は笑った。
その地の神殿は、建てるのに何十年もかかったからである。
だが、イエスが言った神殿とは身体のことで、実際、イエスは処刑されてから3日後に蘇った。
イエスの身体だけが神殿なのではなく、人間の身体は神殿なのである。
だから、望めば神はいつでも来てくれて、一緒に食事をしてくれる。

ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』だったと思うが、進歩的な人々は、神を遠い天に居る気難しい老人ではなく、年長の大変な知恵と力を持ってはいるが、親しいパートナーであるとみなしている。
その神は、宇宙に遍在するが、我々の身体にも宿るのである。
だから、頭が悪く、力もない我々は、神に一切をまかせて安心すれば良いのである。
同じことを、ラマナ・マハルシは、「列車に乗ってまで、自分の荷物を担いでる必要はない。荷物を下ろして安心しなさい」と言ったのだ。
また、矢追純一さんが「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言ったが、それにより、矢追さんは神という言い方はお好きではないようだが、我々の頭がパソコンなら、スーパーコンピューターに匹敵する存在が考えてくれると言っているのであるから、これもイエスらが言ったことと同じと思って良い。

空に溶ける少女
AIアート443
「空に溶ける少女」
Kay


『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、「私は心臓に棲む」と言ったが、心臓の内部に広大な亜空間があると思い、そこに神を迎え、親しくすれば良い。
旧約聖書の『ヨブ記』の22章21節に、
「さあ、あなたは神と和(やわ)らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」
とあるようにである。
このように、どの宗教も本質では同じなのである。
同じような教えは、神道にも仏教にも当然ある。








これさえ憶えていれば願いは叶う(決定版)

引き寄せ。あるいは、潜在意識の法則で願いを叶える過程が、新約聖書の「マタイによる福音書」の中の短いお話に簡潔に書かれている。
私が好きなお話なので、何度も書いたが、よくよく味わう価値があると思う。

イエスの弟子達が湖の沖に浮かぶ船に乗っていたが、風が強く波が大きかった。
夜が明ける頃、イエスは湖上を歩いて船に向かったが、それを見た弟子達は、幽霊だと思って恐怖し、叫び声を上げた。
イエスは、「私だ。安心しなさい。恐れるな」と言った。
すると、ペトロ(ペテロ)が、イエスに、
「私に命じて、私を水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」
と言い、イエスが、
「私は命じる。来い」
と言うと、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方に向かった。
だが、途中でペトロは強い風が吹いていることに気付き、怖くなって沈みかけたので、イエスに助けてくれるよう懇願すると、イエスは手を伸ばしてペトロを捕まえて、
「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」
とペトロを叱った。

マルコ福音書やヨハネ福音書にも、イエスが水の上を歩く話はあるが、ペトロが水の上を歩くのはマタイ福音書のみである。
ルカ福音書では、イエスが水の上を歩く話すらない(最初から船に乗っていた)。

上の話を憶えておけば、どんな願いも叶えられる。
まず、イエスが水の上を歩いたことは、潜在意識との間の壁がない者は、潜在意識の力により万能であることを示す。
ペトロは、その事実を信じ、自分もそれをやるよう命じて下さいとイエスに願ったら、イエスは「私は命じる」と言った。
ペトロの望みは水の上を歩くことだった。
そして、イエスが「私は命じる」と言ったことが重要である。
この「私」は、イエス個人のことではなく、「真の自己」のことで、真の自己が命じたら潜在意識は何でも叶えるのである。
ペトロの真の自己が命じたので、ペトロもイエスと同じように水の上を歩いた。
だが、ペトロは強い風に気付いてしまった。
それまでは、ペトロは風を意識しなかったのである。
意識しないものは存在しないのと同じである。
つまり、一切の困難、問題は、意識するから存在するのであり、意識を逸らせてしまえば存在しない。
ここが、普通の人がなかなか分からないことであるが、引き寄せのマスター達は皆知っている。
理解したければ、ジョセフ・マーフィーが天才と讃えたネヴィル・ゴダードの『世界はどうしたってあなたの意のまま(原題:At Your Command)』に詳しく説明されている。
ペトロは、せっかく望みを叶えたのに、強い風という問題を意識してしまったために、望みが叶っていない状態に戻ってしまったのである。
ところで、少し戻るが「真の自己が命じる」は、どうすれば良いのだろうか?
つまり、どうすれば、自分が願うことを、真の自己に命じてもらえるのだろうか?
何もする必要はない。
願望が浮かんだ瞬間に、真の自己は「それを得よ」と命じているのである。
ペトロは、考えて「水の上を歩きたい」と思ったのではない。
ペトロは、イエスが水の上を歩くのを見た瞬間、「水の上を歩く」という願望が浮かんだ。これが即ち、真の自己の命令である。
そして、願望が浮かんだ瞬間に、願望は叶うのである。
これは凡人でも例外ではない。
だが、すぐに強い風(「そんなことがあるはずがない」という疑い)が浮かぶ。
これはエゴの声で、凡人は、真の自分の声ではなく、エゴの声に従ってしまい、願望はキャンセルされ、願望が叶った状態が消えたのである。
イエスは、「なぜ、真の自分の声ではなく、エゴの声を信じたのか」と叱ったのである。

1つだけ付け加える。
願望は真の自分の声であるなら、誰かを殺したいという願望もそうなのだろうか?
そうではない。
誰かを殺したいというのは、真の自己の声を歪んで解釈しただけだ。
誰かを殺したいというのは、欲求を叶えるための短絡的な考えだ。
『南から来た用心棒』という映画の中で、大悪党が初めて殺人をした時のことを語る。殺したのは自分の父親で、その悪党が子供の時だった。
子供の時、彼は、父親の懐中時計が欲しいと思った。
父親は「俺が死んだらお前のものだよ」と言った。
悪党は笑って言う。
「5秒後に俺のものになっていた」
我々は、このように短絡的に考える愚か者になってはならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード