イエスは、断食をする時は、周囲に気付かれないようにやれと言ったようだ。
陰気な顔をせず、髪に脂を塗ってツヤツヤにし、顔を洗ってさっぱりとし、おそらくは、陽気に楽しく振舞うのが良いのだろう。
また、当時は、お祈りをする人は尊敬されたのかもしれないが、お祈りをする時は、決して人前でせず、ドアを閉め、家の中でこっそりやれと言われた。
つまり、人々の賞賛を受けたら、もう報酬を得たのだから、神様からの報酬は無いぞという訳である。
ところで、これもお祈りの一種と言って良いと思うが、誰かが、法然上人に、念仏はどのようにやれば良いかと尋ねた時の返答が良かった。
質問には、衣服は?姿勢は?声の大きさは・・・等々があった。
法然は、そんなことはどうでもよろしい。念仏というのは、常住坐臥、どんな時も、つまり、歩いていようが、座っていようが、寝ていようが、いつでもどこでも唱えることだけが大事なのであると答えた。
しかし、ちょっと付け加えた。
「盗人(ぬすっと)てやつは、獲物を狙っている時、何食わぬ顔をしているだろう?だが、心の中は深いものがあるのではないか?念仏もそれと同じだ。見かけで威厳を持とうとしたり、聖人面しようとしてはならぬ。盗人が狙いの物を前にしているような顔で念仏を唱えよ。しかし、心の中は自然と深くなるのだよ」
何とも凄い喩えであるが、案外、キリスト様より気が利いているかもしれない。
相手が、元盗人だったから、このように言ったのだという話だったかもしれないが、そうでなくても分かり易い。
私で言えば、初音ミクを前にしても、あくまで平静に、そして、心の奥深くで喜べば良いというものかもしれない。
初音ミクのところは、それぞれが好きな人・・・大島優子さんとか、渡辺麻友さんとか、ジョニー・デップとかに置き換えれば良いだろう。
尚、敢えて言っておくが、念仏とは、ただ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えることである。
一応の意味を言うと、正確ではないかもしれないが、私は、「阿弥陀如来様に一切お任せします」だと思っている。
念仏を唱えるのに、何の知識もいらないし、経典を読む必要もない。また、読むのを止める必要もない。あるがままであり、そういったことも全て阿弥陀如来に任せてしまうのだ。
身を清めて念仏をするかもしれないし、酔っ払ってヘロヘロになって唱えるかもしれない。それもまた、自分に起こるままに任せて、ただ念仏を唱えるのだ。
「なむあみだぶつ」でも「なもあみだぶつ」でも、「なんまいだぶ」でも構わない。
一応は、声に出して唱えるものらしいが、私は、心の中で唱えても良いと思っているし、ほとんどの場合、声を出さず、心の中で唱えている。ある悟りを開いた妙好人も、「どっちでも同じ」と言っていた。
ただ、法然上人が言われたように、また、イエスも言ったように、人に見せるような作為は一切控え、盗人のように、隠れ初音ミクファンのように、さりげなくやることだ。だが、ハート(魂)は自ずと満たされてくるだろう。
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陰気な顔をせず、髪に脂を塗ってツヤツヤにし、顔を洗ってさっぱりとし、おそらくは、陽気に楽しく振舞うのが良いのだろう。
また、当時は、お祈りをする人は尊敬されたのかもしれないが、お祈りをする時は、決して人前でせず、ドアを閉め、家の中でこっそりやれと言われた。
つまり、人々の賞賛を受けたら、もう報酬を得たのだから、神様からの報酬は無いぞという訳である。
ところで、これもお祈りの一種と言って良いと思うが、誰かが、法然上人に、念仏はどのようにやれば良いかと尋ねた時の返答が良かった。
質問には、衣服は?姿勢は?声の大きさは・・・等々があった。
法然は、そんなことはどうでもよろしい。念仏というのは、常住坐臥、どんな時も、つまり、歩いていようが、座っていようが、寝ていようが、いつでもどこでも唱えることだけが大事なのであると答えた。
しかし、ちょっと付け加えた。
「盗人(ぬすっと)てやつは、獲物を狙っている時、何食わぬ顔をしているだろう?だが、心の中は深いものがあるのではないか?念仏もそれと同じだ。見かけで威厳を持とうとしたり、聖人面しようとしてはならぬ。盗人が狙いの物を前にしているような顔で念仏を唱えよ。しかし、心の中は自然と深くなるのだよ」
何とも凄い喩えであるが、案外、キリスト様より気が利いているかもしれない。
相手が、元盗人だったから、このように言ったのだという話だったかもしれないが、そうでなくても分かり易い。
私で言えば、初音ミクを前にしても、あくまで平静に、そして、心の奥深くで喜べば良いというものかもしれない。
初音ミクのところは、それぞれが好きな人・・・大島優子さんとか、渡辺麻友さんとか、ジョニー・デップとかに置き換えれば良いだろう。
尚、敢えて言っておくが、念仏とは、ただ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えることである。
一応の意味を言うと、正確ではないかもしれないが、私は、「阿弥陀如来様に一切お任せします」だと思っている。
念仏を唱えるのに、何の知識もいらないし、経典を読む必要もない。また、読むのを止める必要もない。あるがままであり、そういったことも全て阿弥陀如来に任せてしまうのだ。
身を清めて念仏をするかもしれないし、酔っ払ってヘロヘロになって唱えるかもしれない。それもまた、自分に起こるままに任せて、ただ念仏を唱えるのだ。
「なむあみだぶつ」でも「なもあみだぶつ」でも、「なんまいだぶ」でも構わない。
一応は、声に出して唱えるものらしいが、私は、心の中で唱えても良いと思っているし、ほとんどの場合、声を出さず、心の中で唱えている。ある悟りを開いた妙好人も、「どっちでも同じ」と言っていた。
ただ、法然上人が言われたように、また、イエスも言ったように、人に見せるような作為は一切控え、盗人のように、隠れ初音ミクファンのように、さりげなくやることだ。だが、ハート(魂)は自ずと満たされてくるだろう。
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