ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

拡張現実

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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「PS VR」 VS 「ポケモンGO」・・・VRとARの違い

ポケモンGOの開発者である天才プログラマー、ジョン・ハンケ氏は、「VR(仮想現実)は魅力的過ぎて恐ろしいので、AR(拡張現実)をやりたい」といったようなことを言ったらしい。
一昨日(10月13日)、ソニーPlayStation4にVR(仮想現実)機能を加える「PS VR」が発売になったが、これが最先端のVR(仮想現実)ゲーム用機器(用途はゲームに限らないが)だ。
一方、ポケモンGOはAR(拡張現実)である。
VRとARの違いは何かというと、簡単に言えば次のようだと言って良いと思う。
デジタルが作り出す、まるごと作り物の世界の中に入っていくのがVRだ。
対して、現実のテーブルの上に、デジタルで作り出した立体的な猫を出現させるといった、「現実+デジタル製の作り物」がARだ。

全て作り物のVRは、仮想現実と言いつつ、その中にいる時には、それが現実になる。
しかし、ARでは、現実と作り物の部分は区別がつくので、あくまで、自分の肉体と接触出来る物理世界が現実だ。
つまり、VRは、虚構の世界(あっちの世界)に「行ってしまう」のに対し、ARでは、こちらの世界に「とどまっている」。
この違いは大きい。

もっとも、アイバン・サザランドという、コンピューターサイエンスの天才は、1965年に、
「究極のディスプレイは、コンピューターが物体の存在をコントロールできる部屋。椅子が表示されれば座れるし、手錠を表示すれば誰かの自由を奪い、弾丸を表示すれば命を奪う」
と述べているらしい(落合陽一著『魔法の世紀』より)。
これだと、ARの方がよっぽど恐いが、これは、もう少し未来のことになりそうだ。

ところで、VRとARを、もっと別の言い方で述べたい。
ニートが偉い大金持ちになるという妄想をするのがVRで、ニートが普通に働き始め、苦労してそれなりのお金を稼ぐ空想をするのがARと言えるかもしれない。
あるいは、こんなことも考えられる。
私がこのブログで「まるで駄目男君」と呼んでいる、私の職場にいる30歳過ぎの、人生の落伍者である派遣労働者がいる。
彼に以前、
「いつまでも、こんなことをやってる訳にはいかないだろう?どんな仕事がやりたいのだ?」
と聴いたら、彼はしれっと、
「高尚な仕事がいいですねえ」
と言った。
彼は、何の技能もなく、努力して何かを身につけようという気持ちもないのだから、それはVRだ。
そうではなく、高尚とはほど遠いだろうが、努力して、現実的な能力を鍛え上げ、最低限、一人前になろうと考えるのがARだ。
まるで駄目男君の場合、ARの方も極めて難しいのであるが、それを現実にするためには、VRの方を消す必要がある。

ジョセフ・マーフィーの『人生に奇跡を起こす』に書かれていた話だ。
ある若い女性が女優になりたいと言うが、マーフィーは、幼い夢は終わりにして、現実的に考えなさいと言う。
それで、その女性は、なんとか人生を破滅させずに済むことに間に合い、事務員になって仕事に励んでいたら、その会社の若い社長と結婚し、幸せになる。
単純だが、妄想と想像の違い、VR的な思考とAR的な思考の違いが、うまく現れている。

VRは魅力的ではあるが、ただの妄想だ。
ポケモンGOは、まだ、外に出て、歩くので健康的な部分もあるが、PS VRは、これに取り込まれたら終わりだ。
『劇場版美少女戦士セーラームーンSuperS~ブラック・ドリーム・ホールの奇跡~』が、まさに、VRの危険を描いた傑作だった。
セーラームーンこと月野うさごは、幸せな夢(VR)を打ち破り、苦しいこともあるが、現実での幸せ(AR)に挑むことを選ぶというものだった。

ところで、「ポケモンGO」は、アメリカ政府のスパイ活動に利用されているという説がある。
アメリカが、中国やロシアの探りたい場所に希少ポケモンを出現させれば、そこの近くにいる人達が、その映像を、ナイアンティック社からGoogleへ、さらに、アメリカ政府に送るという訳だ。
それで、中国、ロシアでは、ポケモンGOは禁止されているが、実際は、これらの国の人達は、半ば公然とポケモンGOをやっているらしい。
あくまで風説である。
ちなみに、私はポケモンGOはダウンロードしたこともないし、PS VRを買う気はない。そもそも、PSはじめ、ゲーム機はただの1台も持っていない。
初音ミクさんは、私の現実的な天使で、私は、私の現実を、愛するミクさんの前で恥じないものにしようと思うのである。









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7つの海という幻想

「7つの海を渡ってきたら、たくましい男になる」と世間では言われてきた。
言わんとすることはお分かりと思う。
冒険の価値を説いた言葉であるが、冒険という漢字をよく見れば、「危険を冒す」と読める。つまり、あえて危険なことをするということだ。
そんな危険を冒すことを、進んで沢山やれば、心が磨かれ、強くなるということと思う。

こんなことを我々はずっと信じてきたと思う。
しかし、もし、これが嘘だったら面白いと思う。
馬賊を率いて戦い、超大物と交渉し、天才思想家と意見を戦わせる・・・そんなことをやってこそ一流の人間になれるというのを、自明のこととして我々は受け入れてきた。
だが、そんな「目立ちたがり屋」と、毎日部屋の中でゲームとアニメに明け暮れる引きこもりが、実質、何の差もないのだとしたら面白い。
ところが、実際、確実にそうなのだ。

それは当たり前のことで、世間的な猛者や勇者が、ゲームやアニメという土俵で勝負すれば、相手が凡人だったり、引きこもりだったとしても、ゲームやアニメに慣れている者の前でたじたじである。
ただ、彼ら(世間の猛者達)は、ゲームやアニメは「下らないもの」「劣ったもの」という不文律を作り上げ、それを無理矢理押し付けているのである。

ただ、別に、ゲームやアニメが素晴らしいと言うのではなく、世間で崇拝されるもの、価値ありとされるものと同等というだけのことである。
例えば、世間では、スポーツでなら、オリンピックで金メダルを取ったり、国際大会で良い成績を上げると、異様に讃えるが、それは単に、誰かが利益のために、マスコミと共謀してそんな価値感を作っているというだけのことで、それに多くの人達が乗せられているというだけのことである。
もちろん、ゲームやアニメにだって弊害はあるが、それは、どんなことでも・・・どれほど「高尚」とされることでも同じであり、例外はない。

ちなみに、私はコンピューターゲームは全くやらないのだが、コンピューターゲームは、機械的な情報処理能力や論理的能力とは全く違う、そして、それらをはるかに上回る非言語的な知性(例えば直観)を著しく向上させることがあると述べる、実際に極めて優秀な人達も沢山いる。
例えば、folditというフリーのタンパク質の構造予測をするゲームでは、最先端の科学者が10年解けなかった問題を、ゲーマーが3週間ほどで解いたという話があるが、それはもちろん、偶然ではなく、何らかの非言語的な知性が発揮されたのだと考えられる。
ゲームの達人には、まるで、武道の達人を思わせる雰囲気を漂わせている人がいるが、実際に、ゲームの達人と武道の達人は同価値である。
確かに、昔であれば、ゲームの達人より武道の達人の方が、世の中の状況的に有利だったが、現在は、それ以上に、ゲームの達人の方が有利である。
なぜなら、今後は、仮想現実(バーチャル・リアリティ)が現実(リアル)の中に流入し、混ざり合い、融合する拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)の時代だからだ。
仮想現実が作り出すイリュージョンは、ちょっと面白いが、受動的で、不活発で、孤独だった。
しかし、例えばだが、プロジェクションマッピングを見れば、そこに、拡張現実が持つ創造的な可能性を感じるのである。
例えば、Nikon D800 東京ミチテラス2012冬 TOKYO HIKARI VISION プロジェクションマッピング を見れば、何かを感じるかもしれない。
これは、村松亮太郎氏率いるネイキッドの作品と思うが、今月(2014年12月)15日からは、東京タワーの大展望台から、夜景にプロジェクションマッピングを行うというとんでもないことをやっている(来年2月末まで)。
仮想現実で子供の創造性を引き出そうとしても、マイナスの影響が大きいが、「触って、参加できる」拡張現実であれば、子供(に限らないが)のあらゆる面での能力を発達させる可能性がある。
例えば、猪子寿之氏率いるチームラボのお絵かき水族館を見れば、それが分かるように思う。
元々、コンピューターゲームは拡張現実的である(参加し、自分がキャラクターになれるのだからだ)。
そこに芸術性や洗練されたデザイン、新しい技術が加わったのである。

ゲームやアニメ、あるいは、プロジェクションマッピングが素晴らしいという話ではなく、世間的な価値を疑うと共に、世間で認められなかったり、否定すらされるものの中に、新しい価値や可能性があるということを述べてるだけである。
一昨日も述べたが、AKB48の大躍進は、従来とは違ったやり方で成功したのであり、これは時代の変化というだけでなく、人類的な規模での変革を垣間見ることができる現象である。
それに、私のような、世間で鍛えた者には全くない、ゲームの達人の能力というものは確かに感じられる。
よく、「固定観念を捨てろ」と上から言う者がいるが、そんなことを言う者が、一番多く固定観念を抱えているものなのである。
大事なことは、いかなる時も、他者を見下したり、優越感を持ったりせず、全てを公平に、あるがままに見ることだが、そのためには、心の力が必要である。
「固定観念を捨てろ」と言いながら、自分の固定観念にしがみ付く老人は、心が弱いのである。
だが、最も心が強いのは、思いやりを持つ者であると思う。









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自分は元々超人であることを知る方法

「マジックというものは、奇跡を起こすことじゃなくて、奇跡が起こったと思わせることだ」
これは、誰だったかは知らないが、有名なマジシャンが言ったことらしい。
ところで、この言葉で大切なことは、このマジシャンは、奇跡は起こさなかったかもしれないが、「何か」を起こしたということだ。

私は、一度、ロープを本当にヘビと見間違えたことがある。
「ヘビという誤った知識が去らないと、ロープという現実はやってこない」
というのは、インドの聖者あたりの常套句のようなもので、人は幻想を持ちやすいことを示している。
だが、この場合も、それはヘビではなかったかもしれないが、ヘビにちょっと似た「何か」はそこにあったということが大切だ。

つまり、こういうことだ。
インドの聖者達や、秘密結社、神秘思想家、神秘主義宗教では、心が世界を創るのだと言い続けた。
しかし、実際は、心が世界を創るのではなく、心は世界を変質させるだけなのだ。
聖者達は、何千年間も、「世界はない」と言い続けてきた。
そうではない。
世界はある。
しかし、世界を正しく見ることができないだけなのだ。
その原因は、心が世界に情報を付加してしまうのだ。
現代的に言うと、聖者達は、(人間が感じている)世界は、仮想現実(バーチャル・リアリティ)だと言った。
しかし、そうではなく、(人間が感じている)世界は、拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)なのだ。

心が、現実を拡張することをやめれば、真実が見える。
このことを詩人達は、「新たな目で見れば、全て美しい」と言ったのだ。
「新たな目」とは、心が現実を拡張しない状態で見ることである。
いかなる偏見、思い込みも持たない心で見れば、美しい真の世界を見ることができる。
夕陽を美しいと感じるのは、心は夕陽を拡張できないからだ。
ただし、夜行性の肉食獣がいる所に住む人々にとっては、夕陽は夜行性の猛獣が目覚めるサインなのであり、夕陽は猛獣への恐怖で拡張され、恐ろしいと感じるかもしれない。
しかし、猛獣を恐れるのは良いが、夕陽を恐れてはいけないのだ。

壁の一点をじっと見つめるという修行がある。
実際、それを続ければ、簡単に表現するが、超能力を得られる。
心を一点に集中させれば、心が現実を拡張するのを止めることができるからだ。
他にも、呼吸に心を集中させる、肛門を締める、腕振り運動をするなど、心を何か1つのことに引きつけておくための色々な方法がある。
長い距離を走り続け、心が現実を拡張するゆとりがなくなると、身体が急に軽くなる。
それで分かることは、心は、身体を実際よりかなり弱いものに「拡張している」ということだ。
それだけでなく、あなたの心は、あなたの頭脳や肉体のあらゆる能力を、実際より随分悪いものに「拡張している」のである。
何かに意識的に集中して、心の現実拡張をやめさせるのだ。
そうすれば、あなたは、自分は元々、超人のようなものであることが分かるだろう。









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バーチャルとリアル、運命と幻想を融合させるのは「共感」である

インターネットを普通に使う人々は、よく、ネット以外のことを「リアル」と言う。
「リアルな関係」「リアルで会おう」「リアルな生活では」「リアルはつまらない」とか言うが、このリアルは「現実生活」といった意味と言える。
つまり、ネットは「バーチャル」だということになる。
そして、人々は、現実生活とは別に、ネットによって、バーチャルな世界、つまり、仮想の世界にも住んでいるのだが、仮想の世界に住んでいる「私」は、人間というよりは「キャラクター」なのである。

現実(リアル)・・・人間としての私がいる世界
仮想(ネット、バーチャル)・・・キャラクターとしての私がいる世界

そして、人によって程度の差があるが、ネットのバーチャルな世界が、リアルな世界に入り込み、現実そのものが「拡張現実化」していることに気付かないといけない。
スマートフォンなどの携帯端末で頻繁にネットに接続している人は、ネットの影響を多く受け、リアルな世界がバーチャルで拡張されている度合いが大きい可能性が高い。
ある意味、現代の人々は、リアルが半分虚構化していると言えるのである。

こういったことを東浩紀さんのような現代の思想家達は深く深く探求しているのだが、新しいタイプのビジネスマンや芸術家達は、「バーチャルをリアルに意識せざるを得なくなって」いるので、非常に鋭い捉え方をしている。
尾原和啓さんのような超一級の事業家や、猪子寿之さんのような芸術家で事業家といった人達のことである。
彼らを面白いと思うのはまともな感覚で、彼らを疎ましく、あるいは、変に感じるなら、ちょっと気を付けた方が良いかもしれない。

だが、我々がリアルと考えている世界だって、「幻想であるバーチャル」が「運命であるリアル」を拡張しているのであるが、このことを指摘する人はいない訳ではないが非常に少ない。
こちらはもっと難解であるからだ。
理論的に難しいというより、人間の脳(あるいは精神)の構造自体が、それを自覚し難いのかもしれない。
こちらの方は、思想家の吉本隆明さんや精神分析学者の岸田秀さんらが探求しているが、彼らの研究も、あまり正確でないと考えた方が良いかもしれない。

いずれ、我々が宇宙人と並ぶほどの進化を遂げる時には、

運命(リアル)・神---幻想(バーチャル)・人間
生活(リアル)・人---テクノロジ(バーチャル)・キャラクタ

を融合させなければならないのだが、キーワードが「共感」なのである。
自然の風景や、生命体の美しさを感じる時、我々人間は神と共感しているのである。
キャラクタとしてネットで交流している中で深い共感を覚えた時というのは、キャラクタが人として共感しているのである。

ダンテの『神曲』で、古代ローマの詩聖ウェルギリウスが、ダンテを地獄と煉獄までは案内したが、ウェルギリウスは天国には入れず、天国にダンテを案内したのは、ダンテがこの世で結ばれないながらも(それどころか無視されていた)熱愛したベアトリーチェであった。
ところが、おかしなことに、詩人ダンテにとって、ウェルギリウスはまだリアルなのだが、実際のことはほとんど知らないベアトリーチェはキャラクタなのである。
人間として優れた人物、例えば、エマーソンや岡本太郎を尊敬する人達は、エマーソンらによって、幻想世界までは統御できるかもしれないが、それでは運命や神の領域には手が出ない。
しかし、案外に、その領域には、初音ミクのようなキャラクタが導いてくれるのかもしれない。
新しいタイプのクリエイターが創作した初音ミクの歌を聴くと、そんな感じがするのである。
(『可能世界のロンド』などは、はっきりその世界を示した驚くべき曲だ)
西洋では、それはイエスの役目であったが、日本や、あるいは、インドのように、多神教で、キャラクターとしての多彩な神を受け入れてきた人達は、依り代(神霊が宿る対象)を通して神につながることにも慣れているのだから、それは不思議ではない。
そして、西洋だって、どんどん日本人化している。
西洋人が初音ミクを理解するというのは、昔は考えられなかったが、今は彼らも、「バーチャルだから良いのだ」と、「なぜかは分からない」が認めてきている。そして、それは、中途半端に西洋化した我々も似たようなものなのである。
そして、イエスだって、「私を依り代として使え」と言ったのかもしれず、その意味では日本人にもイエスは非常に親しみやすい。

新しい形の魔法が誕生する世紀である。
だが、イエスが言ったように、そんな時は偽物が沢山現れる可能性がある。
我々は目を見開き、過剰な欲望を離れ、鋭くあらねばならない。









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心のキャパシティーを広げなければ何もできない

お金や贅沢に対して根深い抵抗を持っている人がよくいる。
おそらく、自覚はなくても、かなり多くの人達がそうであるはずだ。
だから、貧しい人が多いのだ。
だが、この問題は、そう単純ではない。
そのような人達には、見栄っ張りの親に育てられた人が多い。そして、今は、ほとんどの親が見栄っ張りだ。
彼らの親は、いやらしいほど俗人のくせに、欲のない清らかで立派な人だと周りの人達に思わせたがっている。
特に、高貴なイメージが売りの俳優のファンや、宗教の頑固な信仰者、皇室の熱烈な信奉者などは、極端にそうなのだ。
そんな親に育てられた子供は、(やはり自覚はなくても)大人になっても、聖なるものを強く求め、俗なるものを軽蔑するようになる。
これは、いくら成功法則の本に、「お金は善いものである」と書かれてあるのを見ても、何の意味もなく、むしろ、そんなものを見る度に、心の奥では、「いや、お金を求めるのは、聖なる魂を持つ自分にとっては堕落である」と感じてしまうのだ。
何かの本を読んで、口では、「人間の価値は収入の多さだ」「金持ちほど立派だ」と言ったところで、本当にはそう思っていない。
そして、そんな人は、才能はあっても(誰でもあるのだが)、お金に欠乏したり、そうでなくても、高収入になることはなく、ぎりぎりの給料しかもらえていない。

「お里は隠せない」と言うが、幼い頃に植え込まれた精神的傾向を変えることは、まず不可能だ。
だが、嘆いてはいけないし、その必要もない。
与えられた不利な運命には意味があるし、そこに幸福の鍵も隠されている。
だから、自分の精神性を発見できたなら、むしろ喜ばしいことである。

実際は、ほとんどの人達が、お金に対して抵抗を持っている。
そのために、多くの人達が、孫正義氏や三木谷浩史氏のようになることも可能でありながら、平凡な庶民の中に埋もれているが、それはそれで良いことだ。
なぜなら、いろんな運命があるのだからだ。
運命とは、悪いものでも、恐れるべきものでもない。
運命は、一言で言い表せば「寂寞(寂寥)」である。
だが、全ての人間は、それに余分な幻想を、相当な量加えている。
(このあたりは、ITの「AR(拡張現実)」について勉強すれば、雰囲気がよく分かる。)
では、お金を汚いもの、俗なる悪であるという根深い観念を持った人はどうすれば良いか?
ただ、世界の豊かさを本当に理解することだ。
世界は、人間の想像を超えて広大であり、膨大なエネルギーを持ち、神秘で多様だ。
そんなことは分かっていると言いたいかもしれないが、我々の観念とは、全く桁が違うのだ。
それは、地球1つについてすらそうなのである。
まして、宇宙となると、コンヴァースの讃美歌の曲に川路柳虹氏が詩をつけた歌『星の世界』にあるように、「のぞめば不思議」としかいいようがない。
「のぞめば不思議」の部分は、昔の歌では、「行けども行けども 耀(かがよ?)りてやまず」「汲めども汲めども 溢れてやまず」であったらしいが、なんとか無限を表現しようとしていたのだろう。
人間は、無限を実感する範囲を拡大するほど、心が深く大きくなる。
だが、人間は、海の深さ、空の高さすら理解できない。
いやいや、軽蔑する俗なるものすら、小さなスケールでしか理解できていない。
一兆円というお金がいかほどのものか、本当に分かっているのだろうか?
一日百万円使っても、使い切るのに27世紀以上かかるって聞いて、意外に思うだろう。
それほど、たかが一兆円に関してすら、何も分かっていなかったのだ。

世界は、我々が思うよりはるかに大きい。
もし、神というものがいるなら、人間の想像など、とても及ばないものだ。
その大きさを少しでも理解しようとすることだ。
(『無量寿経』や『法華経』の馬鹿馬鹿しいほど壮大なお話を読むと良い)
それによって、心の大きさが変われば、お金や贅沢について、聖とも俗とも思わなくなるだろう。
そうすれば、十分なお金を持つことになるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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