ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

抱朴子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

永遠の生命

漫画やアニメのヒーロー、ヒロインに共通する特質は、殺しても死なないというほどの生命力である。
『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、一見、悟り済ました弱々しい少年のようだが、いざとなった時の爆発力は、やっぱり漫画、アニメのヒーローに相応しい。
それは、20年もの間、日本中の多くの男性の理想のタイプの女性で有り続ける、綾波レイとなると、さらにそうで、普段は氷のように冷たいのに、内に秘めた神秘的な情熱が感じられ、そこがファンにはたまらないのだ。
『あしたのジョー』の矢吹丈は、最後、確かに死ぬが、普通の人間なら、とっくの昔に死ぬか、それ以前に、ボクサーとして駄目になっているはずなのに、世界王者のホセ・メンドーサと、当時の世界タイトル戦である15ラウンドを、激闘という言葉で言い表せない、ほとんど神秘的とも言える最後の生命力を燃やして戦い続け、そして、燃え尽きた。

ところが、古代から、聖者達は、全てを諦め、静寂になることを教えるが、それは、これら、漫画、アニメのヒーロー達には有り得ないことである。
だが、それは、漫画やアニメのヒーロー、ヒロイン達は、押し並べて若く、ほとんどが少年、少女で、その若い生命力が、少々の無駄や非効率も補ってしまうという面もあるのだろう。
『シティー・ハンター』のヒーロー、冴羽 りょうは、年齢不詳で、一時、かおりから、30歳と指定されたが、年齢以上に大人であると同時に、子供っぽさも丸ごと残しているようなキャラクターで、そのことが彼に、無限のエネルギーを与えているようだ。
だが、人間、いつまでも若くはない。
漫画、アニメのヒーロー、ヒロインのその後が語られることもあるが、大抵の場合は、普通のおじさん、おばさんになっていて、ヒーロー、ヒロインだった頃の影(おもかげの意)はない。
それを見て、ファンは、寂しく感じると共に、「そんなもの」という醒めた納得もするのだろう。

だが、抱朴子による、中国の神仙思想によれば、老子などの仙人は、静かであることで精力を温存し、それによって、永遠の、そして、無限の生命力を持つとされている。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、人間は、本来は永遠の青春を持つのであり、それは、老木に新芽が芽生えることに現れている。
枯れ葉も、新芽も、それを構成するのは同じ分子、原子、素粒子であり、全ては精神が決定する。
ヒマラヤの大師達は百数十歳を超えても50歳のように見えるだけでなく、その母親となると、美少女にしか見えない。また、800歳を超えて外見が少女である女性も登場する。
また、大師達は、老衰で死んだ者を、青年の姿で蘇らせたことがある(その蘇った者は、大師まであと一歩というレベルに達していたからという理由があり、誰彼となく、そうするのではない)。
今は、美魔女とかいって、40代、50代になっても若く見える女性がいるらしいが、実際はさほどでもなく、冷静に見れば、やっぱり、老けている。
そういったものと違い、神仙や大師達は、本当に、若い生命力に満ち溢れている。

人類の夢である永遠の若さを、人類はいつか得ることが出来るのだろうか?
科学技術の進歩でそれが実現するという説もあるが、その場合は、「それは本当は幸福なことではない」という意見が同時に出てくるものである。
つまり、こういうことだ。
超自然(スーパーネイチャー)ではなく、異常(アブノーマル)な手段で永遠の若さを実現したとしても、それは不自然なことであり、そこには悲惨しかなく、決して幸福にはなれないということなのだ。
ここで、超自然は、自然の延長であることにご注意願いたい。
それは、人類がまだ知らない、自然が秘めた潜在力の領域であるが、そういったものはいくらでも存在するのである。
よって、人類がスーパーネイチャーに相応しい精神的進歩を遂げれば、自然に、永遠の若さを得ることになる。
これは確実なことであるが、現代の人々の観念では理解し難い。
だから、「いえ、私はそうは思いません。なぜなら・・・」といった、個人的意見を言い出す人もいる。
だが、それは、セミに1年を説いても分からないように、小さなものには大きなもののことが分からないだけなのだ。
ましてや、自分だけ永遠に若くあろうとする卑しい心構えで、無限の生命力を得ることなどは出来ない。

ヒントは、漫画やアニメ、そして、それを見る人々の反応の中にもある。
それは、今はまだ、日本、欧米、アジアでかなり異なっている。
しかし、現代は、インターネットによって、世界が狭くなった・・・というのではないが、共感の連鎖は生まれ易くなっている。
共感の連鎖の象徴が初音ミクさんで、現代の世界、特に、ITの流れは、初音ミクさんを見れば分かるし、また、根本的なITの思想は、初音ミクさんを見なければ分からない。
羽生喜治さんのような特別な人は、ご自分の世界を探求することで、ITの本質を完全に理解しているが、それでも、初音ミクさんを見ると、より豊かに広がるはずだ。

永遠の生命の理念やノウハウすら、実はもう分かっている。
しかし、現代社会は障害が多いのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いたベアード.T.スポールディングすら、長命で、老齢になっても驚異的な活動を行ったとはいえ、やはり90代で亡くなっている。
ヒマラヤの大師達と違い、文明社会の中に身を置く限り、それは免れない。
だが、経済が、従来の限りある資源を奪い合うものから、創造経済に移りつつあり、社会も代わろうとしている。
永遠の生命が許容される時代がいつになるのかは分からないが、準備はしておくと良い。
でないと、救われない可能性もある。
ヨハネが黙示録で語ったのは、そのようなことであると思うのである。









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これで光線銃はあなたのもの

老子や荘子は、偉くはなかったと思うが、国家公務員みたいなものだった。
2000年以上も前に、上手く、安定した収入を確保していたのである。
アインシュタインも、大学を出てからは特許局の役人だったし、私の心の父である伊藤博之氏(初音ミクさんを生んだクリプトン・フューチャー・メディア社長)も、高校を出てから公務員(大学職員)をしながら、夜間大学に通っていた。
彼らにとって、好きな仕事ではなかったかもしれないが、あまり苦労せずに生活出来るようにした訳だ。

一方、老子や荘子に憧れ、仙人になることを本気で願い、大いに勉強し、書も書いた抱朴子は、極貧の状態だった。
彼は駄目なやつだ。
老子や荘子をちゃんと学べば、天を味方に、楽に食べていけるのに、彼は、仙人になろうとして、的外れなことをしていたのだ。
老子や荘子、特に老子は仙人だったと思うが、彼は、それを表に出すことはなかった。

私も、社会人になり立ての頃は、かなり苦労したものだが、荘子を読んでから、楽に働けるようになった。
実力もない若い時でも、自分より年長の、私よりは仕事が出来る人達が、辛い思いをしているのを見て、変な感じがしたものだ。
私は、いつも楽で、良い思いをしていたからだ。
しかし、いくらか仕事が出来るようになったら、自意識のためか、荘子から外れてしまい、苦しい思いをするようになった。
だが、荘子を再度学ぶと、やはり、安楽になった。
荘子は、私にとって、この世の光線銃なのである。
初音ミクさんの歌『千本桜』にあるように、この光線銃を撃ちまくれば、まあ、大抵の相手には負けることはない。
ならばなぜ、皆、光線銃を持とうとしないのだろう?
それはきっと、家庭や学校で叩き込まれた固定観念を、意識的に捨てようとしなかったからだろう。
世間の教義や信念にひれ伏している者には、老子や荘子は、奇妙だったり、デタラメに感じてしまうのだ。
だから、親や教師の教えは、全部間違いとして排除しなければならない。
「全部悪い訳じゃないだろう?」と言う人がいるかもしれないが、全部悪い。
デカルトだって、『方法序説』で述べているではないか?
「単に真らしいという程度のものは、全て虚偽とする」と。

よって、皆さんも、老子と荘子を読むと良い。
まずは荘子が読み易いと思う。
荘子を読んだだけでも、光線銃を手にし、人生は楽になる。
老子を読めば、より強い力が得られる。
光線銃がパワーアップする訳である。









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ビートルスの『Let it be』と、アナと雪の女王の『Let it go』

太田裕美さんの楽曲『しあわせ未満』(1977年)の中の、
「ついている奴いない奴 男はいつも2通り」
「陽のあたる人 かげる人 人間なんて2通り」
という歌詞で虚しくなる人がいるはずだ。
つまり、「本当にそうだ」と実感している者だ。

何をやってもすいすいとうまくいく者がいれば、いくら努力しても、辛い結果にしかならない者は実際にいる。
こげどんぼさんの漫画『ぴたテン』で、紫亜という少女の、
「がんばってうまくいかなくても、それは無駄なことではなく、この雪のようにちゃんと積もっていますよ」
という言葉に救われた気になるのは、せめてそう思わないかぎり、やっていられないからというのが本当のことだろう。

人間に、星の巡りあわせ・・・つまり、生まれつきの運はないというのが希望的な信念かもしれないが、それは甚だ疑わしい。
抱朴子によれば、あの孔子すら、自分の生まれた星は哀しいものだと悟っていたらしい。
孔子は、老子のような聖人になりたかったが、実際に老子に会い、生まれつきの器の差を思い知ったという。
この話は伝説である可能性が高いが、孔子の実体をよく表しているように思える。
しかし、だから、『論語』は、凡人の哲学として有益であるとは言えるのだ。
『老子』は君子のためのもので、『論語』は凡人のためのものと言われることは、実際に多いが、『老子』の方は、実際はそうではない。
ただ、『老子』は、人間が本質的に君子であると気付いた者のための書であるとは言えるだろう。
いずれにしても、『論語』が無難で、『老子』は危険とは言えるかもしれない。
(ちなみに、抱朴子は本当に残念なやつだったと思う)

私は昔から、星の巡りあわせの良い、選ばれし者達(エリート)を「優良星人」、私のような劣る人種を「不良星人」と呼んでいるが、優良星人と不良星人の差は、「ハンデ」などという生易しいものではない。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズと実際に交流があった人は皆、「いくら努力したって、ああなれるものではない。彼らはつまり・・・全然違うのだ」
と口を揃えて言う。
ビル・ゲイツどころか、私など、たかがクラスの優等生にすら手も足も出なかった。

・・・と、随分否定的なことを書いたし、妙な「うまいこと」を言ってあなたを慰める気もない。
だが、実際の話として、上記に述べたことは、あくまで世間の範囲でのことなのだ。
話を簡単にするために比喩的に言うが、世間というものは、ある種の悪魔に支配されている。
その中では、どうしても「しあわせ未満」のような悲哀に満ちているのだ。
悪魔達に悪意はないが、ただ、私のような、生まれつきの「優良星人手形」を持っていない者は、悪魔の束縛を逃れることができない。
だが、無になった者は、不良星人でも、(これも比喩だが)神的な力が出てきて、悪魔の力を圧倒する。
よって、心を完全に静め、想念を起こさず、思考が現れない状態になれば、人間を超えた超人、神人になる。
ただ、難を言えば、それはとても難しいということだ。
そして、これが分からない者が多いのだが、想念はなくても、眠っていてはならない。
つまり、意識が冴えていなければならない。
イエスが、祈るために山に入る前に、弟子達に「眠るな」と言ったのに、帰ってきたら、弟子達は眠っていて、イエスが落胆したというのは、そのことを比喩的に言っているのである。
道元が、釈迦の教えを一言で「仏道とは自己を忘れることなり」と言ったが、自己を忘れても、眠っちゃいけないのだ。

ビートルスの『Let it be』も、アナと雪の女王の『Let it go』も、本質では同じ意味なのだが、多少、『Let it go』の方が、「自由にやれ」という動きを感じるかもしれない。
しかし、同じだ。
あるがままで「いろ」か、内なる声のままに「やれ」だが、いずれにしても、うまくいくためには、自我が消えていないと・・・つまり、無でなければならない。
自我は無いが、意識は冴えている状態・・・それが無だ。
私は、アナと雪の女王は一度も見ていない。
こんなものを映画で本当に描けるとは、とても思えず、誤解して不幸への道を進むだけだろう。
つまり、この映画は、少なくとも数百万人を不幸にする・・・ことはないと願っている。

無になるには、至高者の姿を正しく感じることができる感性を磨かなくてはならない。
これは、いつも書いていることだ。
例えば、星を見るとか、星に匹敵する何かを見るとかである。
そして、自分自身が至高者であることを覚えていることだ。
これらは同時にやるべきものだ。
両方、まとめてやれる方法としては、心身も時空も超えた存在として振舞う・・・有体に言えば、真似をすることである。
ただ、これらは、あくまで一例である。
自分の気質に合うものがあるはずだし、それを見つけるのは難しいことではない。
どれでも大抵合うのだからだ。
だから、大抵の場合、最初に巡りあったものをやれば良い。
ただ、粘り強くやるかやらないかだけである。









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渾身の著作は全部駄作。メモ書きこそ最上。

大作家が情熱を込めて書き上げたものなんて下らんものだよ。
だが、そいつが、もののついでにメモ書きしたものには大変なことが書かれている。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』がそうだった。
ただ、賢治は、ほとんどの作品をメモ書き程度に書き、実際、金はほとんど全く受け取っていないので、良い作品が多いのだ。

道元の『正法眼蔵』を有り難がっているやつは多いが、あれはロクなもんじゃあない。
あれは、道元に毎日数時間教えてもらって、数年でやっと「ちょっぴり」分かるというものだ。
つまり、読むだけ無駄というものだ。
しかし、弟子達が道元の「ついでの話」を記述した『正法眼蔵随聞記』は良いものだ。
親鸞が生涯を懸けて書き上げた『教行信証』も全く食えないものだ。
しかし、弟子の唯円が、昔、親鸞に聞いたことで覚えていることをちょろちょろ書いた『歎異抄』は珠玉の言葉だ。
ただし、あの『歎異抄』でも、まだまだ書き過ぎなのだ。
法然に至っては、『選択本願念仏集』は良い書だったが、それよりも、彼が遺言のつもりで、死の前日か前々日に書いた『一枚起請文』という、まさに一枚のメモが究極であった。

抱朴子は、仙人になることに憧れ、極貧の惨めな生活をしながら必死で研究し、『抱朴子』を書いた。
面白かったし、老子や荘子の言葉の意味も少しは分かったが、くどくてしつこい書で、中身は大したことはない。
それよりも、彼が書いた『神仙伝』の、各章の実に短い文の中に、仙人になる秘訣が書かれている。

水野南北は、仙人に学んだことを告白している。
彼は文字が読めなかったので、口頭でみっちり学んだ。
しかし、最初に一言教わった「食を慎め」で十分だったのだ。

難しい書を、頭のトレーニングの意味で読むのは良い。
中山正和さんは、『正法眼蔵』は、頭の良い僧のトレーニング用だと著書に書かれていたと思うが、その通りかもしれない。
我々が読んでどうなるものでもない。

W.B.イェイツも魔法結社に参加して、いろいろ勉強しただろうが、やはり、短いメモ書きに良いことを書いている。
『3つの悦びの歌』というもので、1~2ページで書き切れるが、そこには貴重な教え、秘法が込められている。
この文章を取り上げた人はほとんどいないが、渡辺久義氏の『イェイツ』の330~331ページにある。
入手できるうちに得た私は幸いであった。
最高の魔法書30冊分の価値はあったと思う。









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仙人になりそこねた男

昔、中国に抱朴子(ほうぼくし。283-343年)という学者がいたのだが、彼は、中国に古代から伝わる英知の書である、『易経』、『論語』、『老子』、『荘子』を始め、その他のあらゆる優れた書を読み学問を積んでいた。
実は、彼は、仙人が実際に存在することや、正しい方法に従うなら、人は仙人になれるのだと堅く信じ、自分もまた、必ずや仙人になろうとすると共に、自分が苦労して知った、仙人になるための方法を惜しげもなく、偏見の無い真面目な人々に教えようとしていたのだ。
彼は、本当に、真っ直ぐで、愚直な人間であると感じられ、私は彼に好意を感じずにはいられないのだ。
抱朴子は、仙人になることに成功したのだろうか?
それは分からないが、成功したのだと伝えられてもいる。
しかし、私は、彼はうまくいかなかったのではないかと思っている。
なぜなら、彼は、仙人になるには、仙丹と言われる、仙人になるための薬を服用することが絶対に必要だと信じていたからだ。彼は、貧乏なため、その薬を作るための材料が買えないと書に書いていた。
彼は、仙丹を作るためには、金や水銀や鉛、さらに、その他の鉱物や植物等が必要だと考えていた。
しかし、私は、仙丹とは、精神的な作用を起こさせるための特別な方法をそう呼んだのであり、金や水銀も、隠語であるのだと思っている。それは、西洋の錬金術や、魔法、神秘学について少し調べれば、現在の我々であれば、容易に知ることができる。
彼がそれに気付いていたなら、彼ほどの情熱があり、学問も積んだ人なら、間違いなく仙人になれたと思う。

いかなることも、成就に必要なことは情熱である。
そして、仙人になることは、さほど難しいことではないかもしれない。
抱朴子は、仙人の中でも、老子と彭祖(ほうそ)を特に崇拝していたのではないかと思うが、彭祖などは、やはり、仙術を修めることは難しいことではないと述べているのである。
そのためには、ただ、身体を大切にし、しかし、適度に運動し、食を慎み、しかし、栄養のある良いものを食べることを奨めている。
彭祖が好んだ食べ物は、肉桂(シナモン)や松の実であるが、これらは実際、身体に非常に良く、適度に食べるなら、身体や頭脳を活性化する。
また、松の実にはやや劣るかもしれないが、抱朴子が知らなかったと思われる、アーモンドやクルミも、栄養的には近いと思われる。
そして、老子が特に注意したことには、せっかくそうやって蓄えたエネルギーを性行為や、過剰な労働で疲労して無駄にしないことだった。
だが、最も心身を疲弊させるのは、ストレスであることは、現代でも知られている。
ストレスを解消するために、暴飲暴食したり、酒を飲んだり、遊びまわったりするのが良いと思い、それを実践している者がいるが、それは全く馬鹿なことである。
ストレスを防ぐためにも、それを消すためにも、唯一大切なことは、心を静かに保つことであると、老子も彭祖も述べている。
心を静かにするとは、無心になることである。
老子や彭祖の時代にはなかったが、達磨がインドから中国に伝えた腕振り運動は、仙術の修行にも取り入れられたが、心を静かにし、活性化した気を体内に蓄えることに非常に効果があるのだから当然である。
そして、腕振り運動を、一定のリズムで淡々と繰り返すことで、最も大切な心の静かさをもたらすのである。
良いものは取り入れるのが、進歩した人間である。
ラマナ・マハルシが教えた、「私は誰か?」という問いを自分に問い続けたり、信仰があるなら、1日中、いかなる時も念仏を唱えたり、般若心経の呪文を常に唱えるなら、心を静寂に保ち、仙人に近付くだろう。
大切なコツは、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎が教えたことである。
それは、
「生活しながら念仏をしてはならない。念仏しながら生活するのでなくてはならない。生活しながら静坐してはならない、静坐しながら生活しなければならない」
ということである。
世界平和の祈りを奨めた五井昌久さんも、「他は何もしなくていいから、世界平和の祈りだけを、いかなる時もやりなさい」と言われていた。
これらは全て、仙人を超え、神に近付くためのものである。
それならば、仙人になることは、その手前で達成できるのであろう。
実際、仙山に住む仙人は、近寄ってみると、口の中で常に呪文を唱えているのである。
滅多にできることではないが、我々も、目が覚めている間はずっと、呪文や祈りを続け、無駄な想念を起こすことを避けるなら、仙人に近付き、その力の一端を握ることができるだろう。
それは間違いないと思う。
そして、そういった行を熱心にやるなら、必要なものであれば、望むまでもなく、何でも得られるのである。むしろ、求めない方が良い。
世俗的なものを求めるくらいなら、仙人になることを願い、無心に行を行えば、本当に必要なものは豊富に与えられるのだと思う。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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