ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

才能

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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才能の有る無しの判定

才能がないことをやってはならないし、やらせてもいけない。
無駄な努力になり、貴重な人生の時間を無駄にする。
才能もないことを、親が自分の子供に無理矢理やらせることも多いが、そんな子供は、ストレスで病気になるかもしれないし、心に深刻な影響を抱えるかもしれない。
一方、才能もないことを、自主的に熱心にやる場合は、子供っぽい妄想があったり、あるいは、邪な想いがあることが多い。
子供が、単に格好良いからという理由でやりたがるのは、ある程度仕方がないが、それなりの歳になれば、自分には向いていないことを自覚した方が良い。
あの手塚治虫さんだって、子供の時、宝塚歌劇団に憧れ、中学か高校の文化祭で、本物の宝塚歌劇団の衣装を借り(貸してくれる大らかな時代だった)、自分で歌劇を演じたが、失笑を買って、やっと、自分に才能がないことを理解した。
多くの場合、才能がないことは、他者が客観的に見た方が分かり易いので、手塚さんの場合も、もっと早く誰かが指摘してあげるべきだった。そうすれば、手塚さんも恥をかかなくて済んだ。
だが、沢山の人達に「才能がない」と言われながら、強い意思で継続し、成功した稀な例が注目されてしまうので、「自分には才能があるに違いない」と思い込む人も、多いのかもしれない。
もちろん、本当に好きなら、才能の有無に関わらずやれば良いが、好きであっても、必ずしも才能があるとは限らず、それでプロになろうなんて妄想してはならない。
だが、自分に才能がないことは、なかなか認めたがらないものかもしれない。
例えば、音楽が好きで、そこそこは出来るようになる者は少なくないが、プロになる才能がある者は、悲しいまでに少ない。
以前、クリプトン・フューチャー・メディア(初音ミクさんの会社)の伊藤博之社長が、音楽に限定したわけではないと思うが、「人生を賭けてはならない」と言われていたと思うが、それが非常に印象的だった。あの人は、才能もないのに音楽に人生をかけて、そして、人生を棒に振った人を沢山見たのだと思う。

ところで、現代の医者になるのに、特別な才能はいらないと思う。
そこそこ頭が良く、性格に極端な欠陥でもない限り、親が金持ちの医者なら、誰でも医者になれる・・・というか、なれている。
だが、医者に向き、不向きはあり、本来は医者に向いていない医者は多いと思う。
「心身医学の父」と言われたドイツ人医師ゲオルク・グロデック(1866~1934)は、兄が何人かいたが、医者であった父親は、ゲオルクだけを医者にした。
その理由について、ゲオルクは、自分が姉と人形遊びをしているのを父親が見たことがきっかけだったのではないかと述べていた。
彼が、姉と人形遊びをしていた時、姉が、人形にもう1枚服を着せようとしたら、ゲオルクが「人形が苦しがる」からと止めたのだそうだ。
さっき、医者に才能はなく、向き不向きがあると言ったが、この話から、本当は、向き不向きと才能は同じものだと思う。
単に、現代の職業医師に才能はあまりいらないということだろう。

むしろ、プログラマーの方が、現代の職業医師より才能が必要かもしれない。
ただ、今のところ、全てのプログラマーに、それほどの能力が求められているわけではないという理由で、なろうと思えばプログラマーになるのは、そう難しいことではない。
とはいえ、必要とされる能力は、時代と共に高くなるので、やはり、才能がないならやめておいた方が良く、それは、Excdelマクロ(VBAプログラミング)の場合もだし、むしろ、才能のない者がExcelマクロを作ることで深刻な問題が発生することが多い。

才能があるかないかをどう判断すれば良いかだが、それには、私が昔からよく書いている、あるミュージシャンの言葉を覚えていると良い。
それは、こんな言葉だ。
「ミュージシャンてのは、街角でハーモニカを吹いてさえいれば満足出来るやつじゃないと務まらない」
これが全てであると思う。
有名な、スマイルズの『自助論』を読んだ上で、熱心にやれることが、自分に向いたものではないかと思う。








あなたは異能の天才かもしれない

世の中には、涙ぐましいまでの努力をして、成功者、勝利者、エリートになることを夢見るが、結局、ワーカー(労働者)やソルジャー(兵隊)にしかなれない者がいる。
SF作家の平井和正さん原作の石ノ森章太郎さんの漫画『幻魔大戦』の主人公である、東丈(あずまじょう)が、全くそんな人間だ。
生まれつき身体が小さく、子供の時、近所の子供達にいじめられていると、弟が助けに来る始末だった。
その弟と共に柔道を習いに行くが、弟の方がずっと強い。
何をやっても、あまりに駄目な上、ある日、父親が姉に「きょうだいの中に、一人くらいは出来損ないがいるものだ」と言うのを聞き、自殺をしようとするが、心優しい姉に慰められる。
姉は、「丈ちゃんが誰からも尊敬される立派な人になるまで、ずっと傍にいる」と約束する。
姉は、本当の愛の持ち主だった。
そして、丈は、大きな目標を立て、厳しい努力をするようになる。
彼は、努力さえすれば、どんな目標でも達成出来ると信じた。
高校では、大学は東大、そして、小さな身体で野球部でサードのレギュラーを目指し、「ボロ雑巾のようになるまで」の頑張りは、誰もが認めた。
そんな丈が、3年生になる。
ところが、模試の成績は振るわず、教師からは東大は諦めるよう言われるが、丈は決して受け入れない。
そして、野球部では、サードのレギュラーポジションは確実だと信じたが、1年生にその座を奪われてしまう。
それほどの努力をしても、何も得られなかったのである。

なぜ、丈が上手くいかないのかというと、生まれつきの能力が低いからで、そんな人間が努力をしたところで、生まれつき優秀な人間のようになることは出来ないという、厳しい現実がある。
だから、生まれ持っての能力が大したことがないなら、大きな望みなど持たず、無駄な努力などしない方が、精神的に良いという声も、よく聞くようになった。
だが、丈の場合は、子供の時からの劣等感や屈辱感が恨みのエネルギーとなり、彼を努力に掻き立てたのだ。
しかし、彼を待っていたのは、失望と落胆だった。

特に今の時代は、才能はあっても、環境(主に親の経済力)が悪いために、望むようなことが出来ない者も多い。
だが、才能があれば、恵まれてさえいれば手に出来たかもしれない最高の成果を得られないまでも、それなりには成功出来る可能性が高いし、チャンスがあれば大飛躍もあり得る。
しかし、才能がなければ、一生、虫のように地面を這うのみだ。

生まれ持っての才能がない者は、どうすれば良いだろう。
イチローさんや米津玄師さんのような、努力もしただろうが、間違いなく偉大な才能があったからトップに立てた人を羨みながら死ぬしかないのか?
ところで、上の東丈の場合はどうだったのか?
出来損ないで、存在価値などなかった彼が、こう言われたのだ。
「宇宙広しと言えども、丈ほどの才能に恵まれたエスパー(超能力者)はそうはいない」
なんと、ちっぽけな世界の中ですら皆に見下されていた丈が、宇宙の中でトップになったのである。
これを見て、「では俺もエスパーで」と思うような者もいて、変な宗教団体なんかに騙されるのだろう。
だが、エスパーというのではないが、実のところ、普通の意味での才能がない者が、異能の才能を持っていることは、よくある。
平井和正さんや、石ノ森章太郎さんといった天才達は、そんなことを感じていたのだと思う。
そして、そんな異能の才能を持った者の特徴も分かっていたのだろうと思う。
その特徴は、詳細には分からないが、例えば、途方もなく優しいとか、弱い者いじめを決してしないとか、悪人の命も大切にし、誰も見捨てないといった性質などが、それに該当すると思う。








大人が自分の才能を発見する鍵

誰しも、何らかの才能はある。
才能は、遅くとも十代で片鱗を見せるが、それに気付き、育てなければならない。
しかし、才能の発見や育成に関して、ほとんどの親や教師は役に立たず、貴重な才能の大半は埋もれるものだ。

問題になるのは、才能のないことに時間やエネルギーを費やすことだ。
しかし、多くの親や教師が、子供にそんなことをさせる。
親しみを感じないなら、親や教師とは、出来る限り距離を置くことだ。

二十歳までやって、手応えを感じないなら、才能がないと見限って、別のことに取り組んだ方が良い。
その時には、もっと自分に向いたことは何かの見当がつくはずだと思う。
25歳までやって芽が出なければ、もう未練なんて感じている場合ではない。残り時間は少ない。
本来、人間は、自分の才能を、「好きなこと」として認識するが、テレビやネットの影響で、純粋に好きなのではなく、単に、ちやほやされたり、プライドを満足させられそうという理由で、それを好きと感じてしまい、間違った道を選ぶことが多くなった。

ある世界的ミュージシャンが、「ミュージシャンってのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足出来るようなやつでないと務まらない」と言ったが、才能があることに関しては、どんなことも同じなのである。
画家の才能があれば、何の報酬がなくても1日中絵を描いていられる。
確かに、練習嫌いなプロスポーツ選手もいるが、そんな者は、実は才能がないか、あるいは、コーチに指示される練習のやり方が合わないだけである。
世界的芸術家の横尾忠則さんが、著書で「10代の時に好きだったものを大切にしろ」といったことを書かれていたが、本来は、それが自分の才能を発見する鍵である。

もちろん、もう、いい歳になっているなら、今から、世に出られるほど才能を伸ばすのは難しいが、適度に伸ばし、うまく活用すれば、恵みを得られることもある。
だが、いずれにしても、才能のないこと、あるいは、もう手遅れなことにエネルギーを費やしてはならない。
才能は1つとは限らず、複数のそこそこの才能も、やはり誰にもある。
その中で、取り組み甲斐のある才能を磨くのである。
いくら野球が好きで才能があっても、厳しい練習をやったことがない者が、30歳を過ぎて取り組んでも、ただの趣味にしかならない。
ただの趣味でも、楽しければ良いという考え方はあるが、そのために、役に立つ貴重な才能を伸ばすための時間やお金を無駄にしてはならない。

才能があることは、大人になれば、単なる好きというよりは、ロマンと感じるのではないかと思う。
子供の時は、まだ、ロマンを感じるのに必要な、理想とか冒険の厳しさを知らないが、それが分かる大人がロマンを感じるなら、それは才能があるということだ。
ロマンとは、理想と憧れなのである。
理想と憧れのためなら、冒険も出来るはずだ。
子供の時に好きだったことも、才能を発見する重要な要素ではあるが、もう手遅れな場合も多い。
しかし、今、それにロマンを感じるなら、まだ間に合う。
そして、ロマンを感じるには、頭がクリアでないといけない。
頭の中が、世間(学校や会社やテレビ等)から押し付けられ、ため込んだガラクタだらけでは、ロマンが分からない。
ロマン・・・理想と憧れ・・・これほど良いものはない。
ロマンを掴むための具体的手段を直観的に捉え、それを自分の力で継続すれば、セレンディピティ(幸運な偶然)が起こる可能性が高い。








才能がない者が大逆転する方法

子供の夢というものがある。
サッカーや野球が好きな少年が、将来、それらの競技のプロになるというようなもので、叶う確率は、ほぼゼロなのだが、小中学生が、そんな夢を持ってやっているというのは悪いことではない。
それに、確率は低いとはいえ、全くゼロではないし、一流のプロでも、小学生や中校生の時、必ずしも天才的という程でもなかった者もいると思う。

今は少なくなったように思うが、昔は、ポップソングやアニメソングで、「叶わない夢はない」と高らかに歌う歌がヒットし、それに影響されて人生を誤った者も多いと思う。
しかし、高校生にもなり、多少は将来の進路も考えないといけない時に、希望はプロサッカー選手1本というのは困る。
そして、日本ではそうではないが、実際は、高校生なら、かなり具体的な将来のビジョンを持っているべきである。

もし、プロになりたいなら、プロやプロ候補とはどんなものかを、さっさと見に行けば良いのだし、そうすれば、すぐ諦めがつくだろうし、それをしていないという時点で、プロ向きとは言えないかもしれない。
会社員にも、いつかはスター歌手や、人気作家に・・・という妄想を持っている者も少なくないが、実際に、そんな(ただの会社員が歌手になった等)前例があるから厄介だった。
しかし、それはもう昔の話だ。
昔と違い、今は、音楽家志望、画家志望、作家志望等の者は、ネットに作品を公開し、そこからきっかけを掴めることもあるが、これには、もう1つの面がある。
即ち、才能のあるなしが、はっきりしてしまうことだ。
ところが、全然注目されない絵や小説や音楽を、いつまでもネットで発表し続け、諦めずに「いつかは」と思っている者はやはりいる。
若くて伸びしろがあるとしても、才能というか、センスのあるなしが、絶対とは言えないまでも、ネットでは明らかになるものである。

昔は、ゴッホやセザンヌ、その他大勢の天才画家達が、さっぱり認められず、ゴッホなどは、生前は1枚の絵も売れなかったが、当時は、特定の種類の者達が絵の評価をしていたという事情があったのであり、現代であれば、ゴッホもセザンヌも、若いうちから成功して金持ちになっていたと思う。
しかし、昔であろうが、今であろうが、才能のない者は駄目で、現代は、ネットが、才能がないことを残酷に突きつける。
まあ、才能があっても、トランプ支持者やワクチン否定派であれば、AIにネットから抹殺されるといった、新たな問題もあるかもしれないので、そこらは注意した方が良いかもしれない。

ここまでなら、割合に普通の話と思う。
だが、長年、ネット小説を書いても、全く注目されなかったとか、YouTubeの再生数がさっぱり伸びないといった場合でも、やりようがある。
ただし、そんな者達が、普通に作品を投稿したって駄目である。
どうすれば良いか?
変わったことをやれば良いのである。
ただし、その変わったことが、昨日も書いたが、「斜め上を行く」ものでなければならず、それは、誰にも予想出来ないものだということだ。
人に予想出来ることをやっては駄目なのだ。
これについては、私はたびたび引用する好きな話がある。
アメリカの小柄な女性高校教師の話だ。
彼女は、手の付けられない不良男子高校生の担任にさせられてしまう。
その不良は、怪力の持ち主でもあり、何人もの教師を病因送りにしていた。しかし、何かの事情で、停学にはなっても退学にはならずにいた。
その女性教師は、校外の人のいない駐車場で、その不良にバッタリ会ってしまう。
こんな時、この不良は、ニヤニヤしながら、教師にこう尋ねるのだ。
「俺があんたを殴ったらどうなると思う?」
これまでの教師は全て、
「停学か退学になる」
と答え、その答が正しいことを証明してしまった(笑)。
そして、そんな答は、この不良だって知ってる。
そんな答をしてどうする、馬鹿者(笑)。
だが、この女性教師は、スーパー精神科医ミルトン・エリクソンの娘だった。
彼女は、こう叫んだ。
「お前を殺してやる!」
間髪を入れず、
「そこに座れ!」
と命じ、予想外の言葉で説教した。
以降、卒業するまで、この不良(すぐ不良でなくなったが)は、彼女を他の不良達から守ってくれた。

画家であれば、作品を認められない、売れたいと思うだろう。
しかし、岡本太郎は、常にこう言った。
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「売れなくていい。いや、売ってたまるか」
「嫌われてもいい。いや、嫌われなくてはならない」
これですら、斜め上を行くスピリットとしては、せいぜいが、ギリギリ合格というところかもしれない。

才能のない者lは、たとえば、野球の投手で、ナックルボール(特殊な変化球の1つ)だけで勝負するといったように、何か1つを磨く場合が多い。
これについても、好きな引用があるが、長くなるので省く。
だが、昨日も上げた、次の言葉を覚えておくと良い。

二つ目を捨てろ 予想外になれ
軌道を外れて...
~『キレキャリオン』(ポリスピカデリー feat.初音ミク)より~








運命に逆らわない

年配の人は別かもしれないが、我々は子供の時から、「叶わない夢はない」「なりたいものになれる」などと言われてきたと思う。
しかし、世界的なスポーツ選手や音楽家になるには、努力以前に才能が必要という考え方も、かなり定着してきた。
一方で、「人間に差はない。かけた時間で決まる」という「一万時間の法則」のようなものも信奉者がいる。
村上龍氏と坂本龍一氏の対談書で、村上氏が、こんな話をしていたのを憶えている。
「今の坂本があるのは(彼らは呼び捨て出来る間柄)、才能ということもあるが、3歳の時から十年、みっちりピアノを弾いたからだ」
しかし、「才能がなければ、十年ピアノを弾いても駄目」とは言っていない。
だから、
「大工になるなら、中学生の時から十年、みっちり大工の修行をした方が良い」
という結論となるわけである。
まあ、一般人の場合はしょぼいのは仕方がないが、重要なことを言っているのである。
チームラボの猪子寿之社長と、現在はドワンゴの社長をしている夏野剛氏の対談でも、猪子氏は、
「人間の能力に差はない。イチローは元々大したことない選手だったが、誰よりも野球に時間をかけたから成功した」
というが、イチロー並に時間をかけて日本の一軍選手にすらなれない選手もいるかもしれない(多分いる)。
しかし、自分に見合ったことで時間をかけることには意味があるだろう。

イチローや坂本龍一どころか、ちょっとした人気歌手や、そこそこの規模の会社の経営者にだって、なれない人はなれないのである。
それは、努力の問題ではなく、さして努力しなくても、そんなものになれる人もいれば、いくら努力してもさっぱりな人もいる。
「天は人の上に人を作らず」と言った人がいるが、それは疑わしい。
才能と言えば才能なのだろうが、才能が必要ないようなことでも、うまくいかない人はうまくいかないように思うのである。
まるで駄目男は、どこまで行ってもまるで駄目男である。

つまり、運命は決まっているということだ。
大物になる運命にない人は、どうあがこうが、大望を持とうが、トンビが鷹になれないようなものである。
どんなに頑張っても、猫は虎に勝てない。
ラマナ・マハルシは、
「働く運命にあれば仕事は避けられない。しかし、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」
と言った。
ニートも運命かもしれない。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、元々、故郷のオーデンセで職人として生涯を送る運命だったが、運命に逆らって、14歳で1人でデンマークに出て作家になったと思っている人が多い。
しかし、作家になることがアンデルセンの運命で、彼だって、歌手や俳優を目指していた頃はさっぱりだったのだ。

だが、自分の運命を見極め、運命に従うことに決めれば、良い人生になる。
例えば、ジョージ・ワシントンやアブラハム・リンカーンだって、運命に従わなかった40歳くらいまでは、かなりの駄目男だったのである。
ワシントンは見栄っ張りで、金持ちの名士になるのが目標で、金持ちの未亡人と結婚したり、危ない事業をやったりしたが、それは運命に合わないことだったので、いつも大失敗して散々な目に遭ってきた。
彼は、軍人のような、苦しい上に、出世して儲かるかどうか分からないことなど、元々、やる気はなかった。
しかし、そのような運命にあることを悟り、運命に従うことを決意し、まず、軍人になって、ついに、アメリカを独立させた英雄になった。
まあ、やはり、我々のほとんどは、英雄どころか、トップにもなれないのだと思う。
だが、運命に従えば、英雄にだって味わえない甘露を得られるかもしれない。

「人間は無になれば不可能はない」という。
しかし、正しくは、「人間は無になれば運命を悟る」のではないかと思う。
無になるにはどうすれば良いかというと、それはいろいろあるだろうが、ある意味、考えることをやめることが必要だ。
そのためには、例えば、お経を上げたり、祝詞を唱えたり、真言を唱えたりするのが効果的な方法であることを示してくれる人が多くなってきたと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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