ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

手塚治虫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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願いを叶え易い漫画イメージ法

願いが叶った様子をイメージすれば叶うと言う。
イエスは、「願いがあれば、叶ったと思え。そうすれば叶う」と述べたと福音書に書かれている。
しかし、願ったことが実現したイメージとか、あるいは、叶ったという思いは、1つの願いであったとしても、複雑だったり、不明確だったり、気分によってコロコロ変わったりで、実際のところ、手に追えないのではと思う。

ところで、最近、私が気に入っている考え方は、「自分は漫画のキャラクターだ」というものだが、実際に、その通りだと思っても良いと思う。
もちろん、自分は、映画の登場人物だとか、アニメのキャラクターだと思っても良いし、「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは劇を演じている役者だと言った。
だが、これらの中で、漫画が格段に単純でイメージし易い。
映画やアニメや劇は、自分が望む情景を動きや、時間の推移の中でイメージしなければならない。
一方、漫画は、1コマの絵(静止画)で済んでしまうのだ。
そして、漫画をよく読む人なら、漫画の絵は動かなくても、心によって、音や動きを感じ、映画や、あるいは、現実世界より生き生きとしていることだってあると思う。
ならば、願いが叶った様子を漫画でイメージすれば良いのである。

例えば、高収入になった様子を、映画や、アニメや、劇でイメージしようとしたら大変だ。
1つの場面では意味をなさず、場面の移り変わりと動きの中でイメージしなければならず、そもそも、お金が沢山入って来ることを、どうイメージすれば良いか難しい。
しかし、漫画であれば、たった1コマで良いのだから簡単だ。
例えば、ポルシェの運転席に座ったり、飛行機のファーストクラスに乗ったり、高い服を着ている1コマの絵で十分だ。
そして、コマ内に、「高収入になり、ポルシェを買った」などと書いておけば、さらに明確になる。
あるいは、ゆったり落ち着いてソファに座っている自分を描き、「高収入になった」の一行を足せば良い。

私が、小学校5年生の時、学校の図書館で、シーラカンスの本を読んだことがあった。
その時、頭の中で、自分がテレビを付けたら、シーラカンスの映像が出る漫画の1コマを思い描いたことがある。
家に帰る頃には、そんなことは忘れていたが、家に帰った後、何の気なしにテレビを付けたら、何やら、大きな魚が泳いでいる映像が映っていたが、それはシーラカンスだった。
このようなことは、何度も書いたと思うが、頻繁に起こしている。
世界って、本当に漫画なのである。

手塚治虫は、漫画は絵ではない、記号だと言ったが、それはやはり、漫画では、ものごとを単純に表現出来るということだ。
そして、さっきも述べたが、想像力があれば、単純な記号であっても、十分にリアルなのである。
それは、空の雲がお菓子や動物に見えたり、壁のシミがオバケに見え、しかも、それが心を大きく動かすことと同じなのである。

上で述べた「漫画イメージ法」を使えば、世の中に大きな影響を与えることでなければ・・・つまり、個人の潜在意識の範囲のことなら簡単に叶う。
そして、やがて、世界を動かすことも出来るようになる。
その際に、重要なことは、欲張らないことと、モラルを持つことである。
なぜなら、欲張ると、自分が責任を負えないようなことを望み、もし叶ったら、大変な目に遭うからだ。
そして、モラルがないと、世界からの反発を受け、叩きのめされることになるのである。








あなたの顔も千年後は超イケメンかもしれない

自己肯定感とか自己重要感が欲しいという気持ちも分かるが、人工的な自己肯定感や自己重要感を持つと、それが壊れた時が大変だ。
そして、それは必ず壊れる。
岡本太郎のように、「俺が宇宙だ」とか「俺は親に生んでもらったのではなく、自分で生まれてきた」なんていう頭のおかしな人(笑)の真似をしても、普通はただの頭のおかしな人としか見られない。
では、精神病院の中には、「俺は宇宙の帝王だ」と主張する男や、「私はキリストの愛人よ」と言うオバサンが沢山いるのに、岡本太郎とどこが違うのだろう?
それは簡単な話で、精神病患者は優劣を立てるが、岡本太郎にはそれがない。
要するに、精神病患者は、「私はキリストの愛人だから偉い」という考えがあるが、岡本太郎にはそれがない。つまり、「俺は宇宙だ。だが、別に偉くない」というのが岡本太郎だ。
優劣を立てなければ、頭のおかしさだって偉大さになる。

何度か書いたことがあるが、私は小学4年生の時、クラス1、いや、学年1かもしれない美少女と、最底辺の女子を見比べ、
「同じ人間なのに、どうしてここまで違うのか?」
と真剣に悩み、自然に、「前世の行いのためだろうか?」と本当に思ったものだった。
でないと、理不尽過ぎる。
だが、私が、そのように、2人の女子に優劣をつける限り、私も自己肯定感、自己重要感を求め、自分が優れている理由を探さないといけないのだ。
その2人の女子は、全く等価なのである。
それが分からない者が、つまらない、作り物の自己肯定感、自己重要感を欲しがるのである。
だいたい、催眠術を使えば、この2人の女子の評価を反対に感じることは容易いのである。
手塚治虫の『ザ・クレーター』という作品の中の『巴の面』は、武士の時代のお話だが、巴姫という女は、心は優しいのに、ひどい醜女(ぶおんな)で不幸な生涯を送った。しかし、現在よりもずっと未来、若者の間では、巴姫のような顔が美女ともてはやされていた。
いや、そんな大袈裟なものでなくても、私は、アメリカなど、外国の映画のヒロインの中に、映画の中では美女ということになっていても、「金くれてもいらん」と思うようなのは珍しくもない。

『アラビアンナイト』のお話の1つに、この世の普通の男が、異界に行くと、そこでは、葬式でドンチャン騒ぎをして楽しんでいるのに驚き、「あなた方はなぜそんなに嬉しそうなのか?」と尋ねると、「葬式が楽しいのは当たり前ではないか」と言われてしまうお話がある。
ちなみに、私は、今なら、そんな世界に行っても、別に驚かない。
人の世の価値観は、場所により、時代により、あるいは、人により違うが、どれが優れているということもないのだ。

涼宮ハルヒが、普通でない人間を探していたのは、あくまで、この世界の価値観への反発で、本当は、普通の人間も、宇宙人も、未来人も、異世界人も、超能力者も、皆、同じである。
もちろん、好みというものはあり、好みの食べ物、好みの絵画、好みの音楽、好みの女、好みの男といったものはあるかもしれないが、自分の好みに合うことを「優れている」と勘違いすると、我々は力を失うのだ。
優等生は、「自分の点数は100点で、30点のやつより自分は遥かに優れている」と思った時から、超能力を失ったのである。
私は、手塚治虫の『ザ・クレーター』と、荘子(荘周)の『荘子』が、世間的発想を超え、超能力への扉を開く本と思う。








科学やコンピューターを超えて世界を動かす

昔、手塚治虫さんの漫画『アラバスター』を読んだが、印象深い部分があった。
アラバスターというのは、ある怪人の自称だったと思う。
アラバスターは、元は有名なスポーツ選手で、大きな名声を得ていたが、黒人であることが原因で、ある間違いが起こり、刑務所に入れられるという身に転落してしまう。
その刑務所での話だ。
アラバスターが入れられていた独房の電灯に、蛾が引き寄せられて飛び回るのを見て、アラバスターは、ピーナッツだったか石の粒だったか、あるいは、もっと別のものだったかは忘れたが、それを指で弾いて蛾にぶつけようとした。
もちろん、そんなに簡単に当たるわけはないが、とにかく暇でやることがなかったので(テレビもラジオもなく、当時はインターネットそのものがなかった)、ずっとやっていたら、たまに当たることもあった。
当たったところで、蛾に致命傷を与えることはなく、蛾は飛び続けたが、ある時、それが命中した途端、蛾が粉々になってしまった。
興味を惹かれ、アラバスターが、延々と蛾への指鉄砲攻撃を続けると、極めて稀にだが、やはり、蛾が木っ端みじんになってしまうことがあった。
そして、それは、特殊なタイミングでの攻撃で起こることをアラバスターは感覚的に掴み、ついに、自由にそれを起こすことが出来るようになった。
さらに、アラバスターは、このつぶて攻撃に磨きをかけ、拳銃を含め、あらゆる武器に勝てるまでになった。

ピーナッツのようなもので、そのような現象を起こせるかは分からないが、ある程度は、共振、共鳴、同調などを扱う非線形科学で考察出来るかもしれない。
例えば、人間が全力で押そうがビクともしない重い鐘を片手で、それほどの力ではなくても、あるタイミングで繰り返し押し続けると、鐘が大きく揺れたりする。
また、沢山の自動車が安全に走行出来るよう作られた頑強な橋なのに、その上を人間が足並みを揃えて行進したら、その橋がぐらんぐらんと揺れ出して、遂には、崩壊してしまうといったことが実際に起こることがある。
このように、特別なタイミングで同調すると、予想も出来ないことが起こる。
そんな現象を研究するのが、非線形科学というものらしい。

上で、アラバスターは、紙に何かを書きながら論理的に、蛾を粉々にするタイミングを掴んだのではない。
仮に、そんなことが出来るとしても、計算で突き止めるのは非常に大変だろう。
だが、人間の直観は、大型コンピューターでも解析不能なことを突き止めてしまうことがあるに違いない。
例えば、水が流れて自然に出来る渦は、法則性そのものはあるかもしれないが、その法則は非常に複雑で、複雑系科学とかカオス理論などと呼ばれているが、この分野の解明は、コンピューターの発達に負うところが大きい。つまり、コンピューターでシミュレーションを行って、初めて、理論があることが推測され、そこから、知的考察を開始するのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、水の渦を見て、これには法則性があると直観し研究していたことがあるが、ダ・ヴィンチの直観は現代のコンピューターに優っていたのかもしれない。

凄い美人が、どうにも冴えない男と恋に落ちるのを見て、普通の人は、「蓼(タデ)食う虫も好き好き(人の好みは説明出来ないの意)」とか言ったりする。
しかし、その美女を陥落させる何らかの法則があるが、それがカオス的に複雑なため、誰も気付かないだけなのかもしれない。
そして、この冴えない男は、直観的に、この美女を落とせて当たり前の法則を知り、それに則って攻めたのかもしれない。
だが、その法則は、単純なナンパテクニックなどとは全く異なる、高度で複雑なものであるに違いない(ナンパテクニックは、実際はほとんど成功しない)。

この世界の因果率は非常に複雑であるため、人間には、全ては偶然に起こっているとしか見えないが、実は、あらゆることが、厳密な法則の上に必然的に起こっているのである。
仏教の根本的な教えも、そうなのだと思う。
量子物理学には、不確定性原理という、確定不能な現象という考え方があるが、確定出来ないと言っても、本当に決まっていないかどうかは分からないし、実際、これまでは確定不能と思われていたものを確定することが出来るということが分かったこともある。
そして、実際には、方法さえあれば、全てが確定可能なのかもしれない。

科学やコンピューターでは分からなくても、人間の直観には分かることがあり、それを味方にした人間の話は多い。
そして、それは、人間が、無になった状態、つまり、無我、忘我、没我の状態でし起こらない。
それを起こり易くする方法が、強く思い、それから、ぼーっとすることだ。
この場合、強く思うとは、強く決意することである。
何かをはっきりと決意し、それから、ぼーっとすれば、どうすれば良いか分かったり、適切なことが適切なタイミングで起こったりする。
ぼーっとするには、薄目になるのが手っ取り早い。
要するに、何を成し遂げるかを決心し、それから、ぼーっとするのである。








後悔は本当に無駄だったと分かる話

時間を巻き戻して、過去をやり直すというのは、昔なら、『時をかける少女』のように、ラブ&ロマンスの要素はあってもSFと決まっていた。
だが、今は、『サクラダリセット』や『Re:ゼロから始める異世界生活』のような、ファンタジーではあっても、SFとは言えないようなものでも、過去に戻るという現象を扱うものがある。

あなたは、可能なら、過去をやり直したいだろうか?
宮本武蔵は、「私は過去にしたことを後悔しない」という決意表明をしたが、そりゃ、後悔したって始まらないのだから、それが正しい心構えだ。
だが、そうはいっても、人間は、後悔するものかもしれない。

ところが、本当は、後悔する気にもさせない事実があることに、普通の人は気付かない。
どういうことかというと、こういうことだ。
「あの時、ああじゃなく、こうすれば良かった」なんて後悔は、本当はないのだ。
つまり、「判断」を後悔することは、実際はないのである。
そうじゃなくて、後悔するのは、「思想」とでもいうべきものなのだ。
要するに、後悔というのは実は、
「あの時、もっと責任感があれば」
「若い頃、もっと人の立場に立って考えることが出来たら」
「もっと酒を控えていれば」
「もっと食を謹んでいたら」
といった、習慣的、継続的なことで、そんな後悔すべきことを長期に渡ってしてしまった原因は、当時のものの考え方・・・即ち、思想であるのだ。
たとえ、一瞬の判断を間違えて後悔しているように感じても、その判断は、当時の思想がそうさせたのである。
そして、思想はちょっとやそっとで変えられるものではない。

手塚治虫さんの『ザ・クレーター』という短編集の中に、こんなお話がある。
ある若い男が、将来の選択肢に悩んでいた。
2つの道があり、どちらの道でも自信があり、何より、どちらもやりたかった。
そこで、コインを投げて決めた。
そして、コインで決めた道で、彼は勝ち進み、幸福を感じた。
だが、ある時、大きな失敗で挫折し、あの時の選択を後悔した。
すると、ここがSFなのだが、過去をもう一度やり直すチャンスを得た。
そこで彼は過去に戻り、もう一方の道に選び直し、今度こそ満足出来そうだったが、何と、今度はもっとひどい失敗をし、選択の変更を後悔した。
すると、彼の身体は2つに引き裂かれ、2つの世界で半身ずつの死体となった。
これを読んだ読者は、「やっぱり、後悔なんてするものじゃないな」と思うかもしれないが、肝心なことに気付かないのだ。
つまり、この若い男の間違いは、あの時の選択ではないのだ。
そうではなく、彼の悪いところは、いずれの道を選んだとしても、結局は失敗を引き寄せる精神性・・・つまり、思想だ。
正しい思想を持っていれば、どちらを選んでもハッピーエンドになったし、仮に、見かけ上は失敗しても、本人は満足出来たのだ。

つまりね、今、ものの考え方を正しくしないと、将来、後悔することになる。
特に、死の間際にね。
その後悔は、悲惨で、本当に辛いことになりかねない。
下手をしたら、浮遊霊になって成仏出来ないほどにね。
それなら、今すぐ、考え方、つまり、思想を変えないといけない。
まずは、学校やマスコミに押し付けられた奴隷思考を捨てるのである。
ただし、それは過激な方法で出来ることではない。
過激な方法をしたがる者というのは、時間がかかることを一瞬でやりたがる愚か者だ。
例えば、すらりと痩せるには何か月もかかるのに、「わずか3日で」などという広告に騙されて、お金と健康を失うのだ。
その「怠惰なままで、欲望に満ちたままで、結果を出したい」という思想を捨てない限り、美しくなれないのである。

では、どうすれば思想を変えられるかって?
そんなことを聞きたがる思想が問題なのだが、今は、学校やマスコミの洗脳が酷過ぎて、やはり、ヒントを与えるべきだろう。
それは、「どうしたいかを考え」「それが分かれば、それをすると決意する」ことだ。
その決意は、命を賭けるような重いものであってはならないが、真面目でなくてはならない。
逆に言えば、真面目でなくてはならないが、悲壮なものであってはならず、軽く決意しなければならない。
欲しいものは何かを明確にし、それを得ることを、真面目に、しかし、軽く決意することである。








人間はエロ小説家

名優ユル・ブリンナーが主演した1973年の映画『ウエストワールド』は、2016年に、3DCGを駆使したテレビドラマシリーズでリメイクされた。
1973年版の方は、コンピューターで管理された「ウエストワールド」というレジャーランドの話だ。
そこには、帝政ローマ、中世ヨーロッパ、アメリカ西部開拓時代などを精巧に模した都市が作られ、その中で、人間そっくりなアンドロイドを相手に、お客様は、王様、女王様、英雄騎士、お姫様、西部劇のヒーロー等になり切ることが出来る。
これは楽しいに決まっている。
西部劇の世界では、どんな貫禄ある凄腕ガンマンが現れて決闘しても、必ず自分が勝つし、その結果、好みの美女もゲット出来るのだからたまらない(笑)。
ただ、ある時、コンピューターのトラブルか何かで異常が発生し、アンドロイド達は負けてくれず(笑)に恐ろしく強く、下手したら確実に殺されるというディストピアに、お客様達は取り残された状態になってしまう・・・。

『トータル・リコール』(1990)以降になると、そんな理想の世界を、物理的にではなく、夢の中や、VR(仮想世界)で実現することが考えられ、異常事態が発生しても物理的な身体は無事だが、今度は、被害は精神に集中することになり、考えようによっては、こっちの方が怖い。

ところで、それなりの長い期間、好きな夢が見れるとなると、あなたは、どんな夢を見たいだろうか?
手塚治虫氏の『アポロの歌』という、当時としては超エロい漫画で、そんなことを、医学博士の手塚治虫氏が描いて見せたが、やっぱり、エロいことがいっぱい起こった(笑)。
あなたも、そんな夢にしたいだろうか?
尚、日本では、御馳走をたらふく食べる夢を見たいと思う人は少ないだろう。
一度や二度くらいなら、誰でも、満足が出来る素晴らしい御馳走がリアルで食べられるからだ。
私は、子供の時、そんな時には、超エロい夢・・・ではなく(笑)、動物の王国(ただし自然な)の中で、百獣の王・・・ではなく、豹とか鷹になって、自由に悠然と過ごしたいと思ったものだった。
王様というのも考えたが、王様が日常、何をするのか知らないので、そんな夢にしても、物語が展開せず、退屈で仕方がない。立派な子供なら、それではと、王様について調べるだろうが、残念ながら、私は立派な子供ではなかった(笑)。

もし、好きな夢が見れるとなると、素晴らしい夢を想像出来る人が、小説家になれる人だと思う。
『神様のメモ帳』という小説では、主人公の鳴海(物語の大半で高校1年生)は、高校を卒業後、小説家になったが、その理由は「探偵助手といったら小説家って相場が決まってる」からだそうだ。彼は、ニート探偵アリス(絶世の美少女だが、見かけは小学生の13歳)の助手だった。
それ以前に、アリスが、探偵と小説家だけが何かが出来ると言っていたが、その「何か」が何だったか私は憶えていない。まあ、人間の秘密に踏み込むことが出来る商売といった意味だとは思う。

で、別に、職業としての小説家になる必要はないが、我々は、小説家でないといけない。
小説家と言うよりは、「ストーリー・ライター」だ。
自分の物語を自分で創造しなければならない。
心理学者の河合隼雄氏と小説家の小川洋子氏が共著で『生きるとは、自分の物語をつくること』という名著を書いているが、河合氏は他の本で、「自分の物語を持っている人は強い。子供でも」といった意味のことを書かれていたが、おそらくそうなのだろう。
エロいことも、物語性がなくては面白くないものだ。
逆に、エロの要素のない物語もつまらない。
そして、自分の物語が作れない人は、あまりうまく引き寄せをやれない。
本を読むにもフィクションとノンフィクションのバランスを取らないといけないが、面白いことに、シェイクスピアやH.G.ウェルスの小説は、この2つ(フィクションとノンフィクション)が絶妙に融合している。まあ、シェイクスピアでは古く感じてしまってリアリティを感じないかもしれないが、ウェルズは読んだ方が良い。
そして、想像力が人生を作ることを、ウェルズは『ポリー氏の人生』で見事に描き、それを読み、それを人生の指標にしたコリン・ウィルソンは、ある時、一夜で世界的作家になった。
自分がストーリー・ライターだということを忘れてはならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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