キリスト教徒でもないのに、妙にイエスやマリアに親しみがあると思ったら、幼い頃に通っていた幼稚園がカトリック系だった…という人もいると思う。
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』で、主人公の高校2年の羽瀬川小鷹とその妹の中学2年の小鳩が編入した中高一貫校の聖クロニカ学園は、やはりカトリック系の学園で、シスターなんかも普通にいるのだが、本物のキリスト教徒はあまりいないと書かれているのを見て、改めて、「そんなこともあるのか?」と思う人もいるかもしれない。
立川恵さんの漫画『怪盗セイント・テール』でも、教師達がシスターで、主人公の羽丘芽美の親友の深森聖良(みもりせいら)がシスター見習いなのでシスター服を着ているのは、あの学校(聖ポーリア学園)もカトリック校だったのだなというのは、改めて考えないと意外に見過ごしてしまうことかもしれない。また、この作品のアニメでは、次回予告編の最後に、芽美が「あなたに神の御加護がありますように」と必ず言っていたことは、視聴者の、主に小さな女の子達に、何か影響を与えたのだろうかと思う。
ちなみに、その『怪盗セイント・テール』で、14歳のシスター見習いの聖良がシスター服を着ているのは、実際はあり得ないという投書が当時あったらしい。シスター服はその筋の大学を出ていないと着れないといった理由だったと思う。部外者にとってはどうでもいいことなのだが、関係者にとっては重大なことなのだろう。
我々は、「家は浄土真宗です」とか、「真言宗です」と言うが、その、我が家は何宗というのは、改めて考えると、「なんでだ?」と思う。
別に悪い意味で言うのではないが、これは仏教の各宗派が、昔、人々を自分のところの宗派に取り込むために何かやったのかもしれないし、もっと政治的なレベルで行われたのかもしれない。しかし、何があったのかは分からないし、なぜ、その宗派になったのかも分からない。そして、ほとんどの人が、何の疑問も持っていない。考えてみれば妙な話である。
そして、こんなことがあるかもしれないと思う。
ある人が、たまたま入った高校がカトリック系の学校で、学校にイエスやマリアの像があり、神父やシスターもいるし、週1回位だが、神父から、キリストの教えについて話を聞いているうちに、「これまでキリスト教について知らなかったが、なかなかいいものだな」と思ったとする。
実際、カトリック教の学校に入っても、洗礼まで受ける者はあまりいないのではないかと思うし、学校もあまり勧めないが、学校も信者獲得のノルマでもあるのかもしれず、割と簡単に洗礼を受けさせてくれるものだと聞いたことがある。それで、「ホーリーネーム(洗礼名)を持ってたら、何か格好いい」といった変な理由で洗礼を受ける人もいるかもしれない。いや、実際に、そんな子を知っている。
そんな不真面目な子ではなく、それなりにキリスト教の良さを理解して、自分も一端(いっぱし)のクリスチャンになった気で、聖書なども読むようになる人もいるだろう。
その人が、後に、何か重大な危機に直面した時、最初は、イエスや、あるいは、「父なる神」に「助けて下さい」と祈るのだが、事態が深刻化して来たとき、思わず出てきたのは、「家の宗派」である、仏教の浄土宗の念仏である「南無阿弥陀仏」で、その方が落ち着くのを覚える。ところが、状況は悪化し、もうどうにもならなくなった時に心に浮かんだのは、日本の代表的な神である天照大神だった。
昔、アメリカ移民の多くが、周囲と仲良くやっていくために、現地の教会に入って、「ちゃんとした」キリスト教徒になるが、やはり、重大な局面では、ある人は、デーメーテール(ギリシャ神話の農耕の神。娘神であるペルセポーネを同時に信仰する場合も多い)に祈りを捧げたといったような話がよくあった。現在でも、似たようなことがあると思う。
武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』というのは、ギリシャ神話の設定を取り込んだものだが、これに出てくる「3つのタリスマン」という宝具が、鏡、剣、玉というのは、古事記に出てくる三種の神器である。
だが、このアニメで、ある時、セーラームーンが、他のセーラー戦士達の背中を踏み台にした(道に粘着液が撒かれて、他のセーラー戦士達が身動き出来なくなっていた)時、ちびムーン(セーラームーンの未来の娘)が、「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)みたい」と言い、踏まれたセーラー戦士が「あたし達はワニかい?」と言うが、これも、古事記の話を元にしたもので、そんなセリフをごく自然に使うところを見ても、やはり、日本人には、日本の神話が、心の奥に馴染んでいるのだろう。
宗教のイメージが悪い場合もあるのは、信者獲得のためには、必ずしもきれいごとばかり言っていられない中で、やっている方は、「このくらいまでならいいはず」と思うことも、人によっては、「過ぎた行い」と感じることもあるのかもしれない。
そして、上にも述べた、「信仰の上塗り」みたいなことは、実は、人々の精神に抑圧や葛藤を与えているのかもしれない。それも、最初に述べた通り、自分ではあまり気付かないことであるだけに、知らず知らずのうちに、心の歪みを起こしていることもあると思う。
また、日本では、国家自体が、国家神道という邪まなものを布教し、日本の神話を恣意的に歪め、国民の精神を捻じ曲げたこともあったが、他国でもよくあったことに違いない。
別に、神道だなんだと言わなくても、日本人は、素朴に古事記を読むことで、精神の安定を得ることが出来るのではないかと思う。
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平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』で、主人公の高校2年の羽瀬川小鷹とその妹の中学2年の小鳩が編入した中高一貫校の聖クロニカ学園は、やはりカトリック系の学園で、シスターなんかも普通にいるのだが、本物のキリスト教徒はあまりいないと書かれているのを見て、改めて、「そんなこともあるのか?」と思う人もいるかもしれない。
立川恵さんの漫画『怪盗セイント・テール』でも、教師達がシスターで、主人公の羽丘芽美の親友の深森聖良(みもりせいら)がシスター見習いなのでシスター服を着ているのは、あの学校(聖ポーリア学園)もカトリック校だったのだなというのは、改めて考えないと意外に見過ごしてしまうことかもしれない。また、この作品のアニメでは、次回予告編の最後に、芽美が「あなたに神の御加護がありますように」と必ず言っていたことは、視聴者の、主に小さな女の子達に、何か影響を与えたのだろうかと思う。
ちなみに、その『怪盗セイント・テール』で、14歳のシスター見習いの聖良がシスター服を着ているのは、実際はあり得ないという投書が当時あったらしい。シスター服はその筋の大学を出ていないと着れないといった理由だったと思う。部外者にとってはどうでもいいことなのだが、関係者にとっては重大なことなのだろう。
我々は、「家は浄土真宗です」とか、「真言宗です」と言うが、その、我が家は何宗というのは、改めて考えると、「なんでだ?」と思う。
別に悪い意味で言うのではないが、これは仏教の各宗派が、昔、人々を自分のところの宗派に取り込むために何かやったのかもしれないし、もっと政治的なレベルで行われたのかもしれない。しかし、何があったのかは分からないし、なぜ、その宗派になったのかも分からない。そして、ほとんどの人が、何の疑問も持っていない。考えてみれば妙な話である。
そして、こんなことがあるかもしれないと思う。
ある人が、たまたま入った高校がカトリック系の学校で、学校にイエスやマリアの像があり、神父やシスターもいるし、週1回位だが、神父から、キリストの教えについて話を聞いているうちに、「これまでキリスト教について知らなかったが、なかなかいいものだな」と思ったとする。
実際、カトリック教の学校に入っても、洗礼まで受ける者はあまりいないのではないかと思うし、学校もあまり勧めないが、学校も信者獲得のノルマでもあるのかもしれず、割と簡単に洗礼を受けさせてくれるものだと聞いたことがある。それで、「ホーリーネーム(洗礼名)を持ってたら、何か格好いい」といった変な理由で洗礼を受ける人もいるかもしれない。いや、実際に、そんな子を知っている。
そんな不真面目な子ではなく、それなりにキリスト教の良さを理解して、自分も一端(いっぱし)のクリスチャンになった気で、聖書なども読むようになる人もいるだろう。
その人が、後に、何か重大な危機に直面した時、最初は、イエスや、あるいは、「父なる神」に「助けて下さい」と祈るのだが、事態が深刻化して来たとき、思わず出てきたのは、「家の宗派」である、仏教の浄土宗の念仏である「南無阿弥陀仏」で、その方が落ち着くのを覚える。ところが、状況は悪化し、もうどうにもならなくなった時に心に浮かんだのは、日本の代表的な神である天照大神だった。
昔、アメリカ移民の多くが、周囲と仲良くやっていくために、現地の教会に入って、「ちゃんとした」キリスト教徒になるが、やはり、重大な局面では、ある人は、デーメーテール(ギリシャ神話の農耕の神。娘神であるペルセポーネを同時に信仰する場合も多い)に祈りを捧げたといったような話がよくあった。現在でも、似たようなことがあると思う。
武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』というのは、ギリシャ神話の設定を取り込んだものだが、これに出てくる「3つのタリスマン」という宝具が、鏡、剣、玉というのは、古事記に出てくる三種の神器である。
だが、このアニメで、ある時、セーラームーンが、他のセーラー戦士達の背中を踏み台にした(道に粘着液が撒かれて、他のセーラー戦士達が身動き出来なくなっていた)時、ちびムーン(セーラームーンの未来の娘)が、「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)みたい」と言い、踏まれたセーラー戦士が「あたし達はワニかい?」と言うが、これも、古事記の話を元にしたもので、そんなセリフをごく自然に使うところを見ても、やはり、日本人には、日本の神話が、心の奥に馴染んでいるのだろう。
宗教のイメージが悪い場合もあるのは、信者獲得のためには、必ずしもきれいごとばかり言っていられない中で、やっている方は、「このくらいまでならいいはず」と思うことも、人によっては、「過ぎた行い」と感じることもあるのかもしれない。
そして、上にも述べた、「信仰の上塗り」みたいなことは、実は、人々の精神に抑圧や葛藤を与えているのかもしれない。それも、最初に述べた通り、自分ではあまり気付かないことであるだけに、知らず知らずのうちに、心の歪みを起こしていることもあると思う。
また、日本では、国家自体が、国家神道という邪まなものを布教し、日本の神話を恣意的に歪め、国民の精神を捻じ曲げたこともあったが、他国でもよくあったことに違いない。
別に、神道だなんだと言わなくても、日本人は、素朴に古事記を読むことで、精神の安定を得ることが出来るのではないかと思う。
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