ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

怪盗セイント・テール

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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日本人の心の奥にいる神様

キリスト教徒でもないのに、妙にイエスやマリアに親しみがあると思ったら、幼い頃に通っていた幼稚園がカトリック系だった…という人もいると思う。
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』で、主人公の高校2年の羽瀬川小鷹とその妹の中学2年の小鳩が編入した中高一貫校の聖クロニカ学園は、やはりカトリック系の学園で、シスターなんかも普通にいるのだが、本物のキリスト教徒はあまりいないと書かれているのを見て、改めて、「そんなこともあるのか?」と思う人もいるかもしれない。
立川恵さんの漫画『怪盗セイント・テール』でも、教師達がシスターで、主人公の羽丘芽美の親友の深森聖良(みもりせいら)がシスター見習いなのでシスター服を着ているのは、あの学校(聖ポーリア学園)もカトリック校だったのだなというのは、改めて考えないと意外に見過ごしてしまうことかもしれない。また、この作品のアニメでは、次回予告編の最後に、芽美が「あなたに神の御加護がありますように」と必ず言っていたことは、視聴者の、主に小さな女の子達に、何か影響を与えたのだろうかと思う。
ちなみに、その『怪盗セイント・テール』で、14歳のシスター見習いの聖良がシスター服を着ているのは、実際はあり得ないという投書が当時あったらしい。シスター服はその筋の大学を出ていないと着れないといった理由だったと思う。部外者にとってはどうでもいいことなのだが、関係者にとっては重大なことなのだろう。

我々は、「家は浄土真宗です」とか、「真言宗です」と言うが、その、我が家は何宗というのは、改めて考えると、「なんでだ?」と思う。
別に悪い意味で言うのではないが、これは仏教の各宗派が、昔、人々を自分のところの宗派に取り込むために何かやったのかもしれないし、もっと政治的なレベルで行われたのかもしれない。しかし、何があったのかは分からないし、なぜ、その宗派になったのかも分からない。そして、ほとんどの人が、何の疑問も持っていない。考えてみれば妙な話である。

そして、こんなことがあるかもしれないと思う。
ある人が、たまたま入った高校がカトリック系の学校で、学校にイエスやマリアの像があり、神父やシスターもいるし、週1回位だが、神父から、キリストの教えについて話を聞いているうちに、「これまでキリスト教について知らなかったが、なかなかいいものだな」と思ったとする。
実際、カトリック教の学校に入っても、洗礼まで受ける者はあまりいないのではないかと思うし、学校もあまり勧めないが、学校も信者獲得のノルマでもあるのかもしれず、割と簡単に洗礼を受けさせてくれるものだと聞いたことがある。それで、「ホーリーネーム(洗礼名)を持ってたら、何か格好いい」といった変な理由で洗礼を受ける人もいるかもしれない。いや、実際に、そんな子を知っている。
そんな不真面目な子ではなく、それなりにキリスト教の良さを理解して、自分も一端(いっぱし)のクリスチャンになった気で、聖書なども読むようになる人もいるだろう。
その人が、後に、何か重大な危機に直面した時、最初は、イエスや、あるいは、「父なる神」に「助けて下さい」と祈るのだが、事態が深刻化して来たとき、思わず出てきたのは、「家の宗派」である、仏教の浄土宗の念仏である「南無阿弥陀仏」で、その方が落ち着くのを覚える。ところが、状況は悪化し、もうどうにもならなくなった時に心に浮かんだのは、日本の代表的な神である天照大神だった。
昔、アメリカ移民の多くが、周囲と仲良くやっていくために、現地の教会に入って、「ちゃんとした」キリスト教徒になるが、やはり、重大な局面では、ある人は、デーメーテール(ギリシャ神話の農耕の神。娘神であるペルセポーネを同時に信仰する場合も多い)に祈りを捧げたといったような話がよくあった。現在でも、似たようなことがあると思う。

武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』というのは、ギリシャ神話の設定を取り込んだものだが、これに出てくる「3つのタリスマン」という宝具が、鏡、剣、玉というのは、古事記に出てくる三種の神器である。
だが、このアニメで、ある時、セーラームーンが、他のセーラー戦士達の背中を踏み台にした(道に粘着液が撒かれて、他のセーラー戦士達が身動き出来なくなっていた)時、ちびムーン(セーラームーンの未来の娘)が、「稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)みたい」と言い、踏まれたセーラー戦士が「あたし達はワニかい?」と言うが、これも、古事記の話を元にしたもので、そんなセリフをごく自然に使うところを見ても、やはり、日本人には、日本の神話が、心の奥に馴染んでいるのだろう。

宗教のイメージが悪い場合もあるのは、信者獲得のためには、必ずしもきれいごとばかり言っていられない中で、やっている方は、「このくらいまでならいいはず」と思うことも、人によっては、「過ぎた行い」と感じることもあるのかもしれない。
そして、上にも述べた、「信仰の上塗り」みたいなことは、実は、人々の精神に抑圧や葛藤を与えているのかもしれない。それも、最初に述べた通り、自分ではあまり気付かないことであるだけに、知らず知らずのうちに、心の歪みを起こしていることもあると思う。
また、日本では、国家自体が、国家神道という邪まなものを布教し、日本の神話を恣意的に歪め、国民の精神を捻じ曲げたこともあったが、他国でもよくあったことに違いない。
別に、神道だなんだと言わなくても、日本人は、素朴に古事記を読むことで、精神の安定を得ることが出来るのではないかと思う。









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子供にクリスマス・プレゼントを与えるべきでない理由

「私は特別だ」と言うなら、特別でない人のことを知っているはずである。そうでなければ、自分が特別であることが分からないはずだ。ところが、他の人達のことをよく知りもせずに、そう言う者が多い。
企業でも、「当社は特別です」と言うところがある。それは、大抵は、変な会社という意味でしかない。他の会社のやり方を知らずに、勝手なことをやっているだけのことである。ところが、最近の会社では、本当の意味での特別がやり難くなってきている。M&A(企業の合弁や買収のこと)が普通になってくると、合弁、買収する(あるいはされる)会社と、様々な面でやり方が異なると、調整が大変だからだ。ことに、業務形態が異なると、コンピュータシステムも異なるし、どちらか、あるいは、両方の会社の業務のやり方が特別だと、その統合はほとんど不可能で、やむなく、システムを一から作り直すしかなくなる。しかし、やり方の違う2つの会社の業務を統合させるシステムなんて恐ろしく難しいものだ。だから、最近では、合弁、買収に備え、コンピュータシステムの入れ替え時に、標準的なERP(統合型業務システム)パッケージというコンピュータシステムに、業務の方を合わせて、特別なことをしないのが賢いやり方と言われている。
良い意味で特別でありたければ、会社など、大きくしないことだ。

日頃の仕事の苦労を思い出し、つい、前振りが長くなった。ご容赦願いたい。
ところで、私は、子供の頃から、クリスマス・プレゼントや、バースデイ・プレゼントをもらったことが、ほとんどない。しかし、それはよく考えてみて、ようやく気付いた。もらったものは、3つか4つあるが、それを全部詳しく憶えているのだから、それは珍しいことだったのだ。1つ目は、幼稚園の時のクリスマスにリモコン・カーをもらったが、それは、サンタクロースにもらったのではなく、親が買ってきたことを理解していたし、父親が買い渋っていたことも知っていた。
『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンなど、私から比べると甘いものである。幼稚園のクリスマス・イベントに登場したサンタクロースを偽者と見破ったくらいで威張るなと言いたい。しかも、他の子達もそれを分かっていたと自分でも言っているのだから。
だが、私は、それ以来、親からプレゼントをもらったことはない。それは、世間的には、割と特別なことだと思うのだけれども、私は、特にそれについて気になったことはない。他の子達が、誕生日やクリスマスに、親からもプレゼントをもらう話はよく聞いたが、自分がそうではないからといって、別に、損だとか、悔しいと感じてはいなかった。
先日も書いたが、立川恵さんの漫画『怪盗セイント・テール』で、主人公の芽美の親友である14歳のシスター見習いの美少女、深森聖良(みもりせいら)は、敬虔なクリスチャンである彼女の家庭の方針で、クリスマスはボランティア活動をして過ごすので、その年も、芽美達のクリスマス・パーティーに参加しなかった。そして、佐渡という、彼女に好意を持つ男子生徒は、聖良が、これまで一度もクリスマス・プレゼントをもらったことがないことを知って驚く。しかし、私も聖良は好きだが、別に驚かない。そんな人だっているだろうさということだ。
また、私はリアルで、家庭が貧しかったので、家でクリスマス・ツリーを見たことがないという人も知っている。しかし、本人は、別にそれほど大したこととは思っていない。

つまり、こういうことだ。
世間では、いかにも、子供にクリスマスや誕生日のプレゼントを渡すことが親の愛情の現われで、子供に素晴らしい思い出を与えるのだと言われるが、それは、販売側の勝手な言い分でしかないのである。そして、それは完全に嘘なのだ。むしろ、嫌われるリスクや、一時的にでも、子供の心に傷を与えるかもしれない辛さがあっても、敢えてプレゼントを買わないことが、本当の愛情である。そして、別にプレゼントを渡さなくても、何も悪いことは起こらず、むしろ、悪いことを回避することになるのだ。
私は、自分には妻子は無いが、近所であれば、親戚の子供に、誕生日やクリスマスのプレゼントを渡すのが好きだった。だが、これも自分が親切な大人であると思われたい、あるいは、自分でもそう思いたいというのが動機であろう。そして、プレゼントをもらう子供達は、それほど嬉しくはないものなのだ。彼らが喜んで見せるのは、むしろ、プレゼントを渡す大人に気をつかってのことではないかと思う。私はそう強く感じる。子供をナメてはいけない。
そして、私もプレゼントをもらわなくて良かったと思っている。自分がプレゼントをもらった思い出の中でも、その時、割合に気まずい思いをしたことを憶えている。
また、子供が本当にゲーム機やタブレットPCを欲しがっていて、それを与えれば、一応は本当に喜ぶ。しかし、そんな子供は、大抵、駄目になるのである。自分が好かれようという下心でプレゼントする結果というのは、大抵、そんなものだ。
ジョセフ・マーフィーは、『あなたも金持ちになれる』という本を書いてはいるが、子供に無条件に物を与えることはちゃんと戒めているのである。そんな子供がロクなものにならないという、当たり前のことも、敢えて思い出せている。

時期的に遅かったが、今後は、クリスマス・プレゼントやバースディ・プレゼントは控えた方が良いと思う。

ところで、こんな映画があった。フランス映画だ。
10歳くらいの少年が、ブルドーザーが欲しいと言えば、父親はそれを買って与え、狼と言えば、動物園に盗みに行く。
少年の親戚の叔父さんは、少年の父親に、「息子をろくでなしにしたいのか」と憤慨するが、父親は「なれるなら、どんなろくでなしにでもなって欲しい」と言う。
この父親と息子は、夏に海でボート遊びをしていた時、核物質を摘んだジェット機が空で事故を起こして爆発し、海に潜っていた父は免れたが、息子は被爆したのだった。息子は、後数ヶ月の命だった。
クリスマスの夜、少年は静かに死に、すっかり少年になついていた狼たちは遠吠えを上げる。
1968年の『クリスマス・ツリー』という映画だ。
なぜかDVD化されていない。

下記に、イタリア人神父のバルバロにより日本語に翻訳された、霊視により、少女の時のマリアの姿も生き生きと描いた『聖母マリアの詩』。聖母マリアの出現や、食べずに生きる聖女テレーゼ・ノイマンの話を詳しく扱ったフィナテリ神父の『聖母マリアはなぜ「出現」したのか』をご紹介する。









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クリスマスを心の中ではどう過ごすか

世間では、クリスマスがイエスの誕生日というよりは、サンタクロースの日であるという認識が強いのは確かだが、その中でも、どこか意識の片隅にでも、「救いの御子の聖誕日」という思いがあって、楽しみも度を超すこともなく、一瞬でも荘厳な気持ちになるというのがクリスマスであると思う。
アンデルセンの『マッチ売りの少女』で、少女が死んだのは大晦日であると思うが、街の様子はまさにクリスマスで、このお話が、やはり世界中の人々の意識の底にあって、自分が恵まれていても、ただ楽しいことばかりを考えたりしたりするのではなく、少しでも心を善に向かわせているのではないかと思う。
立川恵さんの漫画『怪盗セイント・テール』で、主人公の羽丘芽美の親友の、シスター見習いの14歳の少女、深森聖良(みもりせいら)は、敬虔なキリスト教徒の家に生まれ、クリスマスはボランティアで過ごすというのが毎年の自然な習慣で、クリスマス・プレゼントをもらったことは一度もないというお話があった。あれを読んだ人が、やはり、そのようなことを深い心に留めれば、クリスマスは、その人にとっても、世界にとっても、より良いものになるだろう。

子供の頃から、「キリスト教徒でないなら、イエスの誕生日は関係ない」といったことをよく聞いたものだが、それは馬鹿げた考え方だ。
イエスは別にキリスト教なんて宗教を作ったわけではない。
ジョージ・アダムスキーは、「私はキリスト教徒ではないが、イエスの教えを聖書で学んだ」と言う。それは、自主的にそうしたということであり、それこそが最も好ましい態度だろう。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンがイエスを崇拝していることは、彼の著作を読めば明白であるが、彼は、伝統的な教会の教えは子供の時に捨てている。彼も、キリスト教という宗教ではなく、イエスの教え、つまり、真理を崇敬しているのだろう。

私は、クリスマスにはあまり良い思い出はない。地域が主催した子供クリスマス・パーティーみたいなものは、本当に大きなお世話だった。会社の社員旅行みたいなもので、断るのがひどく難しいが、いずれも行きたくない人が実際は多いものだろう。子供が地域活動に関わるのは非常に良いことだが、それは、日常の活動であるべきで、人々の役に立つことを子供がやってこそ意味がある。
高校生の時は、暖房が一切ない部屋で、1人でディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいたものだが、当時思い付くクリスマスの過ごし方としては、まあ、合格ではなかったかと思う。
ところで、私は、シューベルトやグノーの『アヴェ・マリア』の良い歌唱を何年もずっと探しているが、なかなか良いものがない。女性のソプラノ歌手が定番かもしれないが、パワーがあり過ぎ、また、上手過ぎてイメージに合わない。有名な少年少女合唱団のものも、上手いだけで、ハートを感じない。昔、レコードで聴いた、エーリッヒ・ベンダー少年少女合唱団のものが実に良かったが、あのようなものがいくら探しても見つからない。まあ、何年か先にでも、理想的なものが見つかれば良いと思っているし、夢の中か、死んだ後にでも天上の歌声が聴ければ有難い。そのためには、キリスト教徒でも仏教徒でもないが、イエスや釈迦の教えを学ぼうと思う。

尚、伝統的なキリスト教徒には抵抗があるかもしれないが、スコットランド出身の哲学者・神学者であるマード・マクドナルド・ベインがイエスと一体化して語ったことを、筆記者が忠実に書き記した『心身の神癒』を下記にご紹介しておく。この本は、Amazonでも、平常は、高価な古書しかなかったと思うが、最近、数多く新品が在庫されている。霞ヶ関書房のクリスマス・プレゼントであろうか。ベインはイエスに実際に逢ったことがあり、その様子を別の著作で述べていた。信じるかどうかは、イエス自身が言っていた「木の良し悪しは実で知る」の通りで、自分で判断すれば良いことと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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