ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

思考停止

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

賢者は思考停止し自分の頭で考えない

「思考が停止している」「自分の頭で考えることが出来ない」という言葉を、人を蔑む、馬鹿にする意味で使うのは、本当にやめて欲しいと思う。

性善説と性悪説の話で、
「溺れている子供を見て、救おうという気持ちが起こるのは、後で利得を得ようとしてのことではない。よって、人間の本質は善である」
という意見がある。
これに対しては、いろいろ反論がある。
たとえば、
「子供が溺れているのに助けなかった薄情な人間だと思われないために救うのではないか?」
といったものだ。
この2つの意見では、いずれも子供を救うのだが、こんな話はどうだろう?

私が小さな子供の時に見た映画だが、高校生くらいのイケメンの男と、同い年くらいの女が仲良く話しながら歩いていたら、子犬が池に落ちて溺れているのが見えた。
その女は、その男に「助けてあげて」と言うが、子犬が溺れているのは、大きな池の岸から離れたところで、助けるには泳いで行く必要がある。
男は、少し苦笑して、「服が濡れちゃう。まだ寒いし」みたいなことを言って、助けようとしない。
ところがそうしていると、1人の、やはり彼らと同い年くらいの男が池に飛び込んで子犬を助けた。
結局、この女は、そのイケメン男子を振って、子犬を助けた男を気に入って付き合うことになったと思う。

思考停止していたのは、子犬を助けた男の方だ。
一方、自分の頭で考えていたのは、イケメンの男だ。
イケメンの男は、こんなことを「自分の頭で」考えたのだと思う。
「助けるために飛び込んだら寒いし、服がびしょびしょになって大変だ」
「助けなかったら、この女の印象が悪くなるかもしれないが、それでも濡れるのや寒いのは嫌だ」
「俺だって、子犬が溺れ死ぬのは嫌だが、濡れるのや寒いのはもっと嫌だ」
「この女、なんとか諦めてくれないかな」
一方、子犬を助けた男は、別に次のように考えたのではないようだった。
「ここで子犬を助けたら、この女の気を引くことが出来るに違いない」
「子犬の飼い主がいたら、礼をもらえるかもしれない」
「子犬を助けた善良な若者として評判になり、いろいろいい思いが出来るのではないか」
子犬を助けた男は、子犬を抱いて嬉しそうに可愛がっていたことから、やはり、そんなことは考えていなかっただろう。
つまり、子犬を助けた男は、溺れている子犬を見て、「思考停止」し、「自分の頭で考えず」、内から起こった善意に従って助けたのである。

昔、こんな映像をテレビで見たことがある。
多分、事実だったと思う。
子供が、流れの激しい川で溺れている。
親は助けたいが、助ける方法がない。
そんな親を見て、ある男が、その親に、助けたらいくら出すかの交渉を始める。
この男は、助けたら自分の評判が良くなるというより、もっと自分の頭で考え、「助けて儲けよう」と考えたのである。
一方、見返りなしでも助けたいが、自分の力で助けることが出来ない人は、何も考えていない。
あるいは、一見、自分が助けることは不可能でも、何とか助けることが出来ないかと思う者が、「こうすれば助けられるのではないか」と、助けるためのアイデアを思いつくのは、思考停止した時だ。
スポーツでも、素晴らしいプレーがあった時、そのスポーツをよく知っている解説者が「あれは考えてやったんじゃないですね」などとよく言うが、それと同じである。
武道では、考えて動くのではなく、無我で戦うことを目指す。つまり、無思考で動けるように修行するのである。

「よく考えて選びなさい」
と言われて、本当によく考えたら、必ず駄目な方を選ぶ。
「何も考えずに選んだから、間違った方を選んだ」などと言うかもしれないが、実際は、下らないことを考えて選ぶから間違えるのだ。
金持ちの男と、豊かでない男からプロポーズされ、「よく考えて」金持ちの男を選んだ女は不幸になる。
未来がどうなるかは分からないが、どうせ分からないなら勘で選んだ方がマシである。
考えても正しい方は分からないが、無思考になった時の勘は、なかなか鋭いものだ。

まあ、いろいろ反論もあろうが、少なくとも、「思考が停止している」「自分の頭で考えることが出来ない」という言葉を否定的に使うべきでないことが分かると思う。
そもそも、そんな言葉で人を蔑む者に賢い人間はいない。知らない人も多いと思うが、それは確かである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)精神について(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
(2)私の声はあなたとともに ~ミルトン・エリクソンのいやしのストーリー~
(3)新釈 荘子 (PHP文庫)
(4)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省訳)

夢
AIアート1530
「夢」
Kay

最も励むべきこと

何かに励むと言う時は、良い行いや努力をすることだと思われることが多い。
勉強に励む、筋トレに励む、読書に励む、ボランティアに励む・・・等だろう。
泥棒に励むとか、犯罪に励むというのは、イメージは悪くても、言葉としては成立する。
なぜなら、犯罪にだって、「励む」の必要条件と思われる「意思」と「行動」があるからで、ある意味、「積極性」が見られるからだ。
しかし、飲酒に励むとか、(下らない)遊びに励むとは、普通、言わない。
これらには、行動は見られても、意思や積極性に欠けるからだ。
つまり、励むというのは、意思と積極性が必要なことだ。
まあ、積極的意思とか、単なる意思でも良いのだが、とりあえず、意思と積極性としておこう。
行動に関しては、必要ならついてくるもので、特に強調しなくて良いだろう。

では、人間の、最も良い励みとは何だろう?
それは、「思考停止に励む」ことだ。
だが、言うまでもなく、「思考停止」という言葉のイメージは悪い。
学校や社会では、「自分の頭で考えることが出来る」という人間が立派な人間だと「大誤解」している。
凡人は、「何も考えないやつが自分を駄目にし、周囲に迷惑をかける」と言う。
だが、それなら、どう見ても与太者(要はどうしようもなく駄目なやつ)である者に、「何も考えるな」と言って見ると良い。
すると、そいつが少しはマシなら、「そんなことは不可能だ」と言うだろう。
自分が考えているか、考えていないか分からないほど愚かな与太者の場合、脳波を測定すれば良い。
すると、「考えるな」と言われても、与太者の脳波は、思考状態のベータ派や、さらに思考活発なガンマ波に近いような脳波になっている。
一方、一般には、「物凄く考えている」と思われる、将棋の名人の対局中の脳波は、まさに、思考停止のアルファー波や、睡眠時のシータ波の状態である。

思考停止に近付くほど、良いアイディアが閃き、良いアルゴリズム(問題解決手順)が自動的に浮かんでくる。
そして、目覚めたまま、完全に思考停止したシータ波になれば、不可能はなくなる。
引き寄せが出来るのは、アルファー波からで、シータ波だと奇跡的な引き寄せが起こることもある。
逆に言えば、シータ波でなければ奇跡は起こせず、アルファー波でなければ引き寄せは出来ない。

普通は、なかなか自分の意思で思考停止出来ないので、アファーメーションやマントラを唱えたり、呼吸数を落としたり、何かに集中したりして、思考停止に近付く。
(あるいは、ヘミシンク効果を利用したり、 ソルフェジオ周波数の音楽を聴くという方法もある)
こういった、アファーメーションや呼吸制御等のメソッドは、あくまで、思考停止の手段である。
だから、自分に合ったものであれば、どれを選んでも同じである。
だが、本当は、自分の意思で思考停止出来るのが一番良い。
だから、『荘子』の中で、荘子は、孔子が弟子の顔回に「坐忘が出来るようになった」と言われた時、孔子は顔回を褒め、孔子は自分が顔回を見習うと言わせたのである。
坐忘とは、仏教用語になっていて「雑念を去り、我を忘れる」ことで、忘我とか没我ということだが、元々は、この『荘子』から出ている。
そして、坐忘とは、まさに、思考停止の状態だ。
坐忘の状態になれば、それは神人であり、宇宙と一体であり、神仙であり、万能である。








「思考停止」と「頭の無駄使いをしないこと」の違い

「思考停止」と言ったら、自分の頭で考えない愚か者の状態を指しているのだろう。
ところが、考えることをやめたら、真の知恵者であり、幸運に恵まれ、奇跡すら起こせる。
これは一体どういうことだろう。
いや、実に簡単なことだ。
単に、「人間が考えるべき簡単なことはちゃんと考え、難しいことは魂の叡智、あるいは、神に任せる」というだけのことである。
スーフィーの格言に、「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」というものがあるらしい。
「ラクダなんかつないでおかなくても逃げやしないさ」というのが「思考停止」なのである。
ラクダを、いつ、どこに、何で、どんなふうにつなぐかを考えて決めるには自分なのだ。
そんな簡単で、人間が分かることに神様が関わったりしない。
だが、そんな簡単なことをしっかりやり、後は何も考えなければ、人間の及ばぬ知恵と力で神様が面倒を見てくれる。

いかに部下を可愛がる力ある上司でも、部下が毎日遅刻をしてくるようでは救えない。
部下が、「深夜に面白いテレビ番組があって、どうしても朝起きられないのです」と言い訳しても、上司が一緒に考える必要はない。
それは、部下の問題であり、そんなことが解決出来ないようなら、彼は、その上司にも見捨てられる。
ところが、そんな阿呆な部下に限って、難しい問題のことで、経験も(大抵は知識も)ないくせに、上司に、「もっといい方法がありますよ」などと馬鹿を言うものなのだ。そんなことは優秀な上司にまかせれば良く、上司のやり方を見ているうちに、ようやく、自分にも出来るようになり、いずれ、上司を追い抜くことも可能になるのである。

ダイエットなんて簡単だ。
食べ過ぎないようにし、適度に運動すれば良いだけだ。
「だけど、それがなかなか出来ないのですよ」と言う者がいるが、そんな簡単なことが出来ないなら、何も出来ない。
ところが、そんな者に限って、会社の上司や幹部の批判を(陰で)し、自分の方がずっと賢いようなことを言うものだ。

ある優秀な人が、
「私は人生で何も大したことは出来なかったが、閻魔様の前に出たら、便所の下駄はきちんと揃えましたと言うつもりです」
と言っていた。
一時が万事で、便所の下駄(今どきは珍しいかもしれないが)をきちんと揃える人は、きちんとすべきことはきちんとしているだろう。
神仏は便所の下駄は揃えないが、彼を豊かにする、彼が思いもよらない出来事は起こすのである。

お歳暮の品を、相手のランクによって決めるという難しいことなど、しなくて良い。そんな頭の無駄使いをしなければならない会社なら、今の時代、すぐに潰れるだろう。そして、本当にきちんとすべきことをすれば、そんな難しいことをしなくて済むよう、神様が取り計らってくれるだろう。例えば、良い転職先が見つかるなどね。私は、お歳暮を贈ったことは一度もないが、それで困ったことも一度もない(お歳暮が必要な会社からさっさと転職し、転職後、その時代遅れの会社は潰れた)。
ただ、本当にそうしたい場合には、プレゼントもすれば、手土産も持っていくのであるが、それは楽しいことである。自分が楽しくないなら、相手にも迷惑だろうから、プレゼントもお土産も持って行ってはならない。







プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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