心ない言葉を発したり、行動をした時、心が痛むことがあると思う。
また、必ずやり遂げなければならないことを前に、自信を持たなくてはならないのに「自分に出来るのか?」という不安が圧し掛かることもあると思う。
宗教では、誤った想いや行いは正さなければならないと言うし、引き寄せでは、疑いが1ミリもあってはならないと言う。
宗教と引き寄せの合体みたいなものでは、「神を信じて疑うことが全くなければ叶う」とか言う。
全部、無理ゲー(難易度が高過ぎるゲームのような状況)である。
念仏では、心ない言葉や行いといったものを正す必要は全くないし、それを補うために善い言葉や行いを言ったり行ったりする必要もない。
何かを無理矢理信じる必要もない。信じられないなら信じなくていい。
それどころか・・・
善い言葉をかけたり、善い行いをしてはならない。
信じてはならない。
いやな想いが浮かんでも、放置すれば良いが、辛ければ、ただ念仏を唱えれば良い。
悪い行いをして後悔しても、宮本武蔵のように「吾後悔せず」なんて言わずに後悔したままで良いが、とりあえず念仏を唱えれば良い。
これが本物の念仏であると思う。
これに文句を言いたい人もいるだろうが、論理的に言ったって、これでこそ、あらゆる現世利益が得られることが分かるのである。
簡単に理由を言えば、浅い宗教や半端な引き寄せのように、嘘を飲み込む必要がないからだ。
悪い頭では理解出来ないと思うが、とにかく念仏だけで良いのである(頭が悪くても良いのである)。
世の中には馬鹿がいるもので、「じゃあ、悪いことを積極的にやれば良いのだな」と勘違いして、そうした者がいるらしい。
それに対し、親鸞は、咎めもしなかったが、「薬があるからといって、好んで毒を飲む必要はない」とだけ言った。
だがね、そう思い違いをして、悪いことをどんどんやることも宿命である。
つまり、馬鹿になるのも宿命、業なのである。
そんな宿命がなければ、思うように悪いことをしたり、悪い言葉を言えるものではない。
うまくいくためには、ただ念仏を唱えれば良い。
いつも言うが、念仏も「南無阿弥陀仏」だけでなく、自分が親しみを感じる神仏を頼れば良い。
「観音様」とか「アマテラス様」とか。
また、黒住宗忠が崇めた天照大神は、古事記に登場する女神ではなく、至高の神の象徴である。
同じ意味で、阿弥陀仏でも大日如来でも弥勒菩薩でもスサノウでもアポロでも何でも良い。
『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神も言っている。
「どの神に祈っても、それは私に祈っていることになる」
これを真似しただけかもしれないが、インドの有名な聖者は、
「キリスト教を信仰しているならイエスに祈れば良いし、仏教を信仰しているならブッダに祈れば良い。しかし、それは結局、私に祈っているのである」
と言っていた。
まあ、私は本当に阿弥陀仏を頼っているのだが。性格抜群だし(笑)。
他、性格が良い神仏と言えば、インドの『ラーマーヤナ』のヒーロー、ラーマ神がいる。
『古事記』では、因幡の白兎を助けた大国主(オオクニヌシ)が、少し頼りないところもあるが、親切である。
もちろん、観音経(法華経25章)の観音様(観世音菩薩)の慈悲深さ、力の強大さも抜群で人気がある。
自分で読んで、独自の信仰を持つことが良いかもしれない。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)
(4)ラーマーヤナ(上)
(5)現代日本語訳 法華経
(6)神統記(ヘシオドス)
(7)マンガギリシア神話 (1)(里中満智子)
(8)現代語訳 古事記 (福永武彦)
(9)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(10)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)

AIアート1683
「五次元へ」
Kay
また、必ずやり遂げなければならないことを前に、自信を持たなくてはならないのに「自分に出来るのか?」という不安が圧し掛かることもあると思う。
宗教では、誤った想いや行いは正さなければならないと言うし、引き寄せでは、疑いが1ミリもあってはならないと言う。
宗教と引き寄せの合体みたいなものでは、「神を信じて疑うことが全くなければ叶う」とか言う。
全部、無理ゲー(難易度が高過ぎるゲームのような状況)である。
念仏では、心ない言葉や行いといったものを正す必要は全くないし、それを補うために善い言葉や行いを言ったり行ったりする必要もない。
何かを無理矢理信じる必要もない。信じられないなら信じなくていい。
それどころか・・・
善い言葉をかけたり、善い行いをしてはならない。
信じてはならない。
いやな想いが浮かんでも、放置すれば良いが、辛ければ、ただ念仏を唱えれば良い。
悪い行いをして後悔しても、宮本武蔵のように「吾後悔せず」なんて言わずに後悔したままで良いが、とりあえず念仏を唱えれば良い。
これが本物の念仏であると思う。
これに文句を言いたい人もいるだろうが、論理的に言ったって、これでこそ、あらゆる現世利益が得られることが分かるのである。
簡単に理由を言えば、浅い宗教や半端な引き寄せのように、嘘を飲み込む必要がないからだ。
悪い頭では理解出来ないと思うが、とにかく念仏だけで良いのである(頭が悪くても良いのである)。
世の中には馬鹿がいるもので、「じゃあ、悪いことを積極的にやれば良いのだな」と勘違いして、そうした者がいるらしい。
それに対し、親鸞は、咎めもしなかったが、「薬があるからといって、好んで毒を飲む必要はない」とだけ言った。
だがね、そう思い違いをして、悪いことをどんどんやることも宿命である。
つまり、馬鹿になるのも宿命、業なのである。
そんな宿命がなければ、思うように悪いことをしたり、悪い言葉を言えるものではない。
うまくいくためには、ただ念仏を唱えれば良い。
いつも言うが、念仏も「南無阿弥陀仏」だけでなく、自分が親しみを感じる神仏を頼れば良い。
「観音様」とか「アマテラス様」とか。
また、黒住宗忠が崇めた天照大神は、古事記に登場する女神ではなく、至高の神の象徴である。
同じ意味で、阿弥陀仏でも大日如来でも弥勒菩薩でもスサノウでもアポロでも何でも良い。
『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神も言っている。
「どの神に祈っても、それは私に祈っていることになる」
これを真似しただけかもしれないが、インドの有名な聖者は、
「キリスト教を信仰しているならイエスに祈れば良いし、仏教を信仰しているならブッダに祈れば良い。しかし、それは結局、私に祈っているのである」
と言っていた。
まあ、私は本当に阿弥陀仏を頼っているのだが。性格抜群だし(笑)。
他、性格が良い神仏と言えば、インドの『ラーマーヤナ』のヒーロー、ラーマ神がいる。
『古事記』では、因幡の白兎を助けた大国主(オオクニヌシ)が、少し頼りないところもあるが、親切である。
もちろん、観音経(法華経25章)の観音様(観世音菩薩)の慈悲深さ、力の強大さも抜群で人気がある。
自分で読んで、独自の信仰を持つことが良いかもしれない。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)
(4)ラーマーヤナ(上)
(5)現代日本語訳 法華経
(6)神統記(ヘシオドス)
(7)マンガギリシア神話 (1)(里中満智子)
(8)現代語訳 古事記 (福永武彦)
(9)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(10)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)

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