ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超絶能力が高い人の特徴

『極道の妻たち』シリーズの映画は、1986年から1998年に渡って全10作が作られている。
第1作の配給収入7.5億円が、おそらくシリーズ最高で、最後の方は2~3億なら良い方だったのではと思う。
私も、テレビで何作か見たが、結構面白かったと思う。
ちなみに、『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』は今月(2025年5月)には14億円(興行収入)を突破している。
※配給収入=配給会社の売り上げ。興行収入=映画館の売り上げ。

『極道の妻たち』シリーズで、私が唯一憶えているセリフがある。
それは、どこかの組のボスの奥さんだと思うが、中年過ぎの女性が、「神様仏様に手を合わせる気持ちがなくなったら終わりや」である。
それほど盛り上がる場面でもなく、さりげないセリフであったと思うが、私は「いいこと聞いたな」と今でも思っている。

唯一憶えているセリフと言えば、私は『あしたのジョー』の中で「お嬢様」白木葉子のセリフでたった1つ憶えているのが、「世の中、ギブアンドテイクです」だ。まあ、思い出そうと思えば、他にも思い出せるが、私がこの漫画で最も印象的なセリフでもある。
その時、私は中学生だったが、単に、ギブアンドテイクという言葉を知らなかったから憶えていたということもあると思うが、いまだ印象的に思うセリフだ。
と言うのは、あの「お嬢様」がそんなことを言うのは、なかなか凄いと思うからだと思う。
彼女の立場で、あの若さなら、「テイクアンドテイク」か「ギブアンドギブ」だけで、「もらったからあげる」「あげるからちょうだい」なんて発想はないのが普通だ。
だから、「お嬢様というのは馬鹿」という不文律があるのだ。
おそらく、賢い葉子お嬢様は、神様仏様に手を合わせているのだろう。ただし、自主的にね。

野球とかサッカーとかの大きな試合で、国歌斉唱の時、特にアメリカの選手は皆、胸に手を当てるが、あれは良いと思う。美しい姿だ。
あれもまた、「神様仏様に手を合わせる」気持ちと同じだと思う。

では、「神様仏様に手を合わせる気持ち」と同じと思える、「ギブアンドテイク」や国歌斉唱で胸に手を当てることのエッセンスは何かというと、「自分は偉くない」という気持ちで、謙虚と言うか、当たり前の気持ちだろう。
人間の心とか自我の最大の欠点は、自分が一番偉いと思うことで、自分を最上位に置きたがることだ。
「天上天下唯我独尊」を地でやってしまうと、神仏より自分が重要で価値があるし、テイクアンドテイクになるし、国家より自分を優先する。

「天上天下唯我独尊」と思っているお嬢様も、他の人も「天上天下唯我独尊」と分かれば良いのだが、なかなかそうはいかず、分からないうちはただの馬鹿である。

自分ただ一人が「天上天下唯我独尊」と思うこと、つまり、自分が一番偉いと思うというのは、人間の心に組み込まれた、魂の力を制限するプログラムの働きである。
このプログラムを無効化すれば、魂の全知全能のパワー全開となる。
そのため、自主的に神仏に手を合わせたり、国歌を聴く時に自主的に胸に手を当てる者は能力が高いのである。
なぜなら、自分より上位の存在を認め、自分が一番ではないと認識しているからだ。
そんな者であれば、全ての人が「天上天下唯我独尊」だということも分かるのである。
このための、最も良い方法が、ナーマスマラナ(古代インドの言葉。ナーマ:名前、スマラナ:憶念)という、インドの伝統的な行法である神の名を唱えることで、念仏もその1つである。
なぜ良いのかというと、自分より上位の存在を肯定するからで、唱えるほどそれが自然になるからである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ナーマスマラナ ~神の名前の不思議な力~
(4)あしたのジョー(1)(高森朝雄。ちばてつや)
(5)ラーマーヤナ(上)
(6)神統記(ヘシオドス)
(7)現代語訳 古事記 (福永武彦)

ミスティックローズ
AIアート1688
「ミスティックローズ」
Kay

頼りになる神様仏様

心ない言葉を発したり、行動をした時、心が痛むことがあると思う。
また、必ずやり遂げなければならないことを前に、自信を持たなくてはならないのに「自分に出来るのか?」という不安が圧し掛かることもあると思う。
宗教では、誤った想いや行いは正さなければならないと言うし、引き寄せでは、疑いが1ミリもあってはならないと言う。
宗教と引き寄せの合体みたいなものでは、「神を信じて疑うことが全くなければ叶う」とか言う。
全部、無理ゲー(難易度が高過ぎるゲームのような状況)である。

念仏では、心ない言葉や行いといったものを正す必要は全くないし、それを補うために善い言葉や行いを言ったり行ったりする必要もない。
何かを無理矢理信じる必要もない。信じられないなら信じなくていい。
それどころか・・・
善い言葉をかけたり、善い行いをしてはならない。
信じてはならない。
いやな想いが浮かんでも、放置すれば良いが、辛ければ、ただ念仏を唱えれば良い。
悪い行いをして後悔しても、宮本武蔵のように「吾後悔せず」なんて言わずに後悔したままで良いが、とりあえず念仏を唱えれば良い。

これが本物の念仏であると思う。
これに文句を言いたい人もいるだろうが、論理的に言ったって、これでこそ、あらゆる現世利益が得られることが分かるのである。
簡単に理由を言えば、浅い宗教や半端な引き寄せのように、嘘を飲み込む必要がないからだ。
悪い頭では理解出来ないと思うが、とにかく念仏だけで良いのである(頭が悪くても良いのである)。

世の中には馬鹿がいるもので、「じゃあ、悪いことを積極的にやれば良いのだな」と勘違いして、そうした者がいるらしい。
それに対し、親鸞は、咎めもしなかったが、「薬があるからといって、好んで毒を飲む必要はない」とだけ言った。
だがね、そう思い違いをして、悪いことをどんどんやることも宿命である。
つまり、馬鹿になるのも宿命、業なのである。
そんな宿命がなければ、思うように悪いことをしたり、悪い言葉を言えるものではない。

うまくいくためには、ただ念仏を唱えれば良い。
いつも言うが、念仏も「南無阿弥陀仏」だけでなく、自分が親しみを感じる神仏を頼れば良い。
「観音様」とか「アマテラス様」とか。
また、黒住宗忠が崇めた天照大神は、古事記に登場する女神ではなく、至高の神の象徴である。
同じ意味で、阿弥陀仏でも大日如来でも弥勒菩薩でもスサノウでもアポロでも何でも良い。
『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神も言っている。
「どの神に祈っても、それは私に祈っていることになる」
これを真似しただけかもしれないが、インドの有名な聖者は、
「キリスト教を信仰しているならイエスに祈れば良いし、仏教を信仰しているならブッダに祈れば良い。しかし、それは結局、私に祈っているのである」
と言っていた。
まあ、私は本当に阿弥陀仏を頼っているのだが。性格抜群だし(笑)。
他、性格が良い神仏と言えば、インドの『ラーマーヤナ』のヒーロー、ラーマ神がいる。
『古事記』では、因幡の白兎を助けた大国主(オオクニヌシ)が、少し頼りないところもあるが、親切である。
もちろん、観音経(法華経25章)の観音様(観世音菩薩)の慈悲深さ、力の強大さも抜群で人気がある。
自分で読んで、独自の信仰を持つことが良いかもしれない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)
(4)ラーマーヤナ(上)
(5)現代日本語訳 法華経
(6)神統記(ヘシオドス)
(7)マンガギリシア神話 (1)(里中満智子)
(8)現代語訳 古事記 (福永武彦)
(9)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(10)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)

五次元へ
AIアート1683
「五次元へ」
Kay

地獄に落ちて欲しいやつが天国に行けたら

悪いことをしたら地獄に落ちると言われる。
自己中心的な者、哀れみの心のない者、残虐な者は、法には触れない場合もあるが、人を傷付け、苦しめることになる。
よって、人間性が悪い者は地獄に行かざるを得ないことになる。
私が大好きなアニメの『地獄少女』のヒロイン閻魔あいに、彼女の決めゼリフ、
「闇に惑いし哀れな影よ。人を傷つけ貶めて。罪に溺れし業の魂。
いっぺん、死んでみる?」
を言われた者は、死んで地獄に流されるが、非常に分かり易くて納得してしまう。

ところが、法然や親鸞なら、そんな地獄行きが当然の人間でも、念仏を唱えれば、天国と同じと思われる極楽浄土に行けると言うだろう。
上の『地獄少女』では、恨む相手を閻魔あいに頼んで地獄に送った者もまた、閻魔あいは「死んでも極楽浄土には行けず、地獄をさ迷う」と言う。
では、こちらの者(恨む相手の地獄送りを願った者)も念仏を唱えれば救われるのかというと、阿弥陀仏の絶対的な力を持ってすれば、そうなるだろう。

残虐なことをした者が極楽浄土に行くと言ったら、反発する者が多いことだろう。
それは、裏金を作りながら、罰されもせず、儲かったままの裏金議員に対する、あるいは、賄賂をもらいまっくったり、天下りをして仕事をせずに高い給料と退職金をもらう者達に対する庶民の感情と似ていると思う。
まして、非人道的なことをして良い人を害した者、さらには、そんなことをしてのうのうと暮らしている者は、是が非でも地獄に行ってもらいたいと思うことだろう。
だが、法然、親鸞の教えでは、そんな者達でも救われ、極楽浄土に行く。
なぜなら、「念仏を帳消しに出来るほどの悪い行為というものはない」からである。

これには、悪いことをした人というのは、「悪いことをするのが運命だったのであり、それは避けようがなかった」ということがあるのだろう。
また、邪悪な考えを起こすことについては、科学的にも、人間は自分の意思で考えるのではなく、思考は自動的に勝手に起こることが分かっている。
ラマナ・マハルシに、ある男が、「隣の家の奥さんが魅力的過ぎて間違いを起こしそうだ」と相談したら、マハルシは「そうなっても気に病むな」と言った。そうなる運命であれば、そうなるしかないということだ。
また、マハルシは「働く運命であれば、どれほど働きたくなくても仕事を避けられないし、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
だから、マハルシは、余計なことを考えず、思考を殺してしまえと言ったのである。
しかし、思考を殺す・・・つまり、無になることは実際には難しいが、法然や親鸞は、ただ念仏を唱えれば良いと言った。
そして、マハルシもまた、「人生を神に明け渡せ」と言い、そうすれば幸せになれると言ったが、これは念仏と全く同じである。
ただ、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるという具体的アクションがあるので実践し易いのである。

では、「借金が苦しい」とか「モテなくて困る」といった悩みも解決出来るのかというと、法然や親鸞の教えからすればそうなる。
そこらは、イエスだって「神は必要なものは与える」と言うし、黒住宗忠は「神にまかせれば面白いことばかりだ」と言い、岡田虎二郎も「腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言う。
岡田虎二郎の言う「腹に力をつける」は、常に腹に力を込めることで出来るが、効用としては念仏も同じで、虎二郎自身、念仏を褒めている。

上に述べたことは、怪しいと言うより、無茶苦茶な宗教だと思う者も多いだろうし、私もそう思ったと言うか、今でも思いもするのだが、実は圧倒的に正しいことも分かるのである。
いろんなものを勉強すれば分かるかもしれないが、念仏を唱えていれば分かると思う。

ヨガの先生や少食家は、「170cm?では、適性体重は50kg以下だ」と言うかもしれない。
岡田虎二郎なら、「170cm?では80kgはないといけない」と言いそうな気もする。
だが、50kg以下になる運命なら50kg以下になるし、80kg以上になる運命なら、やはりそうなる。
そんなことは、神様や仏様、あるいは、善なる高次の存在にまかせれば、満足のいく結果になると思う。
その手段の1つが、念仏であり、岡田式静坐法である。

岡田虎二郎の弟子で、日航社長や日銀副総裁などを歴任した柳田誠二郎さんは、
「私は岡田式静坐法だったが、何でもいいから1つやれ」
と言っており、念仏も良いと言っている。偉大な数学者、岡潔は念仏に行ったようである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(5)岡田式静坐のすすめ(柳田誠二郎)

水がある惑星
AIアート1680
「水がある惑星」
Kay

他は忘れても構わない

引き寄せと言っても良いが、不幸や不安を消し、幸運、安心に至る秘訣は、ラマナ・マハルシの根本的な教えが凝縮された小冊子『私は誰か?』全28章の中の18章に完全に書かれている。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

ただ、神の力に身をまかせることについて、これだけでは分かり難いかもしれない。
ところで、イエスは「重荷を背負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげよう。私の荷は軽い」と言ったことになっているが、はっきり言って意味が分からない。専門家(牧師等)の解説も、大抵どれも納得出来ない。
黒住宗忠は、「まるごと神にまかせよ」と教えたが、どうやって神にまかせるかが分からない。

しかし、具体的にどうすれば良いかは、江戸末期から昭和の初めの教育のない農民である因幡の源左のお話がヒントになる。
源左は、可愛がっていた牛と山に草刈りに行き、5束の草を刈り取った。牛に4束担がせたが、自分も1束背負った。
しかし、どうにも重くて、申し訳ないと思いながら、自分の1束も牛に担がせたが、牛は全く平気そうだった。
源左は、このように、阿弥陀仏に全てまかせれば良いのだと気付いた。
自分の力が阿弥陀仏に象徴される至高の存在と比べ、あまりに小さいことを悟り、大きな力を持つ存在に丸投げすれば良いのである。
我々にとって、どんな大きな重荷(問題)でも、至高者にとっては、あまりに小さく解決は簡単なのである。
そして、念仏が、至高者である阿弥陀仏に全てをまかせるというメッセージで、阿弥陀仏(本物の至高者)はこれを決して断らないのである。
イエスの「私の荷は軽い」は、「私にとって(あなたの)荷は軽い」という言葉が間違って伝わったのものではないかと思う。

念仏だけで、マハルシ、黒住宗忠、そして、おそらくイエスの教えも完全に実践出来るのであると思う。
念仏に近い、キリスト教的なアファーメーションは「神に出来ないことはない」「神に難しいことは何もない」「神は決して失敗しない」などであると思う。
イエスも、ある難問に対し、「私には出来ない。だが、神に出来ないことはない」と言ったそうである。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)

花を見る
AIアート1679
「花を見る」
Kay

オカルティックな力に立ち向かうには

悪霊の攻撃とか呪いというものは、それがあるように見えても、理屈で否定することは割と容易い。
実際、そういったオカルト現象に遭ったという経験談にも、疑わしいものも多いと思う。
たとえば、いろんなタイプの幽霊との遭遇みたいなものは、幻覚や錯覚であることが、ほとんど、医学的、心理学的に説明出来るようだ。

私は、高校時代くらいから怖い霊体験が何度もあるが、それは、その時期(高校くらい)から、人間関係や社会的なストレスが多くなる中で、心が弱くてそれに耐えられないことから起こるものだと考えれば、そのように思えることも多い。
そんな霊的体験と感じるものの中には、物理的現象を伴うものもあり、とても錯覚とか思い込みと言えないと思うものもあるが、別に本当だと人に主張する気もない。

で、私がそんな怪奇現象に遭ってしまった時、どうしたかというと、ある時期まではなすがままで、神様に助けを求めることもなかった。
だが、ある時期からは阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を心で唱えるようになったが、なんとなく効くようである。
合気道家、神道家の佐々木将人さんの『数霊のメッセージ』によれば、「アジマリカン」とか、「アーン」「アー」と唱えると効果があると書かれているが、これらがぱっと出て来ることはなかった。本人にとっては緊急事態で、よほど馴染のあるものしか頭に浮かばないようだ。

思い込みや錯覚であるのかもしれないが、どんな方法にしろ、本人が信頼を寄せる相手に祈れば、何らかの力が発揮されるように思われる。
引き寄せも、そんな力に似たようなもの(あるいはほとんど同じ)であるかもしれず、私は実用的な面でも、何度も助けられたり、危険を回避したりしていると思う。効果がなければ死んでいたというケースもある。

『Another(アナザー)』という、綾辻行人さんの小説やそれをアニメ化した作品がある(漫画もある)。
私はアニメしか見ていないが、原作に忠実な作品と思う。
この中で、主人公の中学3年生の少年少女や、元教師の男性が、人間の知恵や力では対抗しようのないオカルティック(超自然的)な力に挑むが、相手が強大過ぎ、苦しい戦いになる。
我々が、そんなことに巻き込まれる可能性があるのかどうか分からないが、仮にそうなった時、どうすれば良いだろう。
『Another』では、少年達は、現実的な方法で挑み、霊的、神秘的手段は全く使わない。
特に主人公の少年は頭が良く、理詰めで追及するタイプのようで、それには好感を感じる。著者も頭が良いので、その少年に自分を投影させたのかもしれない。
だが、私なら、頭が悪いこともあるが(笑)、現実的に対抗しようのない力を持つ存在が相手であれば、経験上からも(笑)、高次の力に頼るしかないと思う。
もちろん、問題を切り分けて、現実的に対応・処理すべき部分があればちゃんとやあるべきだが、このお話の場合は、そうではない部分が大きい。

私なら念仏を使うが、仏教の念仏のお話とはやや違う念仏かもしれない。
「南無阿弥陀仏」の阿弥陀仏は偉大な仏様なのであるが、それは、至高の高次の力の象徴としてつけられた名称、あるいは、姿で、実体は人間の感覚や心、想像力で捉えらることは出来ない。
人間の思考、感覚が限定されたものであることを認識し、念仏を通して高次の存在に意識を向けることで、強大な何かにつながることが可能であるのだと思う。
もちろん、方法は「南無阿弥陀仏」だけではなく、無数にあり、自分に合うことをやれば良い。上にも述べた通り、私も真言を使うこともあるが、普段から使っていないと意識を集中させ難い。
それで、私は、霊的な問題や、困難な現実的問題も割と容易に解決出来るように感じるのである。
善なる高次の力は強大で、人に対する思いやりがあるからだ。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)Another【上下合本版】(綾辻 行人)
(2)Another ※Amazon dアニメストア for Prime Video
(3)数霊のメッセージ(佐々木将人 )
(4)コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生
(5)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(6)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)

白い部屋
AIアート1678
「白い部屋」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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