ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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世界的に貧困が広がる1つの原因

キリスト教徒の生活の特徴として私に分かることは、食事の前に神に祈りを捧げることである。
「今日も糧を与えてくれてありがとうございます」
だいたいこんな感じだと思う。
これは非常に良いことだが、何が良いのかをはっきりさせると、神という至高者に意識を向けるということだ。
1日3食食べるなら、1日3回、自分をはるかに超えた存在に意識を向けるのであるから、本当に良いことだ。
おやつ、夜食等にも祈りを捧げると、さらに良いと思う。

至高の存在に意識を向ければ向けるほど、魂との通路がきれいになり、魂の力を発揮出来るようになる。
おそらく、統計を取れば、この習慣をしっかり行っているキリスト教徒は、そうでないキリスト教徒より精神的にだけでなく、物質的にも恵まれていると思う。また、現状は良くなくても、この習慣だけでも続ければ、いずれ良くなると思う。
今は、そうでないキリスト教徒が多いことが、キリスト教徒に貧困が広がる原因ではないかと私は思う。

日本で食事前に唱える「いただきます」は、神様に対して言っているつもりの者もいるかもしれないが、現在では、「いただきます」は、一般的には、食事の用意をしてくれた人、あるいは、子供が、食事を取るためのお金を稼いでくれた親に対するものと認識されているだろう。
もっと広く、食物の材料を育てたり採集してくれたような人達に対する思いが込められることもある。
だから、普通は、「いただきます」には、神様・・・至高者に対する感謝という気持ちは薄いように思う。
それで、家庭の中では、母親、それに、父親が「いただきます」を言わないことも珍しくないと思う。
特に、客に招かれて食事を振る舞われた時は、招いてくれた家の人・・・特に、料理を作ってくれた人に対しての御礼として「いただきます」と言うことから、上で述べたことは、大方では正しいと思う。

ただ、日本の神道では、あらゆるところに神様が存在するという信仰があり、本来は、常に、自分を超えた霊妙な存在に意識を向けるのである。
神道は、伝統と権威に基いた形はほとんど存在しないが、そんなものがなくても、高次の存在を感じることが可能な優れたもので、神道が生活にあった頃の日本人は、海外から来た人を驚嘆させるような優れた能力や精神性があったのである。

念仏は、いつでもどこでも、唱えることで意識を至高者に向けることが出来る。
それをやればやるほど、魂との通路がクリアになる。そうすると、全てがうまくいくだろう。

キリスト教徒として神に祈ることで神を意識すること、神道を生活の中に置き、全てに神を感じること、念仏によって至高者である仏に意識を向けること。
どれも同じであり、どれかをちゃんとやれば、精神的に、そして、それに伴い物質的にも恵まれるようになると思う。
ただ、決して咎めない慈悲深い至高者が仏である。私にとっては、ここがポイントである。
今は、これらの習慣がなくなってきたことが、貧困の原因の1つと感じる。

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(5)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(6)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力

神様がいっぱい
AIアート1675
「神様がいっぱい」
Kay

好みのタイプが来ても平静でいられるか

法然、親鸞の念仏の原理を、『バガヴァッド・ギーター』の中に見つけることが出来る。
それは、『バガヴァッド・ギーター』の第2章で、クリシュナ神が懇切丁寧にアルジュナに説き聞かせている。
それは名文であるが、長いので簡単に言う。

まず、行うべきことは、五感を完全に遮断し、外界を知覚しないことだ。
クリシュナ神はこのことを、「亀が甲羅の中に手足を引っ込めるように、五感を内部に引っ込めろ」と言う。
もちろん、物質的な意味で五感を遮断して生きることは出来ない。
これに関しては、荘子が「視線を自然にし(つまり穏やかに見ること)、見たものに関し、思慮分別せず、是非好悪の判断をしない」と述べているのと同じ意味だ。
クリシュナ神も「見ても好悪の感情を持たない者が真に優れた者である」と言っている。

しかし、言うまでもなく、そんなことは難しい・・・いや、不可能だ。
コリン・ウィルソンは、「心身が疲れ切っていても、好みのタイプの女性(あるいは男性)がヌードでやってきたらたちまち元気になる」ということを肯定的に捉え、そのように元気になるべきだと言った。
しかし、クリシュナ神や荘子は、そんなものを見ても心動かされてはならないと言う。
また、「好みのタイプがヌードで来たら」という喜ばしいこと(笑)だけでなく、嫌いで嫌いで仕方がない、憎くて憎くて仕方がない者を見ても、完全に平静でいなくてはならないと、クリシュナ神や荘子は言うのだ。

法然、親鸞も、「そんなこと(クリシュナ、荘子の教え)無理派」である。
親鸞は自分の煩悩の深さを痛感しており、実際、肉食、妻帯をしている。
そして、法然は、親鸞が嫁をもらいたいと言った時に賛成している。

だが、クリシュナ神は貴重なヒントをアルジュナに与えている。
それが、2章61節だ。

肉体のあらゆる感覚を遮断し、意識を私(クリシュナ神)に向けよ。

念仏とは、「肉体のあらゆる感覚を遮断し」というところを全く問題とせず、意識を阿弥陀仏に向けることだ。
そして、クリシュナ神にしろ、阿弥陀仏にしろ、至高者に意識を向ければ、やがては感覚からの影響を受けなくなる。
宗教的には、クリシュナ神と阿弥陀仏は全くの別物であるが、同じと言って良いと私は思う。
インドでは、庶民が「クリシュナ」の名を唱えることが行われており、ラマナ・マハルシの弟子のプンジャジは、毎日「クリシュナ」を4万回唱え、やがて奇跡が起こった。
また、最も人気が高い神である「ラーマ」の名を唱える者も多い。
日本でも、天照大神の名を唱える十言の神呪(アマテラスオホミカミの十語)という行がある。

つまり、最も簡単に至高者に意識を向ける方法が、称名念仏・・・つまり、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、言ってみれば「阿弥陀仏」だけで良いが、「阿弥陀仏に一切をまかせる」という意味を明確に込めた「南無阿弥陀仏」がさらに良いと思う。
もちろん、自分が本当に親しみを感じる神仏の名で良いのである。
だが、少なくとも阿弥陀仏に嫌悪感を持つ者はいないだろうから、「南無阿弥陀仏」で間違いないとは思う。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)覚醒の炎 ~プンジャジの教え~
(4)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(5)新釈 荘子 (PHP文庫)
(6)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力

快晴
AIアート1673
「快晴」
Kay

良い洗脳

引き寄せに限らないが、高次の力を使える者の特徴ははっきりしている。しかし、それを分かっている人は少ない。
その特徴とは、その力の指導者を完全に信奉(信じて尊ぶ)していることで、はっきり言えば、「教祖に洗脳されている」ことだ。
これは本当に間違いない。
その教えの内容が正しいとか高度であるとかは関係ない。
ロンダ・バーンを本当に信奉しているなら引き寄せが出来るし、バシャールを信奉しているなら、バシャールが言うようなことが出来る。
ただし、単に「ザ・シークレット」を有り難がっているだけで、ロンダ・バーンも、その教えもそれほど信奉していないなら、惨めなほど引き寄せは出来ない。
邪な宗教では、信者は恐怖や歪んだ洗脳で敬虔な信者を演じているだけで、本当に教祖を信奉しているわけではないので、信者達は無力である。

このことによって、引き寄せが出来ない理由が明確になる。
私の場合は、引き寄せはジョセフ・マーフィーで始めたが、実のところ、最初の頃は、かなりマーフィーを信奉していたが、常に疑いがあり、ある時期からは疑いがかなり大きくなった。マーフィーの本の中に多くの矛盾を発見したし、「愛を実践せよ」とか「実現を信じて疑うな」というのは最初から無理な話であった。
ロンダ・バーン自体は、それなりに一貫性があるように見えるが、『ザ・シークレット』の方は、個人的には矛盾だらけ、欠陥だらけに思えた。
それに、ロンダ・バーンの雰囲気は、個人的には信用に値する人物に思えなかった。

ましてや、新興のユニークさが売りの引き寄せの指導者達は、もう怪し過ぎて(笑)話にならない。「和の成功法則」だの「量子力学で引き寄せる」みたいなものだ。

ところが、私は、法然や親鸞には完全に洗脳されてしまった。
ただし、仏教や、浄土宗、浄土真宗といった仏教宗派に洗脳されたわけでは全くない。
仏教全体は、あまりに統一性がない。キリスト教であれば旧約と新約の聖書があるだけだが、仏教には無数の教典があり、それらの内容があまりにかけ離れている。だから、「仏教を信仰している」という言い方は実際には成立せず、「法華経を信仰している」「法句経を信仰している」といったように言うしかないと思う。浄土真宗の檀家だからといっても、浄土真宗を信仰しているというのとは全く別の話と言って良いと思う。

いわば私は、法然・親鸞教を信仰していると言える。
法然と親鸞の教えは違うと言う人もいるだろうし、私も両者の差異は知っているが、根本は同じと思う。
ましてや、法然は浄土宗で親鸞は浄土真宗であるといったことは全く問題にならない。
正直、浄土宗や浄土真宗には全く興味がない。
また、私が、法然の教えの全て、親鸞の教えの全てを知っているわけではない。
法然に関しては、『選択本願念仏集』と『一枚起請文』だけ。
親鸞に関しては、弟子の唯円が書いた『歎異抄』と『現世利益和讃』だけで、親鸞の代表作の『教行信証』は読んでもいない。
そして、正直言うと、『選択本願念仏集』となると、内容にかなりの無理も感じている。それでも、この本の根本思想は素晴らしく、私は、この本の内容の欠点を知りつつも目をつぶることが出来る。

そして、念仏が論理的、科学的に正しいことは個人的な理論構築によって理解しているのであり、正直、宗教やお坊様の念仏の教えは全く信じていない。
大数学者の岡潔が念仏を唱えていたのも、宗教を信仰していたからではなく、弁栄(べんねい)上人(山崎弁栄)という傑出した思想家・宗教家を信仰していたのであり、また、自分なりに理論を構築して納得していたからであると思う。いわば、岡潔も弁栄上人に洗脳されていたのである。それは良い洗脳である。
尚、私も弁栄上人の本は読んだが、私には合わないようだった。

イーロン・マスクは少年時代に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を通して著者のダグラス・アダムスに洗脳されたと言えると思う。
彼は、イエス・キリストにも、ある程度洗脳されたのだと思う。
ビッグ・テックの創業者達も、SF好きが多いらしいが、それぞれに、特別にお気に入りのSF作家に洗脳されたということはあると思う。

大雑把には、私は『歎異抄』に洗脳されているのだが、別に、『歎異抄』の一字一句を絶対肯定しているというのではない。
『歎異抄』の中に、思想的感情的に大いに共感する部分があるというだけのことだ。
一休が、親鸞のことを指し「この男は信用出来る」と言ったらしいが、私もそんな感じである。

本当に洗脳されてしまうと、念仏を唱えると良いことしか起こらない。
皆、何か良いもの、本当に優れたものに洗脳されるべきで、何に洗脳されるかは自分で選ぶべきである。
しょーもないものに、ぬるま湯的に中途半端に洗脳されるのが最も不幸である。たとえば東大卒業者は偉いといったような。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)銀河ヒッチハイク・ガイド(ダグラス・アダムス)
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)

水遊び
AIアート1672
「水遊び」
Kay

次の世界に行く方法

人間が最終的に求めるのは安心だ。
闘争の興奮こそ生きている証だと思う者もいるだろうが、それも、そこに安心の幻影が見えるからなのだ。
安心がない者ほど、狂ったように安心を求めてしまうのである。

私は、安心する夢を何度か見たことがある。
偽物の安心ではなく、本当の安心だ。
見たまま書くと、大体が死ぬ夢でしかないので、少し翻訳して書くとこうだ。

「今日で終わりです。お疲れ様」
という声が聞こえる。
私は別に驚くこともなく、「ああ、そうか」と思う。
今日で、この世界にいるのも終わりで、別のところに行く。
正確には、今後、好きな時に行けるのだが、まだ馴染が残るこの世界の余韻を味わっている感じだ。
終わると分かれば、楽しかったと思う。
ここの人達と別れるのは、少し寂しいと感じないでもないが、それは、本で読む程度の別れの寂しさだ。

最後は、遊んでいいことになっている。
1人の少女がふわふわ浮かんでいる。彼女に適当についていく。
時々、自分と彼女の区別がつかなくなる。
「お前は俺の理想だ」
と言うと、彼女の返事はないが、「了解した」といった想いが伝わってくる。
彼女は地上に降り、1人の老婆と仲良く会話している。
そして、彼女は小さな杯を老婆から受け取る。中は透明な酒のようだ。
私も続いて降りると、老婆は私にも杯を渡す。
2人で仲良く杯を飲み干すと、私が先に建物の中に入る。彼女もやがて来るだろう。
そこで儀式が行われる。
いよいよ、この世界からおさらばして、次の世界に行く実感が湧き高揚する。

どうすれば、こうなるかは昔聞いた。
念仏を唱えなさいということだ。
念仏とは言っても、好きな神仏の名を唱えるので良いのだが。
インドで言うナーマスマラナというやつだ。
抵抗がなければ、南無阿弥陀仏が良いと思う。実際、よくチューニングされたコマンドだ。
念仏をずっと唱えていると、良い夢でも見ているように、都合の良いことばかりが起こる。
だが、やっぱり唱えることを忘れるので、ちゃんと辛い目、苦しい目に遭う。
それに飽きてきたら、そろそろ次の世界に行けば良いのである。

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(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(4)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力(サティヤ・サイババ)
(5)解脱の真理(マード・マクドナルド・ベイン)

渚
AIアート1671
「渚」
Kay


念仏は余計なものを付けないことで最上になれた

「IN GOD WE TRUST」は、アメリカ合衆国の公式な標語である。
この訳として、一般には「我々は神を信じる」とされることが多いが、それでは、「神の存在を信じる」ということと誤解される。
だから、もっと正しくは「我々は神を信頼する」とした方が良いと思う。

この標語は、「南無阿弥陀仏」の念仏と似ている。
「南無阿弥陀仏」の意味は、「阿弥陀如来を信頼して全てまかせる」という意味として良いだろう。

アメリカの標語の神は、旧約聖書の神で、モーセの前に現れた神だ。
キリスト教徒なら、それは誰でも知っているのかもしれないが、ただ神と言ったら、どの神か分からない。
神の中には、善い神もいれば、邪悪な神もいるかもしれない。
だから、モーセに現れた神も「私のみを神としろ」と言い、他の神を神としてはならないと述べている。
イスラム教では、神の名はアッラーと決まっているので分かり易い。
ユダヤ教、キリスト教の神も、名はあるらしいが、その名が言われることは、特にキリスト教では滅多にないと思う。
そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、恐い神であり、罰する神である。

ところが、阿弥陀如来は、無限に慈悲深い仏で、罰を与えることは決してない。
戒律も全くない。
他の仏や神を敬うことについても、何も言わない。
このことについては、『バガヴァッド・ギーター』の中で、クリシュナ神は、「私以外の神に祈ることは正しくはないが、それでも良い」としている。どの神に祈っても、自分(クリシュナ)に祈ることと同じだからということだ。

「IN GOD WE TRUST」の「我々は信頼する」に対し、「南無阿弥陀仏」は主語はないながら、省略された主語は「我々」ではなく、明らかに「私」だ。
他の者が、どの神仏を信仰しようが、それは本人の自由で、自分が「南無阿弥陀仏」と唱えるからと言って、他の者にもそれを強要することは出来ない。

「IN GOD WE TRUST」がアメリカ合衆国の公式標語になったのは1956年だが、この標語がアメリカを強くしただろうか?
この標語に対する賛否は、アメリカ国内でもあるらしい。
個人的には、どの神か特定しなかったことと、「我々は信じる」としたことが、良くなかったと思う。
「我々」と言っても、アメリカ人にだっていろいろな信仰があり、また、無神論者もいるだろう。
そこから考えても、この「神」が何を指すのかは曖昧だ。

「南無阿弥陀仏」は言ってみれば、「IN AMIDA(AMITABHA) I TRUST」だ。
いや、「I take refuge in Amida」だという話もあるが、これは「阿弥陀に逃れる」という意味で、雰囲気はあるが、よく分からない。

私は別に、阿弥陀如来を、固定したキャラクターだと思っていない。
至高の存在の象徴と考えて良いと思う。
親鸞だって、「本当は、仏に、大きさ、形、色があるわけでない」と言っていたようだ。
悪い仏がいるという話は聞いたことがないが、何か名前を付けないと庶民には分かり難い。
阿弥陀仏は、インドの古い言葉で「アミターバ」で、これが「無限の光」という意味であり、善い至高の存在であることを、よく表している。
ただ、観音菩薩を信仰する人なら「南無観世音菩薩」で良いし、弥勒菩薩なら「南無弥勒菩薩」である。

肝心なことは、自分をはるかに超えた善なる至高の存在に意識を向けることだ。
その対象として、阿弥陀仏や観世音菩薩や弥勒菩薩を個別キャラとして考えたのであると思う。
「IN GOD WE TRUST」は、もしかしたら、邪神崇拝を起こしたり、他の人の信仰を気にするなど、余計なものが入る危険があるかもしれない。

世界的ベストセラー、ロングセラーである『積極的考え方の力』の中で、著者の牧師ノーマン・ヴィンセント・ピールは、至高者としての神に意識を向ける方法として、聖書の特定の言葉を唱えることを薦めた。
「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」
「もし神が我々の味方であれば、誰が我々に敵し得ようか」
こちらの方が、「IN GOD WE TRUST」より念仏に近いと思うが、自力を頼む部分があったり、信仰を同じくするチームを前提にしたところは問題が起こるかもしれない。
そこにいけば、論理的にも、念仏は最上であると思われる。

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(3)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(4)積極的考え方の力(ノーマン ヴィンセントピール)

生命力
AIアート1669
「生命力」
Kay

プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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