キリスト教徒の生活の特徴として私に分かることは、食事の前に神に祈りを捧げることである。
「今日も糧を与えてくれてありがとうございます」
だいたいこんな感じだと思う。
これは非常に良いことだが、何が良いのかをはっきりさせると、神という至高者に意識を向けるということだ。
1日3食食べるなら、1日3回、自分をはるかに超えた存在に意識を向けるのであるから、本当に良いことだ。
おやつ、夜食等にも祈りを捧げると、さらに良いと思う。
至高の存在に意識を向ければ向けるほど、魂との通路がきれいになり、魂の力を発揮出来るようになる。
おそらく、統計を取れば、この習慣をしっかり行っているキリスト教徒は、そうでないキリスト教徒より精神的にだけでなく、物質的にも恵まれていると思う。また、現状は良くなくても、この習慣だけでも続ければ、いずれ良くなると思う。
今は、そうでないキリスト教徒が多いことが、キリスト教徒に貧困が広がる原因ではないかと私は思う。
日本で食事前に唱える「いただきます」は、神様に対して言っているつもりの者もいるかもしれないが、現在では、「いただきます」は、一般的には、食事の用意をしてくれた人、あるいは、子供が、食事を取るためのお金を稼いでくれた親に対するものと認識されているだろう。
もっと広く、食物の材料を育てたり採集してくれたような人達に対する思いが込められることもある。
だから、普通は、「いただきます」には、神様・・・至高者に対する感謝という気持ちは薄いように思う。
それで、家庭の中では、母親、それに、父親が「いただきます」を言わないことも珍しくないと思う。
特に、客に招かれて食事を振る舞われた時は、招いてくれた家の人・・・特に、料理を作ってくれた人に対しての御礼として「いただきます」と言うことから、上で述べたことは、大方では正しいと思う。
ただ、日本の神道では、あらゆるところに神様が存在するという信仰があり、本来は、常に、自分を超えた霊妙な存在に意識を向けるのである。
神道は、伝統と権威に基いた形はほとんど存在しないが、そんなものがなくても、高次の存在を感じることが可能な優れたもので、神道が生活にあった頃の日本人は、海外から来た人を驚嘆させるような優れた能力や精神性があったのである。
念仏は、いつでもどこでも、唱えることで意識を至高者に向けることが出来る。
それをやればやるほど、魂との通路がクリアになる。そうすると、全てがうまくいくだろう。
キリスト教徒として神に祈ることで神を意識すること、神道を生活の中に置き、全てに神を感じること、念仏によって至高者である仏に意識を向けること。
どれも同じであり、どれかをちゃんとやれば、精神的に、そして、それに伴い物質的にも恵まれるようになると思う。
ただ、決して咎めない慈悲深い至高者が仏である。私にとっては、ここがポイントである。
今は、これらの習慣がなくなってきたことが、貧困の原因の1つと感じる。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(4)現代語訳 古事記(福永武彦)
(5)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(6)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力

AIアート1675
「神様がいっぱい」
Kay
「今日も糧を与えてくれてありがとうございます」
だいたいこんな感じだと思う。
これは非常に良いことだが、何が良いのかをはっきりさせると、神という至高者に意識を向けるということだ。
1日3食食べるなら、1日3回、自分をはるかに超えた存在に意識を向けるのであるから、本当に良いことだ。
おやつ、夜食等にも祈りを捧げると、さらに良いと思う。
至高の存在に意識を向ければ向けるほど、魂との通路がきれいになり、魂の力を発揮出来るようになる。
おそらく、統計を取れば、この習慣をしっかり行っているキリスト教徒は、そうでないキリスト教徒より精神的にだけでなく、物質的にも恵まれていると思う。また、現状は良くなくても、この習慣だけでも続ければ、いずれ良くなると思う。
今は、そうでないキリスト教徒が多いことが、キリスト教徒に貧困が広がる原因ではないかと私は思う。
日本で食事前に唱える「いただきます」は、神様に対して言っているつもりの者もいるかもしれないが、現在では、「いただきます」は、一般的には、食事の用意をしてくれた人、あるいは、子供が、食事を取るためのお金を稼いでくれた親に対するものと認識されているだろう。
もっと広く、食物の材料を育てたり採集してくれたような人達に対する思いが込められることもある。
だから、普通は、「いただきます」には、神様・・・至高者に対する感謝という気持ちは薄いように思う。
それで、家庭の中では、母親、それに、父親が「いただきます」を言わないことも珍しくないと思う。
特に、客に招かれて食事を振る舞われた時は、招いてくれた家の人・・・特に、料理を作ってくれた人に対しての御礼として「いただきます」と言うことから、上で述べたことは、大方では正しいと思う。
ただ、日本の神道では、あらゆるところに神様が存在するという信仰があり、本来は、常に、自分を超えた霊妙な存在に意識を向けるのである。
神道は、伝統と権威に基いた形はほとんど存在しないが、そんなものがなくても、高次の存在を感じることが可能な優れたもので、神道が生活にあった頃の日本人は、海外から来た人を驚嘆させるような優れた能力や精神性があったのである。
念仏は、いつでもどこでも、唱えることで意識を至高者に向けることが出来る。
それをやればやるほど、魂との通路がクリアになる。そうすると、全てがうまくいくだろう。
キリスト教徒として神に祈ることで神を意識すること、神道を生活の中に置き、全てに神を感じること、念仏によって至高者である仏に意識を向けること。
どれも同じであり、どれかをちゃんとやれば、精神的に、そして、それに伴い物質的にも恵まれるようになると思う。
ただ、決して咎めない慈悲深い至高者が仏である。私にとっては、ここがポイントである。
今は、これらの習慣がなくなってきたことが、貧困の原因の1つと感じる。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(4)現代語訳 古事記(福永武彦)
(5)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(6)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力

AIアート1675
「神様がいっぱい」
Kay