ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

徳川家康

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第56章を一言で言えば「真に貴い存在」

今回は『老子』第56章である。
この章を一言で言えば「真に貴い存在」である。

『老子』を語ることは、適当にやるつもりだったが、あまりの楽しさに止められなくなった。
なぜなら、『老子』が全81章あるといっても、81の教えがあるわけではなく、たった1つの本当に貴い教えを調べを微妙に変えて語っているのだからだ。
そして、正真正銘、万能の教えである。
これほど良いものがあろうか?

この章でも、本当に貴い人とは、思考しない人であることを美しく語っているのである。
思考しないからこそ、自動で起こる思考は全て無理がなく自然で美しいのだ。
世間では、「思考停止する馬鹿」とか言うが、思考が停止すれば賢者であり、馬鹿な思考をする者が馬鹿なだけである。

異星の少女

AIアート3
「異星の少女」
Kay


徳川家康が、天下取りの秘訣は「上を見ないこと」と言い、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神が感覚を外部に向けないよう教えたのも、煌びやかなものを見てしまうと、それを欲することで余計なことを考えてしまうからだ。
だが、最も効果があるのは、目や耳自体は自由にしていても、意思を内に向けることだ。
そして、その最も易しい方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
「私は誰か?」と自分に問う者を、誰も傷付けることは出来ない。
なぜなら、「私は誰か?」と問えば、思考する主体である自我としての私がロックされ、思考を起こせなくなるからだ。
自我の思考を起こさない人は極めて貴く(いわゆる、良い意味で自分がない人)、誰も神に対するのと同様、ただひれ伏すしかないのである。








『老子』第48章を一言で言えば「絶対的に止まれ」

今回は『老子』第48章である。
この章を一言で言えば「絶対的に止まれ」である。

この章は短いが、恐ろしいことが書かれている。

徳川家康は、天下取りの秘訣は、「上を見るな」「身の程を知れ」だと言ったらしい。
そして、老子は、同じことの秘訣を「常に何もするな」だと言った。
「何もするな」ではない。
「常に何もするな」である。
いつも何かするのは、身の程を知らないからである。
つまり、自分は有能だと己惚れている馬鹿が、いつも余計なことをするのだ。
たまにでも何かするのは、上を見るからである。
せっかく身を慎んでいても、弱いところを突かれると誘惑に負けて、つい上を見てしまい、身の程を知らずに動く。
だから、老子は「絶対的に止まれ」と言ったのである。

アメリカでは、銃で脅す時「フリーズ(凍れ=動くな)」と命じるらしい。
だが、銃を向けられても、自分には、それを跳ね返す機知(とっさの鋭い判断)があると己惚れて動けば撃たれて死ぬ。
だが、身体も心も止まっていれば、意思を働かせなくても、知らないうちに攻守逆転する。
さらに、絶対的に止まっている者に銃を向けた時点で、銃を向けた者は滅びる。

絶対的に止まる者には、それほどの力があり、無敵なのであるが、世の中の人は誰もそれを知らない。
だが、どうすれば絶対的に止まれるかなどと考えてはいけない。
そんなことが分かると思うことこそが、救い様のない己惚れである。
絶対的に止まるには、「私は誰か?」と自分に問えば良い。
問い続ければ、無為の世界に招待され、その世界の神秘なる住民となる。
そうなると、自分が動くのではなく、神に動かされ、神の技を為すのである。








『老子』第44章を一言で言えば「ほどほどに」

今回は『老子』第44章である。
この章を一言で言えば「ほどほどに」である。

実を言うと、「この章を一頃で言えば」なんて、どの章も同じになっても全く不思議はなく、もう何度か、同じものを使ったかもしれない。
それほど、『老子』の主張は一貫しており、しかも、とてもシンプルなのである。
だから、どれか1つの章がピンとくれば、後は全部分かるのだと思う。
ただ、同じことを、微妙に言葉を変えて言うのも、感じ方が変わって良いところがあると思うので、もう少し、あるいは、最後まで続けようと思う。
とにかく、『老子』は本来簡単である。
あなたが、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配下に置かれていなければね。

超実用的な哲学や行動原理が必要な時・・・たとえば、戦国時代や戦争中によく言われるのが、孔子や徳川家康が重要なことであると言った「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」や、「何事もほどほどに」ということである。
言い換えれば「極端はいけない」ということで、仏教ではそれを「中道を行く」と言うのである。
たとえば、コーヒーに砂糖を入れると美味しいと思ったとしても、入れてもせいぜい3個までで、10個も入れたら飲めたものではない。
あるいは、いくら酒が好きでも、意識不明になるまで飲むのは飲み過ぎである。
ところが、世の中には、限度を知らない者が多い・・・ではなく、「ほどほどに」が金言になるほど、やり過ぎてしまう者が多いのだ。
上司が失敗した部下を叱る時や、親がいたずらをして人に迷惑をかけた子供を怒るのだって、限度がある。
ところが、多くの者が、その限度を簡単に超えてしまい、弱い者を傷付け、駄目にしてしまうことが多い。
これらは、つまるところ、精神が未熟ということであるが、実のところは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置のせいである。
我々は既に、数万年以上の修行をしているのに、生まれ変わるごとに記憶を消されてしまい、1から修行をしなくてはならない。
だが、人間は、たかだか数十年では、なかなか人格が高度になったりはしない。
しかし、地球上では、せいぜい数十年しか修行が出来ないのだ。
いわゆる人格者と言われる人達は、前世以前の記憶を、無意識にでも保持していて、過去生での修行の成果が現れているのである。
言い方を変えれば、自分が本当は何者であるかを少しでも思い出せば、ただちに人間性が向上し、自分にも周囲の人達にも好ましい存在になる。
それには、いつも言う通り、「私は誰か?」と自分に問うだけで良いのである。
ということは、「私は誰か?」と問うているのに、人格が幼稚であるのは、問い方が足りないのである。
1日10分も問うていないのではないかと思う。
というのは、1日10分も問うていれば、そこそこには向上するし、引き寄せの力もついているはずなのだからだ。
いわゆる発達障害というのは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響をモロに受けている者の特徴と思う。
しかし、全ては「私は誰か?」と問うことで解決すると思う。








本当に考えるということ

現代人は考えなくなったとか、頭を使わなくなった等ということは、かなり昔から言われていて、ひょっとしたら、古代から「今の若者はだらしない」と言われていたのと同じようなものかもしれない。
そもそも、アダムとイブが知恵の木の実を食べた時から、人類はロクなことを考えなくなったのかもしれない(笑)。

では、本当に考えるとはどういうことかというと、2つの言い方をすれば、1つは、無意識と対話するということで、もう1つは、魂の声を聞くということだ。
無意識と対話するというのも、魂の声を聞くというのも同じことと思う。
丁度、徳川家康が、天下を取る秘訣には、長い方と短い方があり、短い方が「上を見るな」で、長い方が「身の程を知れ」であると言ったようなものだ。

時代が進むごとに、多くの人類は、無意識と対話しなくなり、魂の声を聞かなくなり、上を見るようになり、身の程を知らないようになった。
なぜ、無意識と対話しなくなり、魂の声を聞かなくなったのかというと、意識で余計なことを考え、自我の声にばかり従うようになったからだ。
言い換えれば、邪なことばかり考え、それを我慢せずに実行しようとしたからだ。
そして、それ(邪なことばかり考え、それを我慢せず実行しようとする)は、上を見ることであり、身の程を知らないということだ。
つまり、なんと、徳川家康は、天下取りの秘訣は、「ちゃんと考えろ」だと言ったのである。

で、なんで現代人が、邪なことばかり考え、それを我慢せずに実行するようになったのかというと、学校やマスコミが、そうするよう導いたからだ。
誰がそんなシステムを作ったのかは分かっているが、話がややこしくなるので言わない(笑)。
それより、肝心なことは、考える頭を取り戻すことだ。
それ(考える頭を持つこと)は本来、しつけられて身に付けることだが、今は、自分で自分をしつけるしかない。
悪い教育を受けた者が、自分を自分で教育するというのと同じである。
それはとても簡単なことだが、やりたくないと思うことでもある(笑)。
それは、「勝手気ままに振る舞いたい気持ちを適切に抑えること」だ。
現代人が、いかにこれが出来ないかが分かると思う。
簡単な例でいえば、美味しいものを沢山食べたいと思うのは当たり前で、それ自体は悪いことではなく、むしろ必要なことであるが、美味しいものばかり食べたり、食べ過ぎてはいけないということだ。
休みたがることも、それ自体は当たり前で必要でもあるが、ゲーテの『ファウスト』で神様が言ったように、人間は無制限に休みたがる。
それで神様はどうするかというと、怠惰な人間のところに悪魔を派遣し、その人間を悪魔として生きさせるようだ。

心の低いところから来る欲望を無制限に肯定せず、それを適切に抑えることをモラルと言う。
モラルがない者には、正しい判断は決して出来ず、いつも愚かな結果を導く。
悪魔や動物霊の力を得て、エネルギーが余っているうちは、それでも一時的に良い思いをすることもあるが、後の悲惨さ惨めさは半端ない。

どこかの売れっ子自己啓発家が、「証拠も実績もなくても、自分は凄いと思え」とか言っていたが、それはそれで良いことだと思うが、凄いか凄くないかはどうでも良いことだ。
つまり、それ(自分は凄いと思う)だけでは、何も起こらない。
もっと大切なことは、モラルがあることで、神はモラルがない者を助けない。
モラルがある者、つまり、勝手気ままに振る舞いたい気持ちを適切に抑えられる者が一番凄く、そんな者を神様は護るので安らかである。

ちなみに、毎日、少なくとも千回、腕振り運動をしたり、あるいは、千回、四股踏み運動をすれば、それだけで、勝手気ままを適切に抑えること・・・言ってみれば「自己制約」の力が高まると思う。
神様は、おそらく、自己制約の力の倍の力をその者に与え、その者に世界を闊歩させる。これが、この世の貴い秘密である。








超少食は正しいか?

世の中には、超少食とか、あまつさえ、不食(食べないこと)で、運命が良くなったり、超健康になるなどと主張する者がいる。
そういった輩は相手にしない方が良いと私は思う。
尚、私も一時、超少食を実践し、それが良いことだと言っていたことがあるが、それは間違いであったと反省している。
超少食は、場合によっては、大食より悪い。

食に関しては、『バガヴァッド・ギーター』の、クリシュナ神の教えが適切であると思う。
即ち、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎてもいけない」である。
スウェーデンの科学者、政治家、教育家、宗教家であったエマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)の言い方も良いと思う。
即ち、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」で、要は、食べ過ぎなければ良いのである。

また、クリシュナ神は、こうも述べている。
「惰眠を貪るな。だが、眠りが少な過ぎてもいけない」
クリシュナ神の教えのようなものは、あらゆることに関し、バランスが大切だということかと言うと、そうとも言えるが、もっと大切なことがある。
それは、人間は、「自己制約(自己コントロール)」が何より大切だということだ。
つまり、人間というものは、放銃(勝手気まま)に振る舞いたい・・・欲望のままに好きなことをしたいという性質がある。
美味しいものを好きなだけ食べたい、性的快楽を果て無く求めたい、偉くなって人をひれ伏させたい、もっともっと贅沢をしたい・・・などである。
そういった欲望は、個人的欲望と言って良いと思う。
そして、個人的欲望を適切な範囲に抑えることを、自己制約(自己コントロール)と言い、それが出来る人間が、本当に優れた人間である。
個人的欲望の自己制約のことをモラルというのであり、本当に優れた人間とはモラルがある人間である。

個人的欲望も、ある程度は必要である。
だが、個人的欲望の1つ、あるいは、特定のものを取り上げ、超少食とか完全な禁欲といったことを称賛する者がいる。
そんな主張をする者が世の中に溢れたら大変なことになる。つまり、間違っている者である。
私の推測では、そんな主張をする者は、称賛されたい欲望(名誉欲)、偽物の大きな力を得たいという、個人的欲望のコントロールが出来ないのである。つまり、モラルがないのである。

ある書によれば、「食は少なければ少ないほど幸運になる」と言った江戸時代の有名な観想家である水野南北は、女遊びに関してはどんどんやれと言ったそうだが、それが本当なら、南北は2重の意味で間違っているのである。
無論、食の慎みは、大変難しいながら、その重要性を訴えたことは立派であったと思う。しかし、それも度が過ぎては、そして、他の個人的欲望は放縦で良いというのが、正しいはずがない。
確かに、水野南北には、妻が8人いたという。
しかし、水野南北は、8人全員を正妻とし、妻たちが歳を取っても、ちゃんと面倒を見たのであり、それをする財力もあった。
気に入らなくなったら捨て、若い女をとっかえひっかえというのは放縦であり、自己制約がないが、水野南北の場合は、その点は自己制約があり、モラルがあったと言えると思う。それが出来ない者に同じことを勧めてはならないはずである。

徳川家康や孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といった意味のことを重要なこととして守り、人にも教えていた。
あらゆることに対し、そんな態度で挑むことを、自己制約と言い、それを実践する者のことを、モラルがある人と言うのである。
そして、モラルがある者こそが幸運なのである。

例えば、パワハラをするような上司は、尊大に振る舞いたいという、人間だれしも持っている欲望をコントロール出来ない・・・つまり、個人的欲望を自己制約出来ない者であり、モラルがないのである。
そのような者は、一時的に良い状況にあっても、すぐに駄目になり、惨めな状況に落ちる。
パワハラの被害に遭った方は、決して自己制約を忘れてはならない。
そうすれば、幸運に恵まれ、状況は改善すると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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