教育は洗脳で、学校は洗脳のためにあるが、それは仕方がない。
大切なことは、自分の洗脳を壊し、子供達がなるべく洗脳されないようにすることだ。
そして、それは穏やかにやるのが良い。
そこで、誰でも知っている話をする。
いまどきの大学生は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の歴史的な順番を知らない者が多いというが、それでも、
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」
「鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす」
「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」
なら、ほぼ知っているのではと思う。
だが、まさかこんなデタラメを信じてはいないだろうな・・・と言いたいが、大半の人が信じているところが洗脳の恐ろしさだ。
そして、洗脳されると馬鹿になるという分かり易い例でもある。
もちろん、単にほととぎすの鳴き声を楽しむための話であればどうでも良い話だ。
だが、これが、重要な目的を果たすために彼らが取る方針・・・つまり戦略のことを言っているなら、どれでもあるはずがない。
いや、そうではなく、彼らの人間的性質・・・つまり、性格的な傾向を言っているなら、彼らの性格など知りようがない。
多くの人は、テレビドラマや映画、あるいは、小説などで、彼らの性格を知っているつもりになっている。
だが、これらで表されている彼らの性格は、全く信憑性がないか、百歩譲っても、かなり疑わしい。
ほととぎすの話は、多少なりとも、3人の戦略的傾向のことを言っているのだろう。
そうであれば、小事であるとか、何らかの意図がある場合を除き、どれも的外れな馬鹿な戦略だろう。
組織のトップであれば、それを得意な者にやらせるに決まっている。
だが、大きな組織であるほど、得意な者の使い方が上手いのである。
3人の伝承的な性質は、信長は強引な傾向があり、秀吉は巧妙で、家康は慎重であるということだろう。
だが、それはあまりに短絡的だ。
もっとマシな考え方をするなら、信長にインタビューすれば、こんな感じになる。
「あなたは過剰な自尊感情がある」
信長「自分を信頼すべきだ」
「人を操りたがる」
信長「それはリーダーシップだ」
「感情が薄い」
信長「くだらん感情で悩みたいやつがどこにいる」
全くのサイコパスである。
だが、それは間違いなく3人に共通していた。
ある程度サイコパスでなければ、天下統一など出来ない。
秀吉の巧妙さは、公式やテクニックではなく、懐柔が上手いと同時に狡猾なことだった。
いずれにしても、信長も秀吉も、人間をよく知っていた。
秀吉は低い地位で学んだし、信長だって虐げられていたから分かったことが多かった。
どうも、人間は叩かれないと賢くならないらしい。
そして、家康はもっと苦労したようである。
3人とも、現代では適確な言い方がないので、おかしな言い方だろうが、確かに超能力者だった。
ある意味、3人とも、のし上がる前に、別人に入れ替わっている。でないと超能力者になれない。
とは言っても、別の人間が彼らと入れ替わったのではなく、自分という心(一般には自我)を殺したのだ。
脳を入れ替えたというより、脳というハードウェアで動かすソフトウェアを交換したのだが、心はソフトウェアだ。
だから、特に家康は、野望を抱いた家康が天下人である自分の立場を楽しむことが出来なかった。
その点、信長と秀吉は楽しむ自我を残していたが、2人とも最後は苦しかった。

AIアート771
「花の会話」
Kay
脳で動かすソフトウェアを交換せずともアップデートする方法が、最近よく話題にしているネヴィル・ゴダードの「想定の法則」で、それを迅速に行うためには、「私は在ると感じる」ことが重要である。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(3)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(4)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(5)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
大切なことは、自分の洗脳を壊し、子供達がなるべく洗脳されないようにすることだ。
そして、それは穏やかにやるのが良い。
そこで、誰でも知っている話をする。
いまどきの大学生は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の歴史的な順番を知らない者が多いというが、それでも、
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」
「鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす」
「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」
なら、ほぼ知っているのではと思う。
だが、まさかこんなデタラメを信じてはいないだろうな・・・と言いたいが、大半の人が信じているところが洗脳の恐ろしさだ。
そして、洗脳されると馬鹿になるという分かり易い例でもある。
もちろん、単にほととぎすの鳴き声を楽しむための話であればどうでも良い話だ。
だが、これが、重要な目的を果たすために彼らが取る方針・・・つまり戦略のことを言っているなら、どれでもあるはずがない。
いや、そうではなく、彼らの人間的性質・・・つまり、性格的な傾向を言っているなら、彼らの性格など知りようがない。
多くの人は、テレビドラマや映画、あるいは、小説などで、彼らの性格を知っているつもりになっている。
だが、これらで表されている彼らの性格は、全く信憑性がないか、百歩譲っても、かなり疑わしい。
ほととぎすの話は、多少なりとも、3人の戦略的傾向のことを言っているのだろう。
そうであれば、小事であるとか、何らかの意図がある場合を除き、どれも的外れな馬鹿な戦略だろう。
組織のトップであれば、それを得意な者にやらせるに決まっている。
だが、大きな組織であるほど、得意な者の使い方が上手いのである。
3人の伝承的な性質は、信長は強引な傾向があり、秀吉は巧妙で、家康は慎重であるということだろう。
だが、それはあまりに短絡的だ。
もっとマシな考え方をするなら、信長にインタビューすれば、こんな感じになる。
「あなたは過剰な自尊感情がある」
信長「自分を信頼すべきだ」
「人を操りたがる」
信長「それはリーダーシップだ」
「感情が薄い」
信長「くだらん感情で悩みたいやつがどこにいる」
全くのサイコパスである。
だが、それは間違いなく3人に共通していた。
ある程度サイコパスでなければ、天下統一など出来ない。
秀吉の巧妙さは、公式やテクニックではなく、懐柔が上手いと同時に狡猾なことだった。
いずれにしても、信長も秀吉も、人間をよく知っていた。
秀吉は低い地位で学んだし、信長だって虐げられていたから分かったことが多かった。
どうも、人間は叩かれないと賢くならないらしい。
そして、家康はもっと苦労したようである。
3人とも、現代では適確な言い方がないので、おかしな言い方だろうが、確かに超能力者だった。
ある意味、3人とも、のし上がる前に、別人に入れ替わっている。でないと超能力者になれない。
とは言っても、別の人間が彼らと入れ替わったのではなく、自分という心(一般には自我)を殺したのだ。
脳を入れ替えたというより、脳というハードウェアで動かすソフトウェアを交換したのだが、心はソフトウェアだ。
だから、特に家康は、野望を抱いた家康が天下人である自分の立場を楽しむことが出来なかった。
その点、信長と秀吉は楽しむ自我を残していたが、2人とも最後は苦しかった。

AIアート771
「花の会話」
Kay
脳で動かすソフトウェアを交換せずともアップデートする方法が、最近よく話題にしているネヴィル・ゴダードの「想定の法則」で、それを迅速に行うためには、「私は在ると感じる」ことが重要である。
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(1)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(3)想定の『超』法則(ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(4)その思いはすでに実現している! (ネヴィル・ゴダード) ※『The Power of Awareness』翻訳書
(5)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書