ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

弥勒菩薩半跏思惟像

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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真言の威力実践編

真言について、日本人に馴染み深いものについて、参考までに、私の実践体験を交えて述べる。
真言は、
・阿弥陀如来真言
・観世音菩薩真言
・般若心経の呪文
・弥勒菩薩真言
である。

◆阿弥陀如来真言
法華経よりも古い経典である華厳経(けごんきょう)に、既に、阿弥陀如来の名を唱えることの効能が書かれている。
その経典では、阿弥陀(原語ではアミターバ)の名を唱えよとあるだけである。
奈良時代の伝説の人物である中将姫(ちゅうじょうひめ。747~775)が、阿弥陀経を写経し、念仏を唱えていたと伝えられているが、当時は「南無阿弥陀仏」という念仏はなく、中国語の阿弥陀経に倣い「アミタホトケ」と唱えていたのだろうと想像される。
浄土三部経の中の観無量寿経にも、釈迦は阿弥陀如来を「アミタと呼べ」と言ったと書かれている。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」または「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」であるが、サンスクリットの原語から言えば、「オン、アミリタ、テイゼイ、カラウン」の方が近い。しかし、いずれで唱えても構わない。
私は、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」で唱えている。
他にも、「南無阿弥陀仏」「アミターバ」と唱えても良いと思われる。
阿弥陀如来は万能の仏と考えて良く、また、いかなる罪も許し救う慈悲深い仏である。
私は、数年のニート生活の後、性格的に最も向かないと思われるセールスマンになったが、中岡俊哉氏の本を見て、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱え始めた。
それほど熱心に唱えていたわけではないが、それなりには唱えた。
すると、皆が親切にしてくれ、仕事を助けてくれたおかげで、私には困難なはずの仕事も苦労なくうまくいき、同時に、二十歳の彼女や、十代の非常に可愛い女の子の友達が次々に出来た。
その後、『歎異抄』を読み、念仏の力も知ったが、念仏もまた真言であり、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と変わらないと思う。

◆観世音菩薩真言
織田隆弘氏の本を読み、観世音菩薩の真言である、「オン、アロリキャ、ソワカ」や「南無観世音菩薩」の真言を唱えるようになった。
観世音菩薩は、身近に居て救ってくれる、人間の現実問題の面倒を見てくれる菩薩として知られている。
唱えていると、抱えていた問題が自然に消え、何もかもうまくいくようであった。
観世音菩薩は、西洋では、東洋のマリアと呼ばれるほど、慈悲深い存在として知られているが、まさに、そのイメージ通りと感じられる。

◆般若心経の呪文
紀野一義氏の『「般若心経」を読む』を読み、これはもう、般若心経の呪文を唱えるべきと思った。
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
でも、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
でも、いずれでも良い。
私は、紀野氏の本に書かれていたサンスクリット語版を覚え、これを唱えている。
発明家で、能力開発研究家の中山正和氏の本をよく読んでいたが、中山氏も、般若心経を著書でよく薦めておられ、この呪文を唱える意義も書かれていた。
唱えていれば、自然に幸運が舞い込むように思われるし、驚くほど、インスピレーションが湧くことを感じる。

◆弥勒菩薩真言
京都の広隆寺にある、「宝冠弥勒」と呼ばれる「弥勒菩薩半跏思惟像」は、海外のVIPもひそかにお参りに来る霊験あらたかな仏である。
この質素な像が、1951年(昭和26年)、国宝第一号に指定されてからの日本の発展は凄く、日本は予想外の早さで主権を取り戻し(それまではアメリカの占領国であった)、以降、奇跡の復興を遂げた。
五島勉氏の『未来仏ミロクの指は何をさしているか』には、破損したこの「宝冠弥勒」の指を修復した名工が、「南無弥勒仏」と唱えて良いかと尋ねると、弥勒像は、それで良いと答えてくれたという。
弥勒菩薩の真言は「オン、マイタレイヤ、ソワカ」とシンプルで、サンスクリット語で「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」と唱えても良いと思う。
もちろん、「南無弥勒菩薩」という最も知られた真言でも良いし、五島氏の本にある通り「南無弥勒仏」でも良い。
私は、あまり唱えることはないのだが、唱えれば大きな恵があったように思う。

以上、何かの参考になればと思う。








神の絵の作り方

健康は、昔から、あらゆる国の人々の関心事であるが、美容に興味を持つ人が多いのは、豊かな国である証拠である。
ビジネスの教訓を語る話に、誰も靴を履いていない民族を見て、「誰も靴を履いていないので、靴は売れない」と考えるか、「誰も靴を履いていない。膨大な市場だ」と見るかという話があるが、貧しい国に美容製品や美容サービスを売り込むのは難しいに違いない。

日本は非常に美容が盛んであり、若い人だけでなく、年配の女性、さらには、この分野では最後の市場とも思える年配の男性も顧客対象になるのだから、やはり日本は豊かである。
ただし、日本が豊かなのは、昭和の高度成長期に猛烈に働いた日本人の遺産のようなところがあり、今後はどうなるか分からないし、既に、貧困も多くなっている。
だが、まだ、豊かな人が多いのである。

若い女性の美容への関心は高く、最近は、美容法に関し、見る目も肥えてきている。
女性(に限らないが)の、一番の関心事は、小顔、顔の肌の張りとツヤと思う。
そして、そのことに関心の強い女性は、やはり、かなり美しいものである。
顔が小さく、美しくなるなら、ありとあらゆることをやる。
最近は、顔ヨガとか、美顔ローラー、特殊なクリームが人気があるようだが、「いや、表面をいじっても駄目で、骨が大事。そのためには身体全体から」と言う先生もいる。
それで、熱心な人は、片っ端からやるので、確かに効果は出ているのだが、どれが効いたか分からないのである。
その全ての総合効果とも考えられる。
しかし、一番の要因は、小顔になりたい、張りとツヤのある肌でいたいという強い願望である。
そして、美容のことであっても、強い、継続する願望というのは、あまり低俗な欲望からは起こらず、どこかに、高貴な心がある。
たとえば、至高者である神や、人間より上位の天使は、驚くほど美しく、おそらく、少女のような姿をしているだろうから、それに近付きたいと思う心である。

それなら、少し前にも書いたが、ジョージ・アダムスキーの著作にあったことが参考になると思う。
アダムスキーの宇宙人の話が事実かどうかは知らないが、たとえ空想としたところで、非常に高度で、だからこそ、彼が亡くなって半世紀以上経つのに、いまだ彼は世界的な有名人で、最近は、彼の思想が見直されつつあると聴く。
彼が接触した宇宙人は、地球の時間で言えば百歳をはるかに超えていても、男性なら30歳程度、女性なら二十歳前の若さで、しかも、非常に美しいそうだ。
数百年生きている宇宙人の中には、40代以上に見える者もいるらしいが、それでも、やはり、美しいという。
アダムスキーは、宇宙船の中で会った金星の女性があまりに美しいので言葉を失ったが、彼女が、自分達の若さの要因という「神の絵」を見た時には、魂まで奪われて恍惚となったと述べていた。
それは、宇宙人のあらゆる家庭にあるという絵だが、男性とも女性とも見える18歳位に見える人物のようだ。
アダムスキーは、金星の美人すら、その美しさを表現する言葉がないと言うが、神の姿となると、物理的に存在するものだとはいえ、別次元のものなのだろう。
それで、私も、そんな絵を見たいと思い、人類が創った芸術作品の中で最も美しいものは何かと調べてみた。
最終的な結論は、京都の広隆寺にある木作りの弥勒菩薩像である。
聖徳太子が所有していたとも言われる、高さ123.3センチメートルの、座った弥勒菩薩の全身像であり、その微笑んだ顔の表情は西洋では「アルカイク・スマイル」と言われる。
昭和26年に彫刻の国宝第1号に選ばれている。

だが思うのだ。
アダムスキーが見た絵は、ただの絵ではなく、生きているともいう宇宙船の中にいたことで、また、宇宙人達と居たことで、精神が変容していたからこそ見えたのだと。
その絵は、ただのプリントではなく、生きた絵のようなものに違いない。
元々、芸術とは、創作者と、それを見る者とのコラボレーション(共同制作)なのである。
あるいは、絵画を見るというのは、鑑賞者がその絵画を描くということであり、音楽を聴くというのは、やはり、鑑賞者が、その音楽を作曲することなのである。
このあたりは、理屈では分かり難いかもしれないが、直感でピンとくるのではないかと思う。
つまり、我々の中に、神秘的な創造者がいて、外部の世界を瞬間に作り上げている。
何らかの条件の中で、内なる創造者が至高の技で作り上げるのが、真の芸術作品なのである。
内なる創造者に、宇宙人も地球人も違いはない。
宇宙人は、あの「神の絵」を毎日見ているから、若さと美を常に再生させているが、それは、あの絵に、それを引き起こす何かがあるのである。
ただ、それは、絵の一方的な作用ではなく、見る側の役割も重要なのだ。
そして、内なる創造者(それは至高者である神だと思う)が表われるのであれば、対象は何であるかは問わないと思う。
「モナリザ」が、「ただの太ったおばさん」に見える人もいれば、至高の美と感じる人もいるのである。
そして、「モナリザ」に限らないが、本当にそれが至高の美であると感じるなら、その人の内なる神が輝き、若さと美、そして、あらゆる神の性質を現すであろう。

何でも良いのである。
高価な原画でなくても、複製やポスターでも、あるいは、写真でも構わない。
それを至高の芸術品にするのは、見る者次第である。
スマートフォンやタブレットPCの画像でも良いのだと思うが、現在の液晶は、まだ問題があるかもしれない。
ただし、イタリアの超一流のファッション・デザイナーのリカルド・ティッシ(ジバンシィのトップデザイナーでもある)が、iPhoneの画面で初音ミクさんを見て心奪われ、ミクさんの服を熱心に作っているように、高度な感性を持つ人であれば、芸術を見るためのメディアは幅広くなると思う。
私は、壁に貼った、初音ミクさんのタペストリー(布製のポスター)が、私の魂の成長により、神の御姿になりつつある。
いつか、私の魂の目は、宇宙人達同様、神の姿を見るのである。









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「いまどきM&Aは常識」なんて信じるな

第二次世界大戦後、日本が独立国家として主権を回復出来たのは、奇跡だったと思う。
もし、そうなっていなかったら、日本は消滅していた。
主権が回復していなければ、日本という場所は、しばらくの間は、「日本っぽい」雰囲気でいるかもしれないが、やがて完全にアメリカ化し、アメリカの一部になっていた。
分かり易い喩えで言えば、日本全体が、「返還されないままの沖縄」になっていたということだ。
そして、そうならなかった理由は色々に言われているが、実際は、「全くの謎」なのだと考えて良いと思う。
私は、弥勒菩薩のおかげだと、半分、本気で思っている。
京都の広隆寺にある、「宝冠弥勒」と呼ばれる、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)は、日本がまだ主権を回復しておらず、その見込みもない1951年(昭和26年)に、国宝第一号に認定され、その存在を広く知らしめた。その後、急速な展開の中、翌年の1952年、早くも日米地位協定などが発効され、日本は主権を回復したのである。
こうなったことも、ミステリーと言ったら、粉骨砕身の努力をされた方々に悪いが、実際、努力や工作でどうなることでもなかったと思う。

ところで、近年では、「企業のM&A(ほぼ買収の意)は今どき常識」と思われているかもしれない。
これは、マスコミの洗脳というよりは、マスコミが無知なのだと私は思っている。
買収が起こると、マスコミは、「買収される○○社には、かくかくのメリットがあり」などと言うが、全くおかしな話である。
買収される側にメリットなどない。
なぜなら、買収される企業は、消滅するということであり、消滅した者にメリットがある訳がないじゃないか?
こう言うと笑われるかもしれない。
しかし、これが事実である。
買収された企業というのは、戦争で負けて主権が回復しない国と同じであり、本来なら、日本がそうなったものであり、日本に返還されなかった場合の沖縄と同じなのだ。
まさに、買収される会社というのは、日本に返還されることのなかった時の沖縄である。

企業買収の利益は2つだけだ。
1つは、買収する側の企業が、買収した企業の、技術、優秀な人材、顧客、ブランドを手に入れること。
もう1つは、買収される企業のオーナーが個人で巨大な利益を得ること。
絶対に、この2つだけなのだ。
買収される企業では、多くの場合、従業員のリストラが行われる。
リストラされた従業員に聞けば、まさか、M&Aのメリットがあったとは言わないだろう。
買収された企業は、しばらくの間は、その企業っぽさは残るかもしれない。
しかし、どんそん親会社に吸収され、伝統は否定され、独自の思想などは絶対に保てない。
そして、やがて、名前自体も消えるか、そうでないとしても、親会社の一部門でしかなくなるのである。
確かに、買収されながら、独自の企業の体を保ち、親会社が積極的に経営に介入しようとしない場合もあるかもしれない。
しかし、それは単に、親会社の賢明な子会社運営の手法の1つに過ぎず、例えば、子会社がかなり個性的な場合、徐々に体制的、および、思想的に同化した方が問題が起きないといったこともあるというだけのことで、それも時間の問題である。
子会社が本当に独立を保ったなんて話は決してない。それは当たり前である。
だから、ある企業が買収されたら、その企業は無くなったのであるとはっきり認識しなければならない。
もちろん、オーナーとしては、企業を売って、一生豪遊できるお金を得ようとするのは「常識」である。
かつて、マイクロソフトが株式公開前のグーグルを買収しようとしたことがあった。マイクロソフトが提示した買収額は一兆円とも言われ、破格と考えられた。
グーグル創業者達は富豪になって引退できたが、完全に拒否し、株式公開後も、マイクロソフトの経営参画から逃れるため、特殊な株式構造を取り、会社(グーグル)に対する創業者達の権利を絶対にしたのだ。
一方、かつて、マイクロソフト以上の世界ナンバーワンのソフト会社であったロータスは、IBMに買収されたが、しばらくの間はロータス社や、ロータス製品の名前は残った。
今でも人気のあるロータスの製品であるロータスノーツは、本当に長い間、その名前を保った。しかし、それは、ユーザーに違和感を感じさせないためであり、今ではIBMノーツという名前になっている。
ロータスは完全に消えたのである。
企業が買収されるとは、そういうことである。
そして、「M&Aは常識」なんて、とんでもないことである。
それは、「沖縄は返還されなくて良かった」とか、「日本は主権を回復しなくても良かった」と言うのと同じであると思う。









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無敵の力

他のことは忘れても良いくらい重要なことなので、何度も繰り返し書くが、力を抜くことが、力と幸運の最大の秘訣である。
しかし、ここが日本語のおかしなところだが、力を抜くというのは、脱力とは違うのである。

プロ野球の超一流のピッチャーは、良い投球をした後で、「力を抜いて投げることが出来た」と言うことがよくある。
しかし、脱力したらピッチングそのものが出来ない。
武道の達人が立っている姿、座っている姿、あるいは、静かに礼をする姿がとても感動的なことがあるが、なぜ素晴らしいのかというと、力が抜けているからだが、脱力してだらんとしているのでは勿論ない。
「余分な力が抜けている」と言っても良いが、その余分な力だって無ければピッチングも、礼1つも成り立たない。

力が抜けるとは、力を出す意識がないことだが、それでいて、力が出ているのである。
剣の達人が、しこたま酒を飲んだ後で、刺客に襲われた時、こう言う。
「俺の剣は、酔えば酔うほど鋭さが増すぞ」
強がっているのではない。
本当にそうなのである。
もちろん、酒に強い体質であることも必要だが、チンピラのケンカですら、酔っ払った者が意外に強いことを、経験上、よく知っている者もいるだろう。

合気道の神的な達人、植芝盛平の礼は、一度見たら忘れられないほどの感銘を与えると言われる。
力を抜いた究極である無を見ることが出来るのだろうと思う。
このような人物が、果たして現存するのかどうかは分からないが、近い人なら、どこにでもいると思う。

お坊様が念仏を唱える際、良いお坊様は、大きな響く声で唱えても、よく力が抜けている。
だから、無量寿経(大無量寿経)などの長いお経を唱えても、最後まで疲れていない(むしろ活力が高まる、つまり、元気になっている)。
普通の人が真似したら、最後は声がかすれてしまう。
そして、念仏でも、神道の呪文でも、本当に良い唱え方は、小さな声で唱えることだ。
隣の人にすら、念仏や呪文を唱えていることが分からないくらい、小さな声で唱えるのが良いのだ。
実際には、ほとんど、あるいは、全く声が出ていないかもしれない。
しかし、そのような念仏や呪文が本物であり、力がある。
これは、ユダヤ教やキリスト教、あるいは、イスラム教の祈り言葉でも同じだと思う。
もちろん、僧の修行やお勤めの際、また、一般の人でも習い始めの頃は、大きな声を出す練習も必要だが、念仏、呪文、祈りそのものは、小さな声でやるのが良い。
そして、小さな声で念仏や呪文を唱えることを覚えないままでいてはいけない。
この小さな、微かな声の念仏や呪文が、力が抜けた念仏や呪文、あるいは、「極小にして極大」の念仏や呪文につながるのであり、神仏の加護を得、いかなる願いも叶えるものである。

偉大な神道家だった黒住宗忠は、常に下腹に力を込めていたし、岡田式静坐法の岡田虎二郎は、常に腹に力を入れていなければならないと言っていた。
そして、ヨーガの中村天風は、いつも肛門を引き締めていろと言った。
だが、これらの力とは、うんうん唸りながら、万力を込めるというものではない。
そんなことが出来るはずがない。
腹に入れる力、肛門を締める力とは、極小の力であり、それが働けば、生命力を輝かせる神秘の力になるのである。
意識の上で、最小の力を込め、それが、無意識の力になって継続するのである。
この力を習得するのにお奨めなのは、時々述べるが、京都の広隆寺にある、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を見ることである。
この弥勒菩薩像は、生涯で一度は見るべきものと言われ、海外のVIPが密かに広隆寺を訪れて見ることも多い。
別に、写真でも良いと思うが、可能なら、実物を見れば良いだろう。
力が抜けた、究極の達人の姿を見ることが出来る。
そして、我々は、この弥勒菩薩の右手の薬指と親指が微かに触れている、その姿、表情を真似、練習すると良い。
この弥勒菩薩像を思い出しながら、そうすることで、極小にして究極の力を自分のものにすれば、この宇宙に敵はいない。









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無の表情の驚異

心の状態は表情に表れる。
逆に、表情によって、ある程度は心をコントロールできることをご存知と思う。
悲しい時に、無理にでも笑えば、少しは気も紛れる。
だが、表情というものが、驚くべき神秘であることに気付いている者は少ない。
人気者の戦国武将、伊達政宗の師であった禅僧、虎哉宗乙(こさいそういつ)が、政宗に、「辛い時に笑えよ。嬉しい時に泣けよ」と教えたのは伊達ではない(洒落ではないが)。
表情は、それに相応した、精緻な波動を発生する。
病気の時に健康な人間の表情をすると、発生した波動が現実を変えて健康になる。
貧乏でも、金持ちの表情をすれば、金持ちの波動を発して、かなりの余計な金を得てしまう(あまり良い結果にはならないかもしれないが)。
出世する人間の表情を真似れば、同じように出世する。
また、嘘でも優しい表情をしていれば、人もネコも寄ってくる。
タイはエビに、ネコはマタタビに、虫は灯りに、イケメンだって女の優しい表情に引き寄せられてしまうのである。

アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で、こんな有名な場面がある。
綾波レイの無事を知った碇シンジが泣き出すと、レイは、「なんで泣いてるの?」と尋ねる。
マジでそんなことを聴いたこの時のレイに感情はなかった。
しかし、泣いているシンジの表情は、レイにとって不可思議な波動を発生しており、それに当てられたレイは戸惑って、
「ごめんなさい。こんな時、どんな顔すればいいか分からないの」
と言う。
それで、シンジが、「笑えば・・・いいと思うよ」と応えると、レイは花のように微笑む。
シンジ君、なかなかやるじゃないか?
見事、レイの心を支配して、彼女に微妙な感情を引き起こさせたに違いないのだから。
そして、これまで、人生が重荷であったレイが、自分の意志で人生を生きる方法を、ごく自然に教えてしまったのである。
我々も、この歴史的なシーンから学ぶべきかもしれない(別に、難攻不落の美少女の口説き方というつもりではないのであしからず)。

だが、まずは、欲を持たず、無表情に徹してみることだ。
特に、是非好悪の判断を示す表情は一切捨てよ。
これが、荘子の重要な教え、「思慮分別を離れ、是非好悪の判断をするな」につながる。
荘子がこう教えたからには、これで天下無敵なのである。
荘子は無駄なことなんか教えない。

人間は、無、空になれば、不可能はない。
そうなれば、あらゆる奇跡が起こり、想いのままとなる。
ビートルズが『ひとりぼっちのあいつ(Nowhere Man)』で(おそらく、レノンの作品)、「世界は君の意のままなんだよ(The World is at youre command)」と言った通りだ。
そして、当然、無になった人間は無表情だ。
逆に、無表情であれば、人間は最も精妙な波動を広げていき、ミラクルワールドを創り出す。
だが、気を付けて欲しい。
欲望があれば、無の表情を続けられないことを。
だから、いったんは、欲望をぽーんと捨てるのだ。
それは、結果は神に任せるということだ。
神は、決して悪いようにはしない。

無の表情をマスターすれば、やがてアルカイク・スマイル(生命と至福の表情)を得る道が開ける。
これは神の表情である。
京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)こそが、本物のアルカイク・スマイルではないかと思う。西洋でも、そう言う者は多い。
この像からは、本物の神や仏の最高の波動が発せられている。
世界中の人々が、仏教が分からなくても、この弥勒菩薩像に惹き付けられるのは当然のことである。
この弥勒菩薩像のお顔を見れば、仏、あるいは、神の力はあなたと共にある。
弥勒菩薩の思惟とは、無の中の無、空の中の空である。
そんな弥勒菩薩の表情により、我々はまず、無、空に導かれる。
だが、自分でも、余計な表情をしていることに気付いて、それを消し、無駄な考えを捨て去る努力をした方が良い。
それを真摯に続ければ、自ずと良い成果を得られるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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