ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

座右の書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

出逢った書を大切に

神話の中に深遠な真理があると言う人がいるが、本当だろうか?
聖書や『バガヴァッド・ギーター』のような聖典も、一応、神話としておく(実際に神話であるが)。
宗教家はもちろん、啓蒙家、神秘家などが、叡智を得るといった目的のために、「旧約聖書を読め」「古事記を読め」「バガヴァッド・ギーターを読め」と、強く訴えたりすることも多いと思う。
「神話を忘れた国は亡ぶ」と言う者もいるが、その主張は、国民が民族としての一体性を保つには神話が必要だという理由かもしれないが、その場合でも、神話の中には叡智が秘められているからと言いたいのかもしれない。
しかし、今の日本で『古事記』を読んだことがある人はむしろ珍しいし、アメリカには固有の神話がない。
神話の内容の一部を示し、「ここに、こんな深い意味がある」という話を聞くと、それはこじつけであるように思うことも多い・・・いや、ほとんどがそうかもしれない。
一方で、およそどの神話も、悪い影響を与える箇所は、結構多いのではないかと思う。
もちろん、神話というものが、純粋な形で伝えられていることは、およそあり得ず、長い年月の間に、改ざんや記述の追加、あるいは、別の話が紛れ込んだ場合も多いだろう。

そんな神話が、果たして、座右の書足り得るかと言うと、実を言うと、座右の書というのは、何でも良いのである。
深遠な哲学書でも、偉人の伝記でも、あるいは、『ドラえもん』のような漫画でも、全く同じである。
と言うのは、人間の脳は、指向性を持てば、いかなるものにも、その指向性に適応した内容をこじつける働きがあるからだ。
つまり、神話というのも同じだと思う。
神話の中に深遠な真理があるかどうかは、読む人の心構え次第なのである。

だから、どんな書でも、知恵を引き出す座右の書に出来る。
だが、他の人にとっては座右の書になっても、「この本は実は悪いものではないか?」と疑いの目で見るようになったら、もう知恵は与えてくれない。
本ではないもので知恵を得ることも出来る。
しかし、人間は、脳の構造上、何か意思を向けるものを持った方が、自分の哲学を作り易く、そのために、書というのは便利なのである。
まあ、そんな脳の性質を利用して洗脳を行うことは、大昔から行われてきたので、座右の書の解釈は、必ず自分で行わなければならず、「法華経のここはこういう意味である」と言う者の話には気をつけないといけない。
そこへいくと、宮沢賢治は、『法華経』やエマーソンも愛読したが、座右の書は化学の本であったらしい。

ちょっと、神話の中の1つの話を取り上げる。
ギリシャ神話だ。
神々の王ゼウスの実兄で、冥界を支配するハーデスが、実姉妹の(姉か妹か分からない)デーメーテールの娘コレ―に一目ぼれし、ハーデスはゼウスに、コレ―との結婚の許可を得ようとした。
血縁関係は無茶苦茶だが、まあ、そこは気にしても仕方がない(笑)。
ちなみに、コレ―の父親はゼウスである・・・ついて来れるか?^^;
また、ハーデスにとって、ゼウスは弟ではあるが、ゼウスがオリュンポス12神のトップであるので、ゼウスに従っていた。
ゼウスは、ハーデスの願いを聞き入れ、コレ―を無理矢理さらっても良いと言った。男女の仲とは、そんなふうにして出来るのだとそそのかしたという説もある。
こんな神話から、「女に対する強引さが男らしさ」といった馬鹿げた考え方が生まれてしまった感もあるが、この話がなかったとしても、同じような考え方は生まれたと思う(男は馬鹿だからね)。
実際、ハーデスがコレ―を略奪してからは、地上も神々も散々なことになり、これを収めるには、長い年月と苦難、そして、ゼウス、ハーデス、デーメーテールの母であるレアーの仲裁を必要とした。
やはり、恋愛において(恋愛に限らないが)、相手のことを考えない強引さや無思慮は、ロクなことにならないのだが、巷では、ハーデスによるコレ―の略奪が称賛されている場合すらあるから困ったものである。
つまり、ギリシャ神話も読み手次第であるが、それは、いかなる神話も同じである。

ギリシャ神話も聖書も古事記もバガヴァッド・ギーターも、神聖な知恵の書になるかどうかは、読み手の精神性による。
そして、そんな誤解を生み易い神話より、私なら、『銀河鉄道の夜』『真説 宮本武蔵』『ソクラテスの弁明』をお勧めしたい気もするが、何を選ぶかは、結局、「たまたま」である。
出逢った書を大切に。そして、慎み深く読むと良いのだと思う。








スマートフォン、タブレットPCでの読書(附一般読書論)

「座右の書は?」と聞かれて、「これです」と、一冊をぽんと挙げられる人に憧れを感じると思う。
また、「これとこれがあれば、後はいりません」と言う人にも一目置きたくなるだろう。
だが、そのようになるには、時間と経験が必要だ。
ある時期までは多読が必要である。
若い人が、「私のお薦めの本はこれです」と言う場合、単に、他の本をよく知らないだけのことである。
あまりに早い時期・・・たとえば20歳そこそこまで・・・に、1つのものに集中し過ぎれば、自我の偏った人間になる。そんな人の中には、一見、極めて優秀なように見えるような人もいるが、単に、若いエネルギーが特定のものに注がれて勢いがあるだけのことである。
その意味もあるが、家柄などによって、子供の頃から、1つのものに打ち込まざるをえない者は、よくよく周囲が気をつけてやる必要がある。10代で才能を発揮しても、それは本当の実力ではないし、20代半ば程度までに賞賛を得ることがあっても、それは一時的なものであって、すぐに無くなってしまう。天才子役なんてものは大抵は大成しない。華のある少年少女には、それを食いものにして儲けたがる、ハイエナのような連中が多く、マスコミも一緒になって、せっかくの才能を潰してしまう。小学生で人気者になったら、さっさと引退しなければ、その後の数十年の人生は悲惨だ。

ミルトン・エリクソンという天才的な精神科医は、子供の時、家には本は、聖書と辞書しかなかった。なぜか彼は辞書を選んで、それを繰り返し読んだが、辞書にはほとんどポリシーは無いので、それは彼に純粋に豊かな知識を与え、彼自身、それはとても幸運なことだったと語っている。
宮沢賢治が片山正夫の『化学本論』(1915)を座右の書としていたことはよく知られているが、純粋な科学書もまた、著者の主張は少ないし、また、多くあってはならないのであるが、そのようなものであれば、若いうちから、常に手近に置くのが良いこともある。しかし、他のものも幅広く読む必要があるだろう。

純粋に、何を読んでも面白いからと沢山の本を読む人は、実際の年がいくつでも若いものである。
しかし、知識を誇るために読む者は、気の毒なことに、若い時に、自我の構築に失敗しているのだ。
無論、仕事上の情報を集めるために沢山の文献を読んだり、研究者が毎日論文を取り寄せて読むというのは仕事なのであるから当然であるが、いい年になって啓蒙書の類を多読するなら、自分の人生には問題があったと考えた方が良いかもしれない。
とはいえ、そうであるなら仕方がない。
かくいう私もそうで、特に、最近、スマートフォンとタブレットPCの表示性能が向上したこともあるが、電子書籍の読書にすっかりとりつかれてしまった。多分、実生活での経験が足りず、未熟なのであろう。
ただ、以前より、自己啓発書より物語を楽しむようになったし、それは、子供の頃やごく若い時の情熱を呼び覚ます類のものである。
当面は諦めて多読を続け、究極の一冊でも見つけようと思う。

そして、「私の一冊」が確定し、それをじっくりと読んで身に付いたなら、次の段階として、その書を捨てねばならない。
しかし、それがなかなかできないまま墓場行きになることが多い。
だが、捨てることができれば、その者は永遠に生きる。
もう少し分かり易く言えば、その一冊を捨てられなければ、来世でまたそれを読むために、この世に転生する。
ただ、一冊が確定した場合、たとえそれを捨てられなくても、次の生では、高貴な家に生まれたり、天才になって生まれるものである。

ところで、タブレットPCやスマートフォンでの読書のメリットを少し書いておく。
私は、小説等は5インチスマートフォンで、図を多用した科学書のようなものは7インチタブレットPCで読んでいる。
電子書籍はページをまとめてめくって元に戻るということがやり難い。
紙の本であれば、「この名前は以前出て来たが、よく覚えていない。たしか、あのあたりに書かれていたな」と思って、適当なページを開き、そこから、「もっと先だった」「もう少し後だった」とか見当を付ければ、案外に早く見つかる。
しかし、電子書籍は、基本的に1ページずつ移動するしかないので、それができない。
だが、それをできないと理解し、諦めてしまえば、必要なことは頭に入ってしまうようになる。また、忘れたらなら忘れたで、潜在意識の方でうまく調整してくれるのである。なにしろ、意識では忘れていても、潜在意識は覚えているのだから。
また、紙の本では、縦書きの本の場合、左側の未読のページが減っていき、右側の既読のページが増えていくのが楽しみで、励みになることも多いだろう。
しかし、電子書籍の場合、「32パーセント」などと、読了割合が表示されることがあっても、あまり実感がない。
だが、それは悪いことではないことが分かった。単に読み終わることを目標にする意識がなくなり、読書そのものを楽しみ、熱中するようになる。せかせかと慌てて読むことがなくなり、じっくり読むようになり、深く読むようになるのだ。
電子書籍の読書は目が疲れるというのは、必ずしも当てはまらない。
解像度の高いディスプレイだと文字が綺麗で読みやすいし、背景を黒に、文字を白にすれば、あまり目が疲れない。
また、現在の紙の本は、あまりに文字が小さいので、目が疲れるだけでなく、誤読することも多い。
日本語は良いにしろ悪いにしろ、微妙なところがあり、読み方1つで、正反対の意味になってしまうこともある。
また、これはフロイトも言っていたが、人間というのは、不思議なほど、文字を別の文字と間違えて読んでしまうことがある。すると、書かれている文章が全く違う意味になってしまう。
おかしな例かもしれないが、「愛する人」を「戦する人」と読み間違え、気付かずにそのまま進むなんてことは、実際は非常に多いのである。
文字を十分大きくし、じっくり読んでいれば、そんなことに本当に頻繁に気付くのである。気付くなら、そんな危険は減っているのである。
ある50代の人が、10代の時に読んだ本を取り出し、ある1文字を読み間違えていたせいで、全然違う意味に理解していたことに気付いて愕然としたことがあったという。それはよくあることである。
私は、スマートフォンは、ディスプレイ解像度がフルHD(1920×1080ピクセル)の富士通ARROWS X F-02Eで、ドコモと契約せずに本体のみ購入し、インターネットには、GoogleのNexus7(2013年版)のLTEモデルをモバイルルーター代わりにして接続している。
Nexus7(2013年版)も、1920×1200ピクセル(WUXGA)の解像度で、特に読書に向いている。
ただ、もう少し解像度が低くても十分であると思うが、4インチ程度の大きさでは画面が小さ過ぎるかもしれない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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