ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

幽体離脱

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

身体から抜け出す方法

BGM代わりに聞いていたので、正確に憶えてはいないが、YouTubeで、ホリエモンさんと川上量生さん(ドワンゴ創業者)が、こんな話をしていた。
川上さんが「意識はハードウェアに依存しない。脳にもコンピューターにも宿ると思う」と言うと、ホリエモンさんが「僕もそう思う」と言っていたように思う。
もし、本当にそう言ったのなら、それは、アメリカインディアンやメキシコで太古から言われているのを始め、日本の八百万の神々のお話でも、似たようなところがある。
そして、私は、個人的にそう思える体験がある。
どんな体験かと言うと、身体とか脳から意識を「抜いてしまう」のである。
幽体離脱と言うほどではないが、それもやろうと思えばやれる。
やり方を、自己啓発プログラムを販売する会社の社長さんに食事がてら教えたことがあった。
やり方は、意識を頭の上の、やや後ろに持っていくのである。
持っていくと言っても、そこに意識があるのだから、自分自身がそこにいる感覚で、自分の身体を見下ろしている感じになる。
つまり、意識を脳から切り離し、生物としての自分をロボット状態にするのである。
人気のある速読法の本で流し読みした覚えがあるが、そこに意識を持っていくと、速読が出来るといったことが書かれていたかもしれない。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジくらいになれば、常に、意識はかなり上空にあるらしい。

涼風
AIアート196
「涼風」
Kay


私が、なんでそんなことをやっていたのかというと、呪い返しのためであった(笑)。
一頃、人の恨みを買ったせいと感じたが、体調が悪かったり、小さな事故がよく起きていた。
そんな時、楳図かずおさんの『おろち』という漫画の『ふるさと』というお話中で、ヒロインの少女おろちが無思考状態になるのを見て、自然にやり方が分かったのだった。
格好良くて、永遠に少女の姿のおろちは私のヒロインでもある。
高橋留美子さんの『犬夜叉』で、ヒロインのかごめが呪い返しをしたり、また、西尾維新さんの『化物語』で、14歳の千石撫子についた蛇の呪いを、呪った相手に返す話があるが、呪いは無思考の人間には憑りつけないのである。
だから、それこそ「私は誰か?」と問い、思考が消えれば呪いは出ていく。

こんなことを思い出したが、出来るようなら、意識を頭の上のやや後方に持っていけば、速やかに思考が消えるかもしれない。








幽体離脱して羅生門に行った

面白い白日夢を見た。
似たようなものを見たことがあったり、よく分る感じがある人は、かなりの霊感力があると思う。

家に居たのだが、眠りに落ちた瞬間、外に飛び出した。
よって、これは、白日夢であると言うより、幽体離脱かもしれない。
家の外の風景は、現実と似ているが、かなり違いがあることも認識出来た。
ということは、やはり、私が作り上げた世界なのだろうか?
とりあえず、西の方に、いつもの道が開いているので、そっちに行ってみることにした。
意図しただけで、身体(幽体?)が高速移動する。
それで、あっという間に遠いところに来てしまったが、そこに、高く広い範囲に渡って建つ、黒っぽい板の壁があった。
トランプ大統領が、メキシコ国境に建設した「メキシコ国境の壁」を思わせたが、広く空いている部分がある。それはまるで羅生門(羅城門)のようだった。
別に、恐ろしい雰囲気はなく、門の外は広いさら地がずっと続いていて、青い空と明るい陽射しの中、とても懐かしい感じがする。
向こうの方(100mほどだろうか)に3人ほど、人影が見える。
私はその人達に親しみを感じ、手を振ろうとしたが、腕が上がらない。これは面白い。何が腕の動きを制約しているのだろう?
ふと、門の近くの壁を見ると、鏡がついている。さっそく自分を見た。
それほど大きな鏡ではなく、胸から上だけ写っていたが、なぜか眼鏡をかけている。仕事中か運転中以外はかけないのだが。
ふむ、相変わらず美しい男だが、どうも気難しい、苦しい表情だ。
この門はきっと、本当の羅生門で、死なない限り、向こうにはいけないし、向こうとの交流も難しいのだろう。それで、向こうに向かって手も振れないのだ。

戻った方が良いような気がして、来た道を戻って行った。
随分、見慣れない、西部開拓時代のアメリカのような風景だ。
人も多い。なるほど、馬も馬車もいる。
私は、その間を走って通り抜けた。今度は、ちゃんと走っているという感覚があったが(さっきは低空を飛んでいるようだった)、やはり、滑るように速く走れる。
そろそろ私の家かと思うと、それらしいものがあったが、なぜかそれではないと思い、走り過ぎた。
すると、また、自分の家らしいものがある。本当の私の家とは似ても似つかないが、なぜか、自分の家のようだと思うのだ。
そんなことを何度か繰り返したが、次に見えた家を、自分の家だと決めた。そうだ、決めれば良かっただけだ。
すると、「なんだ、やっぱり自分の家だ」と思う。
どう見ても、初めて見る家なのにね(笑)。
家の外から、階段で2階に上がれる(本当の私の家は、そんな洒落た家ではない)。
そうだ、私の家はこうなっている・・・初めて見る家なんだろうが、どうやら捏造(作り物の偽物)の記憶があって、ずっとそこに住んでいるように思っているのだ。
そして、2階に私の部屋がある。
いつも、そこで過ごし、いろんなことがあった部屋だ・・・と思い込んでいるが、もちろん、それも偽の記憶だ。
私はドアを開けて中に入った。
その瞬間、目が覚めた。
話は簡単で、あの羅生門が、生と死を分ける門だ。あやうく死にかけたが、生かす方の力が強く働いたようだ。
そして、最後に飛び込んだ部屋が、私の個人的意識だ。
普段の私は、その狭い意識の中に囚われているのだが、もう出方が分かった。
ただ、遠くに行き過ぎると、あの羅生門がある。
それを越えて向こうに行けるのかどうかは分からないが、少なくとも見ることは出来る。

個人的意識から出るには、単に、思考を止めれば良い。
その簡単な方法が今に意識を向けることで、それにはただ、「今、今、今、・・・」と心で唱えるだけで良い。
慣れると、すぐに思考を消せるようになる。
個人的意識から出たら自由自在だ。
このことが、法華経の中にも、よく書かれていることに気付く。つまり、ごく短時間の間に、いろんな仏の世界に行き、仏達に挨拶出来るのだ。
すると、あの羅生門の外にも行けるのだろう。まだ、簡単には出られないようだが、そのうち、何とかなるだろう。
そんなわけで、思考を止めることがいかに大事かが分かる。

ところで・・・
小学校の頃だと思うが、皆さんも、クラスの1人くらいは、人間ではない子がいたはずなのだ。
私にも、そんな子がいた。
最初の子は、小学1年生の時の女の子で、彼女のことは何度か書いたことがある。
次が、5年生の時の、やはり女の子で、大変な美少女だった。1年の時の子も可愛かったと思うが、私はあまり憶えていない。ただ、上級生が彼女のことを大変に可愛いと言っていたので、やはり可愛かったのだろう。
で、5年生の時の方の子には、「君、人間じゃないだろ?」と尋ねてみたが、彼女は黙って横を向いて何も言わなかった。
まあ、「沈黙を持って」である。つまり、その通りだというわけだ。
『Another』に出て来る見崎鳴(中学3年生)にそっくりだった。多分、同一人物だろう(笑).。
憶えがなくても、そんな子がいたと決めつけ、イメージの中で何か尋ねてみると良い。おそらく、良いことを教えてくれるから。








楽しくて不思議なことが起こる瞑想のやり方

イツァク・ベントフの著書『ベントフ氏の超意識の物理学入門』という本に、簡単で面白い超常実験が紹介されている。
尚、この本は、物理学の基礎的なことも書かれているが、難しい本ではない。
ベントフの学歴は幼稚園中退で、仕事は医療機器エンジニアだ。
やり方は、こんな感じだった。
静かに座って目を閉じ、以前、訪れた場所・・・気持ちの良い海岸や山などが良いだろう・・・の風景を思い出し、自分がそこに居るように想像する。
その時、さりげなく、薄目を開け、部屋の中にある秒針のある時計を見る。
すると、秒針が動いていなかったり、ひどくゆっくり動いている。
尚、この時、あなたが、そこにいると想像している場所に霊能力者がいれば、そこにあなたの姿が見えているかもしれない。

この実験の良いところの1つは、自分が意識とか魂だけで別の場所を訪れている気になることで、自分は肉体ではないことを自然に感じることが出来ることだ。
訪問する場所として面白いには、学校や会社に行っている人なら、夜にその学校や会社に行くことだ(もちろん想像で)。
夜の学校や会社に行ったことはないかもしれないが、そうであっても、かなりリアルに思い描けるし、新鮮な感じで面白いと思うのではないかと思う。
私がそれをやった時、ある女子社員の席で、彼女が椅子にカーディガンをかけたままにしてあるのを発見し、翌日、早くに会社に行ってみたら、やはり、その通りであるのを確認したことがある。
ただし、この実験は、そういった現場検証が目的ではないし、そんなことを考えず気楽にやった方がうまくいくので、たまたま、そういった発見をした場合以外は、現場観察をしようとは思わない方が良い。
それに、事実とは違う光景が見られることもある。例えば、時間がズレていたり、微妙に異なる世界を見たりだ。
また、見たことのない場所に行くのも良い。
例えば、月とか火星とか、あるいは、銀河系の外から銀河系を見るとかで、こちらの方が想像力を発揮することが出来るだろう。

こういったことをする目的は、あくまで、「私とは何か?」を感じるためだ。
すると、「私とは意識である」ことが分かる。
なるべく何も考えずにやることが大切だ。だから、上でも少し述べた通り、現場検証などしようと思うと、好ましい結果にならない。
自分とは意識であり、この意識が確かに存在することを感じれば、大収穫だ。
なぜなら、宇宙最大の真理は、「私は存在する」ということで、私とは意識であるからだ。

デカルトが「疑っている私は確かに存在している(われ思う、ゆえにわれあり)」を究極の真理として発表した時、ある学者に、「じゃあ、『われ歩く、ゆえにわれあり』でもいいじゃないか?」と言われて、デカルトは不快に思った。
デカルトが言いたいことは、「私は本当に歩いているのだろうかと疑うことが出来る私」が存在しているということで、その学者の質問は、不敬と言うよりは間抜けだ。
しかし、デカルトの論では、「疑っていない(思っていない)」時は、自分があるのかどうか分からないことになってしまう。
つまり、眠っていて、夢を見ていなければ、自分が存在するかどうか分からない。
だが、実は、眠っている時、夢を見ていなくても意識はあるのだ。
その分かり易い証拠としては、眠っていても、かゆい所をかくということがある。
あるいは、ラグビーや格闘技などをやっていた者には、時々経験者がいるが、強い打撃を受け、表の意識が消えているのに、プレーしたり戦っていることがある。
そして、自分が肉体とは別の場所にいると想像し、何も考えずにいると、純粋な意識である自分を感じることが出来る。
純粋な意識とは、「存在の自覚」であり、これが神なのである。
旧約聖書で神が、「私は、私は存在するという者である」と言ったのは、そんな意味である。
そして、神であるのだから全知全能である。
だから、こういった瞑想に馴染むと、神がかった力と一体化し、世界を思い通りに動かせるようになる。
ただし、この瞑想は、無思考でやらないとうまくいかない。
ただ、そうやって、存在の自覚・・・つまり、神であることに馴染むと、ふと思ったことが実現するようになる。
誰かのことを考えたら、その人から電話がかかってきたり、あるいは、その人と道でばったり会ったり、ある金額を思うと、その額のお金が入ってきたりである。
それよりも、これは楽しい瞑想なので、試してみると良いと思う。








寄るなら宇宙最強の大樹にしろ

幽体離脱と言って、精神が肉体から離れて何処かを訪れるという話がある。
あなたにも、夜、ベッドの中でうとうとしかけた時に、あまりに鮮明な光景を見たとか、あるいは、風邪をひき、熱が出て朦朧(もうろう)とした状態で寝ている時、天井のような位置から自分の姿を見たといった経験がある人は、案外に多いのではないかと思う。

幽体離脱ができるとなると、行ってみたいところもあるかもしれない。
しかし、いつ幽体離脱し、どこに行くか、自分では分からない。
それは、自分の意志で決めることはできない。
それがいつ起こり、どこに行くかは、守護霊や守護神の導きに任せるしかない。
ただ、このことを知っておけば、あなたの世界が広がり、人生が豊かになるかもしれない。
逆に言えば、幽体であそこに行きたいという想いが強いと、悪い影響を与えるかもしれないので、慎むべきである。行くべきところなら、守護の神霊に連れていってもらえるだろうし、あなたが覚えていないだけで、実際は、常に連れて行ってもらっているのである。

アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンをして、人類史上の偉大な5人の内の1人(イエスや釈迦などは除くのだと思う)と言わせた、エマニュエル・スウェーデンボルグは、割合に自由に幽体で訪問し、それを証明したこともあった。しかし、彼が、霊界や霊と結びつきが強いのは運命であったのだ。

ところで、願いを叶えることにも、似たようなところが大きいと思う。
あなたにも何か願いがあるのではないだろうか?
しかし、それが叶うかどうかは分からない。そして、ほとんどの場合は「その願い自体は」叶わない。
女優になりたい、サッカー選手になりたい、あの人のお嫁さんになりたいと願っても、そんなことがいちいち実現したら大変だし、実際、それらが叶うことはほとんどない。
稀に、賞賛されるような願いが叶った者が、「がんばれば願いは叶う」と言うかもしれないが、それは、単に彼がそうなる運命だったというだけのことだ。
願いを持ったなら、どうなるかは、神仏に任せてしまうことだ。
それを無理に叶えようと思うと、やはり悪い影響があるかもしれない。
人間に願いを叶える力はない。そんなことができると思うのは傲慢なことで、その傲慢さが人を不幸にするのだ。
だが、ことさらに、願望を否定することもない。それもまた、悪い影響を与える。
「こんな願いを持つのは罰当たりなことだ」と悩む必要はないということだ。どんな願いを持つことも悪いことではない。
だが、それもまた、どうなるかは、神仏に任せるのだ。
そうすれば、「あの願いは、私に合ったものではなかった」と早く理解したり、逆に、人々に馬鹿にされるような大きな願望であっても、神の意思であれば叶うのだということが分かるのである。
尚、特に我々凡人の場合、神に任せれば、悪いようにはならない。
それは、イエスも度々語っていたと思う。
仏教に親しみがあれば、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、「阿弥陀如来様、お願いします」という意思表示になり、即座に助けてもらえる。
キリスト教が好きなら、神の子羊になり切り、牧者たる神に面倒を見てもらうことに徹することだ。
それについて、こんな話がある。
中国で生まれ、台湾で育った作家で、世界的事業家の女性チン・ニンチュウは苦難の青春時代を送り、大変な努力家だった。しかし、ある時、瞑想していたら、羊飼いが現れ、自分が羊になり、自分が努力しなくても、羊飼いに面倒を見てもらえば良いのだと分かった。羊飼いは究極の戦士であり、この、自分よりはるかに強い無敵の戦士が自分の代わりに戦ってくれるのだからだ。すると、喜びと安堵で涙が止まらなかったと言う。
親鸞は、阿弥陀如来に完全に甘えろという。阿弥陀如来は、あなたの親様である。「南無阿弥陀仏」を唱えれば、無限の能力と慈悲の心を持つ阿弥陀如来は、間違いなく、その声や想いを感知し、決して見捨てることなく救うのであるからだ。むしろ、自力の努力は、仏の救いの妨げになる。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジも、神の救いについて、「そうだ。楽なのだ」と断言していたものである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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