ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

幻の惑星

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

今の世界をおかしいと思うのは認識の不足

いつの頃からか、世界はおかしくなったと感じている人がいると思う。
それも、「何かおかしい」というレベルではなく「ひどくおかしい」「圧倒的におかしい」「デタラメだ」というほどだ。
それがはっきりとしたのが2020年の米国の大統領選挙からという場合が多いと思う。
普通に考えて選挙に不正があったと疑える証拠がいくらあっても、そんな言論は完全に封殺される。
パンデミックに関連する一連の出来事、特に、薬品関連においては、良識や単純な常識が完全に打ち砕かれる。
ウクライナ紛争に関連しても一面的なストーリーのみが万民に押し付けられる。
他にも、昆虫食の推進も、特定の論のみが強制される。
そして、これらは、特に日本で顕著であることは、普通に公開されているデータを見ても分かる。
データというなら、この数年の日本の異常な人口減少も決して話題に上らない。あまり言うと危ない。

こうしたおかしいことが「全くおかしくない」ことになってしまっている。
これに関し、悩むという域を超え恐怖を感じたり、悔しいを通り越し絶望に変わってしまっている人も少なくないと思う。
なぜ、こんなことになっているのか?
そう思うなら、それは認識が不足していることも確かなのだ。
つまり、今は戦争中・・・第三次世界大戦の最中であるという認識だ。

水仙
AIアート99
「水仙」
Kay


戦争といったら「ドンパチ」、つまり、物理的な破壊攻撃のイメージをいまだ持っている人が大半であるが、それは過去の戦争だ。
今はすでに、完全なテクノロジー戦争の時代なのだ。
表向きには何も起こっていないように見える場所でこそ、最大の攻撃が行われているのである。

1961年公開の、今見たらかなりチャチと思える映画『幻の惑星』で、科学文明が発達した惑星レトンに不時着したチャップマン少佐は、そこで「戦争が勃発した」と知らされ緊張するが、全くそれらしい様子がないことを不審に思う。
しかし、戦争はコンピューターシミュレーションで遂行、そして、決着し、死亡と判断された人間が処分される。
60年以上も前に、物理戦争が戦争の主流でなくなることを予見していたのは見事であり、B級映画ながら、この点は斬新だった。

また、2018年の、あの『ウルトラマン』の円谷プロのアニメ『SSSS.GRIDMAN』(グリッドマン)では、町に怪獣が現れて破壊の限りを尽くすが、誰もそれに気付かず、それで死んだ人間は、別の理由で死んだことになってしまっていた。
これに似たようなことが、実際に起こっているのである。
さすが円谷プロである。

こういった作品でも見て、認識を変えることが出来ればそれが良い。

普段であれば、人を1人でも拳銃や爆弾で殺したら殺人罪で逮捕され、罰せられる。
しかし、戦争であれば、ある意味、沢山殺せば殺すほど偉いのである。
こういうふうに、戦争中であれば、平時の常識は全く通用しない。
そして、今がまさに第三次世界大戦の真っ最中なのである。
平時の常識が通用しないことに驚いたり、憤ったりしている場合ではない。

では、そうと分かったら、我々に何ができるだろう?
残念ながら、敵は進んでおり、情報を含め、物理的には我々に対抗する手段は少ない。
だが、「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃とは無抵抗なり」。
何もしない者が一番強い。
いや、思考を消した者が無敵なのである。
思考を消せば、天才的発想をし、超人的行動をすることも不思議ではない。
「私は誰か?」と自分に問い、思考を消し、神人に近付いておくことをお薦めする。








魂に別れなどはない

卒業というものが感傷的に感じる理由には、親しく交流している訳でもなければ、卒業が人生での永久の別れになる可能性があるからだろう。
ところで、高校や大学の卒業の方が、幼稚園や小学校の卒園・卒業よりドラマチックなものになるのではないかと思うが、それはなぜだろう?
幼いとすぐに忘れてしまうからというのが、普通の考え方と思う。
しかし、何か大切なことを忘れてはいないだろうか?
私は、小学4年生の時、転校したことがあるが、よく一緒に遊んでいた友達が2人いた。
より親しい方の子とは、それが永久の別れとなったが(今後のことは分からないが)、その時に交わした会話は、
「これが永久の別れだ」
「そうだね」
であったが、明日また会えるような、気楽なものだった。
好きな女の子もいたのだが、多少辛くはあっても、さほどではなかった。
しかし、それほどの傷心でなかったというのは、幼いというのとは異なり、それがさしたる重大事でないと知っていたからだ。
別れるのは、単に身体、あるいは、心である。
魂が別れる訳ではないと言ったら、大人であれば、「美しい観念ではあるが、それはただの空想だ」と思う場合が多いだろう。
そうではない。
大人になるほど、自我的にしかものを考えることが出来なくなるので、身体や心の別れがいっそう辛く感じるのだ。
空想ではなく、世界に別れなんてものはない。
むしろ、別れがあると思うことの方が空想なのである。

『幻の惑星』という、1961年のアメリカ映画がある(はっきり言って2流の映画だ)。
宇宙飛行士の男性が未知の惑星に不時着したが、そこには、進化した宇宙人が存在していて、宇宙飛行士は、そこで、素晴らしい女性と出会う。2人は深く愛し合うようになり、また、大変な冒険の中で、彼は彼女を命懸けで守った。だが、彼は一人、地球に帰っていくのである。
2人とも悲しんでいたが、彼はむしろ希望を感じていたし、女性の方も、敢えて彼を引きとめはしなかった。
彼は、その星で歓迎もされているのだから、残ればいいのにと思うのは、自我的な考え方である。
映画に合わせて、宇宙的に考えれば、2人の間に別れなどないと感じるのである。

ところで、身体の別れは分かるかもしれないが、心の別れとは何だろう?
中学生用の雑誌に連載されたのが、我が国の代表的な小説になってしまった、筒井康隆さんの『時をかける少女』という作品がある。
何度もテレビドラマや映画、アニメ映画になっているが、この小説の最後で、中学3年生の和子は、未来人ケン・ソゴルと別れる際、彼によって、彼の記憶を消されてしまう。
記憶すら残らない、永遠の別れである。
原田知世さんが和子役を演じた映画では、その後、和子は化学研究者になっていた。ある日、和子が大学の構内を歩いていると、一人の若い男性が立っていて、自分を見ているのに気付く。しかし、見知らぬ相手だったので、和子は、ちょっと表情を変えただけで、そのまま通り過ぎた。その男性は、未来から再び訪れたケンだった。
小説の方では、和子は、ケンが住んでいた家から、そこで栽培されているラベンダーの香りが漂ってくるのを感じると、なぜか懐かしい感じがして、いつか、素晴らしい人に会えるのだという不思議な気持ちになるのだった。
映画の方では、あまりはっきり表現していないが、原田さんの表情による微妙な演技は、やはり彼女がケンのことを、心の奥深くでは覚えているのだということを暗示していたと思う。
そして、小説の方では、単に、和子の自我が忘れてしまっているだけで、魂まで忘れてしまっているのではないことを、鮮やかに表しているではないか?
身体が別れる時に悲しい理由の1つが、いつか自分のことを忘れられてしまうかもしれないということだろう。少なくとも、記憶は色褪せ、埋もれてしまうのは確実だ。
しかし、忘れるのは、心、あるいは、自我だけである。
魂は何も忘れない。
それで十分である。そう思えないのは、まだ我々が自我中心に生きているからである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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