ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

幸運

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

腕振り運動や四股が運を良くする原理

人間は、なぜ生きようとするのだろうか?
死んだらどうなるか分からないからとか、生きることは凄く重要なことだと思っているから、あるいは、生きるのが楽しいから生きる・・・というのではなく、実は、脳に「生きろ」という命令が与えられているから生きるしかないらしい。
そして、脳に与えられた命令は、「生きろ」だけだという説もある。
自殺する人や、死に場所を求めているという人だって、別に死にたいわけではない。
「死にたい」と言う人だってそうだ。

生きるためには、当然過ぎるが、命が必要だ。
命、生命は、どのように発生したのだろう?
生命が偶然に誕生する可能性は、ほぼゼロで、その喩えとして、「腕時計をバラバラに分解して100mプールにまき散らし、プールの水を動かしたら、偶然に元の腕時計が組み立てられるようなものとか、ゴミ捨て場のゴミを竜巻が巻き上げ、偶然にコンピューターが組みあがるようなものとか、猿がデタラメに紙に黒インクをなすり付けたら、偶然にノーベル文学賞級の小説になるくらい、あり得ないことらしい。
つまり、人間が考える神とは、おそらく、かなり違うだろうが、とにかく、神がいるのは間違いないようだ。
神は、我々の想像の範囲をはるかに超えて万能であり、我々に思いつく程度のことは、いかなることも、健康な若者が腕を曲げたり伸ばしたりするよりはるかに簡単に出来る。
ならば、楽しく生きられるよう神にお願いするのが一番である。
実際、神は、我々1人1人に対応する能力は十分にあると思うが、いくら我々が馬鹿でも、何でも無分別に言うことを聞いてもらえることはないくらいは分かる。
とはいえ、我々の脳に「生きろ」という命令を与えたのはきっと神なので、それに対する責任は取ってくれるはずだ。
そこで、基本的には、生きることに前向きな人には、良い条件を与えるように思われる。
ところが、おかしなことに、命を捨ててかかった時に、人間は奇跡を起こす(神が起こさせる)。
この矛盾に気付き、その理由を洞察出来た者が人間を超えた力を持ち、地上を自由に闊歩する。
なぜ、命を捨ててかかる時、奇跡が起こるのかは、自殺との違いを考えれば分かる。
自殺は、命を無駄にすることだが、命を捨ててかかるのは、命を生かすためだ。
また、怠惰な人生を送ることも、命を無駄にしているのであり、自殺と変わらないか、近いことだ。
美味しいものを食べたり、ゲームをして楽しんだり、色事に興じて喜んでも、命を生かしているとは言えない。
正しく命を生かしている時、幸運に恵まれ、ついでに願いが叶うのだと思われる。

命の生かし方は、考えて分かることではない。
実を言えば、命を生かす準備をしている者に、命を生かす道が用意される。
つまり、エゴを支配する術を身に付け、心身を健康にすることが、その準備になる。
スポーツトレーニングは、競技に勝つためとか、力を自慢するためのものである部分が大きく、必ずしも、心身を健康にしない。
だから、いくらマッチョになっても、命を生かす道が見つからないことが多い。
だが、腕振り運動や、正しい四股といった、心身を真に鍛えることをしていれば、命を生かし易く、その道が開く。
腕振り運動や四股を淡々と行うと、自我を支配する術も得られるので、尚更である。

そんなわけで、今回は、いつも勧める腕振り運動や、佐川幸義流四股をやれば、なぜ運が良くなるかの原理を少し語ってみた。








真の幸運の秘訣は何とこれだった

運とは大切なもので、運を良くする方法が書かれた本は沢山あり、その中には優れた本もある。
特に、マックス・ギュンターの『運とつきあう』は素晴らしいと私は思うし、その他にも良い本がある。
昔から、運が良くなる秘訣や秘法が、いろいろ伝えられている。
しかし、いかなる秘法、秘術をマスターしていても、ツイていないことは必ずある。
そんな時の態度はとても大切だ。

私はテレビ放送は一切見ないが、家族が見るので、テレビの電源を入れた時、一瞬、放送が流れるが、そんな状況のある時、アメリカのメジャーリーグ野球の放送をしていた。
私は、何かの都合で、しばらくそのまま放送を流し、見るともなく見ていたが、ちょっと印象深いことがあった。
投手が主審から、新しいボールを受け取ったが、投手は、そのボールが気に入らなく、主審に新しいボールをよこすよう合図し、今持っているボールをどこかに放った。
主審は別に表情を変えず、新しいボールを投手に投げる。
投球中のボールが汚れたなどの理由で新しいボールに交換することは、別に珍しくはない。
しかし、新品のボールだ。
メジャーリーグとはいえ、不良品があったか、あるいは、何か本当に不具合があったのかもしれない。
投手が(あるいは捕手が)要求すれば、無制限に新しいボールが渡されるように思えた。
私は、ちょっとボールがもったいないなあと思ったのだった。

そういえば、日本のプロ野球で、主審への態度が悪かったのか、主審が、その若い投手のところに怖い顔で歩いていったという話が話題になったことがあった。これには、いろんな意見があったが、以下のことを考えると、判断が出来るように思う。

プロテニスでは、ボールボーイ、ボールガールと呼ばれる少年少女がいることをご存じと思う。
今は、ボールパースンと呼ぶのが正式なのかもしれない。ここでも、ボールパースンと言おう。
ボールパースンは、転がっているボールを取り除いたり、選手にボールを渡したりするが、ボールを渡す時、ワンバウンドで選手に上手く渡すことに私はよく感心する。
時には失敗し、やや離れた場所にボールが来ることもあるが、選手は、そんなことは気にしない。
しかし、コントロールが悪いボールをボールパースンから続けて放られたり、その他のことでボールパースンに不手際があることもある。
そんな時、不快感を表す選手もいるが、そんな場合は(少なくとも全英オープンでは)、主審は、権威を持って選手に注意する。
「いや、これは選手が気を悪くするのも分かる」と思える場合も、例外ではないと私は思う。
テニスは紳士淑女のスポーツであり、よほどの場合は別として、気分を態度に出すようでは選手の資格はない・・・と私は思うが、まあ、間違っていないと思う。

そして、人生も同じだ。
私は今朝、面白い夢を見た。
バレーボールで、盛りを過ぎた、かつての名選手がサーブを打つ場面だった。
1本目がアウトになり、係の者が新しいボールをその選手に転がして渡した。
(バレーボールで、どうボールを渡すのか、私は全く知らない)
ところが、そのボールが、かなり逸れてしまう。
その選手は、ボールを渡した相手に直接ではないが、かなり大きな不快感(「いい加減にしてくれよ」といった感じ)を示した。
その直後、試合が中断され、その元名選手に厳重な注意がされ、さらに、ネットでは、その選手は追放かという情報が出た。

人生においても、ツイていない時に立派な態度をとらないといけない。
いや、ツイていない時の態度次第で、その後の流れが変わるのだと思う。
幸運の秘訣があったり、「ツイてる」と言えばツクのであると言う有名人がいる。
しかし、幸運の真の秘訣は、ツイていない時に立派な態度をすることなのである。
逆に言えば、ツイていない時に腐るような者に幸運は訪れない。どれほどの数「ツイてる」と言っても、あるいは、有名な大金持ちが「こうすればツク」と言うことを全部やってもである。
どんな時でも、態度が立派であるほど良いのである。
どれだけ引き寄せの本を読んでいたって、態度が幼稚で下劣な者が上手くいくはずがないじゃないか?
悪人だって、力のある大物は、うまくいかないことがあっても、怒鳴り散らしたり、部下に当たったりしないものである。
私は、今朝の夢で見た、あの元大物選手の態度のみっともなさを憶えていよう。
あんな真似はしたくないものだ。
真の幸運の秘訣とは、「文句を言わない」であろう。
「言い訳をしない」「泣き言を言わない」と3つ合わせれば、さらに間違いがないと思う。








簡単な簡単な超強運の秘訣

松下幸之助さんは、人間、あるいは、経営は運が大切だと言われていたらしいし、豊臣秀吉が、運の良い武将を抜擢したという話もあったと思う。
人間の一生なんて運で決まるようなところがあるし、運のない会社が発展するとは思えないが、会社の運とは社長の運だろう。
そして、運について書かれた本は非常に多く、それらの本は、運が良いと思われる著者が、自分や自分以外の運が良い人について考察し、運の良さの要因や、運が良くなる秘訣について書かれている。

どんな人が運が良いかについて、私には特に、2人の人が印象にある。
1人は、作家で投資家のマックス・ギュンターで、彼は自分も運が良かったのだと思うが、自分以外の強運の持ち主について徹底調査し、『運とつきあう』という本にまとめている。
ギュンターは、成功者が成功したのは全て「たまたま」だと言う。つまり、成功者はみんな、たまたま成功しただけだ。
しかし、その「たまたま」を呼ぶことも出来るのではないかということを、割と控え目に主張している。
この「たまたま」は、もちろん、幸運のことである。
彼の場合、何ごとにおいてもだろうが、運に関しても、調査が客観的で正確で、また、思い込みを避ける知性があるので、その控え目な論がかえって説得力を持っている。
彼が、本の中で取り上げた強運の持ち主に、バーナード・バルーク(1870~1965)という人物がいるが、その名を知る人は、あまり多くはないと思う。
だが、長きに渡って、大統領以上にアメリカ、そして、世界を動かした人物で、つまるところ、米国大統領を動かし続けた男なのだ。
それと共に、投資で空前の成功を収めた人物だ。
大統領も運がないと務まらないが、大統領以上となると尚更だし、投資も、能力と共に、所詮、運が必要だ。実際、バルークより能力が高い専門の投資家が大不況で資産を失う中で、バルークだけが大儲けしたのだ。
そして、本物のノウハウはシンプルだ。
バルークの幸運の秘訣は一言で言い表せる・・・本人が一言で言ったのだ。
その幸運の秘訣は「欲張らない」である。

もう1人は、国際的な大俳優だった丹波哲郎さんだ。
子供の時から生涯、ツキまくっていた人物であるが、彼自身は、自分の幸運を守護霊のおかげと言っていて、それはそれで本人が言うのだから間違いないだろうが、では、なぜ、丹波さんが、それほど守護霊のおかげをもらえたかについても、本人がちゃんと、確信を明確に述べている。
彼が、自分が守護霊によく護られている理由については、小学生の時の通信簿に書かれていた。
丹波さんは、「先生は、俺には褒めるところが何もないので、仕方なく書いたのだろう」と自嘲していたが、実際は重要なことだったわけだ。
それは、成績ではなく、いわゆる「性格欄」とか「所見欄」に書かれていたことで、「丹波君はこだわりがない」みたいなことが書かれていたようだ。
「こだわりがない」とは、簡単なのか難しいのか分からない言葉だが、やはり簡単だ。
「こだわりがない」とは「執着がない」とも言い換えられる。
確かにこれは、難しく言おうと思えば、いくらでも難しく言えるが、要は、こういうことだ。
「好き嫌いを言わない」
これだけだと言って良い。
もちろん、好き嫌いはあるだろうが、それこそ、自分の好き嫌いにこだわらない、執着しないのである。
つまり、好きなものを過度に追い求めようとせず、嫌いなものを過度に遠ざけようとしないのである。
しかし、これって、上のバルークの「欲張らない」と同じことなのだ。

そして、「欲張らない」も、もっと根本的なことが言えるのだ。
それは、「考えない」だ。
考えるから欲張るのだ。
大不況が来て株が大暴落する前でも、他の投資家達は、もっと株価が上がると期待し「欲張って」いたが、バルークは、「今でも十分儲かる」と株を売り払った。
それで、他の投資家達は資産を失ったが、バルークは大きな利益を確保したのだ。
バルークは、確かに欲張らなかったが、他の投資家達のように、「もっと儲けてやる」と考えなかったので、天の声のような直観のまま、さっさと株を売り払ったのだ。

人間、欲張らないことは難しい。
考えないこと・・・想念を起こさないことも難しいが、こちらはやりようがある。
そして、考えなければ欲張りようがない。
そんなわけで、このブログでは、考えない方法、想念を起こさない方法をいろいろ書いているのである。








心が活気付き幸運になる生き方

自動車の運転は、まだ慣れてなくて、多少たどたどしい時が面白いものだ。
だが、慣れてしまうと、多くの人は、運転が退屈になってしまう。
これは、何ごとも同じで、新鮮さがなくなると面白くなくなるのだ。
その理由について、英国の作家コリン・ウィルソンは、運転などの作業は、慣れてしまえば、自分の中のロボットが代行するからと説明し、それもある意味正しいが、もうウィルソンの理解を超えなければならない。
なぜ慣れたことが退屈かというと、余裕があるのでよそ事を考えるからだ。
よそ事というのは、過去に起こったことや、未来の空想である。
すると、心が「今」にいなくなってしまう。
この、心が「今」にいないことで、退屈・・・心がどんよりと活気がなくなるのである。
ところが、腕が痛いなどで、よそ事を考える余裕がなくなると、運転をしている「今」に集中するので、案外に悪い気分にはならないのである。

いわゆる、「マンネリ化」し、「刺激がなくなる」と、何ごとも面白くなくなる。
「マンネリ化」し、「刺激がなくなる」と、上の運転の場合と同じく、よそ事を考え、「今」に集中しなくなるからだ。
それで、たえず刺激を求め、新しいことをしたがるのだが、大抵の人は、間違った方法を取る。
自動車の運転で言えば、比較的良いやり方は、これまで走ったことのない場所に行き、新鮮な気持ちで運転することだ。
悪いやり方は、車をぶっ飛ばしたり、危険な運転をして刺激を求めたり、度々車を買い替えたり、車を買い替えないまでも、しょっちゅう内装を変えたりすることなどだ。そんなやり方では、すぐに飽きてしまう。
正しいやり方は1つで、車を大切にし、心を込めて運転することだ。
それには、たとえば、「車があってありがたいなあ」とか「運転は楽しいなあ」といったような素直な心を持つことだろう。
「ありがたいなあ」とか「うれしいなあ」という、穏やかな快の感情は、心を「今」に引き戻し、心が「今」にあると、心は活気があって、きれいに流れるのである。

人間は、心が「今」にあると、心の振動数が高く、活気があり、心の振動数が高く、活気があると、望まなくても幸運を引き寄せ、その気になれば、世界を自由に創造出来る。
だが、日常に流され、仕事も遊びも恋愛もマンネリ化すると、そのことに集中しなくなり、過去や未来の妄想をして「今」に生きなくなる。
すると、運が悪くなり、世界に支配されるようになってしまう。
それを避けるには、上で、車の運転について、「心を込めて運転する」と述べたように、何ごとも、心を込めてやることだ。
今あるものに対して「ありがたいなあ」とか「うれしいなあ」と思うことは、まさに、心を込めることだ。
これは、言葉に出したり、あるいは、頭の中で、「ありがたいなあ」とか「うれしいなあ」と言えば、そんな気持ちになるので、こんな言葉を口ぐせにすれば良いのである。

小さな子供が、テーブルや机の下に潜り込んで自己満足して喜んでいることがある。
そんな子供は、心を込めて潜り込んでいるのであり、義務感でやっているのではない。
「今、テーブルの下に潜り込んでいる」と強く実感し、「今」を生きているので、心は活気づき、楽しくて仕方がない。
骨董品愛好家は、好きな骨董品(たとえば湯飲み)を持って見ていると、「私は今、これを見ている。今、これに触っている」という感覚を強く感じているのである。

つまり、楽しいか楽しくないかは、全て「今」を感じているかどうかだけの問題なのである。
そして、今を感じていれば、引き寄せの力が働くのである。
このことにいつ気付くかで人生は決まるのである。








近くの者ほど頼りになる

選挙になると、政党やマスメディアが、
「社会を変えよう」
「そのために政治を変えよう」
「そのために国民に出来ることは投票です」
と言い、多くの国民がそれを真似る。
また、選挙とは関係なく、社会制度や政治を批判する者は多く、それで社会や政治が変わるとでも言うかのようである。

ところで、この世は、遠くのものより近くのものが頼りになる。
国連より国、国より地方自治体、地方自治体より勤務する会社、勤務する会社の中でも直属の上司、そして、直属の上司より自分(の能力)である。
会社等の組織に所属しないなら、最も頼るべきは自分(の能力で)あることが、よりはっきりする。
ここまでは頭で考えても分かる。
だが、国連の上に地球があり、地球の上に太陽系があるように、自分に関しても、身体より心が近く、心より魂が近い。
よって、最も頼るべきは魂であるが、その正体がはっきりしない。
だが、別に宗教家でなくても、昔から、真に力を必要とする人達は皆、神(あるいは仏)は自分の中にいるとか、心そのものが神であると、ごく普通に語ってきた。
つまり、一番のコア(核)は神であり、自分>身体>心>魂>神と、一番近くにあって、一番頼りになるのは神ということになる。
ただ、魂と神の区別については不明で、とりあえず、両者は同じもの(あるいは、とても近いもの)と考えても良いと思う。

遠さで言えば、心から上の存在は皆、大きさが違うように見えても、どれも大海に浮かぶ船のようなもので、運まかせとしか言えない。それは、偶然まかせということである。
つまり、ある意味、運が一番大切ということである。
運が良ければ、社会がどうであろうが、政治がどうであろうが、天変地異(自然界に起こる異変)がどうであろうが安全である。

そして、実験と検証の結果、運を良くするには神に意識を向ければ良いと分かっているが、神の正体がよく分らない。
しかし、神について分かることがある。
それは、自分より上位の存在であるということだ。
だから実際、自分の心とか、まして、身体を最上位に置く者は運が悪い。
自分の心や身体より上の存在があると思っている者は、それほど運が悪くないし、高い存在を意識する者ほど運は良い。
もちろん、心や身体、あるいは、社会を無視してはならないが、それらは、最低限、意識していれば問題ない。
高い存在を意識するには、その象徴である神仏の名、あるいは、「神」とか「仏」という言葉を唱えることが、最も直接的で簡単だ。
実際、念仏を唱えたり、神の名を唱えたり、神の名や神という言葉を含む祈り言葉を唱える者に、それほど運が悪い者はいない。
たとえば「神様の奇跡が起こる」とか「神に出来ないことはない」という言葉を唱える者は、それが多いほど運が良い。
「南無妙法蓮華経」だって、仏様の集合である『法華経』という経典を意識するのだから同じことである。
「最も重要な戒律は何か?」と問われたイエスは「自分の神を愛することだ」と答えたが、それを実践する良い方法が上に述べたことであると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード