今回は『老子』第26章である。
この章を一言で言えば「何もしない者が一番強い」だ..
『老子』は、全章を通して思想が一貫しているが、特にこの第26章までの数章は、表現こそ違うが、全くと言って良いほど、同じことが書かれている。
だから、分かっている者が読むと退屈になるが、そもそも、『老子』は、分かってしまったら、もう読む必要はないと思う。
祖父が言っていたものだよ。
攻撃こそ最大の防御なり。
最大の攻撃とは無抵抗なり。
だから、何もしない者が一番強いんだ。
~英国テレビドラマ『ダンディ2 華麗な冒険』より、ブレット・シンクレア卿の言葉~
この祖父とやらが、老子と同じことを言っているのである。
そして、これが全てだ。
ついでに、何度も取り上げたが、ラマナ・マハルシの以下の言葉を再度提示する。
「ある事業家は、大きな事業を成し遂げようとしている。だが、彼は何もしていない」
「財務長官は、最大の注意と責任感を持って仕事を行う。だが、彼は何もしていない」
どういうことかというと、優れた力を発揮する者ほど、自分がそれをやっているという意識がないのである。
画家の横尾忠則氏も著書に書いていたものだ。
「自分でも、どんなものが出来るのか分からない時ほど、良い作品になる」
つまり、自分が描いているという意識が邪魔なのである。
『老子』第26章でも、君子が徹底的に何もしないことが書かれている。
何もしないことの無限の力について、荘厳な話をしているのが、岡本太郎の『美の呪力』の最終章『宇宙を彩る』の「無限への変転<綾とり>」だ。
あの岡本太郎が、綾とりをする幼い少女に、言いようのないエロチシズムを感じるという。
男の子は、駆けたり、取っ組んだり、飛び跳ねたり出来る。
しかし、女の子は何も出来ない、孤独で弱い存在だ。
願いしかない。
しかし、だからこそ、無限の夢が繰り広げられる。
少女はひたすら、糸を操り、運命を幻想的に繰り出し、遊ぶ。
まあ、今の時代に限らず、男の子でも、そんな女の子的な子もいる。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンなんてまさにそうで、彼は17歳になっても、綾とりはしないまでも、人形の服を縫っていたのだ。
だからこそ、あれほどの詩や童話が書けたのだ。
女の子が綾とりをしている時、アンデルセンが人形の服を縫っていた時、自分が糸を操っているとか、自分が縫っているという意識はないのである。
もし、引き寄せの秘儀があるとすれば、そこにある。
糸を操ることは、運命を操ることなのである。
そのためには、「私」が消えなければならない。
そして、そうなるための、あまりに高度な手法が、「私は誰か?」と自分に問うことなのである。
「私は誰か?」と問う際の注意点は今朝も書いたので、よければ参照願う。
この章を一言で言えば「何もしない者が一番強い」だ..
『老子』は、全章を通して思想が一貫しているが、特にこの第26章までの数章は、表現こそ違うが、全くと言って良いほど、同じことが書かれている。
だから、分かっている者が読むと退屈になるが、そもそも、『老子』は、分かってしまったら、もう読む必要はないと思う。
祖父が言っていたものだよ。
攻撃こそ最大の防御なり。
最大の攻撃とは無抵抗なり。
だから、何もしない者が一番強いんだ。
~英国テレビドラマ『ダンディ2 華麗な冒険』より、ブレット・シンクレア卿の言葉~
この祖父とやらが、老子と同じことを言っているのである。
そして、これが全てだ。
ついでに、何度も取り上げたが、ラマナ・マハルシの以下の言葉を再度提示する。
「ある事業家は、大きな事業を成し遂げようとしている。だが、彼は何もしていない」
「財務長官は、最大の注意と責任感を持って仕事を行う。だが、彼は何もしていない」
どういうことかというと、優れた力を発揮する者ほど、自分がそれをやっているという意識がないのである。
画家の横尾忠則氏も著書に書いていたものだ。
「自分でも、どんなものが出来るのか分からない時ほど、良い作品になる」
つまり、自分が描いているという意識が邪魔なのである。
『老子』第26章でも、君子が徹底的に何もしないことが書かれている。
何もしないことの無限の力について、荘厳な話をしているのが、岡本太郎の『美の呪力』の最終章『宇宙を彩る』の「無限への変転<綾とり>」だ。
あの岡本太郎が、綾とりをする幼い少女に、言いようのないエロチシズムを感じるという。
男の子は、駆けたり、取っ組んだり、飛び跳ねたり出来る。
しかし、女の子は何も出来ない、孤独で弱い存在だ。
願いしかない。
しかし、だからこそ、無限の夢が繰り広げられる。
少女はひたすら、糸を操り、運命を幻想的に繰り出し、遊ぶ。
まあ、今の時代に限らず、男の子でも、そんな女の子的な子もいる。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンなんてまさにそうで、彼は17歳になっても、綾とりはしないまでも、人形の服を縫っていたのだ。
だからこそ、あれほどの詩や童話が書けたのだ。
女の子が綾とりをしている時、アンデルセンが人形の服を縫っていた時、自分が糸を操っているとか、自分が縫っているという意識はないのである。
もし、引き寄せの秘儀があるとすれば、そこにある。
糸を操ることは、運命を操ることなのである。
そのためには、「私」が消えなければならない。
そして、そうなるための、あまりに高度な手法が、「私は誰か?」と自分に問うことなのである。
「私は誰か?」と問う際の注意点は今朝も書いたので、よければ参照願う。