ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

岡本太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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金持ち芸術家と貧乏芸術家の違い

ほとんどの人は子供の時、誰もが知っている大画家、大音楽家、大作家といった大芸術家達が経済面・・・つまり、お金で苦労していたとは夢にも思わなかっただろうし、その方面に興味がなければ、大人になっても、そうだと思う。
しかし、普通に考えても、単なる芸術家がお金持ちどころか、まともにお金が稼げるはずがないことが分かると思う。
お金を稼ごうと思ったら、良い作品と言うより、売れる作品、広告の役に立つ作品を、量産しなくてはならない。
本物の芸術家が、そんなことをしたがるはずがない。

歴史に残った大芸術家というのは、能力プラス、運よく、働かなくても、お金を「もらえた」人達でしかない。
能力だけはあっても、経済面での運がなくて、埋もれてしまった、ピカソ、ゴッホ級の芸術家など、沢山いたと思う。
運よくお金をもらえた例としては、次のような芸術家がいる。
ゴッホは、絵は1枚も売れず、それでいて働きもしなかったが、生活や創作活動にかかるお金は、全て弟のテオが負っていた。テオは、おそらく、ほとんど文句の1つも言わずに天才の兄を支えたのだ。ゴッホは、欲しい画材の種類や数を書いてテオに渡すだけで、どんな高級画材もテオが購入してゴッホに渡した。
一方、ピカソは自分の作品を金にして金持ちになったと思われているが、単に、運よく、気前の良い大金持ちのパトロンがいたというだけのことで、そのパトロンは、ピカソが買えと言った絵を全て、大らかに高額で買ってくれた。

アンデルセンの時代には印税という制度がなく、アンデルセンがどれほど売れる作品を書いても、彼が受け取ったのは、出版社が作品を買い取る際に支払う原稿料のみで、その額は、それほど高くはなかったと思われる。
しかし、アンデルセンは、若くして国家から年金を支給されたので、生涯、働く必要がなく、ずっと海外旅行をしていた。とはいえ、額までは分からないが、大した額の年金ではなかったようだ。
アンデルセンの場合は、若くから有名だったから、著作には、著者としてアンデルセンの名が付いたが、そうでない人も多かったと思われる。
たとえば、アメリカの作曲家フォスターは、無名時代には、別の人物がフォスターの作品の作曲者だとされることがあった。有名な『おおスザンナ』も、当時はそうであったようだ。

宮沢賢治となると、著作で得たお金は5円だけだったと思う。当時の小学校教師の初任給の半分くらいで、今日では10万円にもならないと思う。
だが、宮沢賢治の家は裕福な古着屋で、賢治は生涯、お金に困ることはなく、欲しいものは大抵、何でも買えた。
賢治は、大学の成績は優秀だったので、卒業時に助教授のポストを打診されたが断っている。それで高校の教師になり、熱心に働いていたが、そう長くは続けずにやめている。こんなふうにやれたのは全て、賢治が金持ちの家の長男であったからだ。それでも、賢治は家業も父親も嫌っていたのだから贅沢な話だと思う。
賢治は、中年になってから、どこかの会社に勤め、セールスマンみたいなことをやっていたこともあるが、割とすぐに辞めている。とても向いていたとは思えないが、良い経験にはなったと思う。

珍しい金持ちの芸術家になったことで知られているのは、アメリカの画家アンディ・ウォーホル(1928~1987)だ。
彼は、元々が金持ちになる気十分で、そのための活動をした。
商品の広告やラベルの絵を描いたのだが、彼が、商用の絵というものを理解していたということだ。
このように、稼げる画家というものは、イラストレーターやデザイナーとしての実力がなくてならない。
岡本太郎も、デザインの能力は抜群で、自身、世界的画家でデザイナー・イラストレーターである横尾忠則さんは著書で、岡本太郎はデザイナーになればいいと書いている。横尾さんは、岡本太郎の有名な「太陽の塔」は、「デザインは超一流だが芸術作品ではない」と言う。
確かに、岡本太郎は商業作品も沢山作り、本当にセンスが良かったと思う。

芸術家に限らず、ちゃんとお金を稼ぐという意思を持ち、それを成し遂げると決めていれば、引き寄せの力が働き、お金は得られて当たり前と思う。
そんなわけで、豊かなお金を得たければ、経済的な目標を定め、スコット・アダムスの断言法のように、紙に目標を書くことを始めるか、他のやり易い方法で引き寄せを行うことが、やはり必要なのだと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ぼくの哲学(アンディ・ウォーホル)
(2)アンデルセン自伝~わが生涯の物語~(アンデルセン)
(3)歓喜(岡本太郎)
(4)青春ピカソ(岡本太郎)
(5)池田満寿夫絵画を語る(池田満寿夫)
(6)イット・ワークス! ~あなたの夢を叶える小さくて赤い、すごい本~(RHJ)
(7)あなたも金持ちになれる(ジョセフ・マーフィー)
(8)信念の魔術(C・M・ブリストル)
(9)富と幸福の探し方(ラッセル・コンウェル)

西側の窓
AIアート1475
「西側の窓」
Kay

楽々と常識ある変な人になるには

今朝も書いたが、これからの人間は、常識ある変な人でないといけないと思う。
もう、そんな人間でないと、生きるのが辛くなるし、いい思いも出来なくなる。
ただ、「変な人になれ」と言ったら、非常識な変な人になろうとする者が多い。
ある意味、常識を逸脱することが変な人になることなのだが、人として大切な常識は持たないと、人間でなくなる。
人としての常識にはいろいろあるが、若いうちはなかなか気が付かない常識もある。
しかし、最重要な常識を持っている限り、若い間は多少のことは大目に見てもらえるし、年長者は大目に見ないといけない。年長者だって、若い時は、いくらかの常識には欠けていたはずなのだから。
しかし、最重要な常識は、若者だろうが子供だろうが、本当は殴ってでも持たせないといけない。
それは、「弱い者いじめをしない」ことである。
ところが、特に今は、子供の時から弱い者いじめをする者が多い。
そして、今の大人は、それを止めるどころか、助長する場合が多い。特に学校では。
学校では、変わり者・・・変に目立つやつはいじめられる。
そして、教師は、変わり者に居て欲しくないので、いじめグループと利害が一致し、放置するのである。
変わり者がいじめられるのは、大人の世界でも同じだ。
だが、我々は、岡本太郎のようでないといけない。
「嫌われていい。いや、嫌われないといけない」
「馬鹿にされていい。いや、馬鹿にされないといけない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」

なかなか厳しくはあるが、究極の真言を唱えれば、楽々と出来るし勝てるはずだ。
「私はなるようになるだろう」
「私は常に生成する者である」
これらを唱えれば、常識ある変わり者にもなれるだろう。
神様は、普通の人から見れば大変な変わり者だし、神様ほど常識のある者はいない。
ただし、その常識は宇宙大自然の常識であり、弱い者いじめをするような者が嫌う常識だ。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)岡本太郎 歓喜
(2)岡本太郎の遊ぶ心(岡本敏子)
(3)強く生きる言葉(岡本太郎)
(4)今日の芸術(岡本太郎)
(5)涼宮ハルヒの憂鬱(谷川流)
(6)ニコラ・テスラ 秘密の告白(二コラ・テスラ)
(7)イーロン・マスク 上(ウォルター・アイザックソン)

橙色の記憶
AIアート1359
「橙色の記憶」
Kay

悪いことは良いこと

マイナスの状況を疑えば、そのマイナスの状況が消えるというのは、面白いメソッド(手法)だし、本当に効果がある。
少し前、私の前にすごく迷惑な人間が2人現れたのだが、私が「こいつら、本当に迷惑なのかな?」と疑ったら、この2人が私に無茶苦茶親切になったということがあった。これは鮮烈な体験だった。
ただ、この「マイナスを疑うメソッド」の難点は、「何を疑うか?」の設定が難しいことだ。
消したい状況が、本当に辛い場合には、感情的に乱れる恐れも多い。
たとえば、人に裏切られた時、「本当に裏切られたのだろうか?」と疑うのは、なかなか厳しいかもしれない。
お金がない時に、「本当にお金がないのだろうか?」と疑おうとしてもあせりが出てくるし、1億円欲しい時に、「本当に1億円ないのだろうか?」と疑っても、空々しく感じてしまうかもしれない。

それで思うのだが、脳波がアルファー波に下がった状態、つまり、心が静かな状態で疑う必要があるのだと思う。
だが、消したいマイナスの状況のことを思うと、心が騒ぐのだからやり難いのである。
まずは瞑想状態に入る必要があるかもしれない。

ところで、「マイナスをプラスと思うメソッド」というものがある。
簡単な言い方に変えると「悪いことは良いこと」と思うことだ。
例えば、肩が痛い時に、「肩が痛いのは良いこと」と静かに唱えると、痛みが消えると言うより、意識の変革が起こる。それで、大抵の場合は痛みは消えるが、消えないとしても心が平和になる。まあ、大概、痛みは消えるのだが、むしろ、消えないのに心が平和という方が素晴らしいと感じる。
昔、奇跡的治癒で知られた人がいて、政木和三さんもその人を見て、一瞬で力があると分かったという話がある人だった。
その奇跡の人が講演会で、会場にいる人に、「今、何か問題がありませんか?」と尋ねたら、尋ねられた人は「ずっと脚が痛いんです」と言う。
普通のセミナーであれば、「では」と、脚の痛みを取り去って「奇跡だ」ということになり、後で調べたら、その脚が痛いと言った受講者がサクラだったり、単に、暗示で一瞬痛みが和らいだと感じただけ・・・といったパターンが多い。
だが、この奇跡の人は、会場の人達に、「脚が痛いのは良いこと」と静かに念じるよう言い、そのようにしたら、しばらくして、会場の雰囲気が変わった。人々の意識に変革が起こったのである。脚が痛い人の、その痛みも消えたらしいが、それは付け足しのようなものだったという。
そのように、静かに念じる、軽く念じる・・・ソフトタッチで(穏やかな態度で)念じることが大切である。
好きな女の子が、全然相手になってくれなければ、たとえば、「彼女が冷たいのは良いこと」と静かに唱えれば良い。それで具体的にどうなるかは分からないが、意識の変化は確実に起きる。そして、この世界の構造的に、彼女は優しくなるだろうが、あるいは、彼女が自分に相応しくないことが分かるのである。
岡本太郎の、「嫌われてもいい。いや、嫌われないといけない」という精神性を思い出す。
上の例で言えば、
「脚が痛くていい。いや、痛くなくてはならない」
「彼女が冷たくていい。いや、冷たくなければならない」
「彼女が優しくなくていい。いや、優しくされてたまるか」
といった感じである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)死活の書(五島勉)
(2)イソップ物語 その恐ろしい真相(五島勉)
(3)岡本太郎の遊ぶ心 (岡本敏子)

澄んだ空気
AIアート1314
「澄んだ空気」
Kay

「退けサタン」とは

「人生の目的は魂を磨くことです」とドヤ顔(得意顔、自慢顔)で言う「先生」がよくいる。
そんな「先生」の言いたいことは、「俺はお前らより魂が磨かれている」なんだろう。
彼に話をさせれば、自分語り(自分の話)が延々続く。
つまり、「魂が磨かれた俺様」の物語をするのが楽しいのだろう。
だが、魂は元々清らかなもので、穢れようがない。
自分語りを延々とする者とは、清らかな魂を自我が覆い隠しているような者だろう。

思考を消せば、魂の輝きがそのまま出てくるのだと思う。
そこで「思考を消すための思考だけが許される」といったややこしいことを言う者がいる。
思考するのは自我なのだから、自我を消せば良い。
しかし、ラメッシ・バルセカールは、最高の聖者と言われるラマナ・マハルシだって自我はあると指摘するが、その通りと思う。
そのバルセカールは、自分の師のニサルガダッタ・マハラジについても、やはり自我はあり、自我として現れる人間性に関しては、師も普通の人と変わらないと言う。これも良い指摘と思う。つまり、聖者もただの人だ。
だが、バルセカールは、師についてこうも言う。
「師は怒りっぽかった。しかし、怒った次の瞬間には機嫌が良くなっている」
どうも、ここらへんに鍵があるのだろう。

釈迦も、悟りを開いた人も、普通の人と変わらないと述べている。
釈迦は、思考が起こることを「矢を受ける」ことといい、やはり、ダメージであると言う。
だが、「悟りを開いた人は、第二の矢を受けない」と言う。
つまり、殴られたら、やっぱり怒る(第一の矢を受ける)が、「仕返ししてやる」とか「こいつは馬鹿か(と見下す)」といった余計な思考(第二、第三の矢を受ける)をしないということだろう。
しかし、これは、後世の人が釈迦の言葉として書いたものだろうと思う。
釈迦の言葉としてはややこし過ぎる。
ただ、釈迦は「悟りを開いた人も普通の人と変わらない」とは述べたと思う。

スコットランドの聖者マード・マクドナルド・ベインが、ややマシなことを言っている。
イエスが言った「汝破れたり、わが後方(しりえ)に退けサタン」と言ったサタンが自我なのだと。
イエスは、サタン(自我)に「下がれ」とは言ったが「消えろ」とは言っていない。
世間では奇人変人と言われるジョージ・アダムスキーだって、「自我を意識(魂)の上の置かず、下に置くことです」と、同じことを言っている。彼を奇人変人と言う人は、自我を魂より上位に置いているのだと思われる。
では、どうすれば、自我を下がらせることが出来るのかと言うと、ベインは「自我は正体を見破られると退く」と、またややこしいことを言う(笑)。
確かにそうなんだろうけど、そんな曖昧なことを言われても、何をすればいいのか分からないのだ。
まあ、ベインの場合は、生命が危機一髪になるようなことばかりして自我を追い込んで黙らせてしまったように思える。
また、サルトルだって、銃弾飛び交う紛争地を散歩したら、悟りを開いたような気分に少しなったと言うが、それはちょっと・・・だ。
コリン・ウィルソンは、ロシアン・ルーレットにそんな効果があるとも言っていたが、なるほどである(笑)。
これらは、実践は無理でも、ヒントにはなる。

つまり、自我が嫌がることを敢えてやれば良い。
ただし、凄く嫌なことをやる苦行は続かないし、ストレスになって太る(笑)。
だから、政木和三さんが言うように、
「私はお金なんてちっとも欲しくない。だが入って来るものは仕方ない」
「私は女なんていらない。だが百人も来てしまう」
と大ぼらを吹くか、岡本太郎のように、
「嫌われたっていい、いや、嫌われないといけない」
「認められなくなっていい、いや、認められてたまるか」
と、さわやかに自我を叩くことである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)解脱の真理(マード・マクドナルド・ベイン)
(2)岡本太郎の遊ぶ心(岡本敏子)
(3)奇跡の実現(政木和三)
(4)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
花は咲く
AIアート907
「花は咲く」
Kay

第三の引き寄せのまじない

これまで、普通の引き寄せのまじないと、政木和三流の高次の引き寄せのまじないとをご紹介したが、さらに超越的な引き寄せのまじないがある。
それをご紹介する。

普通の引き寄せのまじないの最も良い形は、
「私は金持ちだ」
だ。
「私は」に続く言葉には全宇宙のエネルギーが注がれるからだ。
ただし、自我とか思考があってはうまくいかないので、次の3つの状態で唱えることが推奨されている。
(1)眠る前のうとうとした状態
(2)目覚めたばかりのぼんやりした状態
(3)瞑想状態
他には、呼吸をコントロールしながら行う方法があるが、今回は説明は省く(何度か説明した)。

政木和三流の高次の引き寄せのまじないは、
「私はお金なんか欲しくない」
で、虎哉宗乙(こさい そういつ)流と言っても良いだろう。
堂々とホラを吹けば良いわけだ。
これだけでは抵抗が大きい場合は、
「私はお金なんか欲しくない。しかし、入って来るものは仕方がない」
とでも言えば良い。

そして、さらにすごい超越的なまじないがあり、これは岡本太郎流と言える。
それは、
「お金なんてなくていい。いや、あってたまるか」
「お金なんてなくていい。いや、あってはならない」
で、名刀の切れ味だ。
実際、この名刀を得た者は無敵である。
「嫌われていい。いや、嫌われないといけない」
「売れなくていい。いや、売れてたまるか」

解説しようと思えば、本一冊書いても足りないが、理屈ではなく、これが良いとピンとくるはずなのだ。
そうでなくても、この名刀は、振ればよく切れるので、無理に振るのも手であるが、無理に振ること自体が、魂の声が届いている証拠である。

青空の欠片
AIアート904
「青空の欠片」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)自分の中に毒を持て(岡本太郎)
(2)岡本太郎の遊ぶ心 (岡本敏子)
(3)強く生きる言葉(岡本太郎他)
(4)驚異の超科学が実証された(政木和三)
(5)この世に不可能はない(政木和三)
(6)精神エネルギー(政木和三)
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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