「人生の目的は魂を磨くことです」とドヤ顔(得意顔、自慢顔)で言う「先生」がよくいる。
そんな「先生」の言いたいことは、「俺はお前らより魂が磨かれている」なんだろう。
彼に話をさせれば、自分語り(自分の話)が延々続く。
つまり、「魂が磨かれた俺様」の物語をするのが楽しいのだろう。
だが、魂は元々清らかなもので、穢れようがない。
自分語りを延々とする者とは、清らかな魂を自我が覆い隠しているような者だろう。
思考を消せば、魂の輝きがそのまま出てくるのだと思う。
そこで「思考を消すための思考だけが許される」といったややこしいことを言う者がいる。
思考するのは自我なのだから、自我を消せば良い。
しかし、ラメッシ・バルセカールは、最高の聖者と言われるラマナ・マハルシだって自我はあると指摘するが、その通りと思う。
そのバルセカールは、自分の師のニサルガダッタ・マハラジについても、やはり自我はあり、自我として現れる人間性に関しては、師も普通の人と変わらないと言う。これも良い指摘と思う。つまり、聖者もただの人だ。
だが、バルセカールは、師についてこうも言う。
「師は怒りっぽかった。しかし、怒った次の瞬間には機嫌が良くなっている」
どうも、ここらへんに鍵があるのだろう。
釈迦も、悟りを開いた人も、普通の人と変わらないと述べている。
釈迦は、思考が起こることを「矢を受ける」ことといい、やはり、ダメージであると言う。
だが、「悟りを開いた人は、第二の矢を受けない」と言う。
つまり、殴られたら、やっぱり怒る(第一の矢を受ける)が、「仕返ししてやる」とか「こいつは馬鹿か(と見下す)」といった余計な思考(第二、第三の矢を受ける)をしないということだろう。
しかし、これは、後世の人が釈迦の言葉として書いたものだろうと思う。
釈迦の言葉としてはややこし過ぎる。
ただ、釈迦は「悟りを開いた人も普通の人と変わらない」とは述べたと思う。
スコットランドの聖者マード・マクドナルド・ベインが、ややマシなことを言っている。
イエスが言った「汝破れたり、わが後方(しりえ)に退けサタン」と言ったサタンが自我なのだと。
イエスは、サタン(自我)に「下がれ」とは言ったが「消えろ」とは言っていない。
世間では奇人変人と言われるジョージ・アダムスキーだって、「自我を意識(魂)の上の置かず、下に置くことです」と、同じことを言っている。彼を奇人変人と言う人は、自我を魂より上位に置いているのだと思われる。
では、どうすれば、自我を下がらせることが出来るのかと言うと、ベインは「自我は正体を見破られると退く」と、またややこしいことを言う(笑)。
確かにそうなんだろうけど、そんな曖昧なことを言われても、何をすればいいのか分からないのだ。
まあ、ベインの場合は、生命が危機一髪になるようなことばかりして自我を追い込んで黙らせてしまったように思える。
また、サルトルだって、銃弾飛び交う紛争地を散歩したら、悟りを開いたような気分に少しなったと言うが、それはちょっと・・・だ。
コリン・ウィルソンは、ロシアン・ルーレットにそんな効果があるとも言っていたが、なるほどである(笑)。
これらは、実践は無理でも、ヒントにはなる。
つまり、自我が嫌がることを敢えてやれば良い。
ただし、凄く嫌なことをやる苦行は続かないし、ストレスになって太る(笑)。
だから、政木和三さんが言うように、
「私はお金なんてちっとも欲しくない。だが入って来るものは仕方ない」
「私は女なんていらない。だが百人も来てしまう」
と大ぼらを吹くか、岡本太郎のように、
「嫌われたっていい、いや、嫌われないといけない」
「認められなくなっていい、いや、認められてたまるか」
と、さわやかに自我を叩くことである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)解脱の真理(マード・マクドナルド・ベイン)
(2)岡本太郎の遊ぶ心(岡本敏子)
(3)奇跡の実現(政木和三)
(4)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
AIアート907
「花は咲く」
Kay
そんな「先生」の言いたいことは、「俺はお前らより魂が磨かれている」なんだろう。
彼に話をさせれば、自分語り(自分の話)が延々続く。
つまり、「魂が磨かれた俺様」の物語をするのが楽しいのだろう。
だが、魂は元々清らかなもので、穢れようがない。
自分語りを延々とする者とは、清らかな魂を自我が覆い隠しているような者だろう。
思考を消せば、魂の輝きがそのまま出てくるのだと思う。
そこで「思考を消すための思考だけが許される」といったややこしいことを言う者がいる。
思考するのは自我なのだから、自我を消せば良い。
しかし、ラメッシ・バルセカールは、最高の聖者と言われるラマナ・マハルシだって自我はあると指摘するが、その通りと思う。
そのバルセカールは、自分の師のニサルガダッタ・マハラジについても、やはり自我はあり、自我として現れる人間性に関しては、師も普通の人と変わらないと言う。これも良い指摘と思う。つまり、聖者もただの人だ。
だが、バルセカールは、師についてこうも言う。
「師は怒りっぽかった。しかし、怒った次の瞬間には機嫌が良くなっている」
どうも、ここらへんに鍵があるのだろう。
釈迦も、悟りを開いた人も、普通の人と変わらないと述べている。
釈迦は、思考が起こることを「矢を受ける」ことといい、やはり、ダメージであると言う。
だが、「悟りを開いた人は、第二の矢を受けない」と言う。
つまり、殴られたら、やっぱり怒る(第一の矢を受ける)が、「仕返ししてやる」とか「こいつは馬鹿か(と見下す)」といった余計な思考(第二、第三の矢を受ける)をしないということだろう。
しかし、これは、後世の人が釈迦の言葉として書いたものだろうと思う。
釈迦の言葉としてはややこし過ぎる。
ただ、釈迦は「悟りを開いた人も普通の人と変わらない」とは述べたと思う。
スコットランドの聖者マード・マクドナルド・ベインが、ややマシなことを言っている。
イエスが言った「汝破れたり、わが後方(しりえ)に退けサタン」と言ったサタンが自我なのだと。
イエスは、サタン(自我)に「下がれ」とは言ったが「消えろ」とは言っていない。
世間では奇人変人と言われるジョージ・アダムスキーだって、「自我を意識(魂)の上の置かず、下に置くことです」と、同じことを言っている。彼を奇人変人と言う人は、自我を魂より上位に置いているのだと思われる。
では、どうすれば、自我を下がらせることが出来るのかと言うと、ベインは「自我は正体を見破られると退く」と、またややこしいことを言う(笑)。
確かにそうなんだろうけど、そんな曖昧なことを言われても、何をすればいいのか分からないのだ。
まあ、ベインの場合は、生命が危機一髪になるようなことばかりして自我を追い込んで黙らせてしまったように思える。
また、サルトルだって、銃弾飛び交う紛争地を散歩したら、悟りを開いたような気分に少しなったと言うが、それはちょっと・・・だ。
コリン・ウィルソンは、ロシアン・ルーレットにそんな効果があるとも言っていたが、なるほどである(笑)。
これらは、実践は無理でも、ヒントにはなる。
つまり、自我が嫌がることを敢えてやれば良い。
ただし、凄く嫌なことをやる苦行は続かないし、ストレスになって太る(笑)。
だから、政木和三さんが言うように、
「私はお金なんてちっとも欲しくない。だが入って来るものは仕方ない」
「私は女なんていらない。だが百人も来てしまう」
と大ぼらを吹くか、岡本太郎のように、
「嫌われたっていい、いや、嫌われないといけない」
「認められなくなっていい、いや、認められてたまるか」
と、さわやかに自我を叩くことである。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)解脱の真理(マード・マクドナルド・ベイン)
(2)岡本太郎の遊ぶ心(岡本敏子)
(3)奇跡の実現(政木和三)
(4)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(5)誰がかまうもんか?!(ラメッシ・バルセカール)
AIアート907
「花は咲く」
Kay