前にも書いたが、「アジマリカン」の呪文がなぜ良いかというと、山蔭神道の当主だった山蔭基央(やまかげもとひさ)氏と、合気道家で、山蔭基央氏との縁で山蔭神道の神官になった佐々木の将人(まさんど)氏が良いと著書に書かれているからとしか、私には言えない。
とはいえ、彼らに著書の中にだって、特に、「アジマリカン」が効くというエビデンス(論理的な根拠)のようなものがある訳ではない。
ただ、「ああ、こういうことを言う人なら間違いあるまい」と思うだけである。
お二人とも既に亡くなっておられるが、もし、直接訪ねて行っていたら、私は、更に(アジマリカンが良いという)確信が得られたかというと、それは分からない。
偉大な人だって、個人としては、ただの人だし、真に優れた人は自分を飾らない。だから、偉人を訪ねて行ったが、期待はずれでがっかりしたという話は多い。
例えば、ゲーテを訪ねていった青年は、一目ゲーテを見るなり、その顔には明らかな失望の色が見えたという。
若い頃は美男子であったゲーテも、中年以降はかなり肥満していたようだからだ。
だが、そのゲーテは、老年になってすら十代の恋人が常にいたのであるから、表面には表れない特別なものがあったことは間違いないだろう。
逆に、どう見てもロクでもないオッサンなのに、「この人は偉大だ」という強い妄想的な憧れのせいで良く見えてしまう場合もあり、それが、大規模な宗教詐欺のようなものにつながることもある。
ところで、注目すべきは、山蔭基央氏も佐々木の将人氏も、神道以外に専門があり、山蔭氏は経済学で、佐々木氏は合気道であり、共に、超一流であった。
私は、山蔭氏の経済学や、佐々木の合気道そのものは分からないが、彼らが、そこから得た叡智は、彼らの著書から少しは感じ取れるのである。
本物は、このように、宗教、思想、哲学といった(概念的、抽象的、形而上学的な)ものの他に、何か現実的なものを持っているのである。
特に別格なのが、空海と、江戸末期の神道家、黒住宗忠で、彼らは、政治や武術や土木など、(現場に詳しい訳ではないが本質的に)何にでも通じていた。だから、空海は大規模な土木事業を指揮したし、黒住宗忠は武士の武術のアドバイスをするこも出来た。
私が知っている例では、政木和三氏のことがある。
私は、政木和三氏が生きておられた時に何度かお会いしていて、政木氏は偉大な霊的指導者であると共に大変な発明家であるが、私は、政木氏の研究所に行った時に、まず、その研究所の様子から、「ああ、この人は偉い人だ」と思ったのである。
全く豪華ではなく、また、雑然としていたが、研究開発に必要なものだけが自然で素朴な配置になっていたのである。
これは、会社のオフィスで、単に机の上が散らかっている人とは全然違う。
オフィスでは、机の上を見れば、その人の仕事の能力は99.999パーセント分かり、仕事が出来る人の机は、机の上も引き出しの中も見事に整理されている。
政木氏も、机そのものはきれいであったが、研究室の研究開発現場は、いわば「秩序ある混沌」とでも言うべきもので、非常に良い雰囲気だと感じたのである。
そして、政木氏にしろ、山蔭氏、佐々木氏にしろ、私が関心を持てば、限りないシンクロニシティ(共時性。意味のある偶然の一致)が頻繁に起こっているのであるから、やはり、信頼して大丈夫なのである。
ただし、悪い新興宗教の教祖に騙されて酷い目に遭う人も多いのだから、単に感動を感じたという理由で信用し過ぎるのも問題であろう。
まず、確実なことは、本物は金品を要求しない。
なぜなら、彼らは経済的にも必要なだけ得る手段や能力があり、無理に献金を募る必要がないからだ。
高額な寄付を求めるような団体を率いる人には、注意した方が良い。
インドのサイ・ババは、噂では、信者に多額の献金を要求したように言われるが、実際に、サイ・ババ関係の団体に居た人によれば、寄付を強要されたことは一度もなかったらしい。
「アジマリカン」がいかに現世利益のためのまじないではないと言っても、これが本当に良いものなら、それを薦める人が経済的に困っているはずがない。
念仏の教えを説いていた・・・と言うよりは、念仏の教えだけを説いていた法然や親鸞だって、権力のおかしな介入がありながらも、贅沢ではないにしろ、必要なものは得られ、80歳(法然)とか、90歳(親鸞)で亡くなるまで安楽に過ごせたのである。
よって、念仏も間違いのないものなのであるが、現在では、念仏は葬式の道具になってしまったようだが、実をいうと、念仏というのは、論理的に力あるものなのである。
それは、黒住宗忠が、天照大神をひたすら崇めたのと同じことであるが、それはまた別の機会に語ろうと思う。
だが、とにかく、「アジマリカン」を唱えていれば間違いないと言えると思うのである。
とはいえ、彼らに著書の中にだって、特に、「アジマリカン」が効くというエビデンス(論理的な根拠)のようなものがある訳ではない。
ただ、「ああ、こういうことを言う人なら間違いあるまい」と思うだけである。
お二人とも既に亡くなっておられるが、もし、直接訪ねて行っていたら、私は、更に(アジマリカンが良いという)確信が得られたかというと、それは分からない。
偉大な人だって、個人としては、ただの人だし、真に優れた人は自分を飾らない。だから、偉人を訪ねて行ったが、期待はずれでがっかりしたという話は多い。
例えば、ゲーテを訪ねていった青年は、一目ゲーテを見るなり、その顔には明らかな失望の色が見えたという。
若い頃は美男子であったゲーテも、中年以降はかなり肥満していたようだからだ。
だが、そのゲーテは、老年になってすら十代の恋人が常にいたのであるから、表面には表れない特別なものがあったことは間違いないだろう。
逆に、どう見てもロクでもないオッサンなのに、「この人は偉大だ」という強い妄想的な憧れのせいで良く見えてしまう場合もあり、それが、大規模な宗教詐欺のようなものにつながることもある。
ところで、注目すべきは、山蔭基央氏も佐々木の将人氏も、神道以外に専門があり、山蔭氏は経済学で、佐々木氏は合気道であり、共に、超一流であった。
私は、山蔭氏の経済学や、佐々木の合気道そのものは分からないが、彼らが、そこから得た叡智は、彼らの著書から少しは感じ取れるのである。
本物は、このように、宗教、思想、哲学といった(概念的、抽象的、形而上学的な)ものの他に、何か現実的なものを持っているのである。
特に別格なのが、空海と、江戸末期の神道家、黒住宗忠で、彼らは、政治や武術や土木など、(現場に詳しい訳ではないが本質的に)何にでも通じていた。だから、空海は大規模な土木事業を指揮したし、黒住宗忠は武士の武術のアドバイスをするこも出来た。
私が知っている例では、政木和三氏のことがある。
私は、政木和三氏が生きておられた時に何度かお会いしていて、政木氏は偉大な霊的指導者であると共に大変な発明家であるが、私は、政木氏の研究所に行った時に、まず、その研究所の様子から、「ああ、この人は偉い人だ」と思ったのである。
全く豪華ではなく、また、雑然としていたが、研究開発に必要なものだけが自然で素朴な配置になっていたのである。
これは、会社のオフィスで、単に机の上が散らかっている人とは全然違う。
オフィスでは、机の上を見れば、その人の仕事の能力は99.999パーセント分かり、仕事が出来る人の机は、机の上も引き出しの中も見事に整理されている。
政木氏も、机そのものはきれいであったが、研究室の研究開発現場は、いわば「秩序ある混沌」とでも言うべきもので、非常に良い雰囲気だと感じたのである。
そして、政木氏にしろ、山蔭氏、佐々木氏にしろ、私が関心を持てば、限りないシンクロニシティ(共時性。意味のある偶然の一致)が頻繁に起こっているのであるから、やはり、信頼して大丈夫なのである。
ただし、悪い新興宗教の教祖に騙されて酷い目に遭う人も多いのだから、単に感動を感じたという理由で信用し過ぎるのも問題であろう。
まず、確実なことは、本物は金品を要求しない。
なぜなら、彼らは経済的にも必要なだけ得る手段や能力があり、無理に献金を募る必要がないからだ。
高額な寄付を求めるような団体を率いる人には、注意した方が良い。
インドのサイ・ババは、噂では、信者に多額の献金を要求したように言われるが、実際に、サイ・ババ関係の団体に居た人によれば、寄付を強要されたことは一度もなかったらしい。
「アジマリカン」がいかに現世利益のためのまじないではないと言っても、これが本当に良いものなら、それを薦める人が経済的に困っているはずがない。
念仏の教えを説いていた・・・と言うよりは、念仏の教えだけを説いていた法然や親鸞だって、権力のおかしな介入がありながらも、贅沢ではないにしろ、必要なものは得られ、80歳(法然)とか、90歳(親鸞)で亡くなるまで安楽に過ごせたのである。
よって、念仏も間違いのないものなのであるが、現在では、念仏は葬式の道具になってしまったようだが、実をいうと、念仏というのは、論理的に力あるものなのである。
それは、黒住宗忠が、天照大神をひたすら崇めたのと同じことであるが、それはまた別の機会に語ろうと思う。
だが、とにかく、「アジマリカン」を唱えていれば間違いないと言えると思うのである。