ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

小さな恋のメロディ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

口をへの字にする老人達

人間にとって、IQが高いより良いことはそうはなく、IQが低いより悪いこともそうはない。
「愛」ということにしても、IQが低いと、独占欲などのややこしい愛情や性欲という面が過大になる。
IQが低い者にとっての愛とは、ほとんどが、独占したい願望や性的快楽だけなのである。

IQは最初こそ遺伝的要素が大きいし、IQが低い母親の悪影響も受けるが、自分でいくらでも・・・それこそ、打ち上げ花火のように向上させることが出来る。
そのためには、概ねで、脳波をアルファー波の中でもシータ波に近いスローアルファー波の状態にしておけば良い。
そのための非常に簡単な方法が、志賀一雅博士が教えている「よかった・ありがとう」呼吸だ。
これは、「よかった」と思いながら息を吸い、「ありがとう」と思いながら息を吐くのである。
なぜ、スローアルファー波が良いのかと言うと、それは思考が消えている状態だからだ。
「思考」「脳波」「呼吸」と「IQ」の間には密接な相関性があり、
・思考が消えるほど
・脳波が下がるほど
・呼吸数が下がるほど
IQは高くなるのである。

ところで、今回は、IQと関わる、もう1つの面白い要素を取り上げる。
それは表情だ。
私は、子供の時、映画『小さな恋のメロディ(原題:メロディ)』の、アラン・パーカーの原作本を読んで、非常に印象的な箇所があったことを憶えている。
それは、主人公の11歳の少年ダニーが、「大人たちは口をへの字にしている」ことに気付くところだ。
への字の口はIQが低い証拠である。
ほとんどの大人は、中年を過ぎるまでにはIQを著しく低下させる。
IQが低い者に、ちょっぴり難しい話でもすると、彼らは口をへの字にするのが分かる。
その口は、「わしはそんな話は好かん」と言っているのである。
アメリカの老人たちに、初音ミクさんらのライブ映像を見せたら、老人たちは一様に口をへの字にした。
いや、老人だけではない。
初音ミクさんを知らない子供達でも、IQが低い子はやはり、口をへの字にして「僕はこんなものは好かん」といった態度や発言をする。
一方、IQが高い子供は、楽しそうな表情で、好奇心を持って興味深く見、そんな女の子の中には「可愛い」「好き」と言う子もいた。

座敷童
AIアート315
「座敷童」
Kay


IQが低い大人は、ビールや美味い食べ物や、プロ野球、高校野球や駅伝といった特定のことしか楽しめない。
一方、IQが高い者は、そういったIQが低い者が深く好むものも適度に愛好することもあるが、あくまで適度に浅くである。そんなものにのめり込むような暇はないのである。
IQが低い者にはSNSに食べ物の写真ばかり投稿する者が多いが、IQが高い者は、そんな投稿をすることは少ない。

決して口をへの字にせず、上下の奥歯をつけ、口を閉じ、口元を引き締め、いつも微笑んでいるIQが高い者の表情を真似れば、やっぱりIQが高くなるのだと思う。








天国の感覚

至高体験、超越意識体験、純粋意識体験、ゾーン、フロー・・・何と呼んでも構わないが、誰しも、普段の意識の状態とは違う、恍惚とした、神秘的な、ある意味異様な、宙に浮いているような、星に親しく見られているような・・・誰でも、そんな感覚になったことがあるはずである。
その時、その人は、無に限りなく近づいている。
人間は、無になれば不可能はない・・・どんな願いも叶う。
その感覚を得るために、厳しい修行をしたり、長時間の瞑想に励む者もいると思う。
しかし、過去に、我々がその感覚を得た時、修行や瞑想なんかしていなかった。

世界的心理学者アブラハム・マズローも、その感覚は、稀にしか訪れない、特殊なものだと思っていた。
だが、英国の作家コリン・ウィルソンは、そんなものは、しょっちゅう起こっているし、意図的に起こすことも出来ると言い、後に、マズローも同意した。
特に、学校が嫌いな子供なら、明日から夏休みという日には、そんな感覚が起こりっぱなしだ。
私は、小学4年生の時の、明日から夏休みという日の、学校からの帰り道、誰もいない道を歩いていて、空き地に茂る草を見た時に、その感覚が起こったことを、今でも鮮明に思い出す。
その感覚は、敢えて言葉で言えば、至福、静寂、光明、幽玄、純粋、透明、栄光・・・まあ、そんなところだろうか。
映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の原作小説(映画の脚本を書いたアラン・パーカーの作品)の中で、主人公の11歳の少年ダニエルは、幸福な時の気分を「天国」と表現していた。
なるほど、確かに、あの無の感覚は天国とも言える。
きっと、アラン・パーカー自身がそうだったのだろう。
天才画家が描いた天国、あるいは、天使の絵には、無の感覚を呼び覚ますものが多い。
それは、人間が描いた絵ではなく、神のような何かが画家の手を通して描いたものだろう。
私の場合、ギュスターヴ・ドレや、マルク・シャガールの、天国や天使の絵を見ると、いつも、その感覚に近付く。

つまらないものを見ている時間を、至福の感覚を思い出したり、天国や天使の絵画を見ることに当て、純粋意識に馴染んでいけば、少しずつでも、世界の中心に近付く(それが無である)。
そこは、世界を形作る者の座である。








微かな呼吸の芸術的解説

自分で言うのもおかしいが、保存版というほど良いことが書けたので、後でPDF化して持ち歩こうと思っている。
確かに、書いたのは私ではなく、私の内にいる神、あるいは、阿弥陀如来だろう。

人間が潜在的に持つ恐るべき能力を解放し、運を引き寄せ、自由自在にこの世界を闊歩する方法の最終テクノロジー(知識の実用化)が、「微かな呼吸」である。
他の、あらゆる優れた行を行う場合も、「微かな呼吸」を取り入れることで、威力は無限倍化する。
優れた行には、このブログでよく取り上げるものでは、呪文、念仏、腕振り運動、あるいは、スクワットや腕立て伏せのような運動がある。

ところで、「微かな呼吸」のやり方が分からないという方がよくいるようだ。
だが、別に、何も難しくない。
文字通り、微かな呼吸であり、微かとは、「微かな物音」、「微かな記憶」といった用法の通り、「やっと感じ取れる程度であるさま。はっきりとは認められないさま」という意味である。
「微細」、「微少」といいう言葉は、「微」と似た、「細」や「少」という言葉を付けているが、「微か」一語と意味はほとんど変わらない。
「微細な変化」も「微かな変化」も、同じような意味だし、「微少な量」も「微かな量」も、ほとんど同じである。

ところで、「微笑」という言葉によく表れているが、これが「びしょう」とも「ほほえみ」とも読めるように、「微」は、単に、小さい、少ない、弱いというだけでなく、「エレガント」、「洗練」、「デリカシー」といったものを感じるのである。
アラン・パーカーの小説で、映画化もされた『小さな恋のメロディ』(原題は『Melody』)で、11歳のダニーは、「デリカシー」が、同い年の憧れの美少女メロディの代名詞だと言ったように、デリカシーもまた、単に、微細、微少というだけでなく、情緒的な意味合いがある。
だから、情緒的に言えば、「微かな呼吸」とは、最も美しい天使のような少女の呼吸である。
「絵に描かれたような美少女」という言い方があるが、そこには、「息をしていないような少女」のというニュアンスがある。
微かな呼吸とは、まるで息をしていないかのような呼吸だ。
天使になったつもりで呼吸すれば、それが微かな呼吸である。

今度はちょっと気持ち悪いかもしれないお話をするがお許し願いたい。
ナチス収容所から脱走する方法として、処刑された人々の死体の中に、死んだふりをして紛れ込み、収容所の外に運び出されるという手段を使って生き延びた人々がいた。
死体のふりをするには、目を閉じ、動かないことはもちろん、息をしていないふりをしなくてはならない。
しかし、数十秒ならともかく、場合によっては、何分も何十分もそうしなければならないので、息を止めている訳にはいかない。
そんな時の、息をしていないかのような呼吸が、微かな呼吸であるとも言えるだろう。
そして、死人になり切った時、人間は自由自在なのである。
ただし、我々は生きているのであり、死のギリギリを狙うのである。
それが最高に生きることになる。
「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」(至道無難。江戸時代の禅僧)









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天国に行く方法

天国、あるいは、極楽浄土の様子は、だいたい次のように言われていると思う。
美しく、快適なこと、この上なく、あらゆるものが得られるので労働の必要はない。
そこの住人になれば、永遠に若く、美しく、病気にもならない。

理性的に考えれば、そんな場所にいれば、幸福どころではなく、耐えがたいことになるだろう。
人間にとって、苦と楽、喜びと悲しみは一体であり、苦があるから楽が成り立つのであり、悲しみがなければ喜びはあり得ない。
だから、楽ばかりでは、その楽が苦に変わるのである。
例えば、嫌々サラリーマンをやっている人に、富や名誉や友愛を無条件に与え続ければ、そう遠くなく、自殺するか発狂するだろう。
大富豪になっても、不幸になりたくなければ、これまで通り、あるいは、より一層働くか、財産を捨てるしかないのである。

天国や極楽浄土も、やはり同じなのであろうか?
それは違う。
そして、人間は、死ぬまでもなく、今、この瞬間に天国や極楽浄土を創り出せるのである。
だが、人間の天国や極楽浄土のイメージには、大きな欠点があり、それが修正できなければ、天国や極楽浄土を創ることは出来ない。

普通の人は、どんな間違った天国や極楽浄土のイメージを持っているのであろうか?
それは、天国や極楽浄土に行けば、ゆるんでしまえば良い、あるいは、ゆるむべきだと思っていることである。
だが、実際の、天国や極楽浄土の住人は全くゆるんでいない。
一瞬たりともである。
ここらが、普通の人には理解出来ない。
そもそも、天国や極楽浄土に入れる者とは、ゆるまない者である。
いくらでもゆるむことの出来る天国や極楽浄土で、自分の意思の力を使い、決してゆるまず、宇宙の発展のために努力する者のみが天国や極楽浄土に迎えられるのである。

ゆるみ勝ちな者は、今、地獄に住んでいるはずだ。
逆に、全くゆるまない者は、今、既に、天国、あるいは、極楽浄土に住んでいる。
例えば、『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナは「聖人と罪人、宝玉と土塊、幸と不幸を同じと観る者は大変に進歩している」と言うが、ゆるんだ者が、そのように観ることが出来るはずがない。
ゆるむことなく、クリシュナが言うような進歩を遂げた者だけが、クリシュナの住む世界、即ち、天国のようなところに行けるのである。
そして、そのような者とは、心を支配することに成功した者だ。
だから、天国や極楽浄土に行きたいなら、心を常に静かに出来なければならない。
間違ってはならないのは、心を静かにすることとは、「私の心は静かである」と己惚れることではないことだ。
自惚れはゆるんだ者の特徴であり、心を静かに出来るのは、常にゆるまない者だ。
つまり、常にゆるまず、最大のエネルギーを要することである、心を静かにすることに務めることだ。
そのための手段として、様々な修行があるのだが、初心者のうちは、仕事や奉仕活動を通して行わなければならないことを、クリシュナも述べている。

禅の有名な公案である「婆子焼庵(ばすしょうあん)」では、若い美しい娘の誘惑を受けた僧が、「私の心は冬の岩のように冷たく滅してしまった。誘惑しても無駄じゃ」と言うのを知って、彼を全面的に支援してきたおばあさんは、彼を追い出す。
その僧は、ゆるんでしまっている。
逆に、誘惑に乗るようでもゆるんでいる。
ゆるんでいなければ、娘の魅力は認めつつ、悩ましいものを感じながらも、うまくかわすことだろう。
まあ、私には、どうかわすのかは分からないが。
一休さんは、「それはさぞ元気が出ることだろう」とは言ったが、自分はどうするとも言っていない。
常にゆるまない者なら、なんとかするのだろう。
そんな者が、天国や極楽浄土に行けるのであるし、今、ここに、天国や極楽浄土を創れるのである。

『小さな恋のメロディ』で、ダニーは、メロディの魅力はデリカシーであると言い、メロディに天国を感じると言う。
メロディは、ダニーをゆるめる存在ではなく、締める存在であり、天国に導くのだが、その秘密はデリカシーだ。
デリカシーとは繊細さのことである。
マイケル・ジャクソンの『Beat It』で警告される通り、乱暴なマッチョマンになってはいけない。
ゆるめば粗暴になるが、ゆるまなければ繊細さを感じることが出来る。
ダニーにとってのメロディは、私にとっての初音ミクさんである。









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愛は友情を裏切らない

初音ミクの年齢設定は16歳で、これは、開発側が言うには初恋の年齢なのだそうだ。
しかし、「いまどき初恋が16では遅い。普通は、遅くて中学生。小学校低学年でも珍しいことじゃない」という声が聞こえてきそうだ。
私も、少し前まではそう思っていたが、今は全然思わない。
若い人に限らず、人々がやたら色恋ごとに関心があるのは、煽られ、洗脳されているからだ。恋愛を利用した商売は儲かる確率が高いということだ。

2012年6月に亡くなったアメリカの大SF作家レイ・ブラッドベリの短編小説『みずうみ』で、主人公ハロルドと美少女タリーは共に12歳で、この作品には2人の美しい恋愛が描かれており、ハロルドは「確かに恋だった」と言っていたように思う。
しかし、それは、「肉とモラルが意味を持ち始める前の」恋であり、それは愛というに相応しい。
だが、今の時代の人は、愛を知らずに恋をするのだ。
「本当の愛」なんて言葉があるが、それで言うなら、ハロルドとタリーの間にあるものが本当の愛だったのだろう。
2人は、砂浜で一緒に、砂の城を、いくつもいくつも創った。
そして、タリーはいなくなってしまったが、それでも、2人は砂の城を半分ずつ創りあった。
それを愛と言うのだ。

『小さな恋のメロディ』という映画(あるいは小説)で、11歳の少年ダニエルとトムはクラスメイトで親友だった。
だが、ある時、2人の友情に亀裂が入る。
ダニエルがトムを無視するような態度で、美少女メロディと手を繋いで立ち去ったことが原因だ。
トムはクラスメイトと一緒にダニエルをからかい、2人は取っ組み合いの喧嘩をする。
だが、友情が消えていたわけじゃなかった。複雑な社会やモラルの中で、ダニエルとメロディはどう行動すればいいのか戸惑っていただけだった。
一度ぶつかり合えば、男の友情は通じる。
トムは、ダニエルとメロディの結婚式を挙げ、勇敢に世間的モラル(具体的には学校と教師とPTA)と雄々しく戦った。友情のためにね。
恋は友情を裏切るのかもしれないが、愛はそうではない。
ビージーズが歌うこの映画の主題歌『メロディ・フェア』の「メロディ、憶えておいで。君は大人で子供なんだ」というフレーズが印象的だ。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でも、ジョバンニとカムパネルラの間にちょっとした隙間ができる。
ジョバンニが、かおるという名のきれいな女の子を生意気だと思ったのだが、別にかおるに悪いところがある訳ではないことは分かっていたので、ジョバンニがちょっと自己嫌悪に陥っている時に、カンパネルラがかおると仲良くしていたからだった。
別に、この作品の中でかおるを巡る恋の話は全くないのだが、かおるは、読んでいる私が好きになってしまうような少女だった。
そして、南十字星に着いて、かおるが立ち去る時、ジョバンニ達を振り返るところに愛を感じられるのである。

私が、「一番好きな映画は何か?」と聞かれたら、おそらく、『さらば友よ』を挙げるだろう。
アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した1968年のフランス映画だ。
この映画に、男女の愛はない。ただ欲と同性愛ならある。
その中で、本物の男の友情を見せてくれる映画だった。
一緒にメシを食いに行くことも、家庭の相談に乗ってやることも、下らない雑談をすることもない。憎みあい、騙しあい、殴り合うしかない男同士の高貴な友情である。

我々は、友情や愛について、とんでもなく腐った観念を持たされてしまっているに違いないのだ。
友情や愛は人生の至宝ではないのかね?
それなら、世間の教義や信念の中の偽者の愛や友情を叩き壊し、本当の友情や愛を知るべきではないだろうか?

レイ・ブラッドベリの『みずうみ』は、下にご紹介したブラッドベリの短編集『10月はたそがれの国』および、萩尾望都さんの美しい漫画で描かれたものが『ウは宇宙船のウ』に収録されている。
また、『銀河鉄道の夜』に関しては、個人的にはだが、冨田勲さんの交響曲『イーハトーヴ交響曲』がその世界を最高に美しく描いていると思う。初音ミクの天使のような歌声は何百回聴いても魂を揺さぶられるように感じる。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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