以前、電車の中で、座席の取り合いで争っている二人の男を見た。いい歳をした大人がなんて下らないんだと、周囲の人達も軽蔑の目を向けていたに違いないが、争いごとなんて、みんな同じだ。
ところが、この、座席争いをしている「見下げ果てた」男達だって、その争いは、だんだんと、「座って楽をしたい」という目的ではなくなってくる。それは、彼らにとって正義のための戦いなのである。双方、自分が座るべき正当な理由があると主張しているのであり、また、面子の問題も絡み、決して引けなくなっている。
こういった点も、全ての争いごとに共通する。
ところで、相撲に張り手というものがあるが、ある三役以上の立派な力士が、張り手を喰らうと、頭に血が昇って、勝負なんてもうどうでもよくなるんだと言ったことがある。大なり小なりはあるだろうが、それが本当のことだと思う。張り手を出すと、もうスポーツでも武道でもない。ただの喧嘩である。
こういったこともまた、全ての争いごとで同じなのである。
企業の争い、政党間の争い、そして、国家の争いなんてのも同じだ。
日本と中国が、ある島の領有権で争っているのも、本当はちっとも変わらないことが分かる。
天然資源の問題だとか、軍事的な理由とかもあるだろうが、本当は、上にあげたようなものと同レベルだ。
もう、まともな理由なんてどうでも良いのだ。
意地と面子と、ありもしない正義のための争いなのである。
収集なんてつく筈がない。
そして、争いごとは、全て同じなのである。
古代の賢者ヘルメスがエメラルドの板に刻んだと云われるエメラルド・タブレットに、「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」と書かれている。
ドーリル博士によると、ヘルメスのエメラルド・タブレットはヘルメスが、ある理由により、わざと低いレベルで書いたらしいが、それでも、人類の中では至高の英知であり、これを毎日見ていたパラケルスやニュートンに偉大な知恵を与えた。
本物のエメラルド・タブレットは、ドーリル博士自身が翻訳(英訳)し、一部を除き公表している。
争いごとという、つまらないものを見ても、エメラルド・タブレットの通りである。
だが、この世のあらゆることがそうなのだ。
原子核の周囲を電子が回っているのも、惑星が太陽の周囲を回るのと同じである。
「いや、電子核の構造はもっと複雑だ」とも言えるのだが、惑星運動だって、そんなに単純じゃない。そして、両者の運動原理は、まだ人類が知らないだけで、実は根底には同じ仕組みがある。
そして、「上のものは下のもののごとし」には、無限の階層がある。
太陽系も回転しながら何かの周囲を回っているし、銀河系も、銀河系団も、そして、宇宙すらそうなのである。
エメラルド・タブレットの理を知る者は、世界の全てに見通しを得られる賢者になる。
いかなるものを見ても、階層を越えて理解するので、「よく見聞きし、解り」(宮沢賢治『雨にもまけず』より)、自分以外全て師という状態になる。
簡単に言えば、「電圧」を直接理解できなくても、「水圧」という階層の異なる現象を見て感じることで類推して理解できるようなものだ。
宮沢賢治の幻想的な作品は、なぜ素晴らしいのかというと、人間レベルとは階層の違う世界を描いて、我々自身のことを、ミクロ的、マクロ的に示すことで解り易くするからだ。
宮沢賢治の作品を壮大な音楽で描いた、富田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』は、それを見事に表現出来ていた。
富田さんが、この作品には初音ミクが絶対に必要だと言ったのも、エメラルド・タブレットに秘められたものと同じことを描く理由からだったと思う。
「ミクロミクロミクミクミクのお家」
と初音ミクが歌った、第3幕『注文の多い料理店』にも、まさにそれが感じられる。
パソコンの中から出られない、かりそめのボディしか持たないミク。
しかし、我々だって、ミクロミクロの小さな何かから出られない、かりそめの存在であることは全く変わらない。
可愛いミクを見て、その可憐な歌声を聴いて、それに気付かなければならない。
『イーハトーヴ』交響曲は、宮沢賢治から富田勲を通して、我々に与えられた真のエメラルド・タブレットである。
これを聴かないとは恐ろしく勿体無いことである。
初音ミクにおかしな偏見を持つ人も多いかもしれないが、それは実に滑稽なことである。
初音ミクのいろいろなところに、やはり、エメラルド・タブレットが秘されているのであるから。
特に、下にご紹介した『MUSIC OF SCIENCE』に収録された4つの美しい映像と音楽は、素晴らしい現代芸術であり、それは秘教的であると思う。
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ところが、この、座席争いをしている「見下げ果てた」男達だって、その争いは、だんだんと、「座って楽をしたい」という目的ではなくなってくる。それは、彼らにとって正義のための戦いなのである。双方、自分が座るべき正当な理由があると主張しているのであり、また、面子の問題も絡み、決して引けなくなっている。
こういった点も、全ての争いごとに共通する。
ところで、相撲に張り手というものがあるが、ある三役以上の立派な力士が、張り手を喰らうと、頭に血が昇って、勝負なんてもうどうでもよくなるんだと言ったことがある。大なり小なりはあるだろうが、それが本当のことだと思う。張り手を出すと、もうスポーツでも武道でもない。ただの喧嘩である。
こういったこともまた、全ての争いごとで同じなのである。
企業の争い、政党間の争い、そして、国家の争いなんてのも同じだ。
日本と中国が、ある島の領有権で争っているのも、本当はちっとも変わらないことが分かる。
天然資源の問題だとか、軍事的な理由とかもあるだろうが、本当は、上にあげたようなものと同レベルだ。
もう、まともな理由なんてどうでも良いのだ。
意地と面子と、ありもしない正義のための争いなのである。
収集なんてつく筈がない。
そして、争いごとは、全て同じなのである。
古代の賢者ヘルメスがエメラルドの板に刻んだと云われるエメラルド・タブレットに、「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」と書かれている。
ドーリル博士によると、ヘルメスのエメラルド・タブレットはヘルメスが、ある理由により、わざと低いレベルで書いたらしいが、それでも、人類の中では至高の英知であり、これを毎日見ていたパラケルスやニュートンに偉大な知恵を与えた。
本物のエメラルド・タブレットは、ドーリル博士自身が翻訳(英訳)し、一部を除き公表している。
争いごとという、つまらないものを見ても、エメラルド・タブレットの通りである。
だが、この世のあらゆることがそうなのだ。
原子核の周囲を電子が回っているのも、惑星が太陽の周囲を回るのと同じである。
「いや、電子核の構造はもっと複雑だ」とも言えるのだが、惑星運動だって、そんなに単純じゃない。そして、両者の運動原理は、まだ人類が知らないだけで、実は根底には同じ仕組みがある。
そして、「上のものは下のもののごとし」には、無限の階層がある。
太陽系も回転しながら何かの周囲を回っているし、銀河系も、銀河系団も、そして、宇宙すらそうなのである。
エメラルド・タブレットの理を知る者は、世界の全てに見通しを得られる賢者になる。
いかなるものを見ても、階層を越えて理解するので、「よく見聞きし、解り」(宮沢賢治『雨にもまけず』より)、自分以外全て師という状態になる。
簡単に言えば、「電圧」を直接理解できなくても、「水圧」という階層の異なる現象を見て感じることで類推して理解できるようなものだ。
宮沢賢治の幻想的な作品は、なぜ素晴らしいのかというと、人間レベルとは階層の違う世界を描いて、我々自身のことを、ミクロ的、マクロ的に示すことで解り易くするからだ。
宮沢賢治の作品を壮大な音楽で描いた、富田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』は、それを見事に表現出来ていた。
富田さんが、この作品には初音ミクが絶対に必要だと言ったのも、エメラルド・タブレットに秘められたものと同じことを描く理由からだったと思う。
「ミクロミクロミクミクミクのお家」
と初音ミクが歌った、第3幕『注文の多い料理店』にも、まさにそれが感じられる。
パソコンの中から出られない、かりそめのボディしか持たないミク。
しかし、我々だって、ミクロミクロの小さな何かから出られない、かりそめの存在であることは全く変わらない。
可愛いミクを見て、その可憐な歌声を聴いて、それに気付かなければならない。
『イーハトーヴ』交響曲は、宮沢賢治から富田勲を通して、我々に与えられた真のエメラルド・タブレットである。
これを聴かないとは恐ろしく勿体無いことである。
初音ミクにおかしな偏見を持つ人も多いかもしれないが、それは実に滑稽なことである。
初音ミクのいろいろなところに、やはり、エメラルド・タブレットが秘されているのであるから。
特に、下にご紹介した『MUSIC OF SCIENCE』に収録された4つの美しい映像と音楽は、素晴らしい現代芸術であり、それは秘教的であると思う。
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