ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宮本武蔵

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

私的最強呪文「われ思わず」

宮本武蔵の「我事(われこと)において後悔せず」という有名な言葉は、武蔵自身が書いた『独行道』という21箇条の誓約の中の第6条だ。
意味はそのままで、「1度やったことを後悔しない」である。
まあ、良い言葉である。
しかし、長ったらしい。
単純に、「我後悔せず」だともっと良い。
司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』によれば、日本人の宮本武蔵像の標準とも言える吉川英治の『宮本武蔵』とまるで違い、武蔵は、弟子だけでなく有力な後援者も多く、経済的に豊かで、有力な剣士との試合はほとんどしていないが、実戦において極めて強かった。
趣味(?)の剣も生活も充実した良い人生で、成功者と言って良いと思う。
その彼の成功の大きな要因は、この「我後悔せず」であると思う。

だが、もっと良いのは「我思わず」である。
後悔も1つの思考で、有害な思考と思えるからこそ、武蔵はそれを否定したが、全ての思考は有害である。
後悔だけでなく、全ての思考を消せば、戦国規模、日本規模、地球規模を超えて無敵であり、全能である。
さすがの武蔵も、そこまでは知ることが出来なかった。

美貌
AIアート137
「美貌」
Kay


「我後悔せず」も良いことは良いが、ジッドゥ・クリシュナムルティの「私は何も信じない」はもっと良い。
そして、「私は何も信じない」よりずっと良いのが「私は何も考えない」で、私は、この2つを万能の呪文である世界コマンドと呼んでいるが、この最強の呪文「私は何も考えない」は、私には「われ思わず」という短い言い方が唱え易い。

「われ思わず」は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の否定ではなく、洗練であり、シュタイナーの「われ思わず、ゆえにわれあり」を高度に改良した最強最上の呪文だ。
「われ思わず」と唱えれば、あらゆる不安が消え、あらゆる問題が解決し、あらゆる敵がひざまずく。
そして、落ち着いて座れる(あるいは寝れる)時間があれば、「私は誰か?」と自分に問い、完全に思考(=心)を消せば、神になったも同じである。

『真説宮本武蔵』と『猫の妙術』を合わせて読めば、無敵なる者の秘法が分かると思う。








神化の条件

思考を消して神化、超人化した面白い話をする。
空海や宮本武蔵がやったと言われるもので、単に、崖の上から飛び降りるというものだ。
もちろん、言うまでもなく、普通の人がやれば失敗して死ぬ。
だが、ここに非常に貴重な真理を見い出せる。

なぜ、普通の人が高い所から飛び降りると死ぬのかというと、気絶するからだ。
飛び降り自殺する場合も、皆、地面に激突する前に、自然の配慮によって気絶する。
また、スカイダイビングの際、パラシュートの事故で死亡する場合も、割と早く失神するものらしい。
気絶、失神して意識を失うと、何も起こらず死んでしまう。
だが、飛行機事故で、身体が外に投げ出されながら、気絶しなかったために生き延びたという人が本当にいるのである。
ただ、飛行機の機内にいて墜落した場合は、気絶しなくても死ぬ。意識は残っているが、心も残っているからだ。

つまり、神化する条件とは、思考(心と言っても良い)が消えて、意識は残っていることだ。
気絶したり、眠ってしまうと意識が消えるが、意識が消えると神化は起こらないのである。
言い換えると、心(思考)は消えているが、意識は残っている時に神化が起こるのである。
空海も、宮本武蔵も、崖から飛び降りても、最後まで意識を保っていたのだ。
まあ、この空海らの話は作り話かもしれないが、彼らの他の話から考えると、彼らが崖から飛び降りるようなことがあったとしてもおかしくないし、同じくらい危険なことを、彼らは何度もやっているのである。

涙
AIアート92
「涙」
Kay


物理学者のフレッド・アラン・ウルフも私も、子供の時にこれを体験しているようだ。
ウルフ博士は、7歳くらいの時、2階から1階にテレポートした体験があるらしいが、その過程の記憶はないながら意識はあったのだ。
私もまた、4つの時、2階から地面に落下した際、意識ははっきりしていたのである。

このブログで何度か引用したが、ある空手家が、真剣を持った剣術の達人と素手で決闘した際、死ぬ気で飛び掛かった後の記憶がないが、気がつけば、剣術の達人は地面で伸びていたという。
つまり、その空手家は、命を捨てた刹那、思考(心)は消えたが、意識は残っていたので、超人化したのである。

これを手っ取り早くやる方法が、やはり、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
「私は誰か?」と自分に問えば心は消えるが、意識は残っているのである。
そうであれば、必要があれば奇跡も起こるのである。








願望の実現が消えてしまう理由

引き寄せに関し、基礎をおさらいする。

願望は願った瞬間に叶う。
例外なく、願望の大きさに関わらず、この世界で完全に叶う。
しかし、なぜが、瞬間で元に戻り、願望が叶った記憶もないので、「願いが叶わない」と思う。
そして、なぜ、願望が叶った状態から、叶う前の状態に戻るのかというと、エゴ(自我)が「これはあり得ない」と言い、それを受け入れてしまうからだ。

ここまでは、多少の解釈の違いはあっても、分かっている人は少なからずいる。
しかし、そこまで分かっている人も、エゴに対する対処では、千差万別の異なることを言う。
それは(エゴの対処には万説があることは)、言っている人も気付いている場合があり、そんな人達は、「自分の好きなやり方でどうぞ」とお茶を濁す。

そもそも、エゴが何かについて、フロイトとユングという、ごく身近に居た頭の良い人達の間でも考え方が違い、いまだ、この2者のどっちが正しいかは分かっていない(その他の説も出ている)。
私も、彼らの本を読み、面白かったが、彼らの論は複雑過ぎ、あまり見ない方が良いと思う。
総じて言えば、フロイト論は納得はし易いが矛盾が大きく、ユングの方は神秘的で受け入れ難い場合が多い・・・そんなところである。

しかし、これははっきり言えると思うが、叶った願いが消えてしまうのは、集合意識のためだ。
この集合意識が、テレパシーのように人々の間でつながっているものか、ごく普通のコミュニケ―ションでつながっているものかは、ここでは触れない。意見の相違があるし、どっちでも説明がつくからだ。
願望がつまらないものであれば、集合意識はあまり反対せず、叶った状態を維持する。
しかし、集合意識の常識を超えた願いが叶った場合、集合意識が反発し、叶った状態が消える。
本当は、集合意識に力があるのではなく、自分が集合意識に逆らえるかどうかが問題なのである。

個性のない人間は、集合意識に逆らえない。
そもそも、集合意識に逆らえない者のことを個性のない者と言うのだから。
だから、どれほどの引き寄せのテクニックを知り、それを必死で実践したところで、個性がなければ、集合意識に飲まれて、願望の実現が消えてしまう。
だから、「千万人と雖も吾往かん(せんまんにんといえどもわれゆかん)」と言うだけの個性が必要である。
昔から、この個性のことを「信念」と言う人が多く、「信念を強くしろ」とか言うが、そう言われても曖昧過ぎて困る。
たとえば、合氣道家の藤平光一氏は、毎朝鏡に向かって「お前はますます信念が強くなる」と言ったというが、個性のある彼ならそれで良くても、普通の人がそれを真似ても何にもならない。
大切なことは、「世界で1つだけの花」と言える個性で、それがないと、集合意識に飲まれてしまうのである。

我々は、学校で「前に倣え」と、皆と同じロボットになるよう教育され、テレビや新聞、大企業のCMは、我々が、皆と同じように考え、同じように行動するよう洗脳する。
学校や社会で、それ(学校やテレビを通じた権威者の論理)に従わないと辛い目に遭うので、ほとんどの者が「尻尾を巻いて従う」。
テレビは、皆でニコニコ「世界で1つだけの花」を歌ってハッピーになろうと言って、「皆、同じ花」にしてしまう。
つくづく、テレビ、新聞、そして、あらゆるCMは見てはいけない・・・と言うより、気持ち悪くて見ていられないようでないとおかしい。

伊達政宗の師であった虎哉宗乙(こさい そういつ)の有名な「痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」という言葉も、集合意識に逆らうことの重要性を説いたものと理解しないと意味が分からないのである。
だが、集合意識に逆らうには、個性が必要である。
個性は、好きなことを自主的に毎日やることで作られる。
何度も言ったが、「じゃあ、ゲームを」「じゃあ、美食を」「じゃあ、エロを」という馬鹿は論外なので、もう放置で良いと思う。

宮本武蔵がなぜ剣豪の中でも一番魅力的なのかというと、強かったからではなく、一番個性的であったからだ。
そもそも、武蔵は江戸の有名な剣豪と試合をしていないので、どれほど強かったかは本当は分からない。
イエスもまた、個性があるから魅力があるのであり、宗教とは何の関係もないと私は思っている。
とりあえず、彼らについて読んでも良いと思うが、吉川英治の『宮本武蔵』は、国家の思想統制のために書かれたものなのでお奨めしない。
武蔵は、司馬遼太郎にかぎる。








究極的なただ1つの引き寄せの秘訣

断言するが、自慢をする者ほど引き寄せが出来ない。
自慢をするというのは、エゴ(自我)に従うことであるが、エゴはちっぽけな頭と身体の力しか信じておらず、潜在意識の力を信じていないのだから、エゴに従えば、潜在意識の力によって起こる引き寄せが出来るはずがない。
もちろん、全く自慢をしないのは、よほどの人格者だけであるが、そこまでいかなくても、引き寄せをしたければ、なるべく自慢をしないことだ。
現代人は、自慢をし過ぎるので、引き寄せの力が弱い。
しかし、自慢をやめれば、直ちに、大抵の引き寄せは出来る。

宮本武蔵は、若い頃は剣の腕だけでなく、引き寄せの力が大きかった。
いや、実は、剣の方は、噂ほどだったかは疑問だが(剣豪ではなかったと言う研究者すらいる)、引き寄せの力が強かったから、これほどまでに名を上げたのである。
武蔵は、若い頃は、弟子や後援者が沢山いたが、自慢話をしなかった。
何かの精神的規律を持っていたのかもしれないが、それはあまりはっきりしない。
だが、歳を取ってからは、昔の自慢話ばかりするようになり、すっかり引き寄せが出来なくなっていたのだ。
それで、若い頃は、経済面もかなり裕福であったが、歳を取ってからは士官に苦労する羽目になった。

ゲーテは、言っている。
「自慢をするな。でないと、老人の過ちを犯す」
もちろん、若者も自慢をするし、むしろ、若者の方が見栄っ張りで自慢をすると思っている人もいるだろう。
しかし、老人の自慢は、かなり厄介なのだ。
そして、若くても、自慢が過ぎると、老人のような自慢をするようになる。
そして、自慢する老人は、天に見捨てられたような惨めな状態になる。
もちろん、老人でも自慢をやめれば、直ちに天の救済にあずかれるが、老人になってから自慢をやめるのは難しい。

自慢をしないことだ。
勉強が出来たり、仕事が出来たり、美男美女だったり、身体大きかったり、身体が美しかったり、金持ちだったり、家柄が良くても、そんなものがいったい何だろう?
それらは、概ね、若い時の美点であり、すぐに失われるし、そもそも、それらのものは、潜在意識の無限の力に比べれば無に等しい。

卑屈になったり、劣等感が強いのは、実を言うと、傲慢であったり、優越感が強いのと同じなのだ。
それが証拠に、卑屈であったり、劣等感が強い者ほど、自慢をしたがるものだ。
同じ理由で、謙虚であるフリをして、実は、傲慢であることは多い。そんな者は、当然、自慢も多い。
だから、とにかく自慢をしないことである。

引き寄せの秘訣は、ただ1つ、「自慢しないこと」だ。
確かに、長年に渡って大統領以上にアメリカを動かした男、バーナード・バルークの幸運の秘訣「欲張らないこと」も重要だ。
だが、それは自慢を止めてからでも間に合うし、そもそも、自慢しない人間は欲張らない。
しかし、自慢をする者は、それだけで欲張りなのである。
私も本日より自慢をやめ、引き寄せを万全の状態にしておこうと思う。
でないと、今の世界は危ないかもしれない。








武蔵流思考消去法(自信作)

不安や後悔が胸に渦巻いている間は、望ましい引き寄せは出来ない。
宮本武蔵は、「吾ことにおいて後悔せず」と言い、一切の後悔を持たないと宣言したが、その通りに違いない。
彼については、いろいろ否定的なことも言われているが、彼は大した引き寄せの達人だった。
武蔵には、弟子はもちろんだが、地位の高い武家の支持者も沢山おり、意外かもしれないが、経済的には非常に恵まれていた。
ここらからも、武蔵が一介の武芸者でなく、精神の力を開発したマスターであることが伺える。
確かに、武蔵は、江戸の一流の剣術家と試合ったことはなく、このことからも、「宮本武蔵は本当に剣豪だったのか?」と言われることすらある。
しかし、例えば、武蔵が、柳生流の・・・柳生宗矩に試合を申し込んでも、武蔵と戦うメリットのない柳生が受けるとは思えない。また、もし、宗矩が武蔵の挑戦を受け、武蔵が勝ちでもしたら、武蔵は生きて帰してもらえるはずがない。

武蔵には、不安も後悔もなかったと言って良いだろう。
では、不安や後悔を消すにはどうすれば良いかというと、思考を消すしかない。
不安や後悔と戦うと、ますます、それらは大きくなる。
それなら、武蔵は、どうやって思考を消したのか?
それは、何と、『五輪書』に書かれている。
また、有名な「宮本武蔵肖像」という絵を見て、それが分かった人もいる。
実に、この絵は、宮本武蔵自ら描いた自画像なのだから、剣の極意だって封じてある。
【外部リンク】宮本武蔵肖像
この絵を見ながら、『五輪書』の「水の巻」の次の1文を読むと良い。
ここには、戦う時に心掛けるべきことが書かれている。
「額に皺を寄せず、眉の間に皺を寄せて、目の玉を動かさないようにして、瞬きをしないように思って、目を少しすくめるようにして、周りを広く見るようにする」
~『宮本武蔵「五輪書」』(魚住孝至訳。角川ソフィア文庫)より~

目をすくめるとは、半眼にする・・・つまり、薄目にするということだ。
つまり、心持ち、薄目にするのだ。
見事だ。
戦いに勝つ最上の方法は思考を消すことだ。
そのためには、このように、目玉を動かさず、半眼となり、周辺視野で見なければならない。
前を見ている時、前にあるものははっきり見えるが、横にあるものほど、ぼやけてはっきり見えない。
しかし、なるべく広く見るよう心がければ、広い範囲がはっきり見えるようになり、それと共に思考が消えるという、脳の性質を、武蔵は知っていた。
武蔵に師匠はいないとされているので、おそらく、武蔵は経験から知ったのだろう。
一点に集中して見るというのも、集中力の訓練としては良いが、無思考になるまでには時間がかかるし、うまくかない方が多いだろう。
このあたりの仕組みは、私にもよく分からないが、広く見る・・・周辺視野を使うことは、思考を消す優れた方法だ。
ちなみに、『荘子』にも、視線の持ち方について書かれた箇所があるが、武蔵のやり方でやればうまくいく。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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