インドの聖者ラマナ・マハルシが「私は誰か?」という問いを提示したことは、精神世界に関心がある人にはよく知られている。
だがこれは、答を得るために問うのではないと言って良いと思う。
これは、一種の精神集中の訓練と言えるのではないかと思う。
つまり、「私は誰か?」と問えば、他の思考は起こらないので、「私は誰か?」以外の思考を消すことが出来るのである。
そして、しまいには「私は誰か?」という思考自体も消えてしまい、完全に思考が消える。
思考が消えれば・・・無になれば真の自己である真我になるが、真我とは神である。
とはいえ、この修行は成果を上げ難いと思う。
面白くないし、修行の意味が分からない。
マハルシを含め、修行の意味をちゃんと説明した人はいなかったと思う。いたとしても、その説明は曖昧ですっきりせず、修行に熱が入り難いと思う。
「私は誰か?」という問いは、その答を求めるためのものではないと書いたが、答はあると言う。
しかし、その答を教えない。
まあ、答は真我なのだろうが、その真我が何か分からない。
確かに、真我とは何かを言葉で説明することは難しいし、言ってみれば、真我とは神でありキリスト(イエスという人間のことではない)、あるいはブッダ(釈迦や各如来のことではない)である。
少なくとも、「私は誰か?」と問うことは、普通の人には有益な修行になり難い。
答をさっさと教え、もっと有意義な修行をした方が良いかもしれない。
「私は誰か?」の答は、神であるが、神とは「存在の自覚」である。
「存在の自覚」とは、「私は在る」という感じである。
改めて意識を自分の存在に向けると、「私は在る(存在している)」と分かると思う。
その感じが神であり、真我である。
そして、「存在の自覚」を感じることが、「私は誰か?」と問うよりずっと良い修行であると思える。
よこしまな気がしないわけではないが、「存在の自覚」を感じれば、引き寄せの力が恐ろしいほど大きくなるのだから楽しみもある。
よこしま・・・と言ったが、修行には方便も必要である。
方便とは「嘘も方便」で誤解されるような嘘ではなく、あくまで「人を導く手段」のことである。
ちょっと、宮本武蔵の話をする。
彼が本当の剣豪であったかどうかは疑問らしいが、喧嘩に滅法強かったのも確かで、生涯無敗であったという。
勝てる相手としか戦わなかったのだと言われることもあるが、それでも百戦百勝は厳しいことである。
吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵は、吉岡道場相手の決闘をしたことになっている。
まず、道場当主の吉岡兄と決闘し、吉岡兄の肩を木刀で一撃で砕き勝利。続いて、兄以上の実力者である吉岡弟と決闘し、木刀で撲殺。その後、吉岡道場全員との決闘となり、奇策と実力で快勝。
これらは、吉川英治の創作で、実際は、吉岡兄弟は元気で長生きしたそうだ。
ところで、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』でも、武蔵は、吉岡兄と試合をしている。
ところが、吉岡兄は、ある時期から全然稽古をしなくなり、当主ではあっても、道場は弟にまかせ、他流試合の挑戦者との決闘も弟の役目になっていた。
だが、武蔵が決闘を申し込んできたら、吉岡兄は自分が戦うと言いだした。
兄は弟に「お前では武蔵に勝てない」と言う。
子供の時は、弟は兄に全く敵わなかったが、今や自分の方が兄よりはるかに上と信じている弟は面白くない。
そもそも、兄は全く稽古をしていない。
弟が「自分に勝てない武蔵であるなら、兄ならなおさら」と思うのも当然であった。
ところが、兄が夜中に一人でどこかに行くのに気付いた弟は、夜中に兄をつけてみると、兄は夜の野原でじっと座っていた。
弟は兄に近付き、兄に「兄者を今斬ってよいか」と尋ねると、兄は「よい」と言う。
そこで、弟は刀を抜き、兄を斬る気で進もうとするが、弟は身動き出来ず、脂汗が流れるだけであった。
兄は弟に、剣の腕ではお前の方が勝っているが、気では自分が勝っていること、そして、自分が野原に座っているのは気を鍛えるためであること、その気とは何かを説明したが、その説明が抽象的なのは、兄も理屈では分かっていないからだと思う。
吉岡兄は、本人は分かっていなかったのだろうが、結果として、野原で「存在の自覚」を感じ続けたのだと思う。
それ以外に考えられない。
だが、今もだが、当時のように、武道の修行に価値があった時代でも、真理が明確でなく、修行の仕方に無駄があることも多かったが、良い修行では、「存在の自覚」を感じることを程度の違いはあっても行っていたのだ。
無論、この修行は、剣や、あるいは、武道、武術に限らず、あらゆることに万能である。
ならば、我々も取り組まずにはいられないと思う。
AIアート781
「私はここにいる」
Kay
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)真説 宮本武蔵(司馬遼太郎)
(2)五輪書(宮本武蔵)
(3)ラマナ・マハルシの教え
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(5)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話
だがこれは、答を得るために問うのではないと言って良いと思う。
これは、一種の精神集中の訓練と言えるのではないかと思う。
つまり、「私は誰か?」と問えば、他の思考は起こらないので、「私は誰か?」以外の思考を消すことが出来るのである。
そして、しまいには「私は誰か?」という思考自体も消えてしまい、完全に思考が消える。
思考が消えれば・・・無になれば真の自己である真我になるが、真我とは神である。
とはいえ、この修行は成果を上げ難いと思う。
面白くないし、修行の意味が分からない。
マハルシを含め、修行の意味をちゃんと説明した人はいなかったと思う。いたとしても、その説明は曖昧ですっきりせず、修行に熱が入り難いと思う。
「私は誰か?」という問いは、その答を求めるためのものではないと書いたが、答はあると言う。
しかし、その答を教えない。
まあ、答は真我なのだろうが、その真我が何か分からない。
確かに、真我とは何かを言葉で説明することは難しいし、言ってみれば、真我とは神でありキリスト(イエスという人間のことではない)、あるいはブッダ(釈迦や各如来のことではない)である。
少なくとも、「私は誰か?」と問うことは、普通の人には有益な修行になり難い。
答をさっさと教え、もっと有意義な修行をした方が良いかもしれない。
「私は誰か?」の答は、神であるが、神とは「存在の自覚」である。
「存在の自覚」とは、「私は在る」という感じである。
改めて意識を自分の存在に向けると、「私は在る(存在している)」と分かると思う。
その感じが神であり、真我である。
そして、「存在の自覚」を感じることが、「私は誰か?」と問うよりずっと良い修行であると思える。
よこしまな気がしないわけではないが、「存在の自覚」を感じれば、引き寄せの力が恐ろしいほど大きくなるのだから楽しみもある。
よこしま・・・と言ったが、修行には方便も必要である。
方便とは「嘘も方便」で誤解されるような嘘ではなく、あくまで「人を導く手段」のことである。
ちょっと、宮本武蔵の話をする。
彼が本当の剣豪であったかどうかは疑問らしいが、喧嘩に滅法強かったのも確かで、生涯無敗であったという。
勝てる相手としか戦わなかったのだと言われることもあるが、それでも百戦百勝は厳しいことである。
吉川英治の『宮本武蔵』では、武蔵は、吉岡道場相手の決闘をしたことになっている。
まず、道場当主の吉岡兄と決闘し、吉岡兄の肩を木刀で一撃で砕き勝利。続いて、兄以上の実力者である吉岡弟と決闘し、木刀で撲殺。その後、吉岡道場全員との決闘となり、奇策と実力で快勝。
これらは、吉川英治の創作で、実際は、吉岡兄弟は元気で長生きしたそうだ。
ところで、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』でも、武蔵は、吉岡兄と試合をしている。
ところが、吉岡兄は、ある時期から全然稽古をしなくなり、当主ではあっても、道場は弟にまかせ、他流試合の挑戦者との決闘も弟の役目になっていた。
だが、武蔵が決闘を申し込んできたら、吉岡兄は自分が戦うと言いだした。
兄は弟に「お前では武蔵に勝てない」と言う。
子供の時は、弟は兄に全く敵わなかったが、今や自分の方が兄よりはるかに上と信じている弟は面白くない。
そもそも、兄は全く稽古をしていない。
弟が「自分に勝てない武蔵であるなら、兄ならなおさら」と思うのも当然であった。
ところが、兄が夜中に一人でどこかに行くのに気付いた弟は、夜中に兄をつけてみると、兄は夜の野原でじっと座っていた。
弟は兄に近付き、兄に「兄者を今斬ってよいか」と尋ねると、兄は「よい」と言う。
そこで、弟は刀を抜き、兄を斬る気で進もうとするが、弟は身動き出来ず、脂汗が流れるだけであった。
兄は弟に、剣の腕ではお前の方が勝っているが、気では自分が勝っていること、そして、自分が野原に座っているのは気を鍛えるためであること、その気とは何かを説明したが、その説明が抽象的なのは、兄も理屈では分かっていないからだと思う。
吉岡兄は、本人は分かっていなかったのだろうが、結果として、野原で「存在の自覚」を感じ続けたのだと思う。
それ以外に考えられない。
だが、今もだが、当時のように、武道の修行に価値があった時代でも、真理が明確でなく、修行の仕方に無駄があることも多かったが、良い修行では、「存在の自覚」を感じることを程度の違いはあっても行っていたのだ。
無論、この修行は、剣や、あるいは、武道、武術に限らず、あらゆることに万能である。
ならば、我々も取り組まずにはいられないと思う。
AIアート781
「私はここにいる」
Kay
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(1)真説 宮本武蔵(司馬遼太郎)
(2)五輪書(宮本武蔵)
(3)ラマナ・マハルシの教え
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)※『AT YOUR COMMAND』翻訳書
(5)アイ・アム・ザット~私は在る~ニサルガダッタとの対話