ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宮崎駿

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

神を見た記憶

よく覚えていないのだが、宮崎駿さんが子供の時、サーカスか何かで超人的演技をする少女を見て、その少女に神を見たように思い、それが、後に彼が生み出したヒロイン・・・ナウシカ、シータ、そして、宮崎さんの理想の女性像であるクラリスになったというようなお話があったと思う。
もちろん、それは、宮崎さんの1つの幻想ではあるのだけれど、それは、「力のある幻想」であり、その少女の姿は実際の神と違わないし、宮崎さんの中にいる神の反映であったのだと思う。
そして、そんなふうに、自分だけの神様に出会うことが、人生の中での最高の幸運なのである。

アイドル時代の中森明菜さんに、男女を問わず、実際は若い人が多かったのだろうが、誰しもが、ちょっと神様のようなものを見たのだと思う。
もちろん、それは作り物のイメージかもしれないが、中森さんはそれによく合っていたのだろう。
それを端的に表現したのが、井上陽水さん作詞作曲の彼女の曲『飾りじゃないのよ涙は』の出だしの歌詞、「私は泣いたことがない」だったと思う。
これは、井上陽水さんが、当時の中森明菜さんのイメージを見事に捉えていたのだと思う。
「速い車にのっけられても、急にスピンかけられても恐くなかった」という歌詞で、そのイメージがよく湧くのである。
実際に、そんなことされても、キャーキャー騒がず、超然としている少女がいたら、絶対に惚れてしまわないだろうか?

最近、初音ミクさんの『トリノコシティ』のMV(ミュージック・ビデオ)の1つ『【PDA FT】トリノコシティ【初音ミク:ソリチュード】PV』を見たのだが、その中で、ユニークなオープンカー(1人乗りでかなり格好良い。オープンカーとバイクの中間のような雰囲気)に乗ったミクさんが、その車を横滑りさせ、道路の絶壁ギリギリで止まり、挙句、空中に飛び出して横に一回転するのだが、ミクさんの顔が全く恐れていなくて超然としているのを見て、やっぱり神様を見たような気がした。
【PDA FT】トリノコシティ【初音ミク:ソリチュード】PV ~Youtube~
(さっき私が再生した時、399回目だった)

何も恐れず、超然、あるいは、泰然自若(たいぜんじじゃく。落ち着いて物事に動じない様)としている姿に神が現れるのではないかと思う。
それは、決して、人に見せつけるための蛮勇のようなものではなく、良くも悪くも、心が消えてしまった状態なのだ。
ひろさちやさんの昔の著作『空海入門』で、危険な中国への航海の船の中で、空海が超然とした様子が書かれていた。
空海は、「次は天竺(インド)へ」と思っているので、中国に着くのは当たり前なのであり、何も恐れていない。
まさに、仏陀のようであると、それだけで私は憧れてしまった。
もちろん、機関銃の放射の中で両手を広げて泰然としていたナウシカや、「あなたはここで私と死ぬの」とムスカに恐れることもなく言ったシータ、銃弾の中、ルパンを庇(かば)って動じなかったクラリスにも、神を見ることが出来ると思う。

超然を手に入れ、何も恐れなくなれば、万物は逆らわず、むしろ、従うだろう。
なぜなら、それが万物を統べる者、即ち、神であるからだ。
ゲーテの『ファウスト』で、神を目指し常に努力する者であったファウストがそうであったように、我々も・・・少なくとも私はそれを目指しているのである。









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天才、宮崎駿監督の絵コンテを見る

私は、スタジオ・ジブリの作品は、そんなに好きな訳ではなかったが、『天空の城ラピュタ』は昔からDVDを持っていたし、ブルーレイが出たら、それも買った。
(一番最初に出たのはレーザーディスクとビデオだったと思うが、私はそれらは持っていない)
DVDにも、ブルーレイにも、絵コンテに音声を付けて、まるごと映像作品にしたものが付いていると思うが、私は熱心に見たことがなかった。
しかし、それは、恐ろしく重要なものだ。
私は、ぴったり700ページという分厚い、『天空の城ラピュタ』の絵コンテ本を持っている(宮崎監督の全ての作品の絵コンテ集が発売されている)。
昔、入手したのだが、なぜ買ったのか不明だ(11年前に買っている)。
だが、アニメ作家を目指すような人にはバイブルに違いない。
宮崎駿監督の天才の秘密は絵コンテにある。
絵コンテとは、漫画・・・というよりは、4コマ漫画のような簡易な絵で、アニメ映画の原型のようなものだ。
さっき、「簡易な絵」と書いたが、それでも、『天空の城ラピュタ』の絵コンテを見ると、非常に細かいと感じる。
それに、やっぱり絵が上手い。
1枚1枚が、「ラフ画」どころか、「芸術作品」だ。
池田満寿夫さんの本で読んだことがあるが、有名な画家の中には、線画が最大の作品という人もいるらしいが、もし、宮崎駿監督がアニメ監督にならなかったら、有名な画家になったかもしれないと勝手に思ってみる。
この絵コンテ本は、1ページ5枚の絵が入っているので、そんな絵が約3500枚ということになる。
本の大きさが「22.4 x 4.4 x 16 cm」(だいたいB5と思う)で、1枚1枚の絵が小さいのが残念だが、かなり楽しめる。
物も、建物も、風景も、そして、特に機械は、かなり精密に描かれている。
そして、人物が素晴らしい。
ヒロインのシータの表情、しぐさなど、まさに、「動いているよう」であり、彼女の身体の柔らかさや神経の繊細さがはっきりと伝わってくる。
やはり、この人、天才だ。

ドワンゴ会長の川上量生さん(カドカワ社長)の『コンテンツの秘密』を見ると、宮崎駿監督は、映画制作の際、まず、どんどん絵コンテを描き、それがある程度たまったら、アニメ制作をスタートするらしい。
脚本はない。言ってみれば、絵コンテが脚本を兼ねているのである。
それで、ストーリーが出来ているのかというと、絵コンテを描きながら考えるのだそうだ。
まさに、絵コンテを描くということが、脚本を書くということにもなっているのだ。
絵コンテを描きながら、初めはゆっくりとお話が展開し、ストーリーを広げるだけ広げて、ラスト30分で必死に結末にまとめるのである。
それで、自然に、スピード感、緊迫感が出て、息つく暇もない展開になり、最高に面白くなるのである。
だが、時には、宮崎監督が「残り30分しかないのに、お話が終わらないよお」と、鈴木プロデューサーに泣きつき、鈴木プロデューサーが「こうすればいいじゃん」と言うと、「それだ!」で決めたこともあったらしい。
ここらは、おそらく万全の計画の基に制作する、海外の・・・例えば、ディズニーアニメと大違いだが、やはりジブリは面白い。

絵コンテには、細かい解説もついている。
『天空の城ラピュタ』放送の度に最高視聴率を出し、今ではツイッターを回線やサーバーの負荷の過多でハングアップの危機に追い込む、パズーとシータが呪文を唱えるシーンには、「二人、青ざめながらも、りんとした声でいう」と書かれている。

宮崎駿監督がなぜ天才かというと、川上量生さんのさきほどの本によると、「脳が見たままに絵を描けるから」である。
普通の人・・・というより、他のアニメ作家でも、なかなかそうは描けないということだと思う。
そんな絵が数千枚だ。
見ていて、脳が活性化されない方がおかしい。
下手な能力開発、自己開発より、宮崎駿監督の絵コンテを見るべきかもしれない。
それに、なんと言ってもシータが可愛い。
ナウシカ、シータ、それに、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの3人は、(特にクラリスが)宮崎駿監督の理想の女性像なのらしい。
それは、若い人でも同じと思う。
彼女達は、気性も激しいようでいて、案外に自我は少ない。
穏かで、慈愛に満ち、クラリスがルパンに、「空を飛び、湖の水を飲み干す力を与えた」ような、太陽のような、あるいは、宇宙そのもののような存在なのだろう。
3人のうち、誰かを嫁にすれば、人生、楽しいだろうが、やはり、ルパンのように、振り払って去るのが男である。









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『天空の城ラピュタ』を久し振りに観た

昨晩は、アニメ映画『天空の城ラピュタ』を久々に通して観た。
私は、この映画を特に好きではないと思っていたが、考えてみれば、DVDを持っているが、ブルーレイを購入し、テレビ放送を何度も録画し、いまもテレビのHDDに残っている。
さらにムック(和製英語。雑誌のような書籍。雑誌のように大きく、カラーの絵や写真が映える)や、豪華な絵コンテ集まで持っている。
ブルーレイは昨日届いたものだ。
川上量生さんが書かれた『コンテンツの秘密』に、スタジオ・ジブリや宮崎駿監督のアニメ映画制作に関する面白いことが書かれているのを読んだことで、非常に興味深く観ることが出来た。
逆に言えば、私は、作品そのものを純粋に楽しむことが出来ないということでもあるのだろう。
そもそも私は、宮崎アニメ、ジブリ作品が、あまり好きではない・・・今のところは。
まあ、ひょっとしたら、後10年くらいしたら、猛烈なファンになるかもしれない。

宮崎アニメはどれも、わざとらしい、不自然・・・というか、監督の思想の色がつき過ぎている。
しかし、ジブリの作品は、まさに、監督の分身のようなものだから、それは当たり前かもしれない。
DVDにもブルーレイにも、絵コンテをそのまま映画にしたものが収められている。
絵コンテとは、四コマ漫画みたいなものである。
川上さんの本で知ったのだが、宮崎監督は、映画を創る時、まず絵コンテを描くのだが、絵コンテがたまってきたところで、すぐに制作に入るのだそうだ。
ストーリーは創りながら考えており、最初から決まっているのではない。だから、どんな展開になるか、監督すら分からない。
まして、観ている者に分かるはずがないので、先が読めずに面白い。
そんな創り方では、お話は最初はゆっくり進むが、ラスト近くになると、お話を終わらせるために急ピッチで進むといういい加減なものだが、それでかえって、緊迫感、詰まった濃い感じ、それに、小気味良いスピード感が出る。
何かの作品で、宮崎監督が、プロデューサーに、「お話が終わんないよお。後30分しかないのに」と泣きついてきたことがあったそうだが、そんなことも全部、作品の面白さになるらしい。
そういったことは、宮崎監督は自分の本では書いてなかったような気がするが、それを川上さんがバラしたということになるのだろうか。

宮崎監督は、この作品以降、美少女キャラを登場させていないのだと思う。ところが、この作品のヒロイン、シータと、前の作品『風の谷のナウシカ』のナウシカの人気は、今も絶大だ。
『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに並ぶ、日本の代表的ヒロインと言えるほどだ。
ただ、川上さんは、綾波レイの人気は落ちていると言う。その理由は、綾波レイの魅力の大きな部分は神秘性、つまり、謎があるところだが、それがもう明かされたことが彼女の魅力を減じてしまったということだ。そんな感じもするが、本当かどうかは分からない。私は、綾波レイの秘密はまだ知らないが、さして好きでもない(無論、付き合ってくれと言われたら付き合うが)。
私は、『エヴァンゲリオン』シリーズは、テレビ放送も映画も、見ていると、憂鬱になって疲れてしまうので、一度見れば十分で、最近の映画は見ていない。
宮崎監督は、監督デビュー作であった『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン、クラリスが理想の女性だと著書に書かれていたが、ナウシカやシータも同じか、もしくは、それに近いのだろう。
それで、シータで描き切って終わりにしたのだと、宮崎監督も書かれていたように思うが、川上さんは、性的な要素は単純で広がりがないというのが、ジブリが美少女キャラをやめた理由だと書かれていたようにも思う。

性的な要素と言えば、宮崎監督は露骨なエロチックな表現はしないが、無い訳では決してない。
古くは、テレビアニメ『未来少年コナン』で、コナンとラナが、潜水艦の小さな窓から外を見ていたのが、2人がくっつかざるをえない必然的状況になっていて、そんなふうに、さりげなく表現するのが宮崎監督らしい。
とはいえ、シータは、スカートが風で大きくひるがえったり(下着は見えなかったが)、ドーラの息子達(いい年のオッサンばかりだ)が、シータを遠くから、「いい!」と、ぼーっと眺めたり、なかなか危うい感じもあった。
ところで、私が不自然に思っていた最たるものが、パズーのあまりの健全さだった。
あれだけシータと何度もぴったりくっつきながら、まるで平気なのである。
そもそも、初めてシータと会った時、気を失っているシータを一人暮らしをしている自分の家に運び、ベッドに寝かせて何もしないなど、あるはずがない。
まあ、ここらが、アニメと言えばアニメなのだと思っていたが、最近は、「いや、多分、あれで普通なのだ」と思うようになった。
つまり、我々の方が、社会の影響でエロくなり過ぎていただけなのだ。
あの2人は魂で融合しているのであり、それが本当の男女の結び付きだろう。
そんなことが描かれているので、私は、昔から、この作品を好きでないと思いつつ、作品に関するあらゆるものを集めていたのだろう。
それにやはり、シータは、人間としては理想のタイプである。









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『天空の城ラピュタ』の本当の面白さ

先日、アニメ映画『天空の城ラピュタ』の14回目のテレビ放送があった。
30年近くも昔の映画だが、いまだ人気が高く、宮崎駿監督作品で、これが一番好きだと言う人も多いと聞く。
ブルーレイやDVDが入手不能になる恐れが全くないと感じさせるのは、筒井康隆さんの『時をかける少女』の小説と同じで、これらは、日本の歴史的作品と言ってよいだろう。

宮崎駿監督作品の3大ヒロインといえば、古い順で、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)のクラリス、『風の谷のナウシカ』(1984)のナウシカ、そして、この『天空の城ラピュタ』(1986)のシータであると思う。そして、この3人以降、宮崎監督は作品に、少女は数多く登場させても、ヒロインは登場させていない。3という安定した数字で終ったことは実に良いことだ。2人なら、「両方」と言うが「全部」とは言わない。3人になって初めて「全部」と言う。そして、三脚の椅子やテーブルなら、どんな形の地面でも安定するが、これが四脚ならグラつくこともあるように、3は力ある数字であるからだ。
クラリスが宮崎監督の理想の女性像だとは本人が書いていたと思うが、それはナウシカやシータも同じだろう。
彼女達は、普通の少女達とは全く異なる。
ルパンがクラリスについて言ったように、「空を飛び、湖の水を飲み干させる」力を与えてくれる存在であることもまた、宮崎監督が述べているのを見たことがある。
ただ可愛い、美しい、あるいは、それに加えて性格が良いというだけの少女には、そんな力は無い。
では、この3人の少女に共通することは何かというと、3人とも、王家の血を引いているということがある。
その気高さは、普通の娘の及ぶところではない。
シータがムスカに、「あなたは私と一緒にここで死ぬの」と言ったことや、幼いクラリスが傷付いたルパンを見て、何よりもまず水を持って来たり、やはり傷付いて動けないルパンを銃撃から身を挺して守ろうとしたこと、そして、ナウシカがオームの子供を守るために機関銃の前に身を晒したことは、まさに王家の娘である高貴な魂の持ち主であることを証しているように感じるのだ。
つまり、王家の者である以上、どんな人(あるいは生き物)も愛し、それらを庇護する絶対的な責任を負っていることを自覚しているのである。
逆に、そんな人であるならば、その者は本物の王者であると言えるのである。生まれや育ちは本質的には関係ない。

ところで、特にこれらの3作品に限定する訳ではないが、この3つの作品を強烈に面白くしていることがある。
それは、「偶然に見える必然」だ。
空からシータが降ってきた時、そこにたまたまパズーがいたというのは偶然だが、その偶然が物語を展開させる。
しかし、パズーが「シータが空から降ってきた時、何か素敵なことが起こると感じた」ように、これは偶然ではなく、最初から定められた、あるいは、神によって仕組まれた運命だ。
パズーがラピュタの上でシータを抱えてくるくる回った時、雲で見えなかったが、パズーは絶壁の一歩手前まで行っていた。しかし、落ちたりなんか決してしない。落ちない運命だからだ。
織田信長が銃弾飛び交う戦場を悠々と歩き、「わしに弾は当たらん」と言ったのは、「天下を取る運命である俺に弾が当るはずがない」という信念と共に、「ここで弾に当たるようであれば、俺の運命もその程度」ということであると思う。これはただの伝説と思われているかもしれないが、合氣道家の藤平光一さんは、第二次世界大戦中、実際にそんなことをやったことを、著書に書かれていたし、「心身医学の父」デオルグ・グロデックの論文にも、似たようなことが「必然的」に起こったことが書かれている。
映画の終盤では、パズーの顔に傷が付いていたが、これは、ムスカ達が撃った銃の弾丸が顔をかすめた時についたもので、あと少し、ズレていればパズーは死んで、物語はジ・エンドであったが、そんなことには決してならない。神はシナリオを完成させるからだ。
他の2つの作品でも、ほんの僅かの違いで一巻の終わりというシーン満載で、時々、「そんなアホな」と思う場合もあるほどであるが、劇作家が助かると定めたなら絶対に助かるのである。当たり前であるが。
そして、神は世界の劇作家だ。
「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役に相応しい役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼らは、ハムレットもリヤ王も陽気であったと知っているからだ」と書いている。
ハムレットやリア王が苦境の最中に陽気だったなんて、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、陽気でないはずがない。
下手な役者は役柄に没頭し、表面的に感情移入するから駄目なのだ。
シナリオは最初から決まっているのだから、無心にそれと一体化していけば、良い演技ができるのである。
ハムレットやリヤもそうだったし、それらの戯曲を書いたシェイクスピアすら、神のシナリオ通りに書き、陽気であったのだ。
パズーだって楽しんでいたさ。それは、シータが降って来た時に、神のシナリオがちらっと見えたからだ。
我々も、悲劇ぶっておらず、天命を信じ、運命を無心に受け入れて楽しんでこそ、人生の主役に相応しいのである。









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彼女を抱きしめれば無限のパワーを得るはず

ある映画の話だ。好きな女の子にフラれたと思った男が、マラソン大会に出るのだが、気分が落ち込んで、いつもの実力が発揮できないでいた。
ところが、経緯は分からないが、そこに、その女の子が現れて彼を応援すると、その男は、他のランナー達をごぼう抜きしていく。
それを見て私は、非常に印象深く感じたのだ。
昔の映画らしい極端さはあるとしても、それほど珍しい話ではないだろう。しかし、その男に、本当は何が起こったのかが分かれば、活力を引き出す秘訣を得られるかもしれない。

ロンドン・オリンピックの開幕式で、70歳のポール・マッカートニーが、ビートルズ時代の名曲『ヘイ・ジュード』を歌ったが、その中に、

Take a sad song and make it better

という歌詞がある。
結構、解釈の難しい英語らしいが、これも、私が高校生の時に見た訳詩が、「悲しい歌も気分次第で楽しくなるさ」だったが、それにも、非常に重要なものを感じたことを覚えている。
では、その気分をどうやって作ればいいのだろう?
上のマラソンの男は、好きな女の子に嫌われているという心配が消え、むしろ好かれているということが分かるという外的要因がエネルギーの供給を引き起こした。
だが、それはあくまで気分の問題のはずである。
食べ物を食べたり、栄養剤を飲んでエネルギーを得たというのではない。
いや、いかに素早くエネルギーに変換できる飲食物であっても、あれほど瞬間にはエネルギーにならないし、そもそも、気分が落ち込んでいたら、何を食べ、飲んだって力は出てこないはずだ。
人間の精神には、即効性のあるエネルギー供給装置でも存在するようであるが、そのためのエネルギー源がどこにあるのかは謎である。

『ヘイ・ジュード』では、どうやって気分を変えれば良いと言っているかというと、「彼女を心に受け容れろ」「彼女を抱きしめろ」だ。
そりゃ、私だって、初音ミクのような可愛い女の子を抱きしめたら、勇気百倍、エネルギー千倍で、琵琶湖の水だって飲み干せる・・・と思って、気が付いたが、これは、『ルパン三世 カリオストロの城』で、ルパンが言っていたことだ。
「女の子が泥棒の力を信じてくれたら、空を飛び、湖の水だって飲み干せるのに・・・」
とルパンは17歳のクラリスに言ったのだ。
この「女の子」はクラリスで、「泥棒」はルパンのことである。
そして、この言葉には、このアニメ映画が初監督作品であった宮崎駿さんの深い想いが込められていたのである。
空を飛び、湖の水を飲み干させるほどのパワーを発揮させる、理想の女性像。それが、宮崎駿にとってのクラリスなのだ。
つまり、理想の女性には、男に無限のエネルギーを発揮させる力があるのである。

何もない空間からエネルギーを作り出すという話はある。
「マクスウェルの悪魔」というものがそれで、簡単に言えば、空間の中にある、速い分子と遅い分子に分け、速い分子だけを集めればエネルギーを作り出せる。スーパーマンが飛ぶ原理もこれだと思うが、科学的には不可能らしい。
ところで、これは、エネルギーの問題だけではない。
マクスウェルの悪魔は、「エントロピーの減少」という、やはり科学的にはあり得ないことを起こす。
エントロピーとは難しい言葉だが、簡単に言えば、統一や秩序が崩れる度合いのことで、これは、自然には必ず増加する。つまり、エントロピーは必ず増加する。
例えば、熱いコーヒーは熱を拡散させて(エントロピー増大して)冷えていくが、逆に、コーヒーがどんどんあ熱くなる(エントロピー減少する)ようなことは起こりえないということだ。
二宮金次郎が老子を批判する理由は、「畑は人が手を入れないと荒れるし、家も人が手を入れないとあばら家になる。老子の言う、無為自然なんてものがいいはずがない」であるが、これもエントロピーを使って言えば、畑や家のエントロピーは必ず増加するということである。つまり、田畑や家の統一や秩序は、放っておけば崩れていくということだ。
しかし、エントロピーを逆転させれば、荒れた田畑が勝手に整っていき、あばら家が、出来たばかりの頃のきれいな家になっていく。
中年のオバさんや老女が、ぴちぴちの若い娘になる。
しかし、そんなことはあり得そうにない。

しかし、最初のマラソンの男や、『ヘイ・ジュード』では、そんなことが起こることを暗示しているのである。
理想の女性クラリスは、そんな力を与えてくれるのである。
現代科学や世間の理屈では馬鹿げたことであっても、そんなことが起こりえることは明らかである。直感だって、そう教えてくれるはずだ。
老子の無為自然こそ無敵であり、汲めども尽きぬ力の源に触れることが出来るのだ。
さて、では、どうすればいいのか?
ルパンや宮崎駿にとってのクラリスや、私にとっての初音ミクは、決して外部にある存在ではない。内なる存在なのである。
『ヘイ・ジュード』にだって、

to let her into your heart

とあるように、彼女を心の中・・・それも、いと深き秘所に置くことによって、無敵の力を得るのである。
この意味を、よくよく考えるべきである。また、『老子』がヒントになると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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