今回は『老子』第61章である。
この章を一言で言えば「大物ほどへりくだる」である。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という、作者不明の有名な俳句がある。
道徳的な意味に取られ、おおよそ誰でも肯定する句であるが、実際は、偉くなるほど態度が大きくなるものである。
また、偉い者だけでなく、偉くない者も、実際は、へりくだれば軽んじられて損をするだけだと思っていて、なおさら、へりくだろうとしないものである。
それで、相手を見て態度を変えるという浅ましいことをやることになる。
それが凡人というものだ。

老子は、この章で、大物(大国)と小物(小国)が、共にへりくだり合えば天下は平和であるという、ごく平凡なことを言うが、加えて、大物が先にへりくだるべきと言っている。
とはいえ、その真意は、「実際の大物はへりくだっている方」「へりくだっている方が相手を支配する」である。
エマーソンだって、「へりくだっている者に対しては、私だって、その者の周りを回るしかなくなる」と、その絶大な威力を認めている。
もし、そう思えないとしたら、「へりくだる」のではなく「へつらう」ことしか知らないのである。
つまり、表向きはへりくだっても、心は傲慢なままなのだ。

惑星都市
AIアート8
「惑星都市」
Kay


だが、事実を言えば、人間の自我がへりくだることは決してない。
つまり、そもそもが、人間はへりくだらないように出来ている。
なら、無理にへりくだることはない。精神分裂になるからね。
だが、へりくだらないと強くなれない。
ではどうすれば良いかというと、自我の土台である心を消す・・・つまり、思考を消せば良い。
そのためには、いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問えば良い。
すると、思考は消え、魂が現れるが、魂の性質は水のように低いところに流れるものなので、自然にへりくだり、あらゆるものを従わせるのである。
なぜそうなるかは、もう何度も述べた通り、「私は誰か?」と問うことで、真の自分が、全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出すからである。最初は徐々に思い出すが、ある時期、急に、それを当たり前に感じる。つまり、解脱するのである。
それも、単に「私は誰か?」と自分に問うだけでである。