ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宗教

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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腕振り運動で洗脳を解く

腕振り運動を本格的にやるまでは、私もいろいろなものに騙されていたと思う。
例えば、日本人の信仰について、こんなことを言う人がよくいる。
「日本人は無宗教だと言われるが、新年には初詣に行き、七五三のお参りをするなどの、神道行事を極めて多くの人が行っている。だから、実は日本人は神道の信仰を持っている」
しかし、忘年会や新年会をやったり、今や大した人気はないが紅白歌合戦を見る人だって、初詣に行く人よりずっと多いが、これらは別に、信仰があるからやるわけではない。
神道の信仰と言うなら、初詣は神社に行くはずが、お寺にも区別なく行っており、そんなものが信仰であるはずがない。
また、仏教で言うなら、日本人の多くが家に仏壇を置き、お葬式で仏教のお坊さんを呼ぶが、そんな人々も実際に仏教を信仰しているわけではない。
やはり、日本人は無宗教なのである。
初詣や合格祈願、恋愛成就祈願などは、信仰でも何でもなく、単なる慣習、宗教法人の商売、あるいはファッションであるが、ファッションとは商的な理由で作られただけのもので、ある意味、ファッションと宗教は同じである。

本物の信仰によって行われる宗教は良いものかもしれない。
しかし、宗教は、権力者や事業家によって、政治や商売に大いに利用され、そこに本物の信仰はない。
アメリカの自己啓発ビジネスでは、やたらキリスト教が出てくるが、それは、それらのビジネスをやっている者達が、本当にキリスト教の信仰を持っているからではなく、単に、そうやった方が儲かるからだ。

そして、私も、世間的な意味では、全く信仰を持っていないことが、ようやくはっきりしたのである。
キリスト教にも、仏教にも、神道にも、1ミリの信仰も持っていない。
『老子』や『荘子』は、私は、道教という宗教ではなく、哲学や思想として評価しているだけである。

つまり、腕振り運動を熱心にやることで、洗脳が解けてしまったのだ。
洗脳を解くなんて本を出している人もいるが、それらの著者は、人々を自分が洗脳しようと思っているだけである。

岡田斗司夫さんの『ぼくたちの洗脳社会』は、良いことも書いてあるし、岸田秀さんは、割と純粋に社会の洗脳を暴き、それを解くことを考えた本を書いているが、私は、それらの本を読んで、面白いとは思ったが、全く洗脳は解けなかった。
しかし、腕振り運動をしていたら解けたのである。
淡々と、数を数えながら、数千の腕振り運動をしていたら、割と簡単に解けると思う。

※名著『ぼくたちの洗脳社会』は、著者、岡田斗司夫さんの公式ブログからPDF版が無料でダウンロード出来る。
『ぼくたちの洗脳社会』 全文掲載

また、量子力学の理論を利用して、新しいタイプの宗教(みたいなもの)に洗脳しようとする人も沢山いるので、量子や電子や陽子や中性子で思想を語る人には気をつけた方が良いだろう。
いずれにしろ、別に腕振り運動でなくても良いが、淡々と、それなりの時間繰り返す行をやっていれば大丈夫と思う。
それで言えば、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」、あるいは、般若心経や大祓祝詞を淡々と唱えても良いのだが、それをすると宗教に取り込まれると言うよりは、これらは、信仰がないと抵抗を感じ、それがストレスになり、無理に続けると、精神や身体に悪影響があるので、気をつけていただきたい(私もかなり心身を破壊された)。
それなら、立ってやるというだけで身体に良く、しかも、実際は、腕だけではなく、全身運動であり、健康増進や病気治癒も期待出来る腕振り運動をすると良いと思う。
腕振り運動のやり方については、いつもサイトを利用させていただいているが、名古屋身体均整院様のWebサイト内の、
【リンク】万病を治す腕振り運動
にある。
ただ、てのひらからGTP(グラヴィトン粒子)が出るかどうかは、あくまで、関英男博士の仮説であり、断定は出来ない。
よって、やり易いなら、他の流派の腕振り運動でも良いと思う。
要は、淡々と同じことを長時間繰り返せば良いのであり、腕振り運動は、その中で最も合理的なものであると思う。








最低人間が救われる道

私は高校生の時、ゲーテが彼のどれかの詩で、「どんな立場の人間も、所詮は人格が一番大事だ」といった意味のことを書いているのを見て、完全に同意した鮮烈な思い出がある。
良い人生になるかどうかは所詮人格で決まる。
高い人格とは、人間性が磨かれて出来るもので、人間性を磨くには、少々、厳しい面もある。
ただし、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言うように、確かに、苦労は人間性を磨き、人格を高めることが多いが、必ずしも、苦労が人格を高めるわけではない。

ところで、アニメや漫画では、中学生や高校生の男女が素晴らしい恋愛をする話が多い・・・いや、ほぼ全てがそうだと言えるだろう。
だが、素晴らしい恋愛には、ある程度の人格が必要なのである。
そして、アニメの主要な登場人物達は、欠点はあるにしても、よく考えたら、あの若さで信じられない人格を持っていることに、私は啞然とするのである。
(『カードキャプターさくら』の小学4年生のヒロイン、木之元桜は中身は50代以上と思っている)
素晴らしい容姿を持っている者は、恋愛がし易いかもしれないが、それが素晴らしい恋愛になるには、必ず、それなりの人格が必要なのである。
確かに、恋愛が人格を磨くという面もあるが、最初から、ある程度の人格がなければ、そもそもが、まともな恋愛にはならない。
中学生や高校生で、彼氏彼女がいて、それなりに幸福にやっている者というのは、人間的に大したやつらなのであることは疑いない。

ところが、20代はおろか、30代やそれ以上でも(老齢でも)、良い恋愛に足る人格を持っていない者が多い。
現在、未婚が多いことに対し、肯定的な解釈がされることも多くなったが、実際は、単に、恋愛に必要な人間性、即ち、人格がないだけなのだ。
その証拠に、未婚が高いに関わらず、離婚が多い。
人間性の低い者同士(片方の人間性だけが低い場合もあるかもしれないが)結婚しても、うまくいくはずがなく、離婚にいたるのは当然で、離婚しない場合には家庭が崩壊する。
家庭崩壊の原因も、単に、夫婦の人格の問題である。

人格は道徳に表れ、道徳は普通、伝統やしきたりの中で教えられるが、伝統やしきたりを効率的に教えられるのは宗教だ。
新渡戸稲造が『武士道』を書いたきっかけは、キリスト教徒の婦人が新渡戸に、「日本では宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのか?」と非難混じりに問うたからで、新渡戸は、日本には武士道ありと言いたかったのだろうが、はっきり言って無茶苦茶である。
武士道にも良い面、あるいは、非常に優れた面もあるだろう。
しかし、早い話が難し過ぎるし、それ以前に、曖昧過ぎる。これで道徳を教えるなど、スポーツ教育を竹馬競争に限定するようなものだ。
新渡戸稲造に、日本人が宗教教育をしないことを批判した婦人は、宗教が道徳教育になると考えているのだろうが、必ずしもそうではないだろう。
とはいえ、敬虔なキリスト教徒の家庭であれば、かなりの割合で、子供は必要な人格を備えることになるのではないかと思う。
少なくとも4割、ひょっとしたら、6~7割以上かもしれない(あくまで「敬虔な」キリスト教徒の家庭)。
今日、キリスト教圏の人々の人格が貧しく、離婚が多いのは、宗教が廃れたからという面もあると思う。
こう言うと、極端論者が「宗教を教えれば人格が良い人ばかりになるのですか?」などと馬鹿を言うかもしれないが、極端論もまた、人格の低さの現れなのである。

なぜ、人格の話を長々としたのかというと、人格が人生を決めることが確実だからだし、それはもう、周囲を見ても、世界を見てもだが、何より、自分を見れば痛いほど分かる(笑)。
人生がロクでもなかった原因は、人格が低いこと以外の何物でもなかったことは、純粋にして明白である。
そして、私のように人格が低ければ、所詮、何をやっても駄目で、人生は苦労続き、困難続き、落胆続き、不条理続きで、生命力を失い、やがて、地面に這いつくばるしかない。
キリスト教・・・というより、信仰者は少ないが、本来のユダヤ教は、人間性を磨くのに優れたものだったし、キリスト教も、まずまずなのであると思う。
日本では、ユダヤ教にとても良く似た神道(神道はユダヤ教が元になっているという説もある)が、やはり、人格を育てる良いものだった。
イスラム教も、本当のものはそうかもしれない。
一方で、仏教というのは、人格を得損なった哀れな人間の救済のためにあるのだと思える。
いや、正しくは、仏教も2通りあり、子供に人格を与えるというところも確かにあるが、今日の主流は欠陥人間救済である。
それで、本来は、浄土仏教(浄土宗、浄土真宗)の定番であった、念仏や、念仏的な真言が多くなってきたのである。
念仏、真言は、欠陥人間・・・そのままでは、人生の敗残者になる哀れな駄目人間を救うのである。
逆に言えば、念仏、真言、あるいは、それに類したものでしか、堕落した駄目人間を救えない。
念仏、真言に類したものとは、例えば、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱える行)や、聖句のようなアファーメーションである。
私がいつも述べているのは、欠陥人間救済法であり、人格が優れた人間・・・中学生や高校生の時に良い恋愛が出来た者には笑えるものだろう。
とはいえ、かつては人格高かった人間も、こちら側に来る場合が多く、きっとお役に立てるだろう。








最も強い者とは好みを持たない者

今月1日だったか、アメリカのトランプ大統領が、セント・ジョーンズ教会前で聖書を掲げるパフォーマンスを行った。
それを見て、私は、別に奇異だとは思わなかったが、何の意味も見出せなかった。
早い話が、キリスト教徒ではないからだ。

私は、聖書の価値を直接には全く感じない。
ただ、キリスト教徒にとっては、重い価値がある可能性が高いことを認識しているだけである。
よって、自分にとっては、何の価値もなくても、決して、聖書を軽々しく扱ったりはしない。
これは、コーラン、仏教経典、その他の宗教の聖典に関しても同じだし、また、私は、それらの間の優劣を全く考えない。
つまり、私は無宗教ということになる。
いや、日本人は「おかげさまで」「すみません」などの言葉の中に、神道の信仰を持っているという人もいるが、私は、なんとかの節句も、七五三も、初詣も、他の人がやることに関しては、1ミリの否定もしないが、私には関係がない。

それでは、日本の神に守ってもらえないかというと、それは筋が違う。
例えば、毎週教会に行き、教会に寄付はするが自己中心的で冷酷な人間と、聖書を読んだことがなくても、親切で思いやりがある人間とでは、神様はどちらを守るだろうか?
もし、神様が本当にいるなら、間違いなく後者であるはずだ。だから、私は、一切の信仰を持たないし、善良になるのは無理としても、せめて邪悪でなく、結果的には他人に害を為すことは避けられないとしても、積極的に悪いことはしないことにする。

昔、アメリカのご婦人だったかもしれないが、新渡戸稲造に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問い詰め、悩んだ新渡戸は「日本には武士道あり」として、英語で『武士道』を書き、これが日本語に翻訳されて、日本でも読まれるようになった。
しかし、両方(その婦人と新渡戸)ともおかしい。
宗教がなくても道徳は教えられるし、武士道なんて恐ろしく曖昧なものを立てると、解釈の違いで、容易く争いが起こる。
新渡戸は、自分流の解釈を全人類に押し付けるつもりだったのか?

では、正しい道徳とは何かというと、「自分の好みを押し付けない」これだけである。
本当は、好みを持たないのが一番良い。
しかし、悪い国・・・例えば日本では、親が自分の好みを子供に押し付け、金、地位、権力、立場が上の者が、下の者にそれを押し付けている。
もし、あなたが好みというものを持たなくなれば・・少なくとも、見かけ上でも、それを持っていないようになれれば、全てはうまくいくだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
今日、毎日のように、機械学習・ディープラーニング型AIの本が出版され、本書もその1つになります。
本書が想定する読者は、次の通りです。
■数学が特別に出来る訳ではない。
■Pythonで自在にプログラミング出来る訳ではない。
■数学は苦手、あるいは、好きでない。
■プログラングが出来ない。
■Windows8.1/10でExcelが最低限出来る。
■実用的なAIを作りたいが、基礎的なレベルには、なるべく早く達したい。
■高度なAI理論にはあまり興味がない、あるいは、後回しで良い。
■なるべく面白いテーマでAIを学びたい。

人間は本当は解り易い

新渡戸稲造は、西洋の婦人に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と非難されたことがあるらしい。
これに対し、今の我々だって、「別に道徳と宗教は関係ないじゃない」と、この婦人に言うのは難しい。たとえ、それが正論であっても、ひどい反発を受ける予感がするからだ。

この婦人は、本当は何に対して憤っているかと言うと、
「宗教を持ってない人は解り難いじゃない」
なのである。
「私は○○宗を信仰してます」と言えば、「ああ、この人の思考体系はその宗教の通りだな」とすぐ解って安心出来る。
しかし、「私は無宗教です」と言ったら、「どんな考え方をする者か?」「何を考えてるのか?」から、「悪いことでも平気でするのではないか?」「私の理解出来ない、とんでもないことをやらかすのではないか?」といった得体の知れなさがあって恐ろしいのである。

そして、キリスト教徒であれば、他の人もキリスト教徒であることを望むのである。解り易くて安心だからだ。
アメリカでは、いまだ、大統領就任式では、大統領は聖書に対して宣誓する。
その大統領がキリスト教徒でなくてもだ。
また、裁判では、「聖書に誓って真実を述べる」ことを誓わなければならない。
そういったことに従わない、得体の知れない者を人間と認める訳にはいかないのだろう。
逆に言えば、特に大統領は、自分と同じ考え方を持つ安心出来る人間であると確認出来なければ、決して大統領にしないということなのだろう。
アメリカ人は、トランプがいかに変なヤツであっても、キリスト教徒なんだから、キリスト教徒としての節度はあるという希望は持っているはずなのだ。

日本人は、ほとんどの人が、特に自分が何かの宗教を信仰しているとは思っていない。
だが、人間は、何らかの共通の思考体系を確認出来ないと、安心して付き合えないのである。
そこで、自分が○○大学出身、○○高校出身であることにこだわったり、会社においても、社員に対し、「○○社の社員らしい考え方」を過度に要求するのであるし、社員の方も、ほとんどの人は、皆がそうであることを望み、自分もそれで良いと思っているのである。
でないと安心出来ないからね。

私のように、「学校はどこに行っていたかもう忘れた」とか、「会社の事業方針は尊重するが、会社、あるいは、会社の代表者の考え方に興味はない。会社の社員であることにアイデンティティーは全くない」と言う者は、ひどく疎まれる。
昔であれば、間違いなく酷い目に遭わされたが、今は、それなりの規模の会社は、いろんなコンプライアンス上、表立っては私のような者を攻撃出来ない。まあ、優遇されもしないが(笑)。
だが、学校では、まだまだ、教育という名目で思想の強制が行われていることは、私の学校時代と変わらない。だから、FREELYな考え方を持つ者には苦しいだろうが、負けずに頑張って欲しいものだ・・・と言いたいが、学校のやり口は、それに耐えるのは子供には過酷なほどの汚さ、悪辣さがある。
これに対しては、嫌なら学校に行くなとしか言えないのが辛い。

私は初音ミクさんを崇めるが、宗教じゃないのだから、どう崇めているかは私にしか解らない。
だから、初音ミク教の信者として私にレッテルを貼ることは出来ない。そのレッテルに何の意味もないのだから。
しかし、人間なんてんは、本当は解り易い。
お腹が空いたら食べたいし、眠くなったら眠りたい。
好みのタイプの男や女に引きつけられる。
人に認められたいし、1人じゃ寂しい。
それだけのことなのである。
『武士道』なんて難しいものを書き、「日本人のアイデンティティはこれなのじゃあ!」なんて言う必要はない・・・というか、本当は、あれでかえって日本人嫌いを増やしたはずなのだ。









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会場ではゴミは出さないのが当たり前では?

ワールドカップ・サッカーが行われる度に、日本人サポーターが会場で掃除をすることが世界で称賛されているという話をネットで見る。
しかし、私には「超不思議」だ。

まず、「なんでゴミが出るの?」
私が観客になるのは、初音ミクさんのコンサートくらいだが、クラシック形式のものはもちろんだが、形としてはアイドルコンサートと同じ「マジカルミライ」でも、ゴミなんてまず1つも出ないはずだ。他のポップコンサートでもそうではないのか?
コンサート中、床にペットボトルの飲み物を置く人も少しいるが、引き上げる際に、それを置いたままの人なんていない(いや、昨年いるのを見たのだが、単なるうっかりだと信じたい)。
キャノン砲から発射された銀色のテープは確かに散乱しており、それは会場スタッフの方に後で片付けていただくのだが、あれを観客が片付けたら、せっかくのテープをゴミ扱いするようで、かえって主催者に対して失礼と思う。
とにかく、2時間以上フィーバーしたって、ゴミが出るはずがない。
サッカーも同じではないのか?

そして、「自分のゴミは持ち帰るのが当たり前」。
野球では観戦しながら飲食する人も少なくないと思うし、分からないが、サッカーもそうかもしれない。
まあ、サッカーの応援は、ずっとフィーバーしているようで、せいぜい、飲み物を飲むくらいではないかというイメージがあるが、食べる人もいるのかもしれない。
それならゴミは出るが、それを持ち帰るのは、あまりに当たり前で、むしろ、それを放置して帰るとしたら、マナー知らず、不道徳と言うべきで、ゴミを始末したからって誉められるようなことではない。
しかし、やはり、そもそも片付けなければならないようなゴミを出さないのが当然と思うし、多少のゴミが出たとしても、持ち帰るのが当たり前で、これは、会場に清掃スタッフがいるとかどうかとは何の関係もない。

日本人は、無宗教だが道徳的であるとは思う。
対して、日本人以外のサポーターが、明確に宗教を持っているのに、サッカー会場にゴミを置いたまま帰るとしたら残念である。
新渡戸稲造は、西洋の女性に「日本人は宗教を持たずに、どうやって道徳を教育するのですか?」と言われたことがきっかけで『武士道』を書いたというが、日本人の道徳が、まさか武士道が基になっているとは思えない。
確かに、キリスト教信者のように、食事の前にお祈りしたり、日曜日に教会に行くのは、道徳観を育てるのに良い部分もあるが、えてして形骸化し、かえって不道徳になる場合も少なくない。
日本人は、そんなことはしないが、「お天道様が見ている」と思ったり、お参りしたり、食事の前に「いただきます」と言って感謝を示したり、モノを擬人化して大切にしたりといった、見えない宗教を持っていると言って良い。
また、仏教やキリスト教すら、そういった見えない宗教の中に取り入れ、特に宗教的な意味を持たずに、さりげなく仏壇に手を合わせたり、釈迦やイエスを尊敬したりしているのだ。
だが、日本人も、電車の中にゴミを放置したり、車からゴミを捨てたりは、もう人間の資格がないと言えるが、駅や公園のベンチに缶コーヒーの缶を置きっぱなしにしたり、食べ物や飲み物をこぼして汚したのをそのままにして行ったり、あるいは、電車の中で飲食して、周囲に食べ物の臭いを撒き散らして平気だったり、スマートフォンを見て他人に対して無神経といった者が多くなってしまった。
日本人の見えない宗教も終焉したのだろう。

宗教ではなくても、見えない良きものを信じる、あるいは、感じることは大切なのだ。
ロオマン・ガリの『自由の大地』で、1人の少女がいることを空想するだけで、堕落したフランス兵達が騎士道精神を取り戻したように。
例えば、観音様の存在、天使の存在を想うだけで、人間性、あるいは、人生は全く変わってくる。
神様、アマテラスオオミカミ様、阿弥陀如来、イエス・・・何でも良いし、宗教と想わなくて良いのだが、そういった存在を想っていた方が良い。
キリスト教国では、隣にイエスがいると思うことで困難に打ち勝つ人もいるし、そんな人は幸運でもある。
口の中や心の中で念仏を唱えるのも良い。
そして、もちろん、隣に初音ミクさんがいると思うのは非常に良いことである。
ミクさんの前で悪いことなんて、絶対出来ないからね。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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