ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宋文洲

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

学歴詐称問題について

小池百合子さんの学歴詐称の疑いの話題がSNSで活発なようだ。
私はテレビは全く見ないので知らないが、おそらく、テレビや新聞では、このことは報じられてはいないと思う。
学歴詐称疑惑の話題は他にも沢山あると思うが、その中でも、博士を名乗る人の、その博士号が偽物であるという疑惑の話もよくあると思う。
まあ、学歴詐称は、小池百合子さんのような立場では、もし本当に詐称なら公職選挙法に違反するらしく、どうでも良いことではないのだろうが、私は個人的には、どうでも良いと思う。
嘘はいけないが、本人が嘘と知ってて、卒業とか博士号とか言っても、私には関係のないことだし、私なら、人を評価したり、選ばなければならない時に、それを考慮する明確な理由でもない限り、やはり学位はどうでも良いと思う。
特に政治家は、プロフィールには必ず学歴が書かれるが、政治家も含め、いい年の人間に対し、主に二十歳そこそこの頃のことである学歴を言うのは変なことだと思うのだ。

このブログでもよく取り上げる心理学者の岸田秀さんの博士号にまつわる話が結構面白い。
岸田さんは、一頃まで、フランスのストラスブール大学で取得した心理学博士を名乗っていたらしい。
岸田さんの書籍によれば、本人は、本当にストラスブール大学で博士号を取ったと思っていたらしいが、同大学の博士会議みたいなものに行った際、自分の博士号取得が、岸田さんの誤認であったと発覚したようだ。
岸田さんは、実際にストラスブール大学に留学しており、博士号審査会にも出たらしいが、岸田さんはそれに合格したと思い込んで、以降、博士を名乗ったらしい。
岸田さんも、博士号にそれほどの価値を感じていないのだと思う。もしそうなら良いことだ。
岸田さんは、母校の早稲田大学で博士号を取るチャンスもあったらしいが、やはり、あまり興味がないのか、いい加減に対応していたら、流れてしまったらしい。

私は、関英男博士や橋本健博士については博士をよくつけているが、政木和三さんには、一頃から博士をつけていない。
政木和三さんは、名刺に工学博士と入れていたし、書籍のプロフィールでも工学博士となっていたが、政木さんの博士号にも疑惑が唱えられたことがあった。
それで、私も面倒なので、政木さんに博士号をつけていないが、正直、どうでも良いのである。
ただ、特に橋本健博士については、同姓同名の有名人もいるので、区別の意味でつけている。

小池百合子さんも、カイロ大主席卒業と本人が言うならそれで良いし、信じてはいないが疑ってもいない。
ところで、小池さんのカイロ大卒業について、有名人、一般人を問わず、YouTubeなどで、いかにも小池さんを追い詰めたように語る人が多いが、小池さんは、不快ではあっても全く恐くはないだろう。
小池さんの元同僚とか、元側近の方の会見動画も見たが、いかに信憑性がありそうでも、形として確たる証拠があるわけではない。
大して小池さんの方は、いかにケチをつけられようが、卒業証書やエジプト大使館の声明という形がある。
こういったことでは形・・・つまり、証拠のみがモノを言う。
まあ、小池さんはお金もあるだろうから、都知事任期終了での政界引退くらいはあるかもしれないが、今回の騒動もすぐに静まると思う。

私も、博士号を持っている人や、教授、准教授、医師、弁護士の方と話す時は、先生と呼ぶが、それは礼儀と言うより、正直、相手もその方が気分がいいだろうと思う程度の理由である。
ただ、ソフトブレーン創業者の宋文洲さんは工学博士であるので、私は初めて会った時、「宗先生」と呼んだら、宗さんは「先生なんて呼ばないで下さい」と言われた。
謙虚ということもあるが、当時、宗さんはソフトブレーンの社長で、ビジネスで会ってたのだから、私の方がおかしかったのかもしれない。
だが、部長さんで博士の場合は先生と呼ぶのは、そうおかしくはないと思う。
難しいものである(笑)。

人と妖精の違い
AIアート796
「人と妖精の違い」
Kay


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(1)英語だけできる残念な人々(宋文洲)
(2)宋文洲が語る ここが変だよ日本の会社(宋文洲)
(3)女帝 小池百合子

貧困、不遇の本当の原因

日本は格差社会であり、貧困な家庭も多いというが、学校に裸足で通う子供は、まず見ないだろう。
だが、70代以上の成功者が、「子供の時、学校で自分だけ、靴を履いていなかった」と述べているのを何度か本などで見たことがある。
今の日本でも、昼食が持参の弁当になっている学校では、稀かもしれないが、弁当を持ってこずに昼食を食べない子供がいるらしい。
だが、靴を履いていない子供や、昼食を食べない(朝食もだろうが)子供が普通という国や地域は、世界には多い(むしろ大半かもしれない)はずだ。

中国出身の国際的な経営コンサルタントで、ソフトブレーン創業者の宋文洲(そうぶんしゅう)氏は、小学校時代、10Km以上歩いて通学したが、自分だけ弁当を持ってこれずに惨めだったというのを、何かで見た覚えがあるが、いつの時代のどこの国でも、豊かな者も貧しい者もいる(宋さんは今は超リッチだが)。
日本に餓死はないと言われているが、実際は、毎年数十人もいるらしい。だから、今の日本で餓死をしても、それほどには注目されない。

ある貧困国の学校で教師をしている日本人の男性が、普段、朝食も昼食も食べず、いつも空腹な子供達のために、自腹で弁当を用意してあげ、遠足に連れて行ったところ、その見たこともない素晴らしい弁当に子供達は大喜びしたが、皆、食べずに持って帰って、家族と一緒に食べたのだという。
また、やはり貧しい国の学校の子供達に、NPO団体が昼食を提供したところ、そこでも、子供達は、それを持って帰って、家族にも食べさせるのらしい。
これを、子供達の心が美しいだけと言えるのかはよく分からない。

貧困を抜け出すことと、庶民から抜け出して富裕になることとは違う面もあるが、チャンスが与えられたらそれを生かすという点では同じである。
その鍵は、やはり、所詮、IQ(知能指数)である。
幸運に恵まれようと、IQが低ければ成功することは難しい。
ヒラリーとトランプが、相手に大統領の座を譲りたければ、「黒人はIQが低い」と言えば一発だろう。
だが、それは統計的事実であるらしい。
黒人、白人に限らず、貧困な人達はIQが低い者が多いというのは、事実ではあるが、言ってはならないタブーだろう。
よく、東大生の家庭は富裕な場合が多いと言われるが、IQは遺伝だから、IQが高い東大生の親もIQが高く、そのために、東大生の親は成功していて裕福であるというに過ぎないのだろう。

子供達や若い人達は、科学者になりたいとか政治家になりたいというが、それは自分のIQと相談してからということになる。
男の子達の一番人気の職業であるプロスポーツ選手にしたって、IQが低くては成功することは難しいだろう。そして、スポーツで成功するために、どうしても必要なスポーツの素質も、生まれながらのものである点ではIQと同じだ。
上に挙げた宋文洲氏が成功したのも、努力もあるだろうが、IQが高かった(それも極めて)からである。

人類の歴史の中で、多くの人が、人類の問題に取り組み、人類を幸福に導こうとしたが、問題の全ては本当はIQなのかもしれず、もし、そうであれば、彼らの努力のかなり多くが的外れということになる。
IQはあくまで生まれながらのもので、後天的に伸ばすことは難しいが、肌の色や髪の色を変えるほどではない。
脳の大半は一生使われないのだし、DNAの機能もほとんどが眠ったままなのだから、潜在的な力は相当なものだろう。
それに、持って生まれたIQというのは、実は、誰もが、かなり高いのかもしれない。
だから、文明国の中でも普通に行われている、人々のIQを低下させるものごとから逃れ、正しい生活や学びをすれば、案外に誰もが、天才と言われる人達と同等か、それに近いIQを持てる可能性はあるのだと思う。

数日前、私が、ニコラ・テスラの著書『ニコラ・テスラ 秘密の告白』をご紹介した時、それを買った人というのは、今すでにIQが高い人だ。
だが、IQが低くて買ったのなら、これから高くなると思う。意識が上を向いているし、この本は、テスラの意図ではないだろうが、いかなる教育書も足元にも及ばないIQを高める秘訣が書かれていると思う。









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プログラミングや英語が本当に必要か、自分で考えて欲しい

誰もがプログラミングを学ぶべきだと言われているらしい。
ビル・ゲイツや、マーク・ザッカーバーグといった、栄光に輝くIT世界の大物達や、自分は最先端を行っていると自称したり、宣伝されている人達が、「これからの世界ではプログラミング能力が必要」と、ご神託を垂れたり、合唱することが増えてきたような気もする。
そして、アメリカの大統領が、「全てのアメリカ人にプログラミングを学んで欲しい」と演説で言ったという。
ただ、オバマが言ったのは、「コンピューターサイエンスを勉強しろ」であって、別にプログラミングとは言ってなかったと思うが・・・

ところが、私はいまだ、上記の大物達も含め、誰かが、プログラミングを学ぶことがなぜ良いのかに関する、まっとうな根拠を述べたのを、見たことも聞いたこともないのだ。
超一流プログラマーで、計算機科学者(ハーバード大・博士)で、大物事業家でもあるポール・グレアムは、「いまや世界のあらゆるところにソフトウェアがあるのだから、ソフトウェアを作るプログラミングが理解できないと、世界が理解できない」とか、まことしやかなことを言ったらしいし、その口真似をする者も多いと思う。
しかし、世界のあらゆるところに自動車やテレビやコンクリートがあるが、それらについて知らないと、何か困るだろうか?
それこそ、ソフトウェエア以上に、ウイルスや細菌がいるが・・・
私も、それらについて、あまり詳しい方ではない。

私がExcelとVBA言語の習得をよく薦めているのは、特技として通用するからだし、手っ取り早く身につく特技で、他に適当なものを知らないからだ。
私は、正直、JavaやPHPやC系言語(C++、Objective-C、C#)を勉強しろと言う気はあまりない。
また、昨今、子供向けプログラミング教室で大儲けを狙う連中が、スマホアプリを作ることがいかに素晴らしいことかの、きらきらした宣伝をしているが、うかつに信じちゃならんと思うのだ。
実際、そういった宣伝にも、まっとうな根拠は認められない。
(個人的には、騙す時の顔をしていると感じる、そんな宣伝をするヤング社長をよく見るような気がしている)
もちろん、縁があって好きになり、本当に興味があれば是非やれば良いが、スマホのアプリが作れたって、賢くもならないし、夢が出来る訳でもないのだよ。

プログラミングって、派手な宣伝で、その気にさせてやるもんじゃあ、絶対にない。
プログラミングとは地味なもので、華なんて全くないものだ。
竹とんぼや紙飛行機なら、まだ、思いもかけない飛び方をして面白いが、プログラミングには、普通の意味で「面白い」って思うことは、まあ、ない。
MITのレズニック教授や、天才プログラマーに認定されているとかおかしなことを言う人が、スクラッチやムーンブロック、あるいは、それに類似の、「子供でも簡単にできるビジュアルプログラミング言語」を、いかにも教育的、あるいは、知的に素晴らしいものだと盛んに勧め、そんなことを書いた立派そうな本も出る中で、自分ではそれらが、さっぱり分からないくせに、何か素晴らしいものだと勘違いしている人も多いと思う。
あれって、ただの商売だよ。
昔は、アラン・ケイのSqueak(スクイーク)のe-Toy(イートーイ)だった。
私は、Squeakも、スクラッチもムーンブロックも全部やってみたが、これで論理思考が身につくとも、社会に貢献する能力がつくとも、全く思えなかった。
個人的には、全てとは言わないが、全部嘘で、単に儲けたい連中の営業活動であると思う。
(いや、儲けたいだけなら、まだ良いのだが)
賢くなりたいなら、まだ、チェスや将棋をお薦めするし、知的な趣味なら、トランプの一人遊びが良いかもしれない。

丁度、英語の勉強が必要だと煽り立てる者達と同じだ。
英語とグローバル化なんて、千パーセント、何の関係もない。
英語を使う人類なんて、全体の1割以下だ。
もちろん、アメリカで働きたいとか、住みたいとか言うなら英語は必要だが、フランスで仕事をするならフランス語で、中国なら中国語だ。
宋文州さんの本を読んで改めてそう思ったが、当たり前のことだ。
私だって、商社に勤めていた(私自身は商社の仕事がメインだったわけではないが、自ずと基礎は身についた)。
確かに、中国の大都市のエリート達は皆英語ができるし(私は英語が下手だと馬鹿にされたものだ)、企業間取り引きの場では英語が使われることも多いが、仕事そのものでは中国語でないと駄目だと思う。
楽天の極端な英語崇拝は、宋さんが述べられている通り、単なる英語コンプレックスだというのが正解だろう。
実際、何の意味もない。
宋さんは、アマゾン・ジャパンのチャン社長と親しいらしいが、チャンさんに「アマゾン・ジャパンで英語使う?」と尋ねたら、「いえ全然。ここ日本だし」と言われたらしい。
また、アマゾン・ジャパンでも、社員採用の際、特に英語を重視することもないらしい。
楽天は世界27ヶ国に進出を計画しているらしいが、宋さんは、「お隣の中国でも上手く行かなかったのに・・・」と心配しておられたようだ。
まあ、確かに中国相手の商売は、泥臭いコツがいると思う。

私は、個人的には、プログラミングも英語も好きなのだ。
プログラミングのおかげで、ずっと良い思いをしてきたし、英語の、あのはっきりとした、そして、巧妙でスマートな表現の仕方は素敵だと本当に思う。
アメリカで販売されている、日本のアニメに英語の字幕が付いたBlu-rayやDVDを見れば、そのあたりは、よく分かるのではないかと思う。
値段も、日本のものと比べ、ずっと安価だ。
ただ、Blu-rayは、アメリカのものは大抵、日本のプレーヤーで見れるが、DVDは基本的に見れないので注意して欲しい(DVDはパソコンでは割と簡単に見れるが制約もある)。
私のお薦めは『神様のメモ帳(英語タイトル:Heaven's Memo Pad)』だ。
プログラミングは、やはり、職業プログラマーを目指す訳でもなければ、ExcelかAccessでVBAをやることをお薦めする。
また、職業でも可能だ(私がやっている)。
ただ、マイクロソフトは、開発ツールとしてのAccessにはやる気がないような気がするので(私の勘違いかもしれないが)、FileMakerを使うのも手かと思う。
FileMakerは、プログラミング言語は使えないのだが、概念としては同じことができるし、それで十分と思う。
私は以前、dbMAGIC(今はMagic)という、データベース機能付き開発ツールを使っていて、これもプログラミング言語は使えないのだが、下手にプログラミング言語を使うより、アルゴリズム(問題解決の手順のこと)の作り方が格段に進歩したと思う。

要は、有名な人、偉い人の言うことを、簡単に信じないことだ。
ただし、疑いもしないことだ。
信じないが、疑いもしない。
疑わないが、信じもしない。
これが、国家や大企業が嫌う、賢い人になるコツだと思う。









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教師を先生と呼ぶのはキャバレーで客を社長と呼ぶのと同じである

私は言われたことがないし、今でもあるのかどうかは知らないが、キャバレーでの客の呼び込みでは、「社長さん」と言うらしい(店内でもそう言うのだと思う)。
もちろん、大抵の通行人は社長でないが、それが通説であるところを見ると、それが呼び込みの成功確率が高い呼びかけ方なのだろう。
学校で教師のことを「先生」と呼ぶのも、これと全く同じである。

学校の教師を「先生」と呼ぶのは、キャバレーの客引きが誰彼となしに「社長」と呼ぶのと同じである。
これは、教師もそうでない者も、皆、認識すべきことである。
確かに、ゴキブリほどの数のいる教師の名前をいちいち覚えなくて済むし、他の呼び方を考えるのも面倒という理由で「先生」と呼ぶのは名案であるが、つまりは、その程度なのである。
日本では、医者も弁護士も博士も教師も皆、「先生」である。
今はもうないと思うが、以前は、中国に行けば、日本人は皆、「先生」だった。
中国人が日本人を「先生」と呼ぶのは、どこか、からかった雰囲気があったし、そうでなければ、やはり、仕方なしといったものだったのだろう。
医者や弁護士や博士を「先生」と呼ぶのだって、つまるところ、他の言い方をするのが面倒だからに他ならない。

医者や教師が、自分は「先生」と呼ばれる器でないと自覚していても、彼らに、「その呼び方はやめてください」と言われても、こっちが困ってしまうだろう。
つまり、「いちいちアンタの名前覚えるの、面倒なんです。医者は他にもいっぱいいますし」ということなのだ。
「先生」と呼ばれる人は、その呼び方は、そんな理由か、キャバレーの呼び込みの「社長」と同じ意味だと、しっかり自覚しなければならない。

私も企業にコンサルタントや技術指導に言くと「先生」と呼ばれてしまうが、明らかに気持ち悪いと感じるのは、まともな感覚なのだろう。
社長さんにまで「先生」と呼ばれると、本当にビルの屋上から飛び降りたくなってしまうほどだ。
私の場合、先生と呼ばれるだけの実力が到底ないことを自覚しているからなのであるが、考えてみれば、教師だろうが、医者、弁護士、博士だろうが、本来、皆、そうであるはずなのだ。
以前、ソフトブレーン創業者の宋文洲さんとお会いした時、私が「宋先生」と呼ぶと、宋さんは、「先生などと呼ばないで下さい」と、本当に恐縮しておられた。
明らかに三下(取るに足らない者。下っ端)にしか見えない私が呼んでさえそうであるのだから、宋さんというのは、本当にまともな感覚の持ち主なんだなあと思ったものだった。
当時の宋さんは、まだ今ほどの貫禄ではなかったが、工学博士で、しかも、専門分野の発明で富を得て起業した会社は十分に発展していたのだから、そこらの似非先生共を三下扱いしても、特に誰も文句は言うまいが、もちろん、まともな人間はそんなことはしない。
宋さんは、謙虚と言うべきなのは確かだが、それ以前に、まともなのである。

木枯し紋次郎は、初対面の相手には、大抵「親分さん」と呼ばれる。
まあ、当時の渡世人(博徒。やくざ)を呼ぶ時はそれが習慣みたいなもので、今の教師に対する「先生」みたいなものだろう。
それで、ほとんどの渡世人は、そう呼ばれて平気だが、紋次郎は、「あっしは親分なんて貫禄じゃあござんせん」とか、「親分はやめておくんなさい」と、その呼び方を拒否する。
しかし、紋次郎の場合は、誰の目から見ても、その貫禄は親分以外の何者でもない。
その実力、凄みが隠しようもないほど溢れているのである。
つまり、本物である。

ギリシャのデルフォイ神殿に書かれているソクラテスのお気に入りの言葉であり、また、徳川家康が天下取りの秘訣をそれだといった言葉が、「身の程を知れ」だった。
身の程を知る者が本物である。
そして、家康が言うように、身の程を知ることを忘れないようにすれば、天下人にもなれるのだろう。
しかし、それは99パーセント以上の人間には非常に難しいことである。
だから、ほとんどの者は、医者も、弁護士も、博士も、教師も、ニートも、乞食も皆、一生、三下なのである。
ただ、その中では、ニートと乞食は三下から脱出する可能性があるのである。
自分が三下以下であることを自覚しやすいからだ。
イエスもそのようなことを言っていたと思う。
「人の世で一番小さな者が天では一番大きく、人の世で一番大きな者が天では一番小さい」
釈迦も特にその点は強調していたように思う。









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先生と呼ばれるのが苦手なのは自然なことだ

「先生」と呼ばれることにすぐに慣れてしまえる人を羨ましいと思ったことがある。
私は滅多なことでそんな呼ばれ方をする訳ではないが、企業に技術指導に行ったり、そんな大袈裟なものではないが、講演やセミナーをすると、社長さんなどの立派な人達にまで先生と呼ばれることもある。
私はいつまでたってもそれを場違いとしか感じない。
そして、それは普通の感覚ではないだろうかと思う。
先生という言葉は、単に、知識、ノウハウを教える人、つまり、教師という意味と考えれば大したものではないのだが、やはりどこか、人間として上位にある人、優れた人という意味もあるのだと思う。
だが、私は、謙遜でも何でもなく、人に優るところは何もないし、どんな他人でも、私に劣るとは思えない。
これは確かに、自分を卑下しやすい性質として好ましくない部分もあるのかもしれないが、やはりそれが自然の感覚だと思うのである。
早い話が、私はどんな意味でも先生ではない。

ところで、本当に優れた人でありながら、先生と呼ばれることを辞退したり、そう呼ぶと、本当に、「私が先生であるはずがありません」という気持ちが態度や雰囲気にちゃんと表れる「まともな人」がいる。
人間的、また、知識や教養において非常に高度で、専門技能においては超人的と思えるような人でありながら、先生と呼ぶと、ひどく恐縮して、「私は先生なんかじゃありませんよ」と言う人を見たことがある。それによって、さらに、彼が優れた人だと確信させられるのである。
宋文洲さんがまだソフトブレーンの社長だった時、私が勤務している会社に来られたことがあった。
ところが、受付にいた女子社員が間違って、ミーティングルームの狭いテーブルに随行のお2人の方々と一緒に案内してしまった。それを知った私は慌てて飛んで行って、「宋先生、失礼しました。応接室にご案内します」と言うと、宋さんは少しも気を悪くされていない様子で、にこやかに笑いながらも、本当に少し困った様子で照れながら、「先生なんて呼ばないで下さい」と言われたのをよく憶えている。
宋さんは既に大事業家だったし工学博士でもあるのだから、どう見ても少しも偉くない私が先生と言ったところで少しも不自然ではない状況だった。

確かに、実際は先生と呼ばれることに違和感を持っている(立場上の)先生も少なくはないと思うが、それなら、上にあげた人達のように自分から辞退するのが良いと思う。
ただ、私の場合は、相手が言うことをうまく否定して辞退することもできない無能な者であるが、そんな人もまた他にもいるのかもしれないが。

イエスは、「私を先生と呼ぶのは正しい」と言い、自分が賢王として名高いソロモンに優ることを堂々と宣言していた。
だが、一方で、弟子達の足を洗い、子供が身近に寄ってくるのを決して止めなかった。
いかなる人物であれ、個人としては少しも偉くはない。
だから、たとえどんな成功者であっても、個人を崇拝するようなことを決してしてはならない。
だが、至高の存在は誰の内にもある。
人が個人であることをやめれば、即ち、小我が内なる大我に溶け込んで消えてしまえば、いかなる個人よりもはるかに優れている。
意外とすんなりと言えたような気がするが、そういうことであると思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀如来という仏に南無する・・・つまり、帰依するということであり、帰依とは、相手を自分より圧倒的に優れた高位の存在と認めて平伏し、全て任せるという意味である。
そして、阿弥陀仏とは、元の言葉でアミターバ・・・無限の光明を持つ者、あるいは、アミターユス・・・無限の生命を持つ者という意味であり、即ち至高者である。
念仏を称える者がいかなる個人も及ばないことは当然であり、親鸞が、「念仏する者を、天の神も地の神も尊敬する」と言ったのはおかしなことではないと分かるのである。
そこには、驕るような個人(小我)は決して存在しない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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