昔の学校は、工場労働者を作るためのものだった。国家にとって、物資を効率よく生産することは重要なことだった。そして、現在の教育は、大企業の従業員を育成するためのものだ。大企業が利益を上げることが国益になるからだ。
学校教育とは、「見えるものが存在し、見えないものは存在しない」というのが根本だ。心というものは、化学的、電気的な作用として扱われており、深い心とか霊といったものの存在を認めず、そういったことを真面目に考えることは、愚かでおかしなことだとされている。
だから、学校ではソクラテスの思想は扱わないし、扱えない。せいぜいが、ソクラテスは悪法も法だと言って毒杯を飲み干した人で、さあ、そんな人はどんな人か、みんなで考えよう・・・などという扱われ方をする。
『星の王子様』だって、学校ではまともには扱わないと思う。この作品は、学校教育とは全く相容れない。その主題は、「本当に大切なものは目に見えない」だからだ。
真の賢者達の教えは、全て、目に見えることは2次的なものであり、隠れて見えない1次的なものを得よということである。
原発からの利益は2次的なもので、価値がない訳ではないが、もっとはるかに重要な1次的なことをおろそかにしてはならないのだが、それは学校教育に反する。もっとはるかに重要なこととは、原子力の危険性を理解することだけではない。自然や生命を崇敬、畏怖し、全体の調和を大切にすることだ。そいうすれば、元々、原発推進という選択はなかっただろうし、全く別のエネルギーの開発を進めていただろう。そして、真に有益なエネルギーは、目に見えないものを、目に見えない方法で理解しなければ得られないものだ。学校教育で身に付けた思考法では奇妙に感じるようなものだが、無いとされている深い心には実に簡単なものなのである。

学校の思想から離れよう。それは単なる迷信である。ただし、1つの迷信から別の迷信に変えるという愚かなことをやってはならない。
岡本太郎は、授業中、両手で耳を堅く塞いだ。汚れた思想が、清浄なる頭脳を汚すことに耐えられなかったのだ。そこまでの感性を持つ優れた人間も、本当はもっといるはずである。
学校ではいじめはなくならない。いじめのない学校はない。なぜなら、目に見える範囲だけの秩序を維持するには、いじめは必要なものだからだ。いじめは、学校教育と適合しているのである。
学校では決してその本質を扱わない、老子、荘子、ソクラテス、エマーソンを学ぶことは良いことだ。それらは、目に見えない範囲からの本質的な秩序を扱う。そこでは、いじめのようなものがあるはずがない。
釈迦やイエスは最高の賢者であるが、彼等の教えは権威によって歪められており、本質を掴むことが難しくなっており、かえって偏見を得てしまう可能性が高い。学校で教わった読み方を脱却すれば、聖書や仏典も有益と思うが、普通は、『バガヴァッド・ギーター』を読む方が良いと思う。









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