ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

学校教育

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

学校は馬鹿製造所

いかなることも、うまくいかない理由は「素振りの数が少ない」からだ。
プログラミングをマスター出来ないなら、プログラミングの本を読んだり、良いプログラムを書き写したり、自分で作る時間が少な過ぎるのだ。
ダイエットが出来ないなら運動が少な過ぎるのだし、楽器演奏が下手なのは練習時間が少な過ぎる。
引き寄せでは「神様の奇跡が起こる」と唱えれば幸運がやってくるが、そうならないのは唱える数が少な過ぎるからである。

ただし、あくまで「素振り」の数であり、鉄のバットを振る数ではない。
たとえば運動と言ったら、スクワットとか腹筋運動とか腕立て伏せとか、ジョギングやウォーキング、あるいは、筋トレの話をしたがる者が多いが、そんな運動を続けられるはずがないし、無理に続けたらストレスがたまって、かえって心身を損ねたり、何より運動嫌いになる。
プロスポーツ選手ならお金のために無理な運動をする必要もあるが、彼らが健康であることは滅多になく、ほとんどの選手が、身体も心もボロボロである。

おそらく、学校の勉強や運動は、勉強や運動を嫌いになり、勉強や運動をしないようにさせる目的があるのだろう。
予想でしかないが、特に学校の勉強や運動を徹底して叩き込む日本を見れば、日本人を駄目にしたい勢力がいるのだということは容易に想像出来る。
それにより、日本人の実質のIQを下げ、長寿ではあっても有益な活動が出来ない心身にしてしまっているのである。

勉強などの素振りというのは、自分が興味があって面白いと思うことに徹底的に時間を注ぎ込むことであるが、日本の学校では絶対にこれをさせない。
これをやらせたら、優秀になってしまうからだ。日本人は無能バカでないといけないのだろう。

また、素振りと言っても、野球のバットや剣術の木刀の素振りと言ったら、汗がしたたり落ち疲労困憊(ひろうこんぱい)するようにやるのが正しいみたいな変態的な観念を叩き込まれているのも、やはり、正しい素振りが出来ないよう、我々は調教されているのだろう。
素振りというのは、長時間出来るように楽にやるものである。
素振りで大切なことは、とにかく長時間やることである。
それで言えば、腕振り運動は実に良い。
ところが、別に病気でもない人に、「今は100回しか出来ませんが、500回くらい出来るようになりたいです」という馬鹿なことを言われて途方に暮れたことがある。誰だって1000回や2000回出来ないはずがない。
おそらくこの人は、数十回で疲れてしまうほど力を入れてやっているか、腕振り運動が刺激のない単調なものにしか感じられないのだろう。
また、私に「腕振り運動の動画を作って下さい」と言ってくる者もいる。
腕振り運動の動画や解説なんていくらでもあるし、それらを参考に、自分が好きなようにやれば良いのである。
それで、駄目なやり方でやってしまうかもしれないが、もっと楽で気持ちよくやれるよう工夫することに意味があるのである。
この工夫こそが勉強であり訓練であり、IQを高めることであるのに、やはり、学校で「良いことは何もさせない」という教育が徹底しているのだろう。

永遠の閃光
AIアート217
「永遠の閃光」
Kay


古い『愛のほほえみ』というイタリア映画で、9歳くらいの可愛い少女オルガが「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」と言ったのは、愚か者製造所である学校に従わない決意であろう。








平凡なことを平凡に行うのは非凡ではなくロボット的である

賢い人達の間では、学校は、「行かなくて良い」から、「行ってはならない」の認識になりつつある。
それは正しい。
(もちろん、コミュニティに参加することは必要だが、あらゆる年齢のあらゆる職業の人々のいるコミュニティでないと意味がない)
小学校では、入学早々、「前に倣え」、つまり、「前の人と同じようにやれ」と強要され、ロボットにさせられていく。
そして、中学校に入ると、「もう大人なんだから」という言葉を悪用され、厳格に、徹底的にロボット化させられる。
「皆と同じようにするのが大人だ」というわけである。
もちろん、表面上は、小学校でも中学校でも「個性が大事」と言うが、それは、ごく限定された範囲内の、浅いレベルのことで、それを超えると、「幼稚」「わがまま」「素行不良」「問題児」である。

私は、中学校の時、初めて担任を持つという若い女性の教師のクラスになったことがある。
だが、若い教師でありながら、私が、「人と同じでありたくない」と主張すると、困った人間を見る目で私を見て、「そんなのは早く卒業しなさい」と、見下す態度で馬鹿にし、かなり嫌がらせもしてきた。
教師になった時点で、とっくに、徹底的に洗脳され尽くされているのだろう。そうでなくては教師にはなれない。
その教師が、ある時、黒板に書いた文章を私は憶えている。
「平凡なことを平凡にやることが非凡だ」
これは、ノーベル賞作家、アンドレ・ジッドの言葉で、一般には、
「平凡なことを毎日平凡な気持ちで実行することが、すなわち非凡なのである」
と知られている。
・・・と、実は、今、検索して知ったのだが(笑)。
これも、教師による名言の悪用である。
少なくとも、この言葉は「人と同じにやれ」という意味には全くとれない。
そもそも、翻訳の言葉は、元の意味が全く不明なことが多いが、この言葉もそうである。
「小さなことをコツコツやることが大事」
「当たり前のことを当たり前にやることが大事」
というなら分かる。
しかし、「平凡」と「小さなこと」「コツコツ」「当たり前」は同じではない。
たとえば、「テレビを見ること」は、今でも平凡なことだが、こんなことを「毎日平凡な気持ちで実行」するのは馬鹿である。
もし、ジッドのこの言葉が、元々は良い言葉であるのなら、翻訳が拙かったのだろう。それも、かなり。

あの教師が「平凡なことを平凡にやることが非凡だ」と教えてくれたことはありがたいと思う。
だって、おかげで、
「平凡なことを平凡にやる」
とは、
「平凡な人達と同じにやる」
という意味で、それはすなわちロボットであるということで、それが学校教育の目的であることが明確になったからだ。
おかげで、私は中学2年で学校と(精神的に)縁を切れた。

そもそも、何かをするのに「平凡に」という言い方は、言葉の使い方の完全な間違いである。
あなたは平凡に歩くだろうか?
あなたは平凡にコーヒーを飲むだろうか?
あなたは平凡に勉強するだろうか?
あなたは平凡に練習するだろうか?
言葉の使い方のおかしさは歴然としている。
このジッドの言葉も、頭のおかしいやつか(はっきり言って馬鹿か)、闇の支配者の配下の者が翻訳したのだろう・・・まあ、冗談だが、そう考えて全くおかしくない。








自分で自分を教育する

我々は皆、自分で自分を教育し直さないといけない。
学校で、致命的なまでに悲惨で歪んだ教育をされたからだ。
小学校に行っていたなら例外なくそうで、中学、高校と行くたびに悪くなり、その後も同じだ。
教育とは偏見の別名だと言った著名な教育者がいたが、それでは学校教育の恐ろしさを表現出来ていない。
自分の中から学校教育を全力で消さなければならず、それに代わる、少しはマシな教育を自分に対し行わないといけない。

良い教育とは、観察と体験であり、自然と人間の営みを観察しなければならない。
そのために参考になる本を読むのは良いことだが、あまり本に頼ってはいけない。
まして、著者の主張めいたことが書かれていれば、それは偏見である場合がほとんどなので、著者の自我が現れた本には注意しなければならない。
著者が、必要もなく個人的体験を書き連ねていたら、嫌な感じがするはずだから、その感覚に気をつけなくてはならない。
もちろん、他者の体験が必要なこともあるが、もし、それを本から学ぶ場合は、感情を込めず淡々と書かれたものか、自分以外の者を観察した記録として書かれたものを読むと良いだろう。

自己主張が人間を愚かにすることを、本当なら小学生の時に知っておくべきだが、これに関し、学校では2重の意味で悪い教育をされた。
1つは作り物の主張を自分の主張だと思い込まされたこと。
もう1つは、その作りものの自己主張をすることが称賛されたことだ。
これは、専制国家を観察すれば分かるはずのことであるが、そもそも、自分が専制国家と何ら変わらない教育をされているのだから、他の専制国家の思想教育を見ても、単に、自分と異なる主張を持っている程度にしか感じないだろう。
『老子』や『ソクラテスの弁明』の何が良いかというと、彼らは、自分が愚かだと明確に表明していることだ。
それにより、老子やソクラテスに劣る自分が、いかに愚かか気付けるはずなのである。
「ソクラテスは馬鹿だ」と言うのは、ある意味正しい。
ところが、自分はもっと馬鹿だと気付けないなら、救いようがない馬鹿なのである。

本来、いろんな年齢、いろんな職業、いろんな人種の人達と交流するコミュニティーに参加する必要がある。
そうすれば、自分が賢いなどという、これほど馬鹿げたことはないというほどの愚かさを持たずに済む。
だが、今の学校では試験の成績が良いことで自分は賢いと思う愚か者だらけなのである。これを傲慢な馬鹿と言う。
逆に、試験の成績が悪い者が、それが理由で自分を愚かだと見なせば卑屈という馬鹿になる。
傲慢も卑屈も、共に悪いのは、いずれも、低いレベルから全く進歩出来ないからである。
だが、謙虚であれば、とりあえずはコミュニティーに参加出来なくても嘆かなくていい。そして、謙虚であるためには、敬うことだ。
人間にとって、敬うことほど大切なことはそうはない。
よく、偽物の教育者が「感謝する心を持て」などと言うが、感謝する心は無理やり持てるものではない。
そんな教育下では、試験の点が良い者、スポーツで好成績を上げる者を敬う愚か者だらけなのである。
敬うべきは自然であり、自然に則って生きている(それが自然を敬うということなのだが)者を敬うことである。

もし、イエスや釈迦が偉大だとすれば、彼らは自然だから偉大なのである。
イエスに「第一の教えは何か?」と問うたら「神を愛すること」と答えたらしい。
それは、神が大自然そのものであるからだ。
ちょっと難しく言うなら、神は自然の全潜在力と言っても良いかもしれない。
自然の全潜在力がイエスの味方であったように、イエスのようであれば、自然の全潜在力、即ち、神、即ち、宇宙はあなたに味方する。
それにはどうすれば良いかというと、自分(自我)を、神、即ち、宇宙大自然より下に置く謙虚さを持つことで、これが教育の目的である。
それを、神を愛するとか、崇めるとか言うのである。
これを、呪文として言えば、例えば、「神の他には何もない」となる。
正しい呪文を常に唱えていれば、自然の全潜在力が味方するのだから、奇跡だって起こる。
初心者としては、「神様の奇跡が起こる」と唱えるのも良いだろう。
自然の全潜在力は、邪魔をしなければ、安心、大丈夫になるのだから、「大丈夫」「心配ない」「なんとかなる」と唱えても良い。
そんな唱え言葉で、詰め込まれたゴミのような教育を洗い流すと良いだろう。








希望の未来か、速やかな破滅かの選択の時

第二次世界大戦後、日本は奇跡の復興を遂げたと言われる。
そして、松下幸之助さんのどれかの本に書かれていたと思うのだが、その中でも、特に復興が早かったのが、原爆が投下された広島や長崎であったという。
どういうことかと言うと、人間というのは、困難があるほど力を発揮するということなのだ。

困難があるほど大きな力を出すというのは、紛れもない事実で、不利な条件はむしろ恵みなのである。
逆に言えば、恵まれ過ぎていることは、本当は不幸なのである。
これについて、私は、「ザ・ケルン・コンサート」を覚えておくべきと思っている。
1975年に、ドイツ(当時、西ドイツ)のケルンのオペラハウスで行われた、ジャズピアニスト、キース・ジャレットによる即興ソロ・ピアノ演奏会だ。
コンサートが開始された時間は、夜の11時半。
ジャレットは、数日間の不眠、サポーターを巻いた腰の痛み、しかも、スイスのチューリッヒから563キロを5時間かけて車を運転してきたばかりだった。
そして、さらなら困難があった。
手違いで適切なピアノが届かず、そこにあったのは、この広いオペラハウスには小さなピアノで、しかも、そのピアノは壊れていて、高音と低音が駄目でペダルもうまく動かなかった。
当然であるが、ジャレットはいったんは演奏を断った。しかし、コンサートを主催した17歳の女子学生の立場を思いやって演奏を行うことにしたが、ジャレットは、この小さなピアノで、後ろのお客さんにも聴こえるよう、中腰で立って力強く鍵盤を叩かなければならなかった。
だが、すぐに、奇跡が起こっていることが分かった。
収録された演奏は400万枚以上売れる名演奏となり、最も成功したジャズのソロ・アルバムになった。
皆さんも、聴けば、その素晴らしさが分かると思う。
多くの困難があったからこそ、こんな奇跡が起こったのではないかと思われるのだ。

日本では、近年に、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東北地方太平洋沖地震といった大地震が起こったが、はからずもそれが、再び、日本の奇跡の力を世界に見せ付けることとなった。
ただ、東北大震災に関しては、福島原発事故の問題が今も続いている。

ところが、今回の新型コロナウイルスについては、かなり違っているのである。
これが収束した後、再び大復興を遂げれば良いというものでは決してない。
このウイルスにより、人類の有り様そのものが間違っていたことが明らかにされたのだ。
オリンピックを初めとするスポーツの巨大イベント(日本では高校野球甲子園大会が代表的なものになる)により、一部の者達が暴利を貪るために、スポーツが捻じ曲げられ、崇高な面が失われていることを利権者達は隠そうとしているが、もう騙されてはいけない。
今のようなオリンピックであれば、中止ではなく廃止をすぐに決めないと、人類は終わりかねない。
そして、今の形の、生徒を洗脳し、権力者に都合の良い偏見を叩き込むための学校はあってはならないものである。
教育は不要で、必要なものは学習であり、そのために必要なことは既に分かっている人達が沢山いるので、教育で利権を貪る者達が去りさえすれば、正しい学びを始めることが出来る。
残念なことに、これらのことは、新型コロナウイルスが来なければ、いつまでも解決されないまま時間が過ぎ、人類は暗黒時代を迎えるはずだった。
今、我々は、希望の未来か、速やかな破滅かの、いずれかを選ばねばならないのである。













当ブログオーナーKayによるAI書籍。

ソニーの無料WindowsアプリNNCを使い、誰でもAIを自分で作れる。
Excelが使えれば、数学、プログラミング不要で、面白いテーマを実習しながらAIリテラシーを習得出来ます。

必然性のない学習はナイフで戦う方法を学ぶより意味がない

ある会社の1人の男子社員が、英会話の勉強をしていると言う。
しかし、彼の勤める会社は現在、海外で事業をしている訳ではなく、海外と取引があるのでもないらしい。
また、英語を話す海外の友人がいるというのでもないし、留学する予定がある訳でもないらしい。
それで、彼に、なぜ英会話の勉強をしているのかと尋ねると、社長が何かの時に、彼ら社員に送ったメッセージの中に、「当社はいつまでも国内だけに留まっておらず、海外で事業をすることになる。そんなことが必要な時代である。だから、その時に活躍できるよう、英会話をしっかり勉強しないといけない。社員全員にTOEICを受けさせる計画をしている」というものがあったからだと言う。
それで、私が、
「いつ海外に行くんだね?」
と尋ねると、彼はぽかんとして、
「そんなこと分かりませんよ」
と言う。
「なら、君は、海外で何をするのだね?」
と聞いても、彼は不快そうに、「分かるはずがない」と言う。
会社の、いつ、どんな形で行われるか全く未定の海外事業計画のために英会話の勉強をやっていると、彼は正気で言っているようだ。
彼も愚かであるが、社員に対し、社長がそんな間抜けなメッセージを出すその会社の将来も知れたものだろう。

必然性のない勉強に、何の意味もない。
しかし、学校では、必然性のない勉強を強要し、必然性のあることを禁止するのである。
それが学校というものなのだ。
無論、たまたま、学校の勉強に必然性ある意義を見出して勉強することができた幸運な子供もいるだろう。
しかし、大多数は、日本の学校の本質的な役割である、奴隷のような労働者を作るという目的の通りの人間になっているのである。

私は常々、これからの時代は、全ての人にコンピュータープログラミングが必要になるので、なるべく早く学んでおくことがあなたにとって大きなメリットになることを様々な形で述べてきたし、これからも話したいと思う。
しかし、何の必然性もなしにプログラミングの勉強をしても、何も身に付くはずがない。
これは、当然の前提のつもりだった。
あまりに当たり前のことなので、あえて言わなかったかもしれないが、今日、若い人と話していて、改めてそのことに気付かされたのである。
その中で、ある理系の大学生は、すぐに、今の研究内容をデータベース化し、複雑な統計解析を行うためにExcelとVBA言語の有益さを理解したのだが、その他の者はそうではなかった。
「プログラムかあ・・・」
と言うだけで、全くピンとこないようである。
しかし、学生、社会人に限らず、決して必要性がない訳ではないのである。
ただ、勉強なり、仕事なりに熱意が無いので、それを合理化しようとか、高度化しようという考えが浮かばないのである。
そうなければ、プログラミングを学ぶ必然性を感じることはない。

私は昔、小さな会社で、資材購入や、売上管理の事務の仕事をしていた時、会社にいた技術課長にパソコンでのプログラミングのことを聞き、正直、仕事はあまり好きではなかったが、すぐに業務に役立たせせることができると感じ、その日の帰りに本屋に行ってプログラミングの本を買ったのだった(当時、まだAmazonはなかった)。
実際、私がプログラミングをしたために、仕事は大いに効率化され、営業や製造の合理化にもつながった。
そうやって、私は実践的にプログラミング能力を身につけ、新しい場所に移ることになったのだ。

勉強に限らず、何事も、子供でもあるまいし、必然性もなしに効果的な活動はできない。
いや、子供こそ、必然性がなければ、良い行動はできない。
例えば、子供でも大人でも、興味があるということは、立派な必然性である。
子供の場合は、興味というものの割合が大きいというところは、大人とはやや異なるかもしれないが、そこに必然性があるから情熱をもってやれるという意味では同じである。
学校では、興味のあることはあまりさせてもらえず、何の関心もないことをやることを強要されたはずだが、いつまでもそんな「学校に隷属する学生の真似」をせず、それに本当に必然性があるかどうかは自分で考えて行動しなければならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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