ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

学校

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

企業の開発者が教師をやるべき

インターネット高校のN高等学校では、プログラミングの授業で、ドワンゴの技術者が教えるらしい。
ドワンゴかどうかはともかく、プロの開発者が教えるのは良いことだ。
狩猟民族の子供に狩猟を教えるのに、狩猟学の権威の先生などお呼びでなく、実際に狩猟が上手い者が教えるべきなのと同じだ。
学校でプログラミングを教えるようになったら、日本のITレベルはぐっと「落ちる」(笑)。
学校の先生がプログラミングを教えられるかどうかなんて問題ではない。
プログラミングというのは、勉強ではなく、実用行為なのだ。
釣りが、勉強ではなく、魚を取るという実用行為なのであるのと同じだ。たとえ趣味の釣りであっても、実際に魚が取れるのでなければならないはずだ。
成績データベースを自分で作っている教師であれば、プログラミングの教師として「マシ」ではあるが、問題もある。
そんな学校プログラマは、周囲にライバルがおらず、自分の能力とかやり方を過大評価し勝ちだ。結果、生徒にプログラミングに関する厄介な欠点を植え付けることになる可能性が高く、それが生徒にとって、致命的欠陥になる場合もあるだろう。
教師というのは、最も、教えるのに向いていない人種ではないかと思う。

算数や数学の勉強が役に立たないなんて、恐ろしくもトンデモないことが言われるのはなぜかというと、学校の先生が役に立つ算数や数学を知らないだけのことだ。
教科書でしか算数や数学を知らず、科学技術の研究や開発で活用したことがないのだから、役に立つことを教えられるはずがない。ところが何と、学校の算数や数学は、教科書以外の勉強はしないことになってる。
世界では、進歩した教育では、そんな学校は無用だと堂々言われるようになってきたし、実際、消滅させる方向に動いているだろう。
以前、日本の小学校で、企業の技術者にテクノロジーの授業をさせ、生徒達は楽しくて喜んでいたし、役に立つ授業であったが、教育委員会が「そのようなことをやってはならない」と、その学校を戒めたらしい。
教師としては最高であったジョン・テイラー・ガット が書いた『バカをつくる学校』という名著があるが、まさに日本の学校はバカを作る学校である。

アメリカでは、大学の先生だって、企業と提携して儲けられないのは無能だから評価されないらしい。実際のことは知らないが、それが当たり前だろう。
実用で役に立たない、そして、実用で使ったことのない学問など、無用の長物である。
プログラミングもだが、数学や物理、化学だって、テクノロジー企業の開発者(企業の研究者は開発者でもある。開発の出来ない研究者など有り得ない)が教えるのが一番良いのは間違いない。
学校の教師はいらないし、おそろしく高い給料を払っている金を、もっと良いことに使うべきだが、教師にだって生活がある。
学校で教師によるアホなイジメのことが話題になっていたが、あんなの、いくらでもあるだろう。役に立つことをやっていない人間に思考力があるはずがないからだ。
もちろん、現場の先生は、問題のある子供のために多大な労力を使っているが、その労働の多くは、教師の仕事とは言い難い。
生徒に対する様々な対応をきちんとやる機関を作ったり運営する予算を使わず、それを安直に教師に押し付けているだけだろう。
だから、勉強の教師は、しかるべき人(企業の研究開発者)にまかせ、今、教師として勤めている人は、授業や生徒へのサービス要員にすれば良いのである。実際。真面目な教師達も、そう感じているのではあるまいか。
学ぶことについては、アメリカで起こりつつあるアンスクール(反学校。非学校教育)のように、学ぶことは子供達が自分で決める・・・そのために、生徒は広い世界と交流し、変態だらけの教師から解放すべきだろう。








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自殺するなら、超人になれ

以前も書いたが、夏休み明けの時期は、子供達の自殺が急激に増える。
これに関し、学校関係者の言っていることを聴くと、子供達を保護しよう、慰めようというものばかりだが、それは何の解決にもならない。
良い成果を上げるために、必要不可欠なことは、学校関係者自ら、学校を否定することなのだ。
だが、彼らがそんなことをするはずがないので、決して、絶対に、子供達の自殺は防げないのである。

どういうことかというと、まず、これは十分に可能なことなのだが、遅くとも、中学2年生までに、学校がなくても、独学で勉強出来るようにしてあげないといけない。
そうすれば、学校に行かなければ、勉強が出来なくなるという不安が無くなる。
そんな不安は絶対に不要なのだ。
私は、中学2年生から、授業を全く聴いていなかったが、何の問題も無く、現在、上級のシステムエンジニアをしている。
独学と言っても、もちろん、中学や高校の全科目を勉強するような馬鹿な真似をする必要は全くない。
数学や科学の基礎(考え方)は、早いうちに最低限でも習得することが好ましいが、社会等の科目は、必要になれば、あるいは、興味を持った時点でやれば良い。
しかし、学校は、子供達や保護者にとって、不可欠の存在であろうとし、子供には独学が不可能であるように思わせ、そして、馬鹿げたほど多くの科目を詰め込まなければならないように強制する。
それだけでなく、国家の思想統制に反するものの考え方を許さない。
これでは、自殺候補の子供達に死ねと言っているに等しい。
以上のことから、子供達の自殺を防ぐためには、学校自体が学校を否定しなければならないという理由がお分かりであろうと思う。
私は、自分で学校を否定することで生き延びたのである。

そして、子供達には、力が手に入れられる道を示さなくてはならない。
もちろん、学校は、子供達に奴隷としての力しか認めず、それ以外の力を得させないよう、想像力を破壊する場所であるから、この点でも、学校は否定される必要がある。
学校に行かなくても、身体は鍛えないといけないが、体育の授業やクラブ活動でやるような、しんどいだけの時代遅れのやり方では駄目である。
学校では、良い身体の鍛え方は学べない。
授業時間やクラブ活動では出来ないような、長時間、ストレッチを根気良く淡々と繰り返すような運動が合う子もいるが、学校では決してやらせてもらえない。
これは、イチロー型のトレーング方法だ。
あるいは、腕振り運動を、何百回、何千回と淡々と繰り返すようなことは、決して許されないだろうが、これが根本的な力をつけるのである。

本田透さんの本で、『自殺するなら、引きこもれ』という本がある。学校は命を捨ててまで行くほどのところでないという点では良いのだが、それだけでは駄目なのだ。
子供達に、学校に行かずに済むだけの負け犬になったと思わせてはならない。
そうではなく、学校に行かないことは、学校に行っている子達より、よっぽど創造的で優れた人間になるチャンスを掴むことであることを、はっきりと言ってあげないといけないのだ。
そうすれば、学校に行くこと自体は苦にしない子も、「じゃあ、私も学校はやめて独学でいく」となるだろう。
そうやって、現代の学校をどんどん否定しなければ、子供の自殺だけでなく、若い人の、ひいては日本の活力を高めることはできないのである。
私なら、『自殺するなら、引きこもれ』ではなく、『自殺するなら、超人になれ』と言いたい。
そして、ちゃんと超人になる方法を教えてあげないといけない。
もし私が、もう一度、中学校や高校に行かなければ投獄すると言われたら、激しく戦うか、国外逃亡するだろう。なぜなら、そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシだからである。
ああ・・・それと、初音ミクさんの歌はちゃんと聴くように。
ミクさんの歌には、沢山の人達の共感と感謝が満ちていて、自分の中の力を自分で引き出すヒントを与えてくれると思う。

だが、学校にも良いところがあることも述べておく。
それは、思想家の吉本隆明氏も言われたように、教師を反面教師として学べるということだ。
このことの価値は小さくはない。
世の中は学校以上に理不尽である。
しかし、誰もが、いつかは世の中に出て行く必要がある。
それなら、教師という馬鹿者によって鍛えられておくことにも大いに意味はあるのである。
私は、子供達に、教師と同等の私の愚かさを見せることを躊躇しない。世の中は、こんな下らない大人がうようよしているのだ。それをしっかり覚えておきなさい。









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難しいから面白いというシンプルな真理

何でも、難しいものが面白いのである。
難しければ難しいほど面白い。
こんなことが分からないから、世の中がおかしくなっているのである。
プロ野球やプロサッカーの選手で、年を取っても熱心にやっている人というのは、そのスポーツが大好きであるのは間違いないが、なぜ好きなのかというと、猛烈に面白いからだ。そして、なぜ面白いのかというと、それが難しいということを誰よりもよく知っているからだ。
飛び級できるほど頭の良い生徒は、実際に飛び級させてもらえないと、学校の勉強なんて簡単過ぎて全然面白くない。しかし、なぜか日本の学校は飛び級させてもらえない。
斎藤ウイリアムさんという、事業家で、特に情報セキュリティのスペシャリストである人は、頭も良かった上に英才教育を受けていたから、学校の授業が簡単で面白くなかった。
それで、高校の時、大学の講義を覗いてみたら、十分に難しいから、とても面白くてエイキサイティングだったので、大学の方ばかり行っていた。幸い、大学の単位を高校の単位に組み込める制度があったので、正式に大学の講義を受け、16歳で大学に入った。アメリカだからできたが、日本ではそうはいかなかっただろう。

ところが、多くの日本人は、勉強は難しいから面白くないのだと、ひどい勘違いをしている。
学校の勉強が面白くないのは、教師が勉強の面白さを忘れ、教えることの面白さ(これは難しさでもある)を知る努力をしないからだ。
教師だって、学生の時は、難しい勉強が面白かったに違いないと思う。だから教師になったのだ。
しかし、学問なんて、いったん分かったことは面白くなくなる。
だから、どんどん難しいことを勉強しないといけないのに、それをやらないから、いつか勉強が面白くなくなってしまったのだ。
そして、勉強を教えることはとても難しいのに、それを本気でやらないから、つまり、怠慢さから、自分にとって簡単な教え方をするので、教えることが面白くなく、教わる生徒も、勉強の面白さを感じないのである。
そんな駄目教師が生徒をいじめて自殺させたり、男の教師が女生徒に性的関心を持ったりという、あり得ないはずの愚かなことをやってしまうのだ。

また、学校の勉強が面白くないのは、無理矢理頭に詰め込むようなものが多いからだ。
暗記するだけのことなんて、簡単だから面白くないのだ。
だから、暗記なんかやる気にならず、苦痛なのである。
「簡単暗記法」なんてものを考える教師もいるが、そんなものが面白いはずがないのである。
暗記なんか、決してしてはいけないし、させてはならない。
それは、子供の感性を速やかに破壊し、勉強嫌いにさせる、慙死(ざんし)に値する(恥じて死ぬほどの愚行である)罪であるのだ。
つまり、今の学校や教育界は速やかに消え去ってよろしい。

私がいつも薦めているコンピュータープログラミングを、「私には難しいですから(やりません)」という人がいるが、そう言うのは、やはり学校で馬鹿げた勉強観を持ってしまったからだ。
自分で難しいと言っているのだから、それが面白くないはずがない。
そして、コンピュータープログラミングは、誰がやっても本当は面白いのだ。
ただ、学校でコンピュータプログラミングを学んで、それが嫌いになった人というのは、やはり、教師がコンピュータープログラミングの面白さを伝えることができなかったからだ。
自らどんどん難しいコンピュータープログラミングに挑んでいる教師であれば、また、教える難しさに取り組む教師であれば、生徒もコンピュータープログラミングを面白いと思うはずなのだ。
しかし、自分は、難しいことにチャレンジしない教師に教わるから、生徒は教わることの全てが面白くなくなってしまうのである。

私が特に薦める、マイクロソフトExcelやAccessのVBA言語だって、決して易しくはない。
しかし、時々、「あんなのは簡単だ」と言う者がいるが、その者は、難しいことをやっていないだけだ。
実際、そんな連中は難しいことができず、給料も少ないはずだ。
VBAも含め、プログラミングは、易しいこともできるが、いくらでも難しいことができるのだ。
どんどん難しいことをやるから、面白過ぎてオタクになってしまい、斎藤ウイリアムやビル・ゲイツのようなスーパー・ハッカーになってしまうのである。
ExcelやAccessのVBAは仕事に直接的に役に立つから勧めるのであるが、それは、簡単だがうんざりするような量の仕事を短時間に終らせることができるということなのだ。
だから、それができるようになったら、仕事を難しくしていけば良い。そんな難しい仕事にVBAを適用させるのは難しくて面白いので、仕事もプログラミングも面白くなる。
また、場合によっては、別のプログラミング言語で、もっと難しい仕事に挑めば良い。
決して間違えてはならないのは、今使っているプログラミング言語が簡単だから変えるのではなく、これからやろうとしている難しい仕事に適しているという理由で変えるだけなのである。
プログラミング言語自体に、難しいとか簡単といった差はない。
VBAや、(やはりなぜか人気がない)PHP言語で難しいことができるなら、別に変える必要はない。
私は、VBAででき、これでやるのが最も適している十分に難しい仕事に恵まれているのでVBAを使い続けているのである。
だが、簡単なことばかりやっていると、VBAもPHPも面白くなくなってしまうだろう。

尚、なぜ難しいから面白いのかについては、これも重要なのでまた書くが、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読んだら分かることである。









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頭が悪くても人生を楽に泳げるようになる勉強法

人生は短く、貧弱な心と身体を持った人間は、正しい選択を行わなければならない。
どんな選択をすれば良いのかというと、最上のものを選び、後は捨てるのである。
よって、人間にとって、最上のものを選ぶ知恵が必要になる。
知恵は知識によって得られるものではない。
ましてや、妄想でしかない、世間の教義や信念では正しい選択は決してできない。

日本人の学力がなくなったのはゆとり教育のせいだと言って、授業時間を増やし、教科書のページ数を増やすことにしたのは、よほどの馬鹿か、良からぬ悪意を持った者達である。
ゆとり教育時代の教科書にしたって、我々は、その何割を知っているだろうか?
2割か?
3割か?
いや、そんなに多くはあるまい。
問題となっていることは、一流大学の学生が小学校の算数が分からないといった根本的なことなのだ。
そんなことが、教科書を厚くして、さらに余計な知識を詰め込んで解決するだろうか?
こんな簡単なことが分からない者が日本の教育を支配しているのである。

私が個人的に行ったことは以下のようなことだった。
まず、基礎的な学力は中学2年までで十分であり、中学2年生以下に、数学、国語、、英語、理科が普通に教えられると思えるなら、自分の勉強を始めるべきである。
尚、社会は中学以降の学校の学習は根本的に間違っていることが分かったので最初から無視した。教科書よりもっとためになる本を選んで読むべきである。

それ以降は、1人で学習できる。また、1人で学習できるような能力が、本当に必要な学力である。
以上の理由から、中学2年以降、私は授業に参加しなかった。
授業を聞いていないと、また、普段の、あるいは、夏休みの宿題を一切提出しないと、ナチスに捉えられたユダヤ人とは言わないが、まあ、そんなものを連想するような目に遭わされたが、正しいことをすれば、神仏が守ってくれた。
定期試験の試験範囲すら知らずに試験を受けたので、点数は推して知れるであろうが、どんな点数だったかは覚えていない。
まあ、テストの成績は10点満点なのかと考えて可笑しくなった思い出はある。

私は、丁寧に書かれた学習参考書を選び、数学、理科、英語だけを学習した。
私は、冷静に考えて、理解力や記憶力が高い方ではない・・・早い話が頭が良い方ではないので、それらの基礎を学ぶだけで精一杯であり、他のことをやっている余裕はなかった。
だからこそ、本当に大事なことをせず、それ以上の学校の勉強をするのは間違いだと確信し、それをしないことを決定した。
それが私の最上の選択だった。
英語に関しては、必要な実践をする機会がなかったので、実用レベルの能力はつかなかったが、数学と科学だけは、最低限の理解を得られた。
当然、それで試験や受験がうまくいくはずがなかったが、それらで最高の成果を出した人間が、どう考えても自分に優るとは思えなかった。
それどころか、試験や受験で成功した人々は、思考が著しく制限されてしまっていて、人間が本来持つ能力をほとんど発揮できず、特に、直観を完全に失っている。
私も公立大学の工学部くらいには入れたが、その学習のおかげでひどく馬鹿になってしまったのである。
一緒にしては悪いが、アインシュタインが試験のための学習のおかげで、長い期間に渡って創造的な思考ができなくなってしまったと嘆いていた意味がよく分かるのである。

私は、普通以上に学校の勉強をした人達よりは、おそらく少しはマシな能力を使ってやれる仕事として、コンピューターシステム開発の仕事を選択した。
それまでは、セールスや事務の仕事をしてみたが、それらの仕事は不合理な面が多く、あまりに疲労が大きかった。
コンピューターシステムの開発も、依頼者を選ばないとひどく不合理で疲れるものであるが、あらゆる仕事同様、必ずしも客を選べない。
(セールスや事務職は、依頼者を一切選べないという意味で不合理なのである。仕事自体が悪いのではない)
私も客は選べないのであるが、それでも・・・このような言い方をするしかないが、神仏の加護で、いつもうまく切り抜けてきた。
世間的な勉強をした者は、神仏の加護が得られ難い。
このことを「馬鹿な」と言うならそれで良い。
そんな考え方は私の知ったことではないからであり、私は確かに神仏の加護を受けているのだから。
正しい学習をしていれば、目には見えないこの世の流れに自然に乗ることができ、ほとんど苦労せずに、楽にやっていける。
しかし、利益や名誉を求めると、世間の人並になり、つまらぬ苦労を背負い込むことになる。
まあ、それも人間を理解する上で必要なことだろう。
だが、いつまでも苦労して苦しんでも仕方がないので、時々、荘子を読んで、世俗を超えることを思い出さねばならない。やはり私は馬鹿なのだろう。
一切の権威を受け入れず、決して個人を崇拝せず、世間の価値に対しては、それを眺めることはしても、決して重きを置かず、自分の内側にある真の自己に注意を向けるのである。
そうすれば、世間の中にあってさえ、魔法の力を得たように、悠々と生きて行けるだろう。
苦しみ多い人生であれば、間違いなく、家庭や学校で間違った教義や信念を叩き込まれ、それを背負い続けているのだ。
台所のゴミを捨てるのに、そのゴミを吟味する必要はない。
同様に、学校で押し付けられたものは、ただ捨てれば良いのである。
それはゴミなのだから。









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家庭や学校は最悪でなければそれで十分だ

理想的な家庭なんて、そうあるものではないし、学校なんてものは、ほとんどがろくでもない場所だ。
しかし、世間全体がひどいところなのだから、そんな家庭や学校で、ある程度鍛えて準備していないと、社会でやっていけなくなるに違いない。
もし、本当に素晴らしい家庭や学校なんてものがあるとしたら、そんな場所で過ごしたら、とんでもなく不幸であろう。そんな高尚な家庭や学校しか知らなければ、上流の家庭や社会で一生、この世の大半のことを知らず、無知な人間のまま過ごすしかないが、そんな人生に価値はない。しかも、その地位が本当に一生保てるかどうかなんて、誰にも分かるはずがない。

だから、本来、家庭や学校のことなんて、過ぎてしまったら忘れてしまうことだ。確かに、憶えている価値はない。
ところが、放置する訳にもいかない、度を越えて劣悪な家庭や学校が増えてきてしまっているのである。その原因は、特定の家庭や学校を賞賛してきたからだ。見かけが豊かで幸福な家庭を、そして、学業やスポーツ、あるいは、芸術・文化などでの活動成果が素晴らしい学校を褒め讃え、それを上位に据えて目標にさせようとしたことが、極端に悲惨な家庭や学校を作ったのだ。そして、その幸せな家庭や羨むべき学校の中だって、実際は腐敗しているものなのだ。
家庭や学校なんてのは、よっぽどひどくなければそれでいいのである。丁度、雨傘というのもが、最高のデザインや色でなくても、雨がしのげればそれでいいようなものだ。

人間の目標なんてのは、豊かで快適な家庭を築くことでも、理想の学校、あるいは、企業を作ることでもない。地球全体で誰もが自由に暮らせるようにならなければならないのだ。
大きな事業を達成するのにだって、必要な学力は、ほとんどが、中学校までのものでも十分過ぎるのに、いまや、小学校で身に付ける必要のあることが分からない者が大多数となった。それで授業時間を増やせば、もっと悪いことになるのは明白だ。やるべきことは、授業時間も教育内容も1/3以下に減らし、上級生が下級生に教えるようにすることだ。文字が読めて計算が出来れば、後は各自で勝手にやれば良く、勝手にやれるようになるよう、子供の頃から、社会で働いている大人達と交流させることだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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