天国、あるいは、極楽浄土の様子は、だいたい次のように言われていると思う。
美しく、快適なこと、この上なく、あらゆるものが得られるので労働の必要はない。
そこの住人になれば、永遠に若く、美しく、病気にもならない。
理性的に考えれば、そんな場所にいれば、幸福どころではなく、耐えがたいことになるだろう。
人間にとって、苦と楽、喜びと悲しみは一体であり、苦があるから楽が成り立つのであり、悲しみがなければ喜びはあり得ない。
だから、楽ばかりでは、その楽が苦に変わるのである。
例えば、嫌々サラリーマンをやっている人に、富や名誉や友愛を無条件に与え続ければ、そう遠くなく、自殺するか発狂するだろう。
大富豪になっても、不幸になりたくなければ、これまで通り、あるいは、より一層働くか、財産を捨てるしかないのである。
天国や極楽浄土も、やはり同じなのであろうか?
それは違う。
そして、人間は、死ぬまでもなく、今、この瞬間に天国や極楽浄土を創り出せるのである。
だが、人間の天国や極楽浄土のイメージには、大きな欠点があり、それが修正できなければ、天国や極楽浄土を創ることは出来ない。
普通の人は、どんな間違った天国や極楽浄土のイメージを持っているのであろうか?
それは、天国や極楽浄土に行けば、ゆるんでしまえば良い、あるいは、ゆるむべきだと思っていることである。
だが、実際の、天国や極楽浄土の住人は全くゆるんでいない。
一瞬たりともである。
ここらが、普通の人には理解出来ない。
そもそも、天国や極楽浄土に入れる者とは、ゆるまない者である。
いくらでもゆるむことの出来る天国や極楽浄土で、自分の意思の力を使い、決してゆるまず、宇宙の発展のために努力する者のみが天国や極楽浄土に迎えられるのである。
ゆるみ勝ちな者は、今、地獄に住んでいるはずだ。
逆に、全くゆるまない者は、今、既に、天国、あるいは、極楽浄土に住んでいる。
例えば、『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナは「聖人と罪人、宝玉と土塊、幸と不幸を同じと観る者は大変に進歩している」と言うが、ゆるんだ者が、そのように観ることが出来るはずがない。
ゆるむことなく、クリシュナが言うような進歩を遂げた者だけが、クリシュナの住む世界、即ち、天国のようなところに行けるのである。
そして、そのような者とは、心を支配することに成功した者だ。
だから、天国や極楽浄土に行きたいなら、心を常に静かに出来なければならない。
間違ってはならないのは、心を静かにすることとは、「私の心は静かである」と己惚れることではないことだ。
自惚れはゆるんだ者の特徴であり、心を静かに出来るのは、常にゆるまない者だ。
つまり、常にゆるまず、最大のエネルギーを要することである、心を静かにすることに務めることだ。
そのための手段として、様々な修行があるのだが、初心者のうちは、仕事や奉仕活動を通して行わなければならないことを、クリシュナも述べている。
禅の有名な公案である「婆子焼庵(ばすしょうあん)」では、若い美しい娘の誘惑を受けた僧が、「私の心は冬の岩のように冷たく滅してしまった。誘惑しても無駄じゃ」と言うのを知って、彼を全面的に支援してきたおばあさんは、彼を追い出す。
その僧は、ゆるんでしまっている。
逆に、誘惑に乗るようでもゆるんでいる。
ゆるんでいなければ、娘の魅力は認めつつ、悩ましいものを感じながらも、うまくかわすことだろう。
まあ、私には、どうかわすのかは分からないが。
一休さんは、「それはさぞ元気が出ることだろう」とは言ったが、自分はどうするとも言っていない。
常にゆるまない者なら、なんとかするのだろう。
そんな者が、天国や極楽浄土に行けるのであるし、今、ここに、天国や極楽浄土を創れるのである。
『小さな恋のメロディ』で、ダニーは、メロディの魅力はデリカシーであると言い、メロディに天国を感じると言う。
メロディは、ダニーをゆるめる存在ではなく、締める存在であり、天国に導くのだが、その秘密はデリカシーだ。
デリカシーとは繊細さのことである。
マイケル・ジャクソンの『Beat It』で警告される通り、乱暴なマッチョマンになってはいけない。
ゆるめば粗暴になるが、ゆるまなければ繊細さを感じることが出来る。
ダニーにとってのメロディは、私にとっての初音ミクさんである。
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美しく、快適なこと、この上なく、あらゆるものが得られるので労働の必要はない。
そこの住人になれば、永遠に若く、美しく、病気にもならない。
理性的に考えれば、そんな場所にいれば、幸福どころではなく、耐えがたいことになるだろう。
人間にとって、苦と楽、喜びと悲しみは一体であり、苦があるから楽が成り立つのであり、悲しみがなければ喜びはあり得ない。
だから、楽ばかりでは、その楽が苦に変わるのである。
例えば、嫌々サラリーマンをやっている人に、富や名誉や友愛を無条件に与え続ければ、そう遠くなく、自殺するか発狂するだろう。
大富豪になっても、不幸になりたくなければ、これまで通り、あるいは、より一層働くか、財産を捨てるしかないのである。
天国や極楽浄土も、やはり同じなのであろうか?
それは違う。
そして、人間は、死ぬまでもなく、今、この瞬間に天国や極楽浄土を創り出せるのである。
だが、人間の天国や極楽浄土のイメージには、大きな欠点があり、それが修正できなければ、天国や極楽浄土を創ることは出来ない。
普通の人は、どんな間違った天国や極楽浄土のイメージを持っているのであろうか?
それは、天国や極楽浄土に行けば、ゆるんでしまえば良い、あるいは、ゆるむべきだと思っていることである。
だが、実際の、天国や極楽浄土の住人は全くゆるんでいない。
一瞬たりともである。
ここらが、普通の人には理解出来ない。
そもそも、天国や極楽浄土に入れる者とは、ゆるまない者である。
いくらでもゆるむことの出来る天国や極楽浄土で、自分の意思の力を使い、決してゆるまず、宇宙の発展のために努力する者のみが天国や極楽浄土に迎えられるのである。
ゆるみ勝ちな者は、今、地獄に住んでいるはずだ。
逆に、全くゆるまない者は、今、既に、天国、あるいは、極楽浄土に住んでいる。
例えば、『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナは「聖人と罪人、宝玉と土塊、幸と不幸を同じと観る者は大変に進歩している」と言うが、ゆるんだ者が、そのように観ることが出来るはずがない。
ゆるむことなく、クリシュナが言うような進歩を遂げた者だけが、クリシュナの住む世界、即ち、天国のようなところに行けるのである。
そして、そのような者とは、心を支配することに成功した者だ。
だから、天国や極楽浄土に行きたいなら、心を常に静かに出来なければならない。
間違ってはならないのは、心を静かにすることとは、「私の心は静かである」と己惚れることではないことだ。
自惚れはゆるんだ者の特徴であり、心を静かに出来るのは、常にゆるまない者だ。
つまり、常にゆるまず、最大のエネルギーを要することである、心を静かにすることに務めることだ。
そのための手段として、様々な修行があるのだが、初心者のうちは、仕事や奉仕活動を通して行わなければならないことを、クリシュナも述べている。
禅の有名な公案である「婆子焼庵(ばすしょうあん)」では、若い美しい娘の誘惑を受けた僧が、「私の心は冬の岩のように冷たく滅してしまった。誘惑しても無駄じゃ」と言うのを知って、彼を全面的に支援してきたおばあさんは、彼を追い出す。
その僧は、ゆるんでしまっている。
逆に、誘惑に乗るようでもゆるんでいる。
ゆるんでいなければ、娘の魅力は認めつつ、悩ましいものを感じながらも、うまくかわすことだろう。
まあ、私には、どうかわすのかは分からないが。
一休さんは、「それはさぞ元気が出ることだろう」とは言ったが、自分はどうするとも言っていない。
常にゆるまない者なら、なんとかするのだろう。
そんな者が、天国や極楽浄土に行けるのであるし、今、ここに、天国や極楽浄土を創れるのである。
『小さな恋のメロディ』で、ダニーは、メロディの魅力はデリカシーであると言い、メロディに天国を感じると言う。
メロディは、ダニーをゆるめる存在ではなく、締める存在であり、天国に導くのだが、その秘密はデリカシーだ。
デリカシーとは繊細さのことである。
マイケル・ジャクソンの『Beat It』で警告される通り、乱暴なマッチョマンになってはいけない。
ゆるめば粗暴になるが、ゆるまなければ繊細さを感じることが出来る。
ダニーにとってのメロディは、私にとっての初音ミクさんである。
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