この季節には時々思い出すのだが、私は子供の時、黄金虫を飼育していたことがある。
黄金虫も秋には死ぬのだが、私は、この黄金虫にはいつまでも生きて欲しいと思い、来年まで生かしてやろうとすら思った。
しかし、そんなことは不可能だ。
ある時、黄金虫が私に言ったものだ。
「坊ちゃん、まず最初に言っておくが、あっしは、籠に閉じ込められて生きたことは悲しんではいない。それは別に、外での危険・・・鳥やアブなどから逃れられたからでもない。確かに、子供を作ることはできなかったが、それは他の仲間がやってくれているのだから、それで良いことだ。あっしは、いつだって自分の運命を受け入れて楽しんできた。そして、自然のままに死ぬのは楽しいことなのだ」
ところで、どこの国にも、「姥捨て山」のような伝説がある。
老人を口減らし(食料などの節約)の為に山に捨てるのだが、息子が担いで捨てに行くという話が多いと思う。
我が国でよく知られているものに、こんな話がある。老母をもっこ(竹や縄で作った運搬道具)に乗せて山に捨てに行く時、背中の母親が、度々、木の枝を折るのを見て、息子が、「何してる?」と問うと、母親が、「お前が帰りに迷わないように目印をつけている」と言う。それで、心を動かされた息子は、母親を捨てることができずに連れ帰る。
私は、この話に強い嫌悪感を感じる。
一見、この母親は息子思いのようだが、自分のために息子を苦しい状況に追い込む母親だ。この母親は、前世で、この息子に恨みがあり、復讐を果たそうとしているに違いない。
捨てられる老人は、60歳くらいだろうか?
あくまで私の感覚だとしておくが、老人でない私にしたって、法的に捨てられるなら、それはそれで嬉しいと思う。
いや、正直言うと、そうであるなら、どれほど喜ばしいかと思う。
自殺ってのは、どんな時代、どんな場合も罪であると思う。
しかし、法に従ってのことなら、寿命が尽きる前に死ぬことも赦されるのではないだろうか?
誰に赦されるかというと、宇宙の理とか、神仏にである。
まあ、あまり若い場合は問題であるが、ある程度の年齢になれば、自己申告によって死んで良いことになればと思う。
ただし、家族や親戚、その他、周囲の者がそれを促すのは罪悪である。それは、法によって罪とすべきだし、神仏の前でも罪である。
死ぬと言っても荘厳な儀式などはいらない。
山の中に捨ててくれれば良い。
捨てられる者は、
「私は死ぬのが本当に楽しみなのだ。私はあの世を信じて疑っていない。だから、念仏を唱えて、あの世に行けるのがこの上なく嬉しい」
と言い、本当にそう思えるようになれば良い。
また、なれるはずなのだ。
時代が下ってから、人間は欲望が強くなり過ぎ、生に執着するようになってしまった。
だが、私が子供の時に共に過ごしたあの黄金虫のように、運命に従い、運命を楽しみ、そして、時期が来れば喜んで死んでいくことを受け入れていれば、人生は貴く、素晴らしいものになる。
人間ってのは、無になれれば不可能はなく、それは、神に限りなく近付いているということと思う。
そして、無になる方法とは、命を捨てることだと思えるのである。これは、別に、宗教的、哲学的な意味でなく、ちょっと何かの道に通じたような、人生をよく知っている者なら誰でもそう言うと思う。
往生と言うのを、肉体的に死ぬことだと思っている人が多いが、肉体的な死は別にどうでも良いことと思う。
太古の人は、生と死に特に区別をつけなかった、あるいは、つかなかったのだと思う。そして、それが正しい感覚なのだろう。
江戸時代の臨済宗の禅僧であった至道無難(しいどうぶなん)は「生きながら、死人となりて、なり果てて 思いのままにするわざぞ良き」と言ったらしいが、「生きたまま死んでしまえば自由自在だ」くらいの意味だろうか?もちっと分かり易く言えよ、無難さんと言いたい気もする。しかし、これが太古の優れた知恵の復活である。
命を捨てるとは自我を捨てることで、自我を捨てるとは、肉体や心としての我に一切の価値を認めないということだ。
それは、自力を頼まない、即ち、自分には何の力も無いということを認めることだ。
そうであれば、高い存在に頼み、委ね、すがり、一切を任せることができるようになるだろう。
我々は、ハエが宇宙船を止めようとして苦しんでいるようなものだ。
人間のやる善いこと、悪いことなど、その程度のことと、早く理解することだ。
そして、宇宙船を止めることだって簡単にやってのける神仏に任せるだけの知恵を得れば良いのではないかと思う。
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黄金虫も秋には死ぬのだが、私は、この黄金虫にはいつまでも生きて欲しいと思い、来年まで生かしてやろうとすら思った。
しかし、そんなことは不可能だ。
ある時、黄金虫が私に言ったものだ。
「坊ちゃん、まず最初に言っておくが、あっしは、籠に閉じ込められて生きたことは悲しんではいない。それは別に、外での危険・・・鳥やアブなどから逃れられたからでもない。確かに、子供を作ることはできなかったが、それは他の仲間がやってくれているのだから、それで良いことだ。あっしは、いつだって自分の運命を受け入れて楽しんできた。そして、自然のままに死ぬのは楽しいことなのだ」
ところで、どこの国にも、「姥捨て山」のような伝説がある。
老人を口減らし(食料などの節約)の為に山に捨てるのだが、息子が担いで捨てに行くという話が多いと思う。
我が国でよく知られているものに、こんな話がある。老母をもっこ(竹や縄で作った運搬道具)に乗せて山に捨てに行く時、背中の母親が、度々、木の枝を折るのを見て、息子が、「何してる?」と問うと、母親が、「お前が帰りに迷わないように目印をつけている」と言う。それで、心を動かされた息子は、母親を捨てることができずに連れ帰る。
私は、この話に強い嫌悪感を感じる。
一見、この母親は息子思いのようだが、自分のために息子を苦しい状況に追い込む母親だ。この母親は、前世で、この息子に恨みがあり、復讐を果たそうとしているに違いない。
捨てられる老人は、60歳くらいだろうか?
あくまで私の感覚だとしておくが、老人でない私にしたって、法的に捨てられるなら、それはそれで嬉しいと思う。
いや、正直言うと、そうであるなら、どれほど喜ばしいかと思う。
自殺ってのは、どんな時代、どんな場合も罪であると思う。
しかし、法に従ってのことなら、寿命が尽きる前に死ぬことも赦されるのではないだろうか?
誰に赦されるかというと、宇宙の理とか、神仏にである。
まあ、あまり若い場合は問題であるが、ある程度の年齢になれば、自己申告によって死んで良いことになればと思う。
ただし、家族や親戚、その他、周囲の者がそれを促すのは罪悪である。それは、法によって罪とすべきだし、神仏の前でも罪である。
死ぬと言っても荘厳な儀式などはいらない。
山の中に捨ててくれれば良い。
捨てられる者は、
「私は死ぬのが本当に楽しみなのだ。私はあの世を信じて疑っていない。だから、念仏を唱えて、あの世に行けるのがこの上なく嬉しい」
と言い、本当にそう思えるようになれば良い。
また、なれるはずなのだ。
時代が下ってから、人間は欲望が強くなり過ぎ、生に執着するようになってしまった。
だが、私が子供の時に共に過ごしたあの黄金虫のように、運命に従い、運命を楽しみ、そして、時期が来れば喜んで死んでいくことを受け入れていれば、人生は貴く、素晴らしいものになる。
人間ってのは、無になれれば不可能はなく、それは、神に限りなく近付いているということと思う。
そして、無になる方法とは、命を捨てることだと思えるのである。これは、別に、宗教的、哲学的な意味でなく、ちょっと何かの道に通じたような、人生をよく知っている者なら誰でもそう言うと思う。
往生と言うのを、肉体的に死ぬことだと思っている人が多いが、肉体的な死は別にどうでも良いことと思う。
太古の人は、生と死に特に区別をつけなかった、あるいは、つかなかったのだと思う。そして、それが正しい感覚なのだろう。
江戸時代の臨済宗の禅僧であった至道無難(しいどうぶなん)は「生きながら、死人となりて、なり果てて 思いのままにするわざぞ良き」と言ったらしいが、「生きたまま死んでしまえば自由自在だ」くらいの意味だろうか?もちっと分かり易く言えよ、無難さんと言いたい気もする。しかし、これが太古の優れた知恵の復活である。
命を捨てるとは自我を捨てることで、自我を捨てるとは、肉体や心としての我に一切の価値を認めないということだ。
それは、自力を頼まない、即ち、自分には何の力も無いということを認めることだ。
そうであれば、高い存在に頼み、委ね、すがり、一切を任せることができるようになるだろう。
我々は、ハエが宇宙船を止めようとして苦しんでいるようなものだ。
人間のやる善いこと、悪いことなど、その程度のことと、早く理解することだ。
そして、宇宙船を止めることだって簡単にやってのける神仏に任せるだけの知恵を得れば良いのではないかと思う。
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