ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

妙好人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

なぜ「ツイてる」と言ってもうまくいかないのか?

因幡の源左(いなばのげんざ。1842~1930)は、江戸時代末期から昭和の男性で、Wikipediaやweblio辞書に載っているくらいだから有名人であり、彼のことを詳細に綴った本や、彼の語録を集めた本もあるし、彼の話を引用した本はかなり多い。
では、因幡の源左は、どんな業績を上げた人かというと、特にないと言うか、商業的、政治的といった物質的なものでは何もない。
それなら、宗教人かというと、彼はただの農民で、僧侶や牧師といった類の、宗教を職業とする人ではなく、宗教ということでは、単に、仏教の信仰者の一人だった。
彼は、「妙好人(みょうこうじん)」と呼ばれる。
妙好人とは、浄土仏教の在家の熱心な信仰者で、特に、浄土真宗の信仰者を指し、念仏者であると言える。
とはいえ、因幡の源左は、信仰振りが凄かったのかというと、彼が長時間、一心不乱に念仏を唱えていたというような話はなく、やはり、ただの農民なのである。
では、そんな彼がなぜ名を残しているのかというと、実は難しいのだが、超越した人間性のためとしか言えないと思う。
そんな彼の人間性を示すお話は多い。
例えば、彼の畑の芋が掘り起こされて盗まれた時のことだ。
それから権左は、畑に鍬(くわ)を置きっぱなしにした。
その理由を尋ねると、「手で掘って怪我をしてはいけないから」だった。
また、権左が町に出て、作ったものを売り、お金を持って帰る時、強盗が彼の金を奪おうと、彼の後をつけてきていた。
すると、権左は、強盗に近付き、
「お前がついてきているのは気が付いている。金が欲しいならやるから、とりあえず、家に来い」
と言って自分の家に連れて来ると、食事を振る舞った。強盗は改心して帰っていったという。
また、こんな話もあったと思う。
権左が訪れた家で金がなくなり、盗まれたと思われた。
権左の仕業と決めつけた、その家の者が権左に「返せ」という額を権左は黙って支払った。
しかし、後で、その金が見つかり、その家の者が権左に謝罪するが、権左は別に気にしていない様子だったという。

権左は、「いい人」と言うよりは超人だったと思う。
では、なぜ、権左は超人になったのか?
念仏を唱えたということもあるが、彼には悟りというものがあった。
そのきっかけは、彼が19歳の時に、父親が亡くなったことだ。
父親は死ぬ直前に、権左に「これからは親様を頼れ」と言った。
ここで言う親様とは、阿弥陀仏のことだ。
それなら、念仏を唱えて、阿弥陀仏の力を頼れば良いのだが、これは誰しもそうだが、神仏に頼るということは本当はどういうことか、権左には分からなかった。
だが、こんなことがあった。
権左が、彼が可愛がっている牛を連れて、山に草刈りに行った時のことだ。
彼が刈った、大きな草の束のいくつかを牛に背負わせ、自分も1つ背負って帰ろうとしたが、やがて、権左は疲れてしまった。
そこで牛に、「すまんがこれも頼む」と言って、自分が背負っていた草の束も牛に背負わせたが、牛はいっこう平気そうで、自分はすっかり楽になった。
その時、「阿弥陀仏に頼む」とは、こういうことだと悟った。
はからずも、イエスが「重い荷を負った者は私に預けよ」と言ったのと同じである。
権左とほぼ同時代のインドの聖者ラマナ・マハルシも「神はいかなる重荷にも耐える。荷を下ろして安心しなさい」と教えている。

まあ、早い話が、「がんばるな」ということである。
だが、「がんばるな」と教える、宗教がかった自己啓発指導者は今でも多いが、世の中を見ると、がんばらない者にはロクなやつがいないことも確かである。
「少しはがんばらんか!馬鹿者!」
と言いたい連中がそこかしこにおり、やっぱり、何かは頑張らないといけないのかと思う。
斎藤一人氏の本を見ると、最初のうちこそは、「ツイてる」とか「ありがたいなあ」と言えばうまくいくと書かれていて嬉しい気分になるが(笑)、読み進めていくと、なんだか話がどんどん難しく抽象的になっていき、厳しいことをどんどん言い、「俺のように、こんなふうにしないといけない」という妙な話になっている(笑)。

だが、話は簡単だ。
まず、がんばる必要はない。
だが、モラルが必要なのだ。
がんばらないロクデナシにはモラルがない。
モラルとは、個人的欲望を抑える、つまり、自己制約のことだ。
別に、無制限に制約しろと言うのではない。
ただ、放埓(勝手きまま)では駄目で、限度を守るということだ。
その限度を知る者を、モラルを持った者と言うのである。
言い換えれば、「放埓に振る舞いたい気持ちを抑え、自分に制約を課すること」がモラルであり、モラルがない者がうまくいくことはない。
斎藤さんにしろ、皆、なんでこんな簡単なことを言わないのか不思議である。
いくら「ツイてる」「ありがたい」と言っても、モラルがない者が成功することはない。
しかし、モラルがあれば、難しい話は不要で、「ツイてる」でも「大丈夫」でも、何と言ってもうまくいくだろう。
因幡の源左は、ただのいい人ではなく、モラルがある人だった。








真言だけが効果があった

柳田國男が東北地方の伝説(怪異譚=妖怪物語が多い)を調査して『遠野物語』を書いたり、グリム兄弟がドイツの昔話を憶えている人から聞いて『グリム童話』を書いたりしたが、伝説や昔話は興味深いものであり、彼らの努力は称賛される。
彼らのように、苦労して伝説などを収集して本にした人がいたから、我々が読むことが出来るのである。
一時期はテレビで見ない日はないと言われ、数百冊という著書を書いた(ゴーストライターは使わなかったという)中岡俊哉が世に出たきっかけは、中国で過ごした若い時に、中国の怪異譚を集め、それを雑誌などで発表したら人気が出たことだった。
やはり、伝説には、人々の心を惹きつけるものがある。

ただ、文明が発達すれば、「価値あり」として情報が集められるものは、物質的なメリットや、学問的価値があると認められるものだけで、そういった基準に合致しなければ、本当は恐ろしく価値のある情報でも、全く知られずに、世の中から消えてしまう。
例えば、西洋魔法の中には、その技術や秘法が凄いがゆえに、うかつに文章にして、おかしな人に見られたら困るので、暗号や魔法結社内部で作られた言葉で書かれたり、あるいは、文章にせず、口伝のみで伝えたようなものが多い。
魔法結社の会員であったノーベル賞文学者で「20世紀最大の詩人」とも言われたW.B.イェイツは、魔法の本質や秘術を『ヴィジョン』という書にしたが、これも、比喩を使い抽象的に書かれているので、読んでもなかなか意味が分からない。
そもそも、旧約聖書や古事記も、実は、そのようなもの(抽象的、象徴的に書かれた暗号文書)であると考えられる。
イェイツもまた、アイルランドに伝わる妖精伝説・怪異譚を調査・収集し、『神秘の薔薇』『ケルトの薄明』『ケルト妖精物語』などとして出版したが、非常に神秘的な内容であるが、実に貴重なものである。

そして、真言(念仏や呪文を含む)の奇跡的効果の記録も、収集者がおらず、多くない。
恐るべき神通力を備えた修験者である役小角(えんのおづぬ)に関しては、本になっており、完全に正確とは言えないかもしれないが、多くのことを知ることが出来る。しかし、彼の行法は複雑で謎も多い。
修験者の中には、般若心経の呪文をひたすら唱えることで、相当な力を得た者もいたのだが、彼らは山に隠れて過ごした(だから別名、山伏と言う)ので、情報が少ない。
その中で、割と情報があるのは、江戸末期から、昭和初期にかけて、念仏によって霊妙な存在になった人達のもので、彼らは「妙好人(みょうこうじん)」と呼称される。
「妙好人」は「妙人」と「好人」の合成語と思われるが、「妙人」の「妙」は「自然の妙」とか言うように、この上なく優れているということで、実は、神秘的な意味もかなり含む。
また、「妙」という文字は、右から見れば「少女」であり、清廉な存在であることも示す。
そして、妙好人となると、世界の宝とも言えるほどの至高の存在で、法然の『選択本願念仏集』にも、念仏者が、妙人、好人であると書かれている。
この妙好人という、江戸末期から昭和初期にかけ、多くは、学問のない庶民でありながら、尋常ではない存在と崇められていた人達が、かなりいたのである。
例えば、ただのお婆さんが、ゲリラ(非正規の民兵。暴民部隊)に村を占拠されても平然と振る舞い、歴戦の大物ゲリラのボスすら畏怖させ、たとえ処刑されることになっても何の動揺もなく銃口の前に立った(銃がなぜか不発になることもあった)。
妙好人は、普通の記録としては、単なる人格者と受け取れる程度のものが多いが、実は、病気を治したり、雨を降らせたり、ゲリラ部隊を追い返したりといった、キリスト並の伝承もある(書にはなっていないかもしれない)。無論、どこまで本当かは分からないが。
なぜ、仏教信仰者の中で、念仏者が妙好人と呼ばれる奇跡的な人間になったのだろう。
それは分かるように思うのである。
元々が念仏の場合、宗教的、あるいは、道徳的な修行をしたり戒律を守ることは、極めて二次的とされ(早い話が無用とされ)、ただ念仏を唱えることのみを重視したことから、真言である念仏の効果が発揮され易かったのだと思う。
つまり、本当は、真言だけで良いのに、他の行者は、いろいろな修行や戒律に心を向け、真言が十分にならないのである。
修験者(山伏)もまた、いろいろな厳しい修行をする者より、たゆまず、般若心経の呪文を唱え続けた者の方が、大きな力(神通力など)を得たに違いないと思うのである。
このあたりの理屈(理屈というのもおかしいかもしれないが)は、法然の『選択本願念仏集』に書かれていて、その多くは、中国の高僧、善導の研究を参考にしている。
つまり、ただ真言さえ唱えていれば、一切の力を得るのである。
(明治・大正の偉人、岡田虎二郎は「念仏さえ唱えれば、一切の問題が解決し救われる」と言った)
妙好人は、念仏について、「お金のことを知らない者でも、出せば、ちゃんと物が買える。本当に価値があるからだ。念仏も同じで、誰が唱えても効果がある」と言う。
念仏の威力については、ある程度の実証記録もある。
やはり、我々は、真言、ことに、念仏に頼っても良く、この悪い世の中では、他に頼るものはないのである。
ついでに、腕振り運動もやれば、健康で若く美しくなるし、さらに良いことにも恵まれると思う。








引き寄せの法則より千倍優れた真言の力

自分の脳や筋肉の力を超えた何かの力で願望を成就する、引き寄せの法則や、それと中身は同じだが、潜在意識による成功法則(以下、「引き寄せの法則」にまとめる)は、昔から一定の割合の人達に人気があると思う。
だが、実際は、文明国の中では、引き寄せの法則に興味がある人間の割合は、あまり多くないと思う。
と言うのは、引き寄せの法則は、学校の教科書にも、マスコミの報道にも全く出て来ないので、普通の人は、引き寄せの法則のことを聞いても、非常に怪しく感じてしまうからである。
(普通の人は、教科書やマスコミの報道しか信じないよう洗脳されている)
マスコミが引き寄せの法則に関わることを報道する時は、引き寄せの法則をいかがわしいものと言うのである。
丁度、マスコミが、トランプ大統領のことを、いかがわしい人間、まともでない人間と報道したようにである。
だから、引き寄せの法則に対し、肯定的な興味があるなら、少なくとも、学校やマスコミに洗脳されていない人達だとは言える。
とはいえ、いかがわしい引き寄せの法則の本やセミナーや教材が非常に多いのも確かであり、そんなものほど、大勢の馬鹿な人間をうまくファンにする。言ってみれば、これまで学校やマスコミに洗脳されていた人達を、いかがわしい引き寄せの法則で洗脳するのである。
だから、引き寄せの法則のファンの多くも、実際は優秀ではない。

引き寄せの法則には、いかがわしいものも多いが、良いものもある。
だが、良いものであっても、うまく使える人は、きっと多くはなく、実際は、ほとんどうまくいかないのだ。
その理由を分析しても、あまり益はない。
重要なことは、引き寄せの法則は難しく(「簡単」と宣伝されているものほど)、一生かけてもマスター出来ない可能性が高いということだ。
私は引き寄せの法則で、かなりうまくいったことがある。
印象的なものでは、セールスコンテストで、目標額を千円程度の誤差でぴったり達成し、優勝した時のことだ。
しかし、失敗したものも多く、うまくいっても、犠牲を伴ったものが多く、全体としては、あまり幸福感はない。

ところで、気が付いたが、引き寄せの法則で目指すのは、外的成功・・・経済的なことや名誉的なことである。
健康も引き寄せの法則で扱う場合が多いが、経験上、引き寄せの法則を忘れた時に健康になる。
また、過ぎたお金や名誉は無い方が良いことも分かってきた。
そして、引き寄せの法則は、欲望をモチベーションにするので、より多くのお金や名誉や、その他の外面的なものを欲しがるし、また、欲しがらせる。
有名なCMで「1年生になったら友達百人出来るかな」というのがあったが、普通の人、まして、小学1年生の子供に百人の友達など必要だろうか?
答は「ノー」であることは馬鹿でも分かるのに、こんなCMに反発しないのだから、我々はどこかおかしい。
「あればあるほど良い」という、変な思考を持っている・・・つまり、欲にまみれている。

また、どんなに順調な人生にだって、痛みや苦しみはある。
痛みや苦しみをゼロにしようと思うと、大きな痛みや苦しみを引き寄せる。
大成功する運命であれば、大成功するしかないが、それと同時に、大きな不幸を呼んでは仕方がない。
こういった、天地自然の理を理解し、それを基に人を指導出来るのが本当の賢者である。
その最高の賢者が釈迦であったが、釈迦が「念仏の教えだけが最後に残る」と言ったのは、根本的には本当と思う。
我々が、大切な願いを叶えながら、なおかつ、味わうべきでない苦しみを避けるには、人間には、真言を唱えるしか方法はない。
心で真言を丁寧に繰り返すことで、内面と外面のバランスを取り、必要なものは努力せずとも得、災難は最小限にするからである。
なぜそうなるかは、我々の知性の範囲を超えるが、出来る範囲でこれまで説明してきたし、今後は、もっと分かり易く説明出来るようになるかもしれない。
しかし、私も、気が付いたら、心は真言を唱えておらず、つまらないことを考えていることに気付く。
まさに、たまに思い出して真言を唱えている状態だ。
だが、「生活しながら真言を唱える」のではなく「真言を唱えながら生活する」ようになれば、神仏と一体化してきて、無敵であろう。
かつて日本には、念仏という真言を唱える、一見、普通の人なのに、全く奇跡的な人物が沢山いた。
そんな人達は、妙好人と呼ばれることもあったが、全く自分を持たず、ただのおばあさんが暴虐なゲリラ(不正な行為を行う民兵組織)に銃殺される際にも平然としていたこともあった。
信仰の力と言えなくもないが、それらの人達は宗教の教義に詳しい場合はむしろ少なく、ただ念仏を唱えていた。
また、般若心経を唱える普通の人が、よく観察すると常人ではなかったという報告も少なくない。
様々な研究成果を一言で言うなら、人間は2種類であり、数多く真言を唱える真人(神人)か、そうでないかであると思う。








真の秘訣

有り難い、力のある呪文、真言、祝詞などは確かにあるが、それを知っている者だけが得をして、知らない者には恵が与えられないというようなことなどない。
理不尽なのは荒んだ人の世のことであり、神仏の世界に、そんなことがあるはずがない。
知っておくべき言葉としては、「神様」とか「仏様」で十分で、もし、「弁天様」「大黒様」「恵比須様」「阿弥陀様」「観音様」「お不動様」など、住んでいる村やら、家系に伝わる神仏の名があれば、その名を唱えれば良い。
そういったものを知らなくてさえ、昔から日本人は太陽を「お天道様」と言って神聖視し、お天道様に見られて恥ずかしくない行動を心がけたのである。
むしろ、キリスト教やイスラム教のような形式がなかったことで、日本人は、自然の中に神秘を感じ、理想的な信仰心が培われたのである。
だから、明治以前に日本を訪れた外国人が、信仰を持たないはずの日本人の美徳に驚かされることがあった。
例えば、外国では花を買うのは金持ちと決まっていたが、日本では庶民が花を買うのが普通だった。
また、岡本太郎によれば、西洋では、家が大きく、別に金持ちでなくても、個室があって部屋には鍵がかかったので、暑い季節には女性は自然に部屋で裸で過ごしたが、それを普通見ることは出来ないということから、女性の裸体画が流行し、現代に到っている。
しかし、日本では、昔は銭湯は混浴が普通だったし、人目がある家の外で女性が裸で水浴するのも当たり前だったことが、西洋人を驚愕させた。
これも、こそこそ隠れなくても、お天道様の下では健康的だという(銭湯も明るい時間のみ営業されていた)、ある種の信仰心と思える。

だが、西洋思想の影響が強い明治政府になってから、日本人は煩いに襲われることが多くなった。
そんな中で、意識的な信仰・・・呪文、真言、祈りといったもので、本当に庶民に力を与えたのは念仏だった。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える者の中に、外国では滅多に見られないような聖人が、農民、職人、商人といった庶民の中に「ゴロゴロ」出て来たのだ。
そんな、主に念仏を唱える庶民の聖人を「妙好人(みょうこうじん)」と呼ぶ。
妙好人の研究をした学者はかなりいるが、皆、難しいことばかり言ったり書いたりするだけで、あまり本質は掴んでいないかもしれない。
因幡の権左(いなばのごんざ)という妙好人はよく知られていて、彼もまた全くただの農民であったが、おそらく偉大な聖者だった。
権左が町に出て、それなりの額の金を得て村に帰る時、あきらかに金目当ての男がついてきたが、それに気付いていも権左は少しも恐れず、その男に近付き「金が欲しいならやるよ」と親し気に話しかけ、強盗する気だった男は何も出来なかった。
権左の畑から芋が掘り返されて盗まれると、権左は畑に鍬を置いておくようになった。素手で芋を掘って怪我をしてはいけないという配慮からだった。
家から金が盗まれ、盗んだ者が誰か分かり切っていても気にせず、相手が改心して返しに来ても、平然としたままで、別に返す必要はないと言う。
アインシュタインもそんなところがあって、乞われれば誰にでも金を与え、妻に怒られても、「誰も伊達や酔狂で物乞いなどしない」と平気だった。
ただ、アインシュタインは宗教上の偏見があることを自分で認めており、心に影があった。

著名な投資家でもあった作家マックス・ギュンターは、彼が最強と考える投資家に秘訣を聞いたら、そのスーパー投資家はこう言ったそうだ。
「欲張らないことだよ」
これが、あらゆることに通じる肝心なことで、秘訣というよりは、親に教わるべき基本中の基本である。
だが、我々は余計なことばかり教えられ、一番大切なことは誰も教えてくれないのだ。
欲張らず、大自然の中に感じる神を崇めれば、まあ、恐れることは何もない。








引き寄せの陰謀論

いつも述べる、アファーメーション、自己暗示、呪文などによる引き寄せについて、世の中の現状と、簡単な歴史を述べる。
熱心に取り組む動機になればと思う。

世の中には、本当に駄目なやつがいる。
身体や知能の欠陥ではなく、精神的な原因で駄目なやつだ。
そもそも、身体や知能に欠陥があっても駄目でない人は沢山いる。
だが、小学校の時は超秀才であった者や、身体は非常に丈夫なのに、どうしようもなく駄目な者達が大勢いる。
いったい、どんな育ち方、生き方をすれば、ここまで駄目になるのかと驚くような駄目な者達。
なぜ、そんな者達が生まれたのかというと、間違った教育が、極端な形で作用してしまったのだと思う。
そんな者達は、社会でうまくやっていけないので、極端な場合、完全な引きこもりになり、そのまま、40代にもなれば、もうどうしようもなくなる。
時々、引きこもりの更生の訓練を実施する活動を見るが、うまくいかないと思う。

全く駄目な者達について書いたが、実は、ほとんどの人達が、そんな者達に似ているのである。
なぜなら、上にも述べたが、全く駄目な者達というのは、間違った教育が極端な形で作用してしまったのであるが、全員が同じ教育を受けているからである。

その中で、ポジティブ・シンキング(積極思考)、潜在意識による成功法則、引き寄せの法則は、人々を奴隷状態から解放する目的を持っていた。
いや、それ以前の、魔法結社、ニューソート(新しいタイプの宗教)、光明思想等もそうなのではと思う。
これらは、エリートだけを集めたのではなく、社会の底辺の者達も受け入れたのだ。
ところが、こんな話がある。
ある有名な引き寄せの法則の本は、全く役に立たない形に改変されてしまっているのである。
肝心な部分を削除し、余計な文章を加えることにより、それを読んでも、引き寄せが出来ないようになってしまった。
そういった、「元々は優れた引き寄せ書」の特徴は、その本の中に、矛盾し合う箇所が複数あり、読者を騙し、特に頭の良い読者は混乱するのである。
なぜ、そんなことが行われたのかは、あまりはっきり言えないが、まあ、どうでも良いことである。
我々は、正しいやり方を知れば良いだけだ。

宗教というのは、それが全て引き寄せの法則であるとは言わないが、引き寄せのようなものは十分に含んでいたのであるが、そこはだいたい省かれている。
聖書や仏典も、かなり書き換えられていると言われているが、そうなのかもしれない。

とはいえ、引き寄せの法則の本や、宗教書の中には、真理の欠片が残っている。
だが、それを調べることは、暗号解きのようなものになってしまうので、時間がかかり過ぎるし、無駄なことだ。
単に、正しい部分を見つければ良い。
その正しいものは「単語法」というもので、力ある言葉、あるいは、ごく短い文を、ひたすら反復するものである。
法然も、従来の仏教の教えを否定し、お釈迦様は念仏だけを残したとバラした。
まあ、法然はそれで酷い目にあったのだが、そこは真理を掴んでいた法然なので、なんだかんだで復活し、80歳で亡くなるまで活躍した。
彼の教えは、ひたすら念仏である。
日本で、明治から昭和初期に、ひたすら念仏で神秘的な力を持った妙好人という人々がいたが、こんな人達は消されて今はいない。
また、同じ時期に、岡田虎二郎という人が「岡田式静坐法」を広めたが、虎二郎は、静坐というよりは、別の凄いことを教えたのだと思う。
虎二郎は、死の直前、書いたものを全部燃やしたと言われるが、本当は、奪われたのかもしれない。

以上が、正しい引き寄せの方法が伝わっていない理由の陰謀論である(笑)。
どんな駄目人間でも、人間本来が持つ能力を取り戻し、駄目でなくなるのが、いつも述べているアファーメーション、自己暗示の、ひたすら反復なのである。
基本は、法然のやり方なのであるが、それを、自分の好きなアファーメーションや自己暗示でやれば良いと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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