ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

妖精

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

妖精と親しむと願いが叶ってしまう

子供の頃は、願い事を叶えるなんてわけなかった。
それも、全く狙い通りに、正確に思った通りにしてしまう。
ずっと後で思い出すと、全くデタラメなほどで、あまり真面目に考えると、どこか狂おしいほどだ。
欲しいと思ったものと全く同じものをお客さんが持ってくるし(かなり特殊な模型だった)、見たいと思ったお話の映画が、その晩に放送される。
天体望遠鏡が欲しいと思ったら、その日に、親から、「親戚の大学生のお兄さんがアンタに天体望遠鏡あげるって言ってるらしいけど・・・」と言われる。
本当に無茶苦茶だった。
小学生の時、クラスにすごく可愛い女の子がいて、彼女の家を見たいと思ったら、たまたま一緒に帰っていた男の子が、じゃあ、その子の家に行こうと言い、連れられていったら、今思うと、彼女は宗教的な場所で、小さい子供達の面倒を見ていた。彼女だってまだ9つか10だったのだけれど。
オートバイのサイドカー(横に人が乗れる座席の付いたオートバイ)なんて本当にあるのかと思いながら、一度見たいと思ったら、次の瞬間、目の前を走って過ぎる。後にも先にも、サイドカーを見たのはその時だけだ。

だけど、私が特別だったとは思わない。
忘れているだけで、きっと誰でも同じなのだ。
子供にとって、世界は硬いものじゃなくて、「柔らかいもの」なのだ。
なぜだろう?
子供ってのは、9つまでは、時間の観念をほとんど持っていないからだ。
私は、高校に入るくらいまでそうだった。
どんなものでも、初めて見るように見ることができたし、心から出て来た自分の言葉を信じていた。
道元は、薪が燃えて灰になるんじゃないと言ったが、そんなことは当たり前だった。
薪は薪で、灰は灰だ。
薪は完全に薪で、灰は完全に灰なのだ。
生は完全に生で、死は完全に死だ。
それらは、いつでも同時に存在しているのだ。
妖精というのは、いつもそんなものの言い方をする。
だから、妖精と話していると、世界を動かすことはわけがなくなる。
ジロドゥの書いた『オンディーヌ』に出てくる、15歳の水の精オンディーヌは、本当にそんな話し方をする。
あなたも、妖精の書に親しむと良い。









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錯覚や幻覚も立派な認識である

一瞬見た奇妙なものを錯覚、それよりは長いが、やはり、あり得ないものを幻覚と言うのだが、いずれにしろ、それらは否定され、見なかったも同然の扱いを受ける。

だが、人は感覚器官のみで認識する機械のようなものではない。
感覚器官が捉えた光や音の波動を、意識が再構築して認識するのだ。
錯覚や幻覚も、立派な認識であり、まぎれもない現実なのである。
言い換えれば、あらゆる認識が錯覚であり幻覚なのだと言えるのである。

夢は幻のようなものと思われている。
だが、一切は幻である。
幻は立派な現実なのである。
そして、幻でない現実はないし、現実でない幻もないのだ。
だから、夢は現実であり、現実は夢なのである。

ある食べ物を食べて、美味しいと思った時、その食べ物が美味しいことを現実だと思う。
だが、しばらくして、その食べ物を美味しいと思わなくなってしまったとする。
私は、そんなことがよくあったのを、はっきり覚えている。
では、かつて、その食べ物を美味しいと思ったことは幻覚だったことになる。
だが、やはり、それは現実でもあったのだ。

私は、感覚や心が幻想であると思い知ったことが何度かある。
私は、小学1年生の時、クラスのある女の子がとても可愛いと思っていたのだが、2年ほどしてから、クラスの写真を見て、彼女をサルの子供のようだと思った。
また、小学5年生の新学期、やはりクラスにいたある女の子が可愛いと思って夢中になったが、夏頃には何らの関心もなくなっていた。
そして、今、どんなに良いと思っているもの、美しいと感じていること、あるいは、善であると認識し、価値があると決めていることの全てを、いつかは全く異なる認識や価値観と共に見、聴き、感じるようになるだろう。
だが、幻を幻として愛すれば、そこに真理を見るのである。
私が、小学1年生の時、よく一緒にいた女の子がいた。彼女はすぐ側に来て、いつも世話を焼いてくれたのだ。彼女は、何でも笑顔で助けてくれた。
だが、彼女の名前を覚えていないし、後でクラスの写真を見ても、どれが彼女だったのか分からない。
本当にいたのかどうかも疑わしい。
いや、彼女は本当はいなかったのだ。
子供の精神とは驚くべきものだ。そんな天使のような子がいて欲しいと望んだ私の心が彼女を創造したのだ。
しかし、彼女は、親や学校や、雲や風や、それどころか、地球よりも確かに存在していたのである。
天使や妖精はどこにだっている。
あなたに想像力があれば。そして、それらは全て現実なのである。そう、断じて本物なのである。
あなたが逃れなれない現実と感じているものも幻想である。それは、あなたの素晴らしい想像力が生み出したものだ。
それに少しの愛を注げば、それらは満足して消え去るのである。そして、全て、ただの思い出になるのである。とてもあやふやな、笑いたくなるような、照れてしまうような、とても滑稽な思い出なのである。









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沈黙の会話をする者に天使は近付いてくる

日本の企業で、英語を公用語にしようなんてところが増えているらしい。
だが、ある超一級の国際ビジネスマンは、「そんな会社っだって、本当に重要なことは、裏で日本語で決めてるんだよ」と、冷ややかに暴露する。
さらに、私は言っておく。
日本人同士が日本語で話したって、話の半分も伝わらないものだ。ましてや、不慣れな英語で話したら、誤解だらけになる。
私の確信では、日本人同士が日本語で話した場合ですら、割合に単純な話であっても、正しく伝わるのは、こちらが思っていることの3割以下と思って間違いない。

日本には、以心伝心(無言のうちに心が通じ合うこと)という美しいものがあった。
本当に気心の通じた間柄であれば、話さなくても、全てちゃんと伝わるのである。
ただし、言うまでもないが、契約条件や価格といった、物質的、経済的なものが、無言で伝わるはずがない。
そして、物質的なもの以外を、ほとんど重要視しなくなった日本には、以心伝心、察しと思いやりはなくなってしまったのである。

本来、最も高感度のコミュニケーションをするのは、母親と赤ん坊だった。
今でも、赤ん坊はその能力を持っているが、母親は、少し以前からテレビやゴシップ雑誌、そして、今は携帯電話やスマートフォンとのコミュニケーションにかまけて、赤ん坊との意思疎通が出来なくなってしまったのだ。

かつての日本人は、木や草花、水や岩、あるいは、火や風などとも対話できた。
アイルランドやイギリスあたりでも、そのように言う者がよくいる。ケルトや北欧の神話が日本の神話とよく似ているには、これらの国の昔の人達が、ともに、優れた精神感応力を持っていたからである。
アメリカでも、先住民のインディアンがやはりそうだったのだ。
いや、太古の昔であれば、全ての人間がそうだったはずだ。
アイルランドの「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは、今でも、自然と一緒に居る妖精を見たり、それと対話する能力のある人達のことをよく書いていた。

ラマナ・マハルシは、「会話は沈黙ほど雄弁ではない」とよく言っていたが、これは、そのままに受け取れば良い。
彼に、「あなたは、なぜ講義をしないのですか?」と尋ねると、マハルシは、「毎日、私は演壇に登って熱弁を振るっているではないか」と言っていたものである。
実際、いかなる悩みを抱えた人であっても、マナルシの前で静かに座っていると、皆、晴れやかな顔になってしまったのだ。
誰かが、「会話することなく、どうやって理解し合うのですか?」とマハルシに尋ねると、彼は、「共に居るという想いがあれば、相互理解は自ずからやってくる」と答えた。
本来は、日本人こそ、こういった意味が分かるはずであるが、欲望にまみれた現在の日本人には、もう全く分からない。
それでも、ペットの犬や猫と暮らしている人には、これらの動物と不思議な一体感を感じている人も多いのである。

『灼眼のシャナ・セカンド』というアニメで、近衛史菜(このえふみな)という名の高校1年生の、純粋無垢な少女が、夕暮れの公園で1人じっと立っていると、小鳥が飛んできて、彼女が差し出した手にとまり、主人公でクラスメイトの坂井悠二を驚かせる。それと見ていた、悠二を愛する吉田一美は複雑な思いを抱く。
印象的な場面だ。一美は、史菜に負けたと思ったのだろう。その理由は、見ている我々にも感じられるはずなのである。

私は、小学生の時、家のベランダに、大量の鳩をよく呼び寄せていた。
餌を撒いたくらいで、そんなことが出来るものではない。
また、中学生の時、庭に、やはり数多くの猫を無言で集めたことがあった。
広くもない庭であるが、20匹ほどの猫が、うじゃらうじゃらと戯れる様子は、なんとも壮観だった。
それは家族の苦情のため、以降、やらなくなったが、ニート時代は、二階の私の部屋に、猫が単独でよく遊びに来たものである。

物質的なものしか知覚できなくなった現代人には、見ることは難しいかもしれないが、天使とか妖精というものは確かに存在する。
ルドルフ・シュタイナーが教える、霊的知覚を得るための訓練をすれば、誰でも見られるようになると思うが、本来、天使や妖精を見るために、別に訓練なんて必要はない。
ただ、あまりにも物質主義的になってしまった現代人の場合は、そんなものが必要なのだ。そして、大半の人は、シュタイナーの言うことに全く耳を貸さないだろう。
尚、日本の神話でいう天津神(あまつかみ)、即ち、天の神は、西洋で言う天使だろうと思うし、国津神(くにつかみ)、即ち、地の神は妖精に近いのではないかと思う。
黒住宗忠も、天照大神(アマテラスオオミカミ)と言う時、根本神としての天照大神と、神話の女神としての天照大神を区別していたようである。普段は、彼が天照大神と言う時は、宇宙根源の神を指していたのである。

現代において、言葉を無視する訳にはいかないが、不要な言葉はなるべく避けることだ。
それでこそ、本当の会話が出来るのである。
心の中では、出来る限り、何も言わず、想わないことだ。そうすれば、神の声を聞くだろう。
不要な想念を持たないようになれば、自然に霊覚も開かれ、天使や妖精を見るようになるだろう。
我々だって、ふと想念が消えて、視線を自然にして、あるがままに見ている時に、天使を見たりしているはずなのだ。
妖精は、天使の指導下にいるが、田舎にでも行かないと、あまり見ることは出来ない。しかし、天使は都会にだって沢山いるし、あなたの手助けをしたがっていて、既に助けてくれている。そんなことが分かってくれば、人生も楽になってくるだろう。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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