昔、ジョセフ・マーフィーの本の中に書かれていたのを読んだのだと思うが、こんなことが書かれていた。
いかなる宗教でも、奇跡が起こった事実がある。
宗教の目的は奇跡ではないかもしれないが、奇跡がなければ宗教にならなかったし、今も奇跡が起こらないなら、信者が集まらない。
それで、悪意がない場合もあるが、信者の信仰を深めたり、信者を集めるために、奇跡が起こったという嘘を言ったり、さらには、嘘の奇跡を演じて見せることもある。
しかし、実際に否定し難い奇跡もあるし、マーフィー自身も、奇跡を見たことが何度もあると述べている。
同じようなことが、クラウド・ブリステルの世界的ロングセラー『信念の魔術』の中でも述べられているが、著者のブリステルは、自分は元々、人の言うことを徹底的に疑うジャーナリストであり、たとえ目で見ても疑う習慣があるが、それでも、疑いようのない奇跡をいくつも見たと言わざるを得ないという。
『トーチェ氏の心の法則』では、著者のトーチェは、奇跡的な事例を紹介するに当たり、医学者、科学者の検証や証言があることを条件とした。
そもそも、忘れているだけで、誰しも奇跡を体験しているものかもしれない。
世界的量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、自分が量子物理学者になったきっかけは、幼い時の奇跡体験であったと述べ、科学的にも奇跡は起こり得ると述べている。

AIアート60
「薔薇には刺がある」
Kay
ところで、特に宗教が分かり易いのだが、奇跡を起こす方法は、割と明白である。
簡単に言えば、奇跡は全て、基本的に言葉の繰り返しで起こる。
「基本的に」と言ったのは、例外があるからだが、その例外も含め、原理は同じである。
言葉の繰り返しは、言葉の内容により、マントラ(真言)、ジャパ(神の名の詠唱)、呪文、念仏、讃歌、祈り、アファーメーション(肯定的確言)などと呼ばれるが、奇跡を起こすポイントはただ1つで、ただ延々と繰り返すことだ。
それにより、思考が消え、さらに感情が消えることで心が消えることで奇跡が起こるのである。
さきほど、例外・・・つまり、言葉の繰り返しによらないものもあると述べたが、これも、なんらかの理由(驚きや感動など)で、偶発的に心が消えた時に奇跡が起こるのである。
つまり、いかなる場合も心が消えた時に奇跡が起こる。
そして、普通は、言葉の繰り返しで奇跡が起こるのであるから、奇跡を起こしたければ・・・今流には引き寄せを行いたければ、アファーメーションのような言葉の繰り返しを徹底的に行うしかなく、それで確実に奇跡は起こる。
言葉の内容などどうでも良い。
実際には、多少の良い悪いはあるだろうが、やはり、ポイントはただ、数多く行うことだけである。
ヨーガや仙道では、言葉ではなく、身体の動きの繰り返しや、あるいは、意識的な呼吸の繰り返し、あるいは、静止した状態を継続することなどが行われるが、これもまた、それらによって、最終的に心が消えれば奇跡は起こる。
そして、いかなる言葉の中でも、最も心を消し易いのは「私は誰か?」という言葉である。
なぜなら、心的には、心=私であり、心である私に思考を集めることで、他のことを考えることが出来なくなり、私、あるいは、心についての考えも、消滅するしかないからだ。
真の宗教の目的は奇跡ではないし、まして、「私は誰か?」と問うこともまた、そんな浅いことが目的ではない。
あくまで、本当の自分が無限の存在である魂であることを思い出すためであるが、その過程で奇跡が簡単に起こってしまう。
しかし、その奇跡に囚われると、おかしなことになる。
奇跡が起ころうが、構わず、「私は誰か?」と問うことが重要である。
いかなる宗教でも、奇跡が起こった事実がある。
宗教の目的は奇跡ではないかもしれないが、奇跡がなければ宗教にならなかったし、今も奇跡が起こらないなら、信者が集まらない。
それで、悪意がない場合もあるが、信者の信仰を深めたり、信者を集めるために、奇跡が起こったという嘘を言ったり、さらには、嘘の奇跡を演じて見せることもある。
しかし、実際に否定し難い奇跡もあるし、マーフィー自身も、奇跡を見たことが何度もあると述べている。
同じようなことが、クラウド・ブリステルの世界的ロングセラー『信念の魔術』の中でも述べられているが、著者のブリステルは、自分は元々、人の言うことを徹底的に疑うジャーナリストであり、たとえ目で見ても疑う習慣があるが、それでも、疑いようのない奇跡をいくつも見たと言わざるを得ないという。
『トーチェ氏の心の法則』では、著者のトーチェは、奇跡的な事例を紹介するに当たり、医学者、科学者の検証や証言があることを条件とした。
そもそも、忘れているだけで、誰しも奇跡を体験しているものかもしれない。
世界的量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、自分が量子物理学者になったきっかけは、幼い時の奇跡体験であったと述べ、科学的にも奇跡は起こり得ると述べている。

AIアート60
「薔薇には刺がある」
Kay
ところで、特に宗教が分かり易いのだが、奇跡を起こす方法は、割と明白である。
簡単に言えば、奇跡は全て、基本的に言葉の繰り返しで起こる。
「基本的に」と言ったのは、例外があるからだが、その例外も含め、原理は同じである。
言葉の繰り返しは、言葉の内容により、マントラ(真言)、ジャパ(神の名の詠唱)、呪文、念仏、讃歌、祈り、アファーメーション(肯定的確言)などと呼ばれるが、奇跡を起こすポイントはただ1つで、ただ延々と繰り返すことだ。
それにより、思考が消え、さらに感情が消えることで心が消えることで奇跡が起こるのである。
さきほど、例外・・・つまり、言葉の繰り返しによらないものもあると述べたが、これも、なんらかの理由(驚きや感動など)で、偶発的に心が消えた時に奇跡が起こるのである。
つまり、いかなる場合も心が消えた時に奇跡が起こる。
そして、普通は、言葉の繰り返しで奇跡が起こるのであるから、奇跡を起こしたければ・・・今流には引き寄せを行いたければ、アファーメーションのような言葉の繰り返しを徹底的に行うしかなく、それで確実に奇跡は起こる。
言葉の内容などどうでも良い。
実際には、多少の良い悪いはあるだろうが、やはり、ポイントはただ、数多く行うことだけである。
ヨーガや仙道では、言葉ではなく、身体の動きの繰り返しや、あるいは、意識的な呼吸の繰り返し、あるいは、静止した状態を継続することなどが行われるが、これもまた、それらによって、最終的に心が消えれば奇跡は起こる。
そして、いかなる言葉の中でも、最も心を消し易いのは「私は誰か?」という言葉である。
なぜなら、心的には、心=私であり、心である私に思考を集めることで、他のことを考えることが出来なくなり、私、あるいは、心についての考えも、消滅するしかないからだ。
真の宗教の目的は奇跡ではないし、まして、「私は誰か?」と問うこともまた、そんな浅いことが目的ではない。
あくまで、本当の自分が無限の存在である魂であることを思い出すためであるが、その過程で奇跡が簡単に起こってしまう。
しかし、その奇跡に囚われると、おかしなことになる。
奇跡が起ころうが、構わず、「私は誰か?」と問うことが重要である。