何の因果か偶然か、私は奇跡が起こる原理が分かってしまった。
子供の時から、あり得ない奇跡は意図的に起こせたが、なぜそれが起こるのかは分からなかった。
しかし、分かってしまえば、世界が分かる・・・とまでは言わないが、奇跡的な出来事は全て自然に感じるようになった。
そこで、分かり易い奇跡話を1つ取り上げる。
ある有名な空手家が実話として語っていたが、本当に実話かどうかは分からない。しかし、類似の話は多いし、あっても不思議はないと思う。
こんな話だ。
戦後間もない頃、その空手家が、真剣を持った剣の達人と決闘をした。
空手家は、いかに空手の技量に自信があるとはいえ素手で、相手は本物の太刀を持った剣の達人。
勝ち目はゼロと言って良いと思う。
いよいよ決闘が開始される時、空手家は、
「よし死のう。しかし、手足の1本でも残っていれば相打ちに」
と決意した刹那、剣の達人に向かって突進していったが、その後のことは記憶がないと言う。
そして、空手家は、気が付いたら、剣の達人は地面でのびていたと言う。
この場合、普段の意識状態に戻ることを「意識が戻る」と言うのは間違いで、意識はあったが、自我が消えていたのであり、「自我が戻る」「心が戻る」「思考が戻る」と言うのが正しい。
そして、あらゆる奇跡が起こる条件が、意識はあるが、「自我=心=思考」が消えることである。
なぜ、この空手家の自我が消えたのか?
空手家は「死ぬ」と決めた。
しかし、自我は絶対に死を選ばない。自我の唯一の仕事は生きることなのだから当たり前だ。
だから、自我は、強烈な恐怖や悲しみの感情を起こし、死を考え直そうとしたはずである。
ところが、空手家の自我は、死の選択を取り下げなかったのである。
なぜ、そのようなことが起こったのか?
それは、この空手家も、恐怖や悲しみは感じたのであるが、同時に死ぬことの快感を感じ、それが強くなったのである。
ちょうど、自殺する者にも恐怖があり、葛藤して自殺を止める場合も多いが、死の快感が出てきて、それが強くなると本当に死ぬことと同じだ。
ある意味、この空手家も自殺しようとしたのと同じである。
ただ、他の者を救うために自分が犠牲になる場合のように、この空手家も、何かを背負っていたのかもしれない。
そんな時は、死の快感を感じ易いのである。
自殺する者だって、そんな大儀を持たないと、死の快感を感じることが出来ず、自殺を回避する。
だから、自殺出来る者というのは、自分の死に意味付けが出来たのである。その意味は幻想の場合が多いのかもしれないが、とにかく、自分の死には意味があると思ったのだ。
あなたも、命を捨てる気になれば、どんな奇跡でも起こせる。
しかし、本気で命を捨てる気になれればの話である。
そのためには、命を捨てる大義が必要だが、その大義が嘘だと感じてしまうと、死の快感が弱く、自我が十分に消えず、奇跡は起こらない。
自殺者の場合、その大義がまやかしであることは、自分で分かっているので、奇跡のようなことは起こらない。
そこで、完全に死ぬことによるキリスト級の奇跡とは言わないが、そこまで過激にやらなくても、魔法級の奇跡を起こす方法ならある。
これは、神話や童話によく描かれているものである。
ただし、それを描いた神話や童話は改変されている場合が多いが、確かに、秘す必要があることなのだろう。
しかし、私は、どれほどの秘密も簡単に言ってしまう(笑)。
それは、童話などの中では「悪魔との取り引き」とされていることだが、実際はそんなものではない。
天使はこう囁いてくる。
「恋人、親友、家族への愛を奪うが良いか?」
つまり、自我の全てではなく、その一部を捧げることで奇跡を起こすのである。
私も、小学校低学年の時、好きでたまらない食べ物を、不意に全く好きでなくなったし、小学5年生の時、好きで好きで仕方がなかった女の子(笑)のことを突然、全然好きでなくなった・・・まあ、世の中に普通にあることだが(笑)。
悪い話ではない。
やればやるほど、キリストやブッダに近付く。
ただし、人間としての楽しみはなくなっていく。
それに、他人から見れば、全くの別人になってしまうかもしれない。
もっと大きな楽しみが得られるのだから、それで良いかというと、自我はやはり抵抗するのである。
具体的なやり方は、需要があればまとめる。やはりヤバいし(笑)、私も完全には分からない。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)エロティシズム(ジョルジュ・バタイユ)
(2)快楽主義者の哲学(澁澤龍彦)
(3)エスの本(ゲオルク・グロデック)
(4)原典 ユダの福音書
(5)アヴェスター: 原典訳

AIアート1088
「天使の囁き」
Kay
子供の時から、あり得ない奇跡は意図的に起こせたが、なぜそれが起こるのかは分からなかった。
しかし、分かってしまえば、世界が分かる・・・とまでは言わないが、奇跡的な出来事は全て自然に感じるようになった。
そこで、分かり易い奇跡話を1つ取り上げる。
ある有名な空手家が実話として語っていたが、本当に実話かどうかは分からない。しかし、類似の話は多いし、あっても不思議はないと思う。
こんな話だ。
戦後間もない頃、その空手家が、真剣を持った剣の達人と決闘をした。
空手家は、いかに空手の技量に自信があるとはいえ素手で、相手は本物の太刀を持った剣の達人。
勝ち目はゼロと言って良いと思う。
いよいよ決闘が開始される時、空手家は、
「よし死のう。しかし、手足の1本でも残っていれば相打ちに」
と決意した刹那、剣の達人に向かって突進していったが、その後のことは記憶がないと言う。
そして、空手家は、気が付いたら、剣の達人は地面でのびていたと言う。
この場合、普段の意識状態に戻ることを「意識が戻る」と言うのは間違いで、意識はあったが、自我が消えていたのであり、「自我が戻る」「心が戻る」「思考が戻る」と言うのが正しい。
そして、あらゆる奇跡が起こる条件が、意識はあるが、「自我=心=思考」が消えることである。
なぜ、この空手家の自我が消えたのか?
空手家は「死ぬ」と決めた。
しかし、自我は絶対に死を選ばない。自我の唯一の仕事は生きることなのだから当たり前だ。
だから、自我は、強烈な恐怖や悲しみの感情を起こし、死を考え直そうとしたはずである。
ところが、空手家の自我は、死の選択を取り下げなかったのである。
なぜ、そのようなことが起こったのか?
それは、この空手家も、恐怖や悲しみは感じたのであるが、同時に死ぬことの快感を感じ、それが強くなったのである。
ちょうど、自殺する者にも恐怖があり、葛藤して自殺を止める場合も多いが、死の快感が出てきて、それが強くなると本当に死ぬことと同じだ。
ある意味、この空手家も自殺しようとしたのと同じである。
ただ、他の者を救うために自分が犠牲になる場合のように、この空手家も、何かを背負っていたのかもしれない。
そんな時は、死の快感を感じ易いのである。
自殺する者だって、そんな大儀を持たないと、死の快感を感じることが出来ず、自殺を回避する。
だから、自殺出来る者というのは、自分の死に意味付けが出来たのである。その意味は幻想の場合が多いのかもしれないが、とにかく、自分の死には意味があると思ったのだ。
あなたも、命を捨てる気になれば、どんな奇跡でも起こせる。
しかし、本気で命を捨てる気になれればの話である。
そのためには、命を捨てる大義が必要だが、その大義が嘘だと感じてしまうと、死の快感が弱く、自我が十分に消えず、奇跡は起こらない。
自殺者の場合、その大義がまやかしであることは、自分で分かっているので、奇跡のようなことは起こらない。
そこで、完全に死ぬことによるキリスト級の奇跡とは言わないが、そこまで過激にやらなくても、魔法級の奇跡を起こす方法ならある。
これは、神話や童話によく描かれているものである。
ただし、それを描いた神話や童話は改変されている場合が多いが、確かに、秘す必要があることなのだろう。
しかし、私は、どれほどの秘密も簡単に言ってしまう(笑)。
それは、童話などの中では「悪魔との取り引き」とされていることだが、実際はそんなものではない。
天使はこう囁いてくる。
「恋人、親友、家族への愛を奪うが良いか?」
つまり、自我の全てではなく、その一部を捧げることで奇跡を起こすのである。
私も、小学校低学年の時、好きでたまらない食べ物を、不意に全く好きでなくなったし、小学5年生の時、好きで好きで仕方がなかった女の子(笑)のことを突然、全然好きでなくなった・・・まあ、世の中に普通にあることだが(笑)。
悪い話ではない。
やればやるほど、キリストやブッダに近付く。
ただし、人間としての楽しみはなくなっていく。
それに、他人から見れば、全くの別人になってしまうかもしれない。
もっと大きな楽しみが得られるのだから、それで良いかというと、自我はやはり抵抗するのである。
具体的なやり方は、需要があればまとめる。やはりヤバいし(笑)、私も完全には分からない。
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)エロティシズム(ジョルジュ・バタイユ)
(2)快楽主義者の哲学(澁澤龍彦)
(3)エスの本(ゲオルク・グロデック)
(4)原典 ユダの福音書
(5)アヴェスター: 原典訳

AIアート1088
「天使の囁き」
Kay