ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

奇跡

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

危機回避・現状打破の呪文・まじない

状況が苦しく、あるいは、厳しくなった時。
どうにも嫌な雰囲気になってきた時。
目には見えないが、恐いもの、あるいは、恐い力の存在を感じた時。
ピンチの時、危機一髪の時。
八方ふさがりの時。

そんな時、本来は問題を分析し、有効で実行可能な手段を探さなければならないのだが、打つ手がなさそうな時に、状況を変えるまじないみたいなものがあればありがたいものだ。
ただ、そんな奇跡のまじないが、もしあったとしても、それを使おうと思うことには罪悪感とか、あるいは、タブーと感じるような奇妙な抵抗感がある。
まじないではなく、現実的に考えないといけないとか、仮に、超常的手段があっても、それに頼ってはいけないという根深い感情があるものだ。

しかし、そもそも、そんな現状打破の反則的魔法があるのだろうか?
まあ、そんなものがなければ、人類は何度も絶滅していた。
隕石とかウイルスとか核戦争とか種の闘争とか、その他、何千もの要因によって。
そして、もし、奇跡の力が働いたというのでなければ、人類が生き延びたのは稀な偶然だ。
だが、人類には、危機を乗り越える不思議な能力があることに気付いた人が時々いる。
とはいえ、彼らがその力について正しく語るとは限らない。

私も、危機回避の呪文をいくつか聞いたことがあるが、それを紹介するのが今回の主題ではない。
ただ、こんな話がある。
昔、あるお婆さんが、仏教の密教系の僧に「アビラウンケン」という呪文を教わったが、お婆さんはこれを「油売らんか」と憶えてしまった。
しかし、その呪文がまことによく効いたのである。
まあ、「アビラウンケン」だって中国での言い方で、元のサンスクリット語の呪文はちょっと違うのだから、「油売らんか」でも良さそうなものかもしれない。
ところで、誰かがそのお婆さんに「油売らんかではなくアビラウンケンだ」と教え、お婆さんが「アビラウンケン」と唱えるようになったら、さっぱり効かなくなったらしい。
私は子供の時、「南無三(ナムサン)」がよく効いたが、これは元々、そんな用途(危機回避、状況打破)の言葉ではない。
しかし、どう考えても効いたのであり、効かなかったら私は死んでいたかもしれない。

呪文も、あるいは、お札も「ノリ」とか「思い込み」であり、「ノリ」や「思い込み」を作ることが出来れば、それがよく効くタリスマンやアミュレット(共にお守りといった意味)である。
壮大な奇跡を何度も体験したという政木和三さんは、高いところから落下して、生命の危機に直面した時、「息を止めろ」という声が頭の中で聴こえ、息を止めたら、身体が浮かび上がり、地上に安全に着地したことがあるらしい。
まあ、信じるかどうかは勝手だが、政木さんを親友と言う大阪大学のN教授(当時)が私に、「私は政木の言うことは、おそらく半分も信じていない。だが、あいつは嘘を言う男じゃない」と言ったことが印象的だった。
その他、沢山の文献や証言から考え、奇跡の力を発揮するルールは割と明らかだ。
思考を消せば良いのである。
なぜ、「ノリ」や「思い込み」がある呪文が効くのかというと、そんな呪文は確実に思考を消すからだ。
息を止めるのも、息を止めたまま思考することは難しいからだ。
割と確実な方法を言うと、息を十分吸って止め、額に意識を集中することだ。
これで思考が止まらない人は、まあ、いない。
意識を集中する場所は額より右まゆの付け根の方が良いという研究もあるから、どっちが良いか試してみても良いだろう。

朝ぼらけ
AIアート679
「朝ぼらけ」
Kay


余談を1つ。
私の知り合いに、70歳を過ぎている男性がいて、彼は柔道をやっていて、若い頃は大会に出ることも多かった。
ところで、彼が子供の時、『少年ジェット』という特撮ドラマがあり、主人公のジェットには「ミラクルボイス」という必殺技があった。
ミラクルボイスとは「うーやーたー」という掛け声で、ジェットがこれを発すると、壁が壊れたり地面が揺れたりの不思議なことが起こり、危機を回避したり、敵を倒したりするらしい。
その男性は、ある柔道の大会で、大変な強豪に当たってしまい、自分も誰も勝ち目があるとは思えなかったが、試合前、彼は、声を出さずに「うーやーたー」とミラクルボイスの真似をしたら、なんと勝ってしまったという。
ところが彼は、試合開始の「はじめ!」の声は聴こえたが、その後のことは全く憶えていないという。
これに似た話は、大空手家だった大山倍達さんや、プロボクシング世界王者だった具志堅用高さんのエピソードでも見た覚えがある。
どんな手段であろうが、思い込みであろうが、思考を止めれば、つまり無になれば不可能はない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)数霊のメッセージ―内なる神とつながる生き方(佐々木将人)
(2)霊止乃道(内海康満)
(3)奇跡の実現(政木和三)
(4)驚異の超科学が実証された(政木和三)
(5)密教の聖なる呪文: 諸尊・真言・印・種字
(6)少年ジェット (1) (武内つなよし)

奇跡は確実に起こせるが

昔、ジョセフ・マーフィーの本の中に書かれていたのを読んだのだと思うが、こんなことが書かれていた。
いかなる宗教でも、奇跡が起こった事実がある。
宗教の目的は奇跡ではないかもしれないが、奇跡がなければ宗教にならなかったし、今も奇跡が起こらないなら、信者が集まらない。
それで、悪意がない場合もあるが、信者の信仰を深めたり、信者を集めるために、奇跡が起こったという嘘を言ったり、さらには、嘘の奇跡を演じて見せることもある。
しかし、実際に否定し難い奇跡もあるし、マーフィー自身も、奇跡を見たことが何度もあると述べている。
同じようなことが、クラウド・ブリステルの世界的ロングセラー『信念の魔術』の中でも述べられているが、著者のブリステルは、自分は元々、人の言うことを徹底的に疑うジャーナリストであり、たとえ目で見ても疑う習慣があるが、それでも、疑いようのない奇跡をいくつも見たと言わざるを得ないという。
『トーチェ氏の心の法則』では、著者のトーチェは、奇跡的な事例を紹介するに当たり、医学者、科学者の検証や証言があることを条件とした。

そもそも、忘れているだけで、誰しも奇跡を体験しているものかもしれない。
世界的量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、自分が量子物理学者になったきっかけは、幼い時の奇跡体験であったと述べ、科学的にも奇跡は起こり得ると述べている。

薔薇には刺がある
AIアート60
「薔薇には刺がある」
Kay


ところで、特に宗教が分かり易いのだが、奇跡を起こす方法は、割と明白である。
簡単に言えば、奇跡は全て、基本的に言葉の繰り返しで起こる。
「基本的に」と言ったのは、例外があるからだが、その例外も含め、原理は同じである。
言葉の繰り返しは、言葉の内容により、マントラ(真言)、ジャパ(神の名の詠唱)、呪文、念仏、讃歌、祈り、アファーメーション(肯定的確言)などと呼ばれるが、奇跡を起こすポイントはただ1つで、ただ延々と繰り返すことだ。
それにより、思考が消え、さらに感情が消えることで心が消えることで奇跡が起こるのである。
さきほど、例外・・・つまり、言葉の繰り返しによらないものもあると述べたが、これも、なんらかの理由(驚きや感動など)で、偶発的に心が消えた時に奇跡が起こるのである。
つまり、いかなる場合も心が消えた時に奇跡が起こる。

そして、普通は、言葉の繰り返しで奇跡が起こるのであるから、奇跡を起こしたければ・・・今流には引き寄せを行いたければ、アファーメーションのような言葉の繰り返しを徹底的に行うしかなく、それで確実に奇跡は起こる。
言葉の内容などどうでも良い。
実際には、多少の良い悪いはあるだろうが、やはり、ポイントはただ、数多く行うことだけである。
ヨーガや仙道では、言葉ではなく、身体の動きの繰り返しや、あるいは、意識的な呼吸の繰り返し、あるいは、静止した状態を継続することなどが行われるが、これもまた、それらによって、最終的に心が消えれば奇跡は起こる。

そして、いかなる言葉の中でも、最も心を消し易いのは「私は誰か?」という言葉である。
なぜなら、心的には、心=私であり、心である私に思考を集めることで、他のことを考えることが出来なくなり、私、あるいは、心についての考えも、消滅するしかないからだ。
真の宗教の目的は奇跡ではないし、まして、「私は誰か?」と問うこともまた、そんな浅いことが目的ではない。
あくまで、本当の自分が無限の存在である魂であることを思い出すためであるが、その過程で奇跡が簡単に起こってしまう。
しかし、その奇跡に囚われると、おかしなことになる。
奇跡が起ころうが、構わず、「私は誰か?」と問うことが重要である。








不思議なまじない

私が小学4年生の時、クラスに奇妙な男の子がいた。
私は、特に彼と仲が良かったわけではないと思うが、時々、2人で一緒にいたことがあり、そんな時は、いつも楽しかった。
で、その子がどう奇妙なのかというと、その時は「予知能力」と言っていたが、それは、別の誰かが、その奇妙な男の子には「予知能力がある」と言っていたから、真似して私もそう言っていただけだ。
その子は、本当に予知能力があるように思えた。
たまたま教室に2人だけで居た時、彼が、「最初に入ってくるのは山田君だ」と言うと、本当にそうだった。
また、テストの答案用紙が帰って来る時、皆いつも、答案用紙の点数が書かれたところは折り返して、人に点数を見られないようにしていたが、彼は一度、返される前に「僕は95点だ」と言った。
そんなことが分かるとは思えなかったが、彼が私に見せてくれた答案用紙には、確かに「95」という点数が書かれていた。
彼はそれほど勉強が出来るようには思えなかったが、そんなに良い点を取れた子が他にいるような気がしなかったので、不思議な感じがした。
こんなこともあった。
休憩時間に、その彼と一緒に外にいたら、向こうに、クラスの人気者の美少女が歩いているのが見えた。
すると彼は、「〇〇(その美少女の姓)さんは手提げ(バッグ)を落とす」と言う。
その直後、本当に彼女は手提げバッグを落とし、慌てて拾い上げていた。

その男の子は、私の他に、2~3人に、同じようなことを見せたことがあるようだった。
ところが、私は、あの美少女が手提げバッグを落とすのを見た時、「どんなふうにやるの?」と尋ねたのだが、どうも、彼にそんなことを聞いたのは私だけらしい。
何度か書いたが、私もなかなかミラクルなことが出来たので、それほど違和感を感じていなかったのだと思う。
それどころか、自分にも出来そうな気がしたのだ。
そうしたら、彼はあっさり教えてくれた。
彼は、あるアニメのあるキャラクターを知っているかと問うので、私は知っていると答えた。
私は、そのキャラクターをあまり好きではなかったが、彼はお気に入りのようだった。
そのキャラクターが「君のテストは95点だ」と言うのを心で聴くのだそうだ。
私が、「テレパシーで話しかけてくるのか?」と聞いたら、そうではなく、自分で、そのキャラクターの声で心の中で言うのだそうだ。
あの美少女が手提げバッグを落とした時は、「〇〇さんが手提げを落とす」と言ったそうで、つまり、彼が意図的に落とさせたことになる。
尚、テストの点数に関しては、全然出来たように思えなくても、そうやれば決めた(良い)点に出来るようだ。便利なものだ。

こんな面白いおまじないを教えてくれたのは、彼が2人目だった。もう1人のことも、そのうち書くかもしれない。実は、両方忘れていたのだ。
それから、私は、下校時、いつもと違う道で帰る途中、全く人通りがない中で、自分のお気に入りのアニメキャラクターの声で、心の中で、「〇〇(例の美少女)さんが向こうから来ます」と言ったら・・・本当に来た。
彼女は優等生なので、にっこりしながら私の名を呼んだが、私は何も言い返せなかった(劣等生なもので 笑)。
その後、1回か2回、何かでこの力を使ったような気がするが、受験や資格試験で「合格です」といったようなことはやらなかった。
そして、ずっと忘れていた。
妙なことを思い出した。
何かでまた使ってみよう。
ただ、無意識で使っていたような気もするのである。
マジカルミライで、前から2~4列の席を何度も引き当てているのも関係があるのかもしれない。
コツは、とにかく信頼を感じる人物(実在、架空を問わず)の声でやることで、若干、練習が必要かもしれない。








奇跡を起こせる時と起こせない時の違い

何度か書いたことがあるが、私は子供の時に見た、西洋のある古いモノクロ映画の、こんな一場面を印象深く憶えている。
アパートのかなり高い階で、5歳位の男の子が落下しかけていて、母親が両手で、その男の子の両手を掴んでいた。
母親が手を放せば、男の子は地上に落下し、ほぼ間違いなく死亡しそうだった。
状態的に、母親は、男の子を引き上げることが出来ず、だんだん手が疲れてくる。
男の子は、聖書の詩篇91番を教わったことがあるのかもしれない。
そこには、こう書かれている。
「彼ら(天使達)は、その手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」
男の子は、自分が地上に落下する様子を想像する。
天使達がやってきて、自分を支え、自分は笑いながら地上にふわりと着地する。
男の子は母親に言う。
「ママ、手を放していいよ」

結局、その男の子は救出されたが、もし、母親の力がつき、手を放して地上に落下していたら、男の子はどうなっただろう?
まず、間違いなく、男の子は死んでいただろう。
男の子は、自分は天使に助けられるという信念を持っていたに関わらずである。
心から信じたことは実現するはずなのに、なぜだろう?
母親の「落ちたら死ぬ」という常識的な信念が実現する、あるいは、その信念がこの男の子に伝わるのかもしれない。
また、この男の子だって、そこそこの高さから落下して痛い目に遭った覚えはあるだろうから、いざ落ちると、それを思い出して恐くなり、「天使に助けられて死なない」という信念が壊れてしまうのかもしれない。
それは分からないが、死ぬことは、やっぱり確かと思う。
だが、希に、本当に奇跡的に確かることがある。
おそらく、歴史の中で、そんなことが何度も起こっているが、実は私も(これも何度か書いたが)、4歳の時に、少なくとも2階の窓から地上に落下したが、かすり傷1つなかったことがある。家族の話では、私はケロリとしていたのに、慌てふためいて駆けつけた親の様子に驚いて泣き出したらしい(笑)。
私は、覚えている範囲でも、とんでもない高いところから飛び降りたり、逆に、飛び上がったりをよくしていた。

ところが、私は、中学1年生の秋頃に、急にそれが出来なくなったことも覚えている。
それで、あの映画の男の子のような状況で、あの男の子のように聖書の話を信じていても、やっぱり死んでいた理由が分かるのである。
つまり、やり方だけは憶えているのだ。
それは、落下する瞬間や飛び上がる瞬間に無意識になることだ。
あの映画の男の子は、意識がある限りは、やはり墜落すれば死ぬ。逆に言えば、無意識になれば助かる。

あらゆる引き寄せがそうだ。
無意識になれば叶うのである。
それも一瞬で良い。
無意識になっていれば良いのなら、失神していたり、眠っている場合はどうかというと、これは鎌倉時代の禅僧、道元も言っているが、意識はなくても自覚がないと駄目なのである。
ほとんどの人は、ここで分からなくなる。
「意識はないが、自覚がある」という意味が分からないのだ。
答はこうだ。
自覚とは、「存在の自覚」である。それだけあれば良いのだ。
つまり、自分の意識が在るという自覚があれば良い。
そして、存在の自覚に意識を向ければ、思考は消える、つまり、無意識になる。
続けて言えば、
「自分の意識が存在しているということに意識を向ければ、思考は消え無意識になる」
である。
難しければ、初めは、「私は在る」と、声に出さず、心の中で、丁寧に何度も唱えると良い。
それによって、「私は在る」という存在の感覚を掴むのである。

「私は在る」という感覚と極めて近いものが2つある。
1つは、眠りから目覚めた直後の思考が戻って来るまでの感覚だ。
もう1つは、「今」という感覚である。だから、なるべく多く、今を意識していれば、「私は在る」という感覚も掴み易くなる。
「私は在る」が意識を向けたことは、速やかに、この世界に出現する。
なぜなら、存在の自覚が神であるからだ。
だから、モーセに十戒を授けた神は、自分のことを「私は、私は在るというものである(アイアム・ザット・アイアム)」と言ったのである。








いつ奇跡が起こるか

今は手元にないが、ジャック・エンサイン・アディントンの『奇跡の時は今』という本を、昔、さらっと読んだのだが、その中に、非常に印象的だったので、覚えていることがある。
細かいところは覚えていないのだが、イエスが使っていた古代ヘブライ語には、時間の概念がなかった・・・そういったことが書かれていたと思う。
時間の概念がないので、全てが現在形なのだ。
だから、イエスが教えた「主の祈り」の中の「神の国が来ますよう」というのは、実は、イエスは「神の国は来ているのです」と言ったというのである。
これに関して、私は、何の説明も要らずに納得し、「ああ、これだ」と思ったのだった。

現代物理学では、時間というものに実体がないことが分かっている。
つまり、時間というものが本当にあるわけではないが、人間は、それがあるように錯覚しているようだ。

だから、イエスの言葉が書かれた『新約聖書』の『福音書』も、実は、全て現在形で書かないと真意が伝わらないのだろう。
コリン・ウィルソンが編集した『時間の発見』という本は、著名な5人の理学博士が執筆し、日本最高の物理学者の1人だった竹内均氏が翻訳した。
ちなみに、ウィルソンは、日本で言う中卒である。
この本の中で、時間というものは、人間の概念であり、テクノロジーの進化と共に人類の時間観というものが変化していることが書かれている。
つまり、やはり、時間に実体はなく、概念、あるいは、幻想に過ぎないのだ。

なぜ、人間が時間という幻想を持つようになったかについては、いろんな本に書かれているが、1つの考え方としては、全ては無秩序に向かうというエントロピー増大の法則(熱力学の第2法則)に、時間という概念を持ち込むといい感じになるので、人間は無意識にそんなことをやるのだという話がある。
つまり、時間の経過と共に、全てが無秩序になる(例えば、熱いコーヒーの熱が拡散してコーヒーが冷える)と考えると納得し易いのだ。
実際は、熱いコーヒーが先で、冷えたコーヒーが後にあるわけではない。同時にあるのだ。
鎌倉時代の禅僧、道元は、それに気付いていたので、「薪が燃えて灰になると思っているが、そう勘違いしてはならない。薪は薪で灰は灰だ。春は春で、夏は夏であり、春が夏になるのではない」と『正法眼蔵』の『現成公案』に記したのだ。

で、何が言いたいのかというと、我々の重要な呪文「神様の奇跡が起こる」を唱える際、「いつか奇跡が起こる」「3か月後位に奇跡が起きて欲しい」などと考えてはいけないということだ。
アディントンの著書の通り、「奇跡の時は今(THE TIME FOR MIRACLES IS NOW)」なのである。
宇宙に時間はない。
ならば、奇跡は今起こるのである。
いや、もう起こっているのである。
そう思いながら唱えれば、奇跡は即座に起こるのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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