ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

天照大神

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

何のために菜食・少食になるのか?

ベジタリアン(菜食主義者)である人、あるいは、ベジタリアンになりたい人。
1日1食あるいは2食である人、あるいは、1日1食あるいは2食にしたい人。
そんな人は、どんな理由からそうであったり、あるいは、そうしたいと思うのだろう?

健康に良いからとか、美容やダイエットのために良いからだろうか?
それなら、肉食や大食が、健康や美容に良ければ、肉食の大食になるのだろうか?

あるいは、水野南北が説いた、粗食(菜食が前提)、少食なら、運が良くなり、経済面、健康面も良くなるということを信じてのことだろうか?
それなら、実はそれとは逆で、美食、大食が幸運を呼ぶなら、美食、大食になるのだろうか?

駅で、「痴漢は犯罪です」というポスターを見たことがある。
犯罪ですというのは、やれば逮捕されるという意味だ。
では、逮捕されるから痴漢をしないのだろうか?
レイプをしないのも、逮捕されないからだろうか?
昔、あるBBS(電子掲示板)で、「レイプは親告罪(被害者が訴えない限り加害者は罪に問われないこと)だから、訴えられないなら犯罪ではないのです」と書いた人がいて、誰も異議を唱えていないことにショックを受けたことがある。

本来は有料である、音楽作品、映像作品、あるいは、小説作品や漫画作品を、無料でダウンロードできるサイトで入手する者が非常に多いようだ。
正直、私の知人にも、悪意は無いのだろうが、そんなことをごく普通にしている人がよくいる。私が、CDやDVDをちゃんと買っていると言うと、馬鹿にされないまでも、驚かれたことがあり、私の方がもっと驚いてしまった。
彼らが、なぜそんなことをするのかというと、「お金を払わなくて済み、得だから」で、それをやっても、別に罪に問われることはないからだろう。
私は、無料ダウンロードも無料視聴も全くしない。以前、一度だけ、海外のサイトだったと思うが、違法公開の『BLOOD-C』のアニメの第2話だけ視聴した後、ひどく後悔して、二度とやらないと誓った。Youtubeは、違法でないものもあるのだろうが、恐くて見れなくなってしまった。

何かの童話で、お妃様が病気になり、魔女に、「王女の心臓を食べれば治る」と言われて、王女を殺そうとしいたといった話があったが、王女を殺しても、王妃の権限で罪に問われないなら、王妃は別におかしなことをしようとした訳でもないのだろうか?

「得だからやる」というのは、みんな同じことなのである。例外は1つもない。

スポーツ選手が厳しい訓練に耐えるのはなぜだろう?
富と名誉のためだ。
そうじゃないと言うなら、「金メダルを取っても、金も表彰も無し、報道もしない」ということになっても、それでもやるという者はどれくらいいるだろう?全くいないとは言わないが、ほとんどいないはずだ。
得だからやっているという者を、もちろん、蔑む必要はないが、特に賞賛する必要もないのではないだろうか?
勇気をくれるって?勇気ってのは、もらうものじゃないのだ。
勇気がある状態が自然なのだ。もし勇気が無いなら、やっぱり得をしようと思っているからだ。

私が1日1食で、肉や魚やお菓子を食べないのは、別に訳があるからではない。2008年の7月末に、不意に思いついてそうしただけだ。今でも、肉も魚もチョコレートも大好きであるが、決して食べない。
肉や魚を食べないと、病気になって運が悪くなるというなら、ますます食べないだろう。

私も、人に少食、菜食を勧める時は、健康や美容、あるいは、開運のためになるからと言うし、それはその通りと思うが、そんな風に薦めても、実践する人はほとんどいないし、少しやるとしても、全然長続きしないのだ。

昔は、原子核の周りを電子が回っているという原子モデルが信じられていた。
今では、それは真実ではないと分かっているが、それでも、それはそれで有用なものだと思う。
その程度のものとして言うなら、人間の魂の周りを心が覆っている。
得をしようと思っていると、その心は穢れ、曇る。すると、魂の輝きは隠れる。魂の輝きとは、知恵であり慈悲であり勇気だ。
『古事記』では、これを、天照大神が天の岩戸に隠れ、高天原も地上も暗くなったことで表している。無知という岩戸を開ければ、輝く魂である天照大神が現れるのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が言ったように、我々の魂は、天照大神の魂と一体である。ただ、宗忠の言う天照大神は、古事記に登場する女神の意味もあるが、実際は、宇宙に偏在する根本神であり、浄土三部教の阿弥陀如来、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナに近いと思う。

世間には、「得をしよう」「お得ですよ」の広告宣伝が溢れている。
私はこう言いたい。
「汝、敗れたり。我が後方に退けサタン!」
私は、損をしたいのだ。









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地上の天国

どの民族にも、古代から伝わる最高神というものがあるのだろうと思う。
ギリシャ神話ならゼウスで、それがローマに伝わってユピテルという名になり、英語ではジュピターと呼ばれる。神話上のゼウスは、人間のような人格を持っており、人格といったものは完璧なものではないものだが、エマーソンのような賢者でも、ゼウス(アメリカなのでジュピターだが)への崇拝の気持ちは持っているようだ。また、モーツァルトやホルストの組曲の中にジュピターという題名の曲があるが、それらは、木星(英語ではジュピター)というよりは、天空神ジュピターを賛美するものだと思う。

我が国の最高神は天照大神である(それより古い神や、別に、根本神とされる神はある)。
ただ、神道においても、天照大神の扱いは様々なようで、古事記の通りに理解する神道家もいるが、実に様々な解釈が存在する。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、天照大神をこの上なく崇拝したが、それは、日の神としてであり、また、宇宙の根本神、自然の力そのものとしてであった。だが、宗忠は、伊勢への参拝を非常に重視し、神話としての天照大神を軽視していた訳でもない。
そして、そんな受け取り方が良いのではと思う。エマーソンのジュピターの解釈も同じようなものだと思う。
絶対神とばかり考えれば、天の上にいる全知全能ではあっても、個人の都合などには構ってくれない厳しい老人だが、人格を備えたものと見れば、身近にあり、親しいものとなる。
神をバランス感覚を持って捉えることは大切である。そもそもが、神の実体など、人に掴めるはずがないのだから。
ジョセフ・マーフィーが優れているのは、やはり、そのバランス感覚の素晴らしさであるが、それでも、神はやはり不可視で神秘の存在である。きっちり定義できるようなものではない。

仏教の仏は、実に慈悲深く、身近で、気遣ってくれるものである。
特に、阿弥陀如来がその最たるものと思う。阿弥陀如来は、数多くいる仏の1つではあるが、あらゆる仏に崇拝される仏であるとも言われている。つまり、最高の仏であり、宇宙を遍く照らす至高者だ。
天照大神と阿弥陀如来を同じに扱ったら、それぞれの信仰者に非難されるかもしれないが、根本的にはそうであると思う。
ただ、人として見れば、両者から受ける、雰囲気の違いはあるものだろう。
私は、神仏は、極めて科学的なものと思うが、それはもちろん、人間の科学のことではない。それも一部ではあるのだが、もっとはるかに大きなものだ。
西洋でいう天国に相当するのは、我が国の神話では高天原(たかまがはら、たかまのはら、あるいは、たかあまはら)であり、天照大神はそこに居るとされる。だが、黒住宗忠は、我々の魂は天照大神の魂と一体のものであり、それが分かれば、自分の居るところが高天原になると言う。
仏教では、正統的には言わないかもしれないが、やはり、阿弥陀如来の心の中に溶け入れば、自分の居るところが極楽浄土なのであると思う。念仏を唱えれば、阿弥陀如来の国である安楽(一般には極楽浄土)に生まれるとされるが、伝統仏教では、それはあくまで死後とされる。しかし、少なくとも、念仏者に対し、阿弥陀如来は、多くの仏や菩薩を遣わして守ってくれるのであり、特に、観音菩薩や勢至菩薩は、身近に居て気遣ってくれ、親友になってくれるという。
それは、イエスの言う天国が、肉体の死の後に行くだけのものでなく、死とは、自我の死、世間に対する死であり、それにより生まれ変われば、この世そのものが、天国や極楽浄土なのであると思って良いと思う。そして、実際、あるいは、科学的にその通りであると思う。









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AとMに秘められた力

自分を愛することが出来ない者は成功できないという話を聞いたことがある。
しかし、私は、自分が好きだという者はあまり信用しない。
自分を本当に愛しているなら、きっと自分を憎んでいるのだ。
私も、以前は自分が好きだった。だが、今は、自分の息の根を止めてやりたいと思うことの方が多い。

自分を憎みつつ、自分を愛するようになるだろう。
他人に関してだってそうだよ。
本当に誰かを愛しているなら、むしろ、その相手を憎んでいるのだ。

愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを
~萩尾望都『半神』より~

自分を憎むからこそ、自分を愛するようになるのだ。
浅ましく愚かな自分を哀れむようになる。
だが、自分で自分を救えない。
その苦しみの中で、いたるところに、慈悲に満ちた大きな存在がいることを信じるようになる。
そんな至高の存在を、人類は昔から、神とか仏と呼んできた。
確かに存在するが、目に見えず、耳に聴こえず、触っても指に感じない。
だから、それを、ただ、「在るもの」と言ったのだ。
エゴーエイミ、エゴ・スム、アハン、I AMなどが、全て「我あり」という意味で、神を意味する。
オーム、道(タウ)、アーメン、阿吽(あうん)なんてのも、多分、同じようなところから来ているのだ。
これらの言葉全てが、よく似ているのは偶然ではない。
日本の天(あめ)というのも同じで、天照大神(アマテラスオオミカミ)の名はとても尊いものになっている。
阿弥陀仏(原語はアミターバ)もそうで、やはり、AとMの音から成っている。

至高の存在を愛するようになれば、自分がそれと溶け合い、1つになる。それが秘教の究極だ。
ただ、人は、形の無いものに心を向け難いので、昔から、神や仏を考えたのであるが、それには、AとMの音を持たせ、決して、ただの仮想のものではないものにした。
古代インドでは、宇宙に響く究極の音はAUM(オーム)だと言ったが、現代とは比較にならない直観を持つ聖者にはそれが分かるのだ。
キリスト教徒は「アーメン」と言って神やその代理人イエスを崇めた。「アーメン」とは、「あなた(神)の意志の通りに」という意味だ。
我が国、特に、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、天照大神を崇める上に崇めた。
道綽(どうしゃく)、善導、法然、親鸞は、阿弥陀如来を心から信じ、その名を呼ぶだけで良いと言い、そのための行いが「南無阿弥陀仏」(我、心より阿弥陀如来を信じ、全て委ねる)という念仏である。
全て、AとMの音からなる聖なるマントラである。
自己への憎しみを、これらの言葉の中に投げ込むのだ。
すると、心の中のアルケミストが、心を黄金色に変換し、神の心と解け合わせる。これが、本当の錬金術(アルケミー)であり、中国でいう煉丹術である。
AとMの神を愛すれば、それと1つのものである自己を本当に愛するだろう。その時、すでにあなたは人ではない。いうならば、ヒトなのだ。









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地動説よりも重要なこと

私は最近まで、朝、腕振り運動をする時は、東に向かってやっていたが、数日前から、方向にこだわらないことにした。
これは、1つの意識の変革だ。
東を向くというのは、太陽を拝むとか、あるいは、日の神である天照大神を拝礼するという意味があるのではと思う。だが、太陽、および、天照大神への敬愛や思慕と、方向にこだわることは別だろうと思う。
阿弥陀如来を崇拝する者には、西には決して背を向けないという人がいるらしい。西には、阿弥陀如来の国である西方極楽浄土があるからだ。ところが、阿弥陀如来の信者の中に、西を向くのは恐れ多いからという理由で東を向くなどという者もいるのではないだろうか?

無論、天照大神や阿弥陀如来への深い信仰や愛から、自然に、太陽の方向、あるいは、西方を臨むというのであれば良いことである。
そして、イエスやラーマクリシュナが言うように、人にとって最も大切なことは、自分や世間をはるかに超えた至高の英知を愛することで、それを、宗教や信仰では、神を愛するという言葉でシンプルに言い表せるのであるから、やはり、非常に良く、悪いことではない。
しかし、多くの場合、東に礼拝すれば、あるいは、西を拝めばご利益があるという気持ちからであると思う。

黒住宗忠は、天照大神の開運を祈ったという。これは、神への愛からの行いである。だが、ご利益を求めてこれを真似する者が多いかもしれない。
宗忠の礼拝は美しいが、醜い意味での東への礼拝をするくらいなら、まずは自分の心を今一度、よく見るべきだろう。
元々、形は重要ではない。
宗忠が信仰した天照大神は、古事記に登場する女神というだけの意味ではなく、宇宙の根本神という意味があったはずだ。ただ、人は何らかの象徴がないと、心を向けることが難しく、神は、天照大神の姿を示したのだろう。
阿弥陀如来も同様で、別に、大仏様のような姿が、阿弥陀如来の本当の姿ではない。阿弥陀如来は、宇宙全てを照らす知恵と力と慈悲の大光明だ。しかし、仏像や仏画の阿弥陀如来の姿を、阿弥陀如来そのものと思っても、もちろん構わないのだ。
そして、天照大神といい、阿弥陀如来といい、それは、宇宙のあらゆる場所に遍満する存在で、実際は、時間も空間も超え、我々の思考や感覚でどうにも捉えられるものではない。
敢えて言えば、神仏への正しいアクセス経路は、自分の心の奥深くに向かうことである。
だが、こう言えば、「必ず方角は無視しなければいけないのか」と言いだす極端な心を持つ者もいる。一番に捨て去るべきは、このような極端論で、仏教ではそのために、中道ということを教えるのだろう。
本当に重要なことでなければ、どうでも良いのである。
ある地域では、天動説を信じている者も地動説を信じている者もいるが、両者が仲良く暮らしているそうである。昔は、それぞれを主張する者どうしが争い、殺しあいまでしたらしい。重要なことは仲良くすることだ。それが出来れば、天が動こうが、地が動こうが、どうでも良いことだ。科学的にすら、どちらとも言えない。単に重力のバランスの中で、軽い方が重い方の周りを回っているように見えるだけのことである。
カート・ヴォネガットは、「私が知っている、地球上で唯一の規則は、人に優しくすることだ」と言ったが、この重要なことを除けば、後は大抵、どうでもいいことだろう。









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究極の能力開発法はクヨクヨしないこと

科学者で発明家であった中山正和さんは、NASAにも採用される発明もしたし、IBM等巨大企業で成果を上げた能力開発法も考案したが、彼の理論・哲学の源泉は仏教なのである。大数学者であった岡潔に倣い、道元の『正法眼蔵』を意味が分からないまま20年も読み続け、ある日突然、天啓を得たように、その内容が全て解ったという。また、法華経や般若心経も深く研究されていた。
中山さんは、元々、興味を持って行っていた脳の研究と、コンピュータが発達してからはそれを取り入れたので、結局、脳、仏教、コンピュータを融合させた能力開発方法を完成させたと言えると思う。
中山さんのお話が時に小難しく感じるのは、仏教の教えを語るのに、適切な言葉というのが元々無いからなのだと思う。それを無理に、普通の言葉で論理的に語ろうとしたら、もう訳が解らなくなるのは仕方がないことだ。中山さんも、その弊害は認めてはいるのだが、どうしても理論で説明したかったのだろう。ついつい、論理学や物理学の理論を持ち込み、結局、誰にも分からなくなったり、誤解を生んだりしてしまう。

中山さんのお話を簡単に言えば、人が天才の能力や超能力を発揮できないのは、心が濁っているからなのである。
人間の心の中には神様と同じものがあって、元々、誰でも大天才なのだが、それを覆う心が濁っているので、神様からのメッセージ(閃き)が伝わってこない・・・とこれだけの話である。これを理屈で説明するから、大変なことになるが、まあ、世の中、理屈でないと納得しない人もいるのだろう。
さて、では、心の濁りを除くにはどうすれば良いかというと、中山さんは、いろいろ理屈を言った挙句、結局、「クヨクヨするな」だと言う。まあ、過ぎたことを後悔するなという意味でいいと思う。また、先のことを心配するなということでもある。いわゆる、「持ち越し苦労」と「取り越し苦労」だ。神道家で医学博士でもある葉室頼昭さんは、「取り越し苦労、持ち越し苦労は、神様への侮辱だ」と言った。なぜなら、それは神様を信頼していないからだと言う。しかし、それは強い信仰を持っている人の話で、我々はどうしても、後悔したり、将来を不安に思うものだ。かといって、変な宗教に入って、数百万円のつぼを買わされてもたまらない。
そこで、中山さんは、あの般若心経の呪文を唱えれば良いと言う。あの「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボジソワカ」である。サンスクリット語では「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。これの何が良いかというと、気が紛れるからであると、なかなかあられもない(とんでもない)。まあ、それだけではないのだが、どう良いかは、正確には分からない。だから、気が紛れるで良いのである。むしろ、その程度と思って、妙な欲を持たない方が霊験も現れるだろう。
別に、「ナムアミダブツ」でも「アマテラスオオミカミ」でも良い。「アマテラスオオミカミ」は、十言神呪(とことのかじり)という、神道の呪文である。
阿弥陀如来と天照大神、あるいは、イエスの言う父なる神や『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナが同じものだと言ったら怒る人もいると思う。しかし、同じなのである。これらは、神とか仏の形で象徴した至高の英知、至高の力である大生命を、さらに、人に分かりやすいように形にしたもので、根本はその大生命だ。人格的な神や仏の姿を通して礼拝することを、慈悲深い神様は認めて下さるはずだ。『バガヴァッド・ギーター』で、最高神クリシュナは、本来は、自分のみに礼拝すべきで、他の神への礼拝は正しくはないのだが、それでも結果は同じと言う。
心配事や悩み事があっても、考えても仕方がないことなら、下手なことを考えず、「ギャテイギャテイ」とやったり、「ナムアミダブツ」を唱えれば良いのである。あるいは、ついかっとしたり、恨み心が起きた時は、「ナムアミダブツ」を唱えれば良い。
ただ、中山さんも指摘するが、考えて仕方がないことはそれで良いが、考えるべきことはちゃんと考えろと言う。そんなアホな注意をしないといけないおかしな人間が多いということであろう。クリシュナも、自分の義務は果たせと言っているのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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