ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

大山倍達

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

弱い者いじめと大食が身を亡ぼす

『わたしのいもうと』という絵本がある。
実話に基づくお話らしいが、「商品の説明」の「内容」に、こう書かれている。
「妹をいじめた同級生たちは、そんなことなど忘れて中学生になり、高校生になっていきました。」
小学校で、過酷ないじめを受けた妹は、学校に行けなくなり、家にずっと引きこもるようになったが、妹をいじめた子達は、中学生、高校生となっていき、妹は、家の前を彼ら彼女らが元気に通学する様子を黙って見ていた。
その後、妹は変調を起こすようになる。
妹に、あれほどのことをした者達に報いはないのだろうか?

スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが共演した、実話に基づく傑作映画『パピヨン』(1973)という作品がある。
その中で、囚人同士で友情が芽生えたパピヨンとドガだったが、パピヨンが裏切り、ドガが窮地に立たされる。
その時、誰かがドガに、「パピヨンを恨むか?」と尋ねると、ドガは微笑んで、「裁くのは神だ」と言う。
ドガは詐欺師であり、人格者などではない。
だが、自分を絶体絶命のピンチに追い込んだパピヨンを許していたのだ。
そして、実際は、パピヨンは裏切っておらず、むしろ、ドガをかばって死ぬような目に遭っていた。
「裁くのは神」
この長い映画の後にも続く物語は、それを証しているように思える。

では、『わたしのいもうと』の、妹をいじめた者達は、高校生までは無事でも、その先、いつか神の罰が下るのだろうか?
死後に、魂が極めて長い罰を受けるという話もあれば、来世で罰を受けるという説もある。
まあ、それらは確認のしようがない。
とはいえ、罰と言って良いかどうか分からないが、因果応報というものは、そんなに長く待たされることなく起こると思う。
『わたしのいもうと』で、妹をいじめた者達も、表面上は平穏な中学・高校生活を送っているように見えても、その中に徐々に、あるいは、ある時、一気に報いを受けるような形にはなると思う。

対等な相手、あるいは、自分より強い立場の者を攻撃することはいじめとは言わない。
つまり、いじめとは、本質的に、弱い者いじめである。
そして、弱い者いじめは、自覚がない場合があるのかもしれないが、誰でもやったことがある。
自我の性質からいって、弱い者いじめは楽しいのである。
だが、弱い者いじめをする者は運を失い、逆に、弱い者いじめをしない者に幸運がやって来る。
不世出の空手家であった大山倍達は、昭和の時代の少年達のヒーローだったが、実際は、大嘘も沢山言い、悪いこともしていた。
だが、彼は、子供の時から、弱い者いじめだけは絶対にしなかった。
それで、最後は癌で死にはしたが、概ね幸福な人生であったと思う。
一方、大山倍達をヒーローに仕立て上げた作家の梶原一騎は、根は純情な部分もあったのだが、弱い者いじめはかなりやったと思われる。
また、後でそれについて述べるが、彼は大変な美食家だった。
それで、最後は、あまりに悲惨なことになったのではあるまいか。

ところで、江戸時代の観相家、水野南北は、前世からかもしれないが、今生でも、極めて若い頃から悪事を重ね、弱い者いじめも相当にやったと思う。
それで、17歳の時、観相家に、「死相が出ている。余命1年」と宣告された。
ところが、1年後、水野南北が、再び、その観相家に見てもらうと、観相家は、
「不思議だ。死相がすっかり消えている。お前は何か大きな徳を積んだのか?」
と言う。
南北は、1年の間、大豆以外のものを口にしなかったという。
観相家は、それで納得し、「食の慎みこそ、最大の徳である」と言ったようだ。
水野南北は、後に天下一の観相家になったが、いかに観相の技術を上げても、どうしても鑑定が外れることがあった。ところが、食の多少で鑑定すると、万に1つの外れもなかったと言う。
つまり、「食少なければ幸運、多ければ衰運」である。
また、美食は衰運で、粗食が幸運である。

まとめて言えば、弱い者いじめをせず、食の慎みを心がければ、自ずと幸運になるのである。
だが、日本は、かなり前から、弱い者いじめが横行し、美食・飽食が盛んである。
それで、日本はすっかり駄目になってしまった。
しかし、そう(弱い者いじめをする、美食・大食家)でない人もおり、そんな人達が最後の希望であるかもしれない。








悪童達もこうして成功した

人間の徳には2つある。
1つは、善いことをすることで、もう1つは、悪いことをしないことだ。
だが、全ての善を行うことは極めて難しいか、あるいは、不可能だ。
また、全ての悪を行わないことも、極めて、難しいか、あるいは、不可能だ。
そこで、必ず行うべき善と、絶対に行ってはいけない悪を定め、それだけは守ることにする。
それを、戒律とか掟と言い、「モーセの十戒」もその1つだ。

ところが、実は、必ず行うべき善は1つ、絶対に行ってはならない悪は1つとして良いばかりか、「1つの必ず行う善」か「1つの絶対に行わない悪」を持ち、それを守れば、高次の力に保護される。
法然や親鸞の場合は、言うまでもなく「1つの必ず行うべき善」は念仏で、その他に善いことをする必要はなく、むしろ、その他の善いことをしてはならないし、いかなる悪を行っても構わない。
ただし、念仏を行っていれば、縁のある善いことは勝手にしてしまうし、縁のない悪いことは出来ないというのが親鸞の教えであったようだ。

14世紀のインドにサックバーイーという女性がいたらしいが、私は、彼女のことは、ラマナ・マハルシやサイババの本で断片的に語られているのを見ただけで、正確なことは知らない。
彼女は、クリシュナ神の1つの名である「パーンドゥランガ」の名を唱えることを最も重要なこととしていた。
パーンドゥランガは、彼女が生まれ育った場所で信仰されていたのだが、どんな経緯で、彼女がそこまでの信仰を持つようになったかは分からない。
彼女は子供の時に嫁がされ、嫁ぎ先でも辛い目に遭ったが、パーンドゥランガの名を常に唱えることで、あらゆる困難を克服し、遂には、クリシュナ神が直接、彼女を助けたことで、名を残すことになった。
念仏も、サックバーイーが行ったことも同じことだ。
そして、明治や大正の時代には、日本にも、念仏によってサックバーイーのようになった妙好人と呼ばれる人が沢山いた。妙好人は、見かけはごく普通というか、学問のない貧しい人であった場合が多いと思うが、奇跡のような人々であったと言われる。

念仏やナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること)でなくても、1つの善行をずっと続けることで、実際には人間を超えたような人々もいた。
一方、「これ(1つの悪いこと)だけは絶対にしない」という徳の力も、同じ位大きいかもしれない。
それで思い出すのは、大俳優だった丹波哲郎さんだ。
彼は、子供の時から、常に好き勝手に生きていたが、とにかく、困ることは全くなく、常に良い想いをしたらしい。
例えば、彼が若い頃は、日本は戦争中で、彼も二等兵(最下位の兵)として従軍したが、他の全ての二等兵は、上官の服の洗濯をするなどで上官の機嫌を取っていたが、彼は、面倒だからとそんなことは一切しなかった。ところが、それで酷い目に遭わされたかというと、それは全くなく、それどころか、楽で安全な場所に送られ、そこで女の子と遊びながら終戦までのんびり過ごしたという。
私は、丹波さんが理想で(笑)、かなりうまくやれていると思う。
丹波さんは、自分が運に恵まれる要因は、まあ、後には守護霊に守られているからということを強調し、実際にそうであるとは思うが、子供の時から、自分には「こだわりがない」という美点があったと丹波さんはよく本に書かれていた。
「こだわらない」では、曖昧過ぎて漠然としているが、私が思うに、丹波さんは、「弱い者いじめをしなかった」のだと思う。
強い立場にある人間にこだわりがあると、その者は、意識的、無意識的に弱い者いじめをしてしまうが、丹波さんには、それが全くなかったのだ。
それでさらに思い出すのが、空手家の大山倍達さんだ。
昭和の空手ブームの時、彼の伝記は漫画やアニメにもなり、その際、彼はかなり美化され、少年達のヒーローになった。
だが、実際の大山さんは、感心出来ない部分も多いと言うより、ロクでもないことも沢山やった。
しかし、子供の時から、並外れて腕力が強く、喧嘩で無敵であった彼も、弱い者いじめだけは絶対にしなかった。
弱い者いじめをしないことが、最上かどうかは分からないが、神仏に守られ、幸運を呼ぶ秘訣であると思う。








大きな願いを叶えるための準備

願いを叶えたければ、願いが叶った時のための準備をすれば良いだけである。
旅行に行くことが願いなら、旅行カバンを買って準備すれば良い。
可愛いあの子を彼女にしたいなら、いい服でも買ってデートの準備をすれば良い。

では、生きるための大きな願いを叶えるにはどうすれば良いだろう?
イエスは、人はパンだけで生きるのではないと言ったが、実際、人間は、食って寝るだけでは生きられないものだ。
人間は、自己満足しないと生きられない。
自己満足の本質とは、ディール・カーネギーが昔、指摘した通り、自己重要感である。
だが、カーネギーは、それを得るための、とんでもなく難しい方法を示した・・・いや、多分、自分で分かっていなかったのだろう。

だが、私は、良いモデルを見つけたと思っている。
それは、大空手家だった大山倍達氏である。
彼は、昭和の少年達のヒーローだったが、実際は、彼をヒーローにした彼の伝説の大半は嘘らしい。
彼自身、「嘘も百回繰り返せば伝説になる。千回繰り返せば真実になる」と言ったくらいである。
だが、そんな彼が、とんでもない大物だったことも確かだ。
では、彼はなぜ、そんなに大きくなったのか?
その秘密は、彼が中学生の時、パスカルの『パンセ』を熟読したことだと思う。
それが、彼の生涯の哲学になった。

つまり、自己満足出来るほどの願いを叶えるための準備とは、哲学を持つことである。
哲学と言っても、別に、それほど大したことではない。
イギリスの大作家コリン・ウィルソンの場合は、H.G.ウェルズの自伝的小説の『ポリー氏の人生』だった。
イーロン・マスクは、SF小説の『銀河ヒッチハイク・ガイド』だった。
いずれも、彼らが少年時代に読んだものだ。
こんなもの、いかなる偉人の場合も、調べれば、必ず出てくる。
コリン・ウィルソンは、その本で、「人生が気に入らないなら変えてしまえばいいし、それは出来る」と考えたし、イーロン・マスクは、自分には人類を救う義務があると信じた。

正直、その哲学を示したもの(小説やエッセイ等)は、それなりのクオリティのものなら何でも良い。
シュリーマンの場合は、やはり、少年時代に読んだ『イーリアス』(ホメロスによるギリシャ神話を題材にした叙事詩)だったが、確かに、これは人類史に輝く傑作ながら、内容そのものは、言ってしまえば漫画だ。
丁度、『古事記』が大変なものであると同時に、これを漫画にした石ノ森章太郎が「古事記は漫画」と言ったようにだ。
別に、大事業家とか、大作家にならなくて良いし、そんなものになれるのは、実力というよりは、たまたまだ。
自己重要感を満たし、自己満足すれば良いのである。
そうすれば、そこから解脱への道も開けるだろう。
自己満足しない限り、迷いは消えず、悟りは開けない。
だから、まずは、自分の哲学を持たなければならない。
尚、DS(ディープステート。闇の権力者)は、一般人が独自の哲学を持つことは決して許さないので、抵抗は覚悟しておくように。
しかし、断固、自分の哲学を持てば、神が助けてくれるので大丈夫である。








新しい時代の「道は開ける」

「好きなことをしなければ成功しない」とよく言うだろう。
あるいは、「好きなことを見つけなさい」とも、よく言われる。
しかし、それは、天才児へのアドバイスだ。
「俺はロックが好きだ」とか言って、下手なギターを弾き、聞き苦しい歌を歌っても、それで食べていける可能性はほぼないし、「好きなことをやれ」を信じて、それをいつまでもやっていたら、人生を棒に振りかねない。

もう1つ、「好き」に突き進んではいけない理由がある。
長谷敏司さんの小説およびそれをかなり忠実にアニメ化した作品『BEATLESS(ビートレス)』で、主人公、遠藤アラト(17)の友人の村主ケンゴの妹で、アラトの妹のユカ(14)の友人でもある少女、村主オーリガ(15)が、「人類はエロとグルメへの執念で生き抜いてきたのよ」と、ユカに半ば冗談、半ば真剣に言うが、実際、人間が「好き」なものと言えば、根本的にはエロとグルメである。
村主オーリガは、グルメはともかく、およそ「エロが好き」というイメージのない清楚で真面目な少女であるから、説得力が高い。
その通りで、凡人に「好きなことをやれ」と言ったら、エロかグルメに行ってしまう。
あるいは、自動車やファッションといった、表面的なこと、見栄のためだけのものが、凡人の「好き」なのである。

つまり、「好きなことをやれ」なんて言うもんじゃないし、「好きなことを見つけろ」なんて、言うまでもない(皆、エロとグルメが好きだ)。

では、正しくは、どう言えば良いのか?
それは「楽なことをやれ」である。

不世出の大空手家、大山倍達さんの伝記漫画『空手バカ一代』に、こんな印象深い場面がある。
スーパー空手家でありながら、大山さんがニートで暇だった時に始めた空手道場がだんだん大きくなり、生徒も増えてきていた。
そんな中、大山さんが道場で練習風景を見ていたら、1人の若い生徒に目が留まり、師範に声をかける。
「あれはスジがいい。鍛えたら強くなる」
ところが、しばらくしたら、その有望な生徒の姿が見えなくなり、師範に尋ねると、師範は、
「あいつはやめました。ちょっとシゴいたら、『僕はもっと楽しく空手をやりかたかった』と言って・・・」
と言う。
大山さんは戸惑う。
「俺は空手は命をかけてやるものだと思っていたが、『楽しくやる』という考え方もあるのか・・・」
これは、完全に大山さんの間違いだ。
その才能ある生徒は、楽しく空手を続けていれば、空手家にはならなくても、良い特技を身に付けていただろうし、それが、なんらかの意味で人生の役に立った可能性は高い。少なくとも、強くて健康な身体を得られたはずである。
また、自身が空手家にならなくても、格闘ゲームのクリエイターとして活躍したり、格闘小説や格闘漫画を書く作家になったかもしれない。
つまり、その生徒は、「楽しく」の重要な要素である「楽に」空手をやっていれば良かったのだ。

音楽教室でも、厳しく指導して、生徒が嫌になってやめてしまうのは、教師や、あるいは、教師にそのような指導を依頼した親の罪である。
そんな指導が多いから、「そこそこにピアノを弾ける」という人間が少なく、「かなり上手い」でなければ「全く弾けない」の両極端になってしまっている。
ローラ・インガルス・ワイルダーの伝記小説・およびテレビドラマである『大草原の小さな家』シリーズでは、農民であるローラの父チャールズが見事にヴァイオリンを弾くが、きっと、アメリカでは庶民で、そこそこヴァイオリンやギターなどの楽器を演奏出来る人はいくらでもいるのだろう。そして、それは明らかに、自分や周囲の人々に良い影響を与えているはずだ。
楽器演奏がそこそこ出来る普通の人は、「好き」もあっただろうが、練習が「楽」だったから続けられたのであることは間違いあるまい。

運動と言ったら、有名タレントがYouTubeで、情熱的な筋トレを勧めていることがあるが、そんなもの、続けられる人はいない。
一方で、有名なプロレスラーだったジャイアント馬場さんが、黒柳徹子さんに「楽な」スクワットを教え、黒柳さんはそれを20年以上続け、おかげで、黒柳さんは、80歳を過ぎても健康で足腰が強く身軽に動けるのである。

楽なことであれば、好きとまで言えるかどうか分からなくても、ちょっと興味があれば、とりあえずやってみることが出来る。
そうしたら、それが向いていて、熱が入って実力がつくかもしれない。
あるいは、それそのものでなくても、関係する道に進むきっかけになり、その別の道で成功するかもしれない。

「好きなことを仕事にしろ」というのも、考えものというか、無責任なアドバイスである場合が多いだろう。
エロやグルメは、滅多にロクな仕事にならないし、他のことだって、好きなことで仕事になることは、実際は、ほとんどない。
だが、あまり即物的に考えず、楽なことをやっていれば、たまたまそれが仕事に結びつくことならあるはずだ。

「楽」と「ちゃらんぽらん」は違う。「ちゃらんぽらん」になるのは、そもそも興味がないのであるから、別のことをやれば良い。
人間は、エロやグルメ以外にも、創造的なことで、それなりに好きなことはあるものだ。
それを、楽にやっていれば、道は開けるだろう。








この世に勝つ手立てがない人へ

おそらく、古代インド哲学、量子力学、シミュレーション仮説で説明が出来、宗教的体験で語られ、世界各地の密教で伝えられていることだが、この世界は心が作るものであり、思う通りに出来る。
このことは、現在では、引き寄せの法則と言われることが多い。
引き寄せの法則を使うのは目覚めた人だが、使おうとはするがうまくいかない人は妄想家でしかない。
しかし、実際のところは、大半の人間が、引き寄せの法則を知らないか、真面目に考えようとしない人で、国家(実質は闇の支配者)に洗脳された奴隷である。
国家にとって、国民は、引き寄せの法則を知らない無知な奴隷であるべきで、引き寄せの法則は、怪しいもの、馬鹿げたもの、変な宗教だと感じるように、学校やマスコミで教育・・・つまり、洗脳している。
だが、言うまでもなく、引き寄せの法則を使うべきである。
そして、引き寄せの法則には、テクニックなどない。
子供でも即使えるものであり、間違ったやり方などない。

一番よく知られているやり方は、「受験に合格しますように」といったお祈りと思う。
このやり方で全く問題ない。
このように祈るのだから、神仏への信頼を最低限は持っているのであり、祈りとは、神仏への要求、あるいは、命令なのであるから、全く正しい。
命令形の祈りとしては、「日々の糧を与えたまえ」という、キリスト教での日々の祈りがあるが、「勝利よ来たれ」「富よあれ」という勇敢な祈りもOKである。
いずれにせよ、やれば必ず叶う。
「なぜ叶わないか?」などと言う者がいるが、叶わないはずがない。
あえて叶わない理由を言うなら、祈る回数が足りないだけだ。
いくら学校が近所にあっても、一歩も歩かなければ着かないのは当たり前だが、数歩、あるいは、数十歩いた程度では着かないようなものだ。

だが、おそらく、最も楽なやり方が、
「わたしはXXXXである」
というアファーメーションだ。
「わたしは」という言葉は、確実に宇宙の活力を呼び起こすからだ。
だが、時々、こんなことを言う者がいる。
「『私は金持ちです』と言っても、それが嘘だと知っているので心に葛藤が生じ、うまくいかない。しかし、『私は金持ちになりつつあります』なら、嘘ではないので、心に葛藤が起こらず、うまくいきます」
嘘である。
むしろ、「私は金持ちです」よりも、「私は金持ちになりつつあります」の方が、嘘だと思い(あるいは嘘臭く感じ)、より大きな葛藤を起こすことが多い。
だが、嘘だと思おうが、嘘臭く感じようが、葛藤を起こそうが、全く問題ない。
それは数が解決する。
ナチス・ドイツの啓蒙・宣伝大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスは、当然悪者であるのだが、人間の一面をよく知っていた。
彼は、「嘘も百回繰り返せば真実になる」と指摘した。
この指摘の唯一の間違いは、百回程度では足りないことだ。
世界的空手家だった大山倍達氏は、昔、空手ブームを巻き起こし、少年達のヒーローだった。
そうなったのは、彼の伝記漫画や、多数の彼自身の著書(実際は全てゴーストライターが書いたが、概要は大山氏が示した)によるが、内容の重要な部分に嘘が沢山あった(真っ赤な大嘘も少なくなかった)。
しかし、その嘘を、親しい人に指摘されると、大山氏は、
「嘘も百回繰り返せば真実になる。千回繰り返せば伝説になるのよ。わかったー?」
と怒鳴ったらしい。
これは、大山氏の弟子だったジャーナリストが書いた『大山倍達正伝』に書かれているが、そう言う時の大山氏は無邪気な少年のようであり、むしろ、常人にない豪傑振りを感じさせたらしい。

「嘘も百回繰り返せば真実になる」は、ゲッペルスの場合、大衆を騙すテクニックとして言ったのだと思うが、何より、自分を騙せる。
「私は金持ちである」と繰り返せば、いつか自分を騙し、そうであれば、潜在意識が嘘を実現し、実現したからには嘘ではなく真実になる。
ただ、百回や千回では足りないことが多い。
では、何回かと言うと十万回である。
十万回と言うと多いようだが、僅かなものだ。
1日300回唱えれば、1年弱で終了する。
闇の支配者に乗っ取られたこの世界では、他に幸福になれる方法はない。
これに賭けるしなかい。
まあ、これも一種の陰謀論かもしれないが、他に手がない人が多いのは確かである。
何の手立てもないまま、一生を奴隷で送るよりは、試してみて悪くないと思う。
そして、私は、失敗した例を知らない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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